第三六話 天文十二年三月下旬『仏敵』
願証寺――
明治期の河川改修工事によって跡地は長良川の川底に沈んでしまったが、天文一二年現在、伊勢・尾張・美濃の東海三ヶ国の本願寺門末を統括する寺である。
太閤検地ベースでは、この三カ国だけでも実に一七〇万石弱!
つまりほぼ同数の人口がいる地域ということであり、それだけでその影響力ははっきり言ってとんでもないのはわかるだろう。
一般的には長島一向一揆を主導した寺、と言ったほうが通りは良いかもしれない。
それが起きるのは永禄一三年(一五七〇年)であり、今からまだ三〇年近くも先の話……のはずだったのだが、
「わたしが仏敵!?」
天文一二年の春、織田信長ではなく、わたしが仏敵認定されてしまっていた。
まあ、なんとな~く理由は察しがつくけどさぁ。
「はっ、怪しげなものを売りさばき、風俗を乱し、民心を惑わすは
「今度は九尾の狐かぁ……」
ここまでくるともう乾いた笑いしか出ない。
噂には尾ひれはひれついて大きくなるものだけど、竜に鳳凰ときて日本三大妖怪の再来とか、どれもこれもちょっと格が高すぎない?
まあ今、信秀兄さまが興した劔神社への宗旨替えが起こりまくってるらしいからなぁ。
これが百人とか千人とかなら、あちらさんも問題視まではしなかっただろうけど、現時点でなんと五万人。
その内のどれだけが一向宗門徒かは知らないけど、尾張の門徒が相当に激減したであろうことは想像に難くない。
その事が相当の危機感を抱かせたのだろう。
ほんとあの
それでわたしが妖怪扱いされて仏敵認定とか、大迷惑もいいところである。
「現在、願証寺三世証恵の名の下、招集をかけており、続々と門徒たちが桑名に集結しているとのことです」
「マジかぁ」
わたしは思わず天を仰ぐ。
長島一向一揆では一〇万前後を動員したと言う話だ。
さすがにそこまでの規模にはならないと思うけど、尾張の兵の大半は今、三河に出払っており、極めてタイミングが悪い。
桑名は「十楽の津」とも称されるこの時代有数の湊町である。
そこで舟を調達し、織田領に攻め込むつもりなのだろう。
「姫様っ! 大変でございます!」
そこに林秀貞殿が声を荒げて駆け込んでくる。
うっわ~、普段落ち着き払ってるこの人が慌ててるとか、めっちゃくちゃ嫌な予感するんですけど。
「な、なに?」
ゴクリとつばを呑み込みつつ、わたしは問う。
「先程、熱田の商人たちからの使番が。一向宗門徒たちが姫様を仏敵として討伐すると息巻いている、と!」
「ああ、それはさっき、わたしも小猿から聞いたところよ」
とりあえずわたしはホッとするも、
「しかもすでに桑名湊、四日市湊、白子湊、津湊、大湊に門徒たちが続々と集結しているとのことです」
「いいっ!?」
それってもう伊勢湾全域じゃない!
しかも早すぎる!
前もって織田軍の三河侵攻に合わせて、伊勢国全域に動員をかけれるよう下準備は済ませてあったのだろう。
尾張国と伊勢国の国境いは複数の川が入り乱れてていて、お互いに侵攻が極めて難しく、また北伊勢は諸勢力乱立地帯であり、脅威はないといってよく、どうしても情報収集は三河方面に偏りがちだ。
その隙を上手く突かれた格好である。
「親父っ! てーへんだ!」
そこに小猿そっくりの若者が声を荒げて駆け込んでくる。
ちょっとちょっと、まだ来るの!?
その顔を見るに、どう考えても悪い知らせじゃない。
「なんじゃ、木猿! 姫様の御前であるぞ」
「そんなこと言ってる場合じゃねえ! ついさっき草から早馬が来た! 戸田まで挙兵準備をしてやがる」
「なっ!?」「はいっ!?」
小猿とわたしの叫びが思わずハモる。
戸田氏は現在、渥美半島全域と知多半島の南部を支配下に置く大名だ。
普通に一〇万石近い石高を有し、さらに三河湾全域の海運を牛耳ってもいる。
そんなのが挙兵準備?
これはどう考えても、偶然ではなかった。
あまりにもタイミングが合いすぎている。
おそらく狙いは織田家とみて間違いないだろう。
「……やられたわね」
こんなの前々世の歴史では聞いたこともない。
ほぼ間違いなく、わたしが転生したことによる影響だろう。
明らかに何者かが裏で主導し、糸を引いている。
出すぎた杭を打つために諸勢力に手を回し包囲網を敷いたのだ。
そしてその黒幕に、わたしは心当たりがあった。
まだ先の話ではあるが、天文一四年には関東管領の山内上杉憲政を誘い込んで北条包囲網を敷き、相模の獅子北条氏康を追い詰めまんまと河東の地を奪取した。
さらに後には武田、北条、今川の甲相駿三国同盟の仕掛け人となり、この難しい交渉をまとめ上げ、今川家が西進に全戦力を投入できる状況を生み出した。
その外交能力、戦略眼にはただただ舌を巻くしかない。
このいやらしさは、弟子の徳川家康にもきっと引き継がれたに違いない。
その辣腕で、今川家を大躍進させた立役者――
「さすがだわ、黒衣の宰相、太原雪斎……」
こんなとんでもない事が出来そうな人物は、この時期、彼以外にはいなかった。
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