第十四話 天文十一年七月上旬『情報を制する者は……』
「とりあえず貴方には、この下河原の土地を与えるわ。わたしが建てた屋敷があるから、そこを使ってちょうだい」
わたしは広げた地図の一点を指し示して言う。
当時有り金のかなりを投入して作った屋敷ではあるのだが、清州城代となってしまった以上、当分、使えなさそうである。
仮に清州城代を解任されて領地に戻ることになったとしても、下河原は領地の北端、管理するには少々、不便極まりないのよね。
ならもう誰かに譲って有効活用してもらったほうが吉、と判断したのだ。
「……下河原は、その名の通り、この下河原織田家発祥の地なのでは?」
眉をひそめ、なんともいぶかしげな顔で、小猿が問い返してくる。
「ええ、そうよ」
「そんな大事な土地を、あっしのような新参者に与えてよろしいんで?」
「大事だからこそ、よ。下河原の屋敷には、他国の者には見られたくないものがけっこうあってね。伊賀者である貴方たちに、それをしっかり守ってほしいの」
特に、水車を動力源にした各種システムだろうか。
水の流れる力を利用すればここまで色んなことができる、ということを他国に知られると、やっぱり色々面倒臭いことが起きそうだし、ね。
出来る限りは秘匿しておきたいところなのである。
「我々が他国にそれを売るとはお考えにならなかったので?」
「その時は熱田に伊賀の下柘植は雇い主の秘密をあっさり売る不心得者だって噂でも流すことにするわ」
交易の要衝である熱田には、それこそ全国津々浦々から商人が出入りする。
そこにそんな情報を流せば、あっという間に全国に知れ渡るという寸法である。
「ははっ、そうなっては我ら下柘植の者はおまんまの食い上げですな、いや、それどころか伊賀の名に泥を塗ったとして粛清されかねませぬ」
小猿は苦笑とともに肩をすくめてみせる。
伊賀の信用をなくせば、そもそも傭兵として雇ってもらえなくなる。
そのような事態は伊賀上層部としては是が非でも避けたいところだ。
ゆえに里の存続の為にも、裏切り者や里に害を為す者は即座に処断する厳酷な里として伊賀は知られており、それにより一定の信頼を勝ち得ているのだ。
「貴方たちはそこまで馬鹿じゃないと信じているわ」
「ええ、盟を結び、禄を支払っていただいている間は、裏切るようなことは絶対に致しません。たとえここより高禄を提示されようと、ね」
それが伊賀者としての矜持だとばかりに、小猿は二ッと口の端を吊り上げる。
うん、とりあえず大丈夫そうである。
「姫様ーっ!」
突如、はるの慌ただしい声が響いてくる。
元々、彼女はやかましい娘なのだが、それでもこの騒がしさは何かあったのだろう。
「ごめん、小猿。ちょっと待ってね。ここよ、はる。どうしたの?」
障子を開けて声をかけると、こちらに気づいたはるが駆け寄ってきて、
「はあ、はあ、し、下河原で……」
そんな思わせぶりなところで、息が切れる。
よっぽど急いできたらしい。
いったいなんだ? まさか三河のほうでどんぱち始まったとか!?
「お、温泉が湧きました!!」
「えっ!? まじ!?」
わたしも驚きに目を見開き問い返す。
上総掘りと呼ばれる江戸時代に開発された掘削技術を用いて、掘り進めてもらっていたのだけど……
「苦節三ヶ月……ついに!」
グッとわたしは拳を握る。
場所はわかってるんだから、すぐ掘り当てられるだろうと高をくくっていたのだが、一向に湧き出る気配がなく、最近は「もしかして場所間違えた!?」と不安になっていたぐらいだったのだが……それが、それがついに!
「これはすぐ入りに行くしかないわね!」
「です! ゆきも誘って早速今から行きましょう!」
がしっと熱い握手とともに、わたしたちは頷き合う。
今この瞬間、わたしたち二人の心は一つになったのだ。
「知行をお返し致しましょうか? このような山の少ない地では、温泉の出る地は稀少価値が高いでしょう?」
小猿が気を遣ってそう申し出てくる。
あー、温泉の興奮にすっかり忘れてたけど、あげるって行っちゃったんだよなぁ。
けどまあ、
「いいわよ、あげるあげる。時々、温泉は貸して欲しいけどね」
一度あげるって言ったものを前言翻すのもダサいしね。
前述のように、どうせ清州城代を解任となったところで、再びこの地に居を構えるのは立地的にまずありえない。
別荘にするという手もあるが、それなら下柘植一族に払い下げたほうがなおさらいいだろう。
人の住まなくなった家はすぐ朽ちるって言うしね。
「日々の訓練の疲れを温泉で癒すといいわ」
「なんとも大判振る舞いでございますな?」
訝しげに、小猿は問う。
まあ、他国からの新参者だしね。
しかも伊賀では下っ端の立場。
どうしてここまで、と不思議で仕方ないのだろう。
「それだけ貴方たちを買っていると思って頂戴」
これは嘘偽りない本心である。
『武田信玄も、人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』
という有名な言葉を残している。
わたしもこれには極めて同感で、人材こそが富の源泉であり財産だと考えている。
親子ともども十一人の名人に数えられ、猿飛佐助のモデルにまでなった下柘植一族である。
この程度の厚遇は当然だった。
「漢の劉邦は、最大の敵であった項羽を滅ぼした時、一番の功績者に、深慮遠謀の大計を巡らせた張良でも、天下無双の大将軍韓信でもなく、後方で地味な裏方仕事をしていた蕭何の名を挙げたわ」
「ほう、裏方の……」
小猿が意外そうにおうむ返しする。
興味を惹かれたらしい。
「わたしは情報の大切さを知っている」
前々世で、嫌というほど思い知ったものだ。
もたらされる敵の情報も、味方の情報も信じられず、パニックに陥って自滅した。
だからこそ今、確たる情報の重要性を噛み締めざるを得ない。
「貴方がた伊賀者は確かに裏方で、目立たない仕事よ。でも、いないと色々な事が成り立たない縁の下の力持ちをわたしは高く評価し、報いたいと考えてるわ」
そういう陽の目を見ないところで頑張ってる人もちゃんと見て評価するのが、上に立つ者の責務だとわたしは思っている。
だって組織を本当に支えているのは、脚光を浴びる花形職だけではなく、むしろそういう人たちってケースは山ほどあるのだから。
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