プロローグ 天文十一年(一五四二年)三月中旬『真の強敵』

「おお、つや。よく来たな」


 わたしが清州城の一室に呼び出されたのは、信秀兄さまの守護代襲名式の翌朝のことである。


 ちょいちょいと手招きする信秀兄さまの顔が赤い。

 おそらく昨日の酒がまだ抜けていないのだろう。

 だが、その眼光に宿る野心と知性はいささかの陰りもない。


「貴様を呼んだのは他でもない。三河(愛知県東部)の事じゃ」


 ほら、やっぱりね。

 多少、二日酔いしたところで、尾張の虎はやはり尾張の虎なのだ。


「長親のくそじじいが二年後に死ぬのはすでに聞いておるが、美濃も尾張も一段落した今、我が孔明とはもう少し踏み込んだ話をしておきたくて、のぅ」

「なるほど」


 長親のくそじじいとは、三河を治める松平広忠の曾祖父である。

 徳川家康の高祖父と言ったほうがわかりやすいか。

 かの北条早雲――当時は伊勢宗瑞――を撃退し、また昨年の信秀兄さまの三河侵攻においては信秀兄さまも手を焼かされたという歴戦の戦上手である。


 とはいえ御年数えで八八歳。

 医療技術も発達していない戦国時代においては異例の長寿であるが、史実では二年半後の天文一三年の夏に亡くなることがわかっている。

 その混乱に乗じて再び三河に侵攻するというのが、信秀兄さまの計画だった。


「侵攻に際し、何か他に懸念することはないか?」

「懸念すること、ですか。う~ん」


 信秀兄さまの問いかけに、わたしは前世の歴女だった頃の記憶の扉を開く。

 一応、前世に関係するところだったから、けっこう詳細に調べ上げたのよね。


「とりあえず松平より、その後ろに控える今川こそが本当の強敵かと存じます」

「今川、のぅ。貴様の言葉をもはや疑うつもりはないが、そこまでの強敵とは思えんのじゃがなぁ」


 わたしの進言に、しかし、信秀兄さまはなんとも訝しげな顔になったものである。

 とは言え、それも仕方ないのかもしれない。


「確かに父である今川氏親の頃は強盛じゃったが、今の今川家は度重なる家督争いで疲弊し、三河からは後退、遠江も堀越家・井伊家に離反され、もはや当時の隆盛は見る影もないぞ」


 これが一五四二年頃の彼の客観的な認識だったのだから。

 だが、わたしは首を左右に振る。


「わたしがスサノオノミコト様の下で見た歴史においては、ここから義元は挽回します」

「ほう」

「巧みな外交を駆使して北条から河東の地を取り戻し、遠江の動乱を鎮圧し、信秀兄さまを小豆坂にて撃ち破り、三河までその支配下に置く、三カ国の太守へと昇りつめます」

「なんとそれほどまでの男か!」


 信秀兄さまが目を見開き感嘆の声をあげる。

 尾張一国でも、支配するのに信秀兄さまは長い年月を要したのだ。

 三カ国にまで領国を広げる大変さが、肌でわかったのだろう。


「はい、海道一の弓取り、とまで謳われた傑物です」


 二〇世紀頃までは、大軍を要しながら寡兵の織田信長に奇襲されて戦死した暗愚の将という評価が通説であったし、二一世紀になっても一般的にはそう思われている節が多少なりともまだある。

 だが実は、義元は最後に大ポカしただけで、それまでは割といくつも結果を出し、今川家を急拡大させたすごい人物なのである。


「そしてもう一人、さらに要注意の人物がおります」


 もしかすると、これから語るこの男のほうが、義元以上の難敵かもしれないとさえわたしは思っていた。

 ぶっちゃけ義元の代での今川家の躍進は、ほとんど全部、この男の手柄と言っても、正直過言ではないと思う。

 弟子でもあった徳川家康をして「彼亡き後は国政が整わない」と評させた黒衣の宰相。

 その人物の名は――


「太原雪斎、義元の師にして内政、外交、軍事の全てに辣腕を振るう怪僧です」


 実際に軍の指揮を執り、小豆坂で信秀兄さまを撃ち破ったのも、安祥城を奪い織田家を三河から叩きだしたのも、かの有名な甲相駿三国同盟を締結に導いたのも、全てこの怪僧の仕業である。


 他国が真似するほどの出来だったとされる今川仮名目録に二一か条の追加をしたのも、彼が深く関わっていたという。

 内政手腕も外交手腕も戦の上手さも全て今川一、この男が健在だったならば、桶狭間で義元が討たれることもなかった、とさえ言われているほどの名将だった。


「ふぅむ、その者の名は多少、儂の耳にも入ってきておる。花倉の乱がわずか三か月で収まったのは、その男の知略によるところが大きい、とな」


 信秀兄さまが唸る。

 花倉の乱とは、今川家でつい六年前に起こった家督相続争いのことである。

 その外交手腕によって敵であった今川良真を孤立させたのも、また北条家からの援軍を取りつけたのも、太原雪斎だった。


「はい、大局を見据え着々と確実な一手を打っていく、恐ろしい知略の持ち主です」

「つまり敵に回せば最も面倒臭い相手、ということじゃな」

「です」


 苦々しげな信秀兄さまの言葉に、わたしも重々しく頷く。


 強引に攻めてくる敵というのは、勢いに乗った時こそ恐ろしいが対処のしようはいくらでもある。

 奇策ばかりを弄する者は、真に正道を貫く者には通用しない。

 一か八かの賭けなどせず、負ける戦はしない。


 戦えば、勝つべくして勝つ。

 太原雪斎とは、そういう難敵だった。


「長親が死んだところで、その男をどうにかせねば、三河攻略は立ち行かぬ、か」


 やれやれと信秀兄さまは首を振ったものだが、その口元には獰猛な笑みが浮かんでいる。

 強敵だからといって、戦わないという選択肢はないらしい。

 この辺りはやはり、どこまでいっても虎は虎と言ったところか。


「まあ、よい。儂は鳴海にて牙を研ぐ。つや、おぬしもスサノオの知恵をもって尾張を栄えさせよ」


 なるほど、わたしを清州の城代にしたのは、そういうことか。


 織田家は他の大名家と毛色が違い、米の力ではなく銭の力で発展する家である。

 清州城は尾張の中心地。

 そこが発展すれば、その富は尾張全土に広がり、そして莫大な銭を生む。

 そしてその銭が、我が織田家をさらに強勢にするのだ。


「戦は二年後じゃ。貴様の働き、期待しておるぞ」

「八歳のおなごに何を言ってるんですか」


 はあっとわたしは嘆息する。

 正直、できれば領地に引きこもって、統治は優秀な家臣たちに全部任せて、わたしはわたし自身のクオリティオブライフの向上を追及していたいんですけど。


「貴様はただのおなごではなく、スサノオの巫女じゃからな」

「……そーですか」


 今さらながらに、そう名乗ったことを後悔する。

 けど最初はそうでも言わないと話聞いてくれそうになかったしなぁ。

 自らの蒔いた種とはいえ、ほんとやれやれだった。

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