第三三話 天文十一年三月上旬『清州の戦いその肆』織田信友side

「戻りなさい! 戻りなさいったらー!」

「ぷっ、ははははっ!」


 戦場に響くつやの声があまりに情けなさ過ぎて、織田信友は思わず吹き出さずにはいられなかった。


 あそこまで偉そうに大口叩いておいて、これだ。

 まったく愉快でたまらない。

 胸がスッとする思いだ。


 だが、だからといって終わらせてやるつもりはない。


「敵は戦う前から総崩れのようだぞ! かかれ、かかれーっ!」


 信友は軍配を掲げて、号令をかける。


 またぞろ攻めてこられても面倒である。

 逃げる敵は追いかけ完膚なきまで叩きのめす。

 それが戦場の習いであった。


「ああ、ただしガキは殺すなよ。捕まえて俺の下にひっ連れてこい! 生きて連れ帰ってきた奴には褒美として一〇〇貫文くれてやるぞ!」


 にぃぃぃっと邪悪に口元をゆがめて、信友は言う。


 あそこまで自分を小馬鹿にしてくれたのだ。

 相応の罰は受けてもらわねばならない。


 自分に逆らった奴はこういう目に遭う。

 それを広く知らしめるのも為政者には大事なことである。


 そう、仕方がない事なのだ。

 悪いのはあの小娘のほうなのだ。

 自分はそんな酷い罰などしたくないのに!


「くっ、くくく!」


 脳裏に思い描いた罰の数々に、思わず笑い声がこぼれる。

 楽しみで楽しみで仕方がない。

 早くあの顔が苦痛に歪むのを見てみたい。

 ああいや違う、反省した顔を、だ。


「所詮はガキのした事。殺すのはかわいそうだしなぁ」


 織田弾正忠家の生まれの者には美形が多い。

 例に漏れず、あのつやとやらも、幼いながらも容姿がかなり整っていた。

 捕らえて側に置き、妾にしてやるのもいいかもしれない。

 ああ、自分はなんて温情深いのだろう!


「信友様、つや姫が乗っていたと思しき輿が打ち捨てられておりました。他にも槍などが多数……」

「くくくっ、よっぽど慌てふためいておるようじゃな」


 伝令の馬廻りの報告に、信友はおもわずほくそ笑む。


「はははっ、どっちが臆病者なんだかなぁ。まったく逃げ足の速いことよ。しかしこのまま逃がすのは俺の沽券にかかわるな」

「その時は下河原まで追いかけてやればよいことかと」

「それもそうじゃな」


 信友は側近の助言に大いに頷く。


 清州から下河原まではそう大した距離ではない。

 あんな遊水地ではろくな備えもあるまい。

 このまま攻め込んで一網打尽にしてやるのみだった。


 そうだ、むしろそれがいい。

 戦った兵には恩賞で報いねばならない。

 あの女の領地から一切合切を奪ってやるのだ。


 男は殺し、女子供は奴隷にし、売り払う。

 これを聞いた時のつやの顔が今から楽しみだった。

 きっと大泣きして、自らの軽率さを反省することだろう。


 そうにんまりと笑い、粛々と兵を進めていく彼であったが、軽率なのは自分だということに気づいていなかった。

 彼の思考はすべてつやの思惑通りにすぎないことを。

 今まさに、つやの敷いた罠のど真ん中に誘い込まれているということを!


 ヒュヒュヒュン!

 ヒュヒュヒュン!


 突如、左右から無数の矢が降り注ぐ。

 ついで次々と草の影に隠れていた兵士たちが起き上がり、


「「「「「おおおおおおっ!!」」」」」


 鬨の声とともに左右から雪崩れ込んでくる。


「なっ!? ふ、伏兵だとぉっ!? ま、まさか……っ!?」


 ここでようやっと、信友は獲物は自分のほうだったことに気づく。


 だが、それでもなお、信じられなかった。

 あの慌てて兵を呼び止める声が、演技だったというのか!?

 輿も槍も捨ててまで逃げる兵が、陽動だとかわかるわけないだろう!?

 自分は悪くない。自分は悪くない。


「「「「「おおおおおっ!!」」」」」


 さらに前方からも、鬨の声が巻き起こり、次々と織田木瓜をあしらった幟旗のぼりばたが空を突いていく。


 織田木瓜は、織田家の家紋である。

 自分たち織田大和守家の家紋でもあるが、敵方から上がるということは――


「の、信秀ぇっ! 謀ったなぁっ!」


 搾り出すような怨嗟の声だった。


 そうだ、全てあの男のせいだ。

 こんな卑怯千万な下劣な手を使うあの男が悪いのだ。

 そう自分に言い聞かせる。

 信友がそう考えたのは、無理からぬことではあった。


 まさかあんな髪結いすらしていない幼女に自分がまんまとハメられたなどと、想像の埒外であったのだ。

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