意味を求めて

崇明院 空潭

意味を求めて

悲しみと苦しみが、幾層にもなって心の底に沈殿している。幸せを感じている時も楽しい時も、ふとした拍子に、心の底の暗くて深い闇の中から、不安が沸き起こってきて、私に告げた。それが長く続くはずはない、と。

もしかしたら、馴染み深い不安という感情の方が、私には安心できるものなのかもしれない。こんなに幸せな気分がいつもでも続けばいいのにと思う反面、この私が幸せな気持ちで居続けることなんて出来ないのだろうという、確信に似た思いを抱く。すぐにまた不幸になる。そして私は、やっぱりな、と溜息をつくのだろう。

しばらくの間、日常的に起こる激しい悲しみや苦しみからは遠ざかっており、それらに見舞われたとしても、かつて思っていたように、自分の存在を消してしまった方がいいとは思わないし、浮かぶ感情の程度も小さくなった。受け手としての私の感情の度合いが小さくなったのか、出来事自体の程度が小さくなったのか。私の感情の度合いが小さくなったのだとしたら、日々、私の感情は、鈍感になっているということだろう。鈍感になり続けて、いずれは何も感じなくなるのだろうか。生きていながら、そういうことになるのだろうか。


他者との間に綺麗な距離を築くことが出来ず、いたずらに傷ついてきた人生だと思う。人生と言うには、まだまだ短い年月かもしれないが。私は昔から、好奇心を持って人間を見つめていた。人間というものに、好意を抱いていたと言えるかもしれない。それゆえに、知り合うと急速に距離を縮めようとしてしまうのだ。たぶん相手は戸惑うだろうし、距離を広げたいと思うのだろう。大人になり大分経ってから、そのことにはたと気づいた。そして赤面。

自分は一般的な人付き合いの仕方から、逸れていたのだと思った。小学生の時には友達との関係で躓き、修正できないまま大人になってしまった。その間に、私は人とうまく関係性を築くことが出来ない、いわば人づきあいの落ちこぼれ、という烙印を自らに押した。その思いは強化され、確信となる。

他者とうまく関係性を築けないということは、若かった私にとっては、生きている価値がないようにも思えた。集団の中にぽつんと存在する私。誰にも顧みられない私。そして、人の輪の中にも入っていくことが出来ない私。輪の中に入っていく方法が、皆目見当もつかないのだった。

次第に世の中というものが得体の知れない恐ろしいものに感じられていった。得体の知れない、人と人との関係性。得体の知れない、人間という存在。その世界に、私の居場所はどこにも無いように感じられた。絶望。私は自分を情けなく思ったし、自分という存在に価値を見いだせなかった。どうして私は人々とうまく関われないのだろうか。なにか欠陥があるに違いない。

自分のことを欠陥のある人間と見なした私は、以後沈鬱な日々を過ごす。この世の中は、ある種前向きに考えても苦行の場でしかなくなってしまった。苦行の結果何かが得られる、という希望もないような、そんな場所だ。私は果たして存在していても良いものか。いつしかそんな疑問が頭をもたげてきた。自分という存在に価値が無いのなら、いてもいなくても同じなのではないだろうか。そんな考えが頭の中をぐるぐると回り続けていた。そしてその問いに答えを求めても、自分を納得させられるだけの何かは得られず、堂々巡りのまま歳月は過ぎた。

生きる意味や存在価値に対する答えを求めて、様々な本を読んだ。本の中に答えを求めるしか方法が思いつかなかったからだ。そして、古くからある書物であれば、十分な答えを与えてくれるようにも思えた。それに、宗教書や哲学書 、文学作品の中になら、答えを与えてくれるものがあるのではないかと思えたのだ。多くの書物が、私を助けようとしてくれた。様々な生き方や考えがあることを感じられた、のだと思う。けれど、納得するような、腑に落ちるような感覚をもつことは出来なかった。

きっと私はひねくれた性格をしているから、たくさんの教えや言葉を素直に信じられないのだろう。そう思ってはまた自分を責め、自分であることに絶望していた。


そんな書物遍歴の中で、ある時、人生に意味は無い、という考えーーー思想とでも言えば良いだろうかーーーに出会った。

意味を探して右往左往している私にとって、それは全くの予想外であった。

意味が無い人生なんて、無価値だと考えていたし、意味のある人生を生きなければならないと信じていた。

そうなのか。

人生には意味が無い。

だったらなぜ生きるのだろう。

生まれたら、ただ生きるだけなのかもしれない。

目の前が少しだけ明るくなったような気がした。かつては、生きることに意味がなければ、それは辛いことだとも思っていたけれど、 年月を経て、生きることに意味は無いということを受け入れられる自分になってもいたようだ。

私の迷いの日々は、これをもって終了する、のかもしれない。


枯れ草が地面を覆う冬の終わりの日に、北風に耐えるように咲くオオイヌノフグリの花を見つけ、私は、俯いていた顔を上げた。

真冬より少し濃くなった陽の光が、世界を明るくしていた。

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