不規則な英語表記法
いきなりだが、以下の文字列は何と読むだろうか。
ghoti
言語学が好きな人であれば、この文字列に見覚えがあるであろうが、実はこのような単語は(少なくとも英語には)存在しない。
前章では、ラテン語にはない発音をラテン文字で再現するために、それぞれの言語で様々な工夫がなされたことについて話した。それらの工夫により、その言語は記録、解読が可能となり、我々が新たに言語を習得する際も非常に楽になった。
ドイツ語やスペイン語など、多くの言語では、表記された文字の通りに発音することができる。ただ、例外として、外来語に関しては極力原語に近づけるために、表記法を無視することもある。現代日本語も、ひらがな、カタカナに関しては、助詞の「は」と「へ」を除き、基本的に表記された通りにしか発音しない。
しかし、外来語を抜きにしても、発話された言葉を綴ることが困難な言語も存在する。それが、英語とフランス語である。どちらもビジネスで使われる機会の多い言語ではあるが、慣れないと、綴ることが非常に困難である。この章では特に英語について述べることとする。
先程出題した「ghoti」という文字列も、英語の不規則な表記法を利用して創作された言葉遊びの一種である。ちなみにこの文字列の発音は「fish」と同じである。
なぜ、そのような答えとなるのか。「enough」という英単語に於ける「gh」は[f]と発音される。また、「women」という英単語の「o」は[ɪ]、「nation」という英単語の「ti」は[ʃ]と発音され、これらを合わせると、[fɪʃ]と発音される単語を作ることができる。そのため、「ghoti」という単語は「fish」と同じ発音である。こうした発音と綴りの関係性を用いて作られる言葉遊びは他にも例が存在し、例えば「ghoughpteighbteau」という文字列は、「potato」と同じ発音がされる。
しかし、ここで疑問が残る。発音を表記する魂胆で文字を体系化してきたのに、なぜ英語ではそれを酷く無視されるのか。
これには主に2つの原因が考えられる。
まず1つに、英語は様々な言語の言葉から語彙を作り上げた、フランケンシュタインの怪物のような言語であることが挙げられる。一部の学者の間では、英語はアングロ・サクソン語とフランス語のピジンであるとも揶揄されている。ピジンとは、植民地などで、現地の言語とヨーロッパの言語とが接触してできた混成語のことを指す。元々グレートブリテン島で話されていたアングロ・サクソン語が、11世紀になるとフランス語と混じったことで、現代英語に近いものへと変化していったという歴史がある。これにより、アングロ・サクソン語元来の発音表記とフランス語の発音表記が混同してしまったと考えられる。しかし、これが英語の発音表記が不規則となった最大の要因となるには不十分である。
そこで、2つ目の原因が考えられる。実を言えば、11世紀と現代の間でも、英語の発音に大きな隔たりがある。英語にとっての重大な事件が14世紀から17世紀にかけて起きたのだ。それが、大母音推移である。
例えば、「sheep」という単語は元々[ʃeːp]と発音された。しかし、ルネサンス時代にかけて、現代の[ʃiːp]という発音へと変化していった。この推移の明確な原因は解明されていない。最も有力な説として、グレートブリテン島内での人々の移動が、方言の衝突を引き起こし、自然発生的に変化してしまった、というものである。
しかし、改め方は単語によって異なる。例えば、「meat」という単語は元々[mɛːt]と発音されたが、現在は[miːt]に改められている。一方で「bread」という単語は[brɛːd]から[bred]に改められるに留まり、「meat」ほど極端な変化ではない。
また、英語話者にとって話しやすいように、特にギリシャ語やラテン語由来の外来語に於いて、ストレスの掛かった短母音だったものを長母音にするなどといった、発話による自然発生的な変化も考えられる。
最も頭を抱える発音表記が「ough」である。少なくとも8種類の発音が存在し、以下が使用例である。
Cough
Rough
Through
Though
Bought
Drought
Thorough
Hiccough
元々英語で「gh」は[x]を表していたが、時代が下ると共にそのような発音が失われ、綴りだけが残ったことにより、適当に別の発音を当て嵌め、現代の非英語話者は頭を抱える羽目になったのだ。
こうした英語の不規則な表記をネタにした詩が、オランダ人の作家、ヘラルド・ノルスト・トレニテによって創作された。その題は「Chaos」というものである。綴りは非常に似ているのに発音が全く違う単語や、逆に綴りが似ていなくとも発音が類似している単語を対比的に配置された詩である。この詩の全文を以下のurlで読めるので、関心がある方は是非読んでください。
https://ncf.idallen.com/english.html
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