ラテン文字の変遷史

 現在、ラテン文字は一般に26文字に固定されている。勿論、言語によってはそこから新たに他の文字を加えたり、削ったりすることもある。むしろ、英語のように素直に固定された26文字だけを用いる言語は殆ど見られない。(むしろ、英語圏の国家が世界の覇権を勝ち取ったが故に使用している26文字が固定の文字になったのではないか)

 しかし、歴史を見ていくと、嘗てのラテン文字が現在のラテン文字に一致しているわけではないということがわかる。英語圏の国家が覇権を勝ち取るのは、イギリスで産業革命が起きた18世紀後半のことであり、それ以前は違っていた。それまで言語に関して欧州で最も格式が高かったのはラテン語であり、デカルトの『方法序説』も、ニュートンの『プリンキピア』も、ありとあらゆる重要な文献はラテン語で書かれた。主な例外は文学作品などであり、こうしたものは学術的ではなく、世俗的で娯楽性に特化したものであった。今でこそシェークスピアの戯曲は高尚なものとして目に映りがちではあるが(尤も私自身は肯定的な意味で高尚なものとしては捉えていないが)、当時は今で言う人気ドラマやアニメのそれに同じである。

 では、如何にしてラテン文字が生まれ、変化していき、現在我々が知っている26文字となったのかを、その起源から現代に至るまでの歴史を紐解いて行こう。

 ラテン文字の大元はエジプトのヒエログリフである。序論で述べたように、この文字体系は象形文字であるが、これを記録用の文字として書き残すことは非常に大変である。そこから、特定の文字を選び、現代のアルファベットに似た用法で書き記すようになった。時代がさらに下ると、その選ばれた文字は更に単純化し、フェニキア文字が生まれた。フェニキア文字はアラビア文字同様、アブジャドであり、右から左へと書き記される。以下の文字がフェニキア文字である。


𐤀𐤁𐤂𐤃𐤄𐤅𐤆𐤇𐤈𐤉𐤊𐤋𐤌𐤍𐤎𐤏𐤐𐤑𐤒𐤓𐤔𐤕


 このフェニキア文字をベースに古代ギリシャ文字が作られのだが、ここで大きな問題に直面したのだ。フェニキア文字を用いたフェニキア語はアラビア語同様、アフロ・アジア語族であり、意味を表すのに子音が強く作用する系統の言語である。そのため、フェニキア文字には子音を表す文字しかなく、母音がなかった。一方でギリシャ語は子音と母音が対等な作用を持つインド・ヨーロッパ語族の言語であり、記録する際に表記する必要性があった。そこで彼らが行ったことは、ギリシャ語に存在しないフェニキア文字の子音を、母音を表す文字に変えることであった。その結果、以下の様な変遷を遂げた。


𐤀(アーレプ)→Α(アルパ)

𐤁(ベート)→Β(ベータ)

𐤂(ギームル)→Γ(ガンマ)

𐤃(ダーレト)→Δ(デルタ)

𐤄(ヘー)→Ε(エプシロン)

𐤅(ワーウ)→Ϝ(ワウ、ディガンマ、後缺落)、Υ(ユプシロン、最後に配置)

𐤆(ザイン)→Ζ(ゼータ)

𐤇(ヘート)→Η(ヘータ)

𐤈(テート)→Θ(テータ)

𐤉(ヨド)→Ι(イオタ)

𐤊(カープ)→Κ(カッパ)

𐤋(ラーメド)→Λ(ラムダ)

𐤌(メーム)→Μ(ミュー)

𐤍(ヌーン)→Ν(ニュー)

𐤎(サーメク)→Ξ(クシー)

𐤏(アイン)→Ο(オミクロン)

𐤐(ぺー)→Π(ピー)

𐤑(サーデー)→Ϻ(サン、後缺落)

𐤒(コープ)→Ϙ(コッパ、後缺落)

𐤓(レース)→Ρ(ロー)

𐤔(シーン)→Σ(シグマ)

𐤕(ターウ)→Τ(タウ)


注意:システムの都合上、現代のギリシャ文字を用いているが、当時は以上のような形をしていない。


後に以下の4つの文字が加えられ、現在のギリシャ文字の配列が確定した。


Φ(ピー)

Χ(キー)

Ψ(プシー)

Ω(オメガ)


 このギリシャ文字は、古代ギリシャが植民地支配していたイタリアのエトルリアに伝わり、エトルリア文字が成立した。このエトルリア文字こそがラテン文字の直接的な祖先である。但し、ラテン文字に転用する際、一部の文字はラテン語に存在しない発音であったために幾つか省略された。以下の一覧はギリシャ文字とラテン文字の関係を示したものである。


Α(アルパ)→A

Β(ベータ)→B

Γ(ガンマ)→C

Δ(デルタ)→D

Ε(エプシロン)→E

Ϝ(ディガンマ)→F

Ζ(ゼータ)→Z

Η(ヘータ)→H

Ι(イオタ)→I

Κ(カッパ)→K

Λ(ラムダ)→L

Μ(ミュー)→M

Ν(ニュー)→N

Ο(オミクロン)→O

Π(ピー)→P

Ϙ(コッパ)→Q

Ρ(ロー)→R

Σ(シグマ)→S

Τ(タウ)→T

Υ(ユプシロン)→V

Χ(クシー、※キーではない)→X


以上が最初期に出来上がったラテン文字である。

 しかし、時代が下るとラテン語の表記法にも変化が現れた。元来、Cは[g]の発音を担った文字であったものの、[k]の発音も担うようになり、Kの使用頻度が減少した。また、Qは元々[q]という独自の発音をしていたが、ラテン語ではそれが[k]に鈍化し、後ろにV(ラテン語では[u]と[w]2つの発音を担っている)が付随してくる際のみに使用された。だが、これでは[g]と[k]の判別が付きにくくなったがために、Cを基にして作ったGがラテン文字に加えられた。同時期に、使用頻度の少なかったZが缺落し、Zが元々置いてあった場所にGが配された。

 さらに時代が下ると、ギリシャ語から借用された言葉をより忠実に発音するために、Υ(ユプシロン)に基づいて作られたYが追加され、Zも再登用された。この際、2つの文字は順番の最後に配された。以後、ラテン文字は長い間その23文字となった。

 しかし、この表記には問題があった。Iは[i]と[j]、Vは[u]と[w]とそれぞれ母音と子音を担っていたということである。母音と子音を区別するために、子音のIはJと表され、また母音のVはUとして表されるようになったのは中世のことである。また、イギリスやドイツなどでは、独自の発音を表すためにVVが用いられ、それが後にWとなった。J、U、Wは近代まで基となった文字の異字体としてしか扱われなかったが、19世紀になると独立した文字として扱わられるようになった。順番に配する際には基となった文字の前後に配置することにした。

 これで漸く現代のラテン文字が完成したのである。

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