丸山家の人々

@kouki112725

丸山家の人々

 

 日本国、本州は真ん中、中部地方。

中部地方の位置がおぼつかない読者には小学校時代の無用の長物「地図帳」を紐解いて頂きたい。神奈川と愛知の間に静岡というなんだか漠然とした県があり、県を東部、中部、西部と三分したとき、中部にはかの有名な戦国武将、徳川家康が江戸幕府を開いたあと大御所として余生を過ごした町、駿河の国・静岡市がある。静岡市のターミナル駅といえばJR静岡駅であることは『ちびまる子ちゃん』がたまに大きな買い物のために静岡駅付近の松坂屋に繰り出すことからも論を待たないが、駅の南側には地方都市らしい住宅街が広がっている。その住宅地一角に、ごく普通の、掃いて捨てるほど平凡な一家があった。姓を丸山といい、主の名を忠(ただし)、妻は和子(かずこ)長女は咲(さき)、長男は悟(さとる)という。丸山忠、年の頃四十七歳。四歳下の和子とは二十五歳のとき勤め先の会社で知り合って社内結婚。誉れ高き寿退社を果たした和子とは夫婦円満とまではいかないまでも努めて仲良く暮らしてきた。基本的に仕事人間である忠は、家や子育てのことに多くは口を出さないが、子どもが何か悪さをしたとなるとその躾には厳しかった。和子は逆に温和で優しく、マナーや礼節にはうるさいものの、それも怒るというよりたしなめるといった方が適当な態度であった。そんな北風と太陽(時として太陽フレア)のような夫婦も連れ添って二十年になり、結婚して三年後に生まれた長女の咲は高校二年生になり、そのまた三年後に生まれた長男の悟は中学二年生になった。咲の性格を一言で言うと「今を生きるタイプ」であり、今を生きるが故に長期的に大事な何か(特に勉学)見逃す嫌いがある。十七歳という多感な年頃で、いわゆる反抗期にあたり、母親との関係は良好なものの、父親とは中世における鎌倉幕府と朝廷のような対立関係にある。弟の悟はというと、世の天衣無縫な兄や姉をもつ弟や妹が皆そうであるように、姉を反面教師せざるを得ず、そのせいか名は体を表すように何かと「悟ったような」振る舞いの多い中学生になってしまった。簡単に言うと、子どもらしくない、可愛げがない。そんな四人家族の歴史は郊外の小さなアパート暮らしから始まり、咲が小学校に上がる前の年に、市の中心地から徒歩十五分ほどの分譲マンションに引っ越した。忠が勤める職場へのアクセスもよく、子どもの将来も考えた一世一代の引っ越しであり、十一年経った現時点においてローンがあと二十四年残っている。

 これは、そんな丸山家の物語である。

 物語とは往々にして魅力的な登場人物と壮大なストーリー、息もつかせぬ展開や劇的などんでん返しが待っているようであるが、この物語にはそのどれもがことごとく無い。ごくフツーな家族のフツーな生活模様を書き連ねたものであり、物語の醍醐味を味わえることもなければ、後学のためになるわけでもなく、フツーフツーと無闇にカタカナを使用して文にいくらか深みを出そうとしたところで何にもならない。ないないづくしである。そんなこれといって特に読む理由のない物語をこれから一読してみようという奇特な人間が仮にこの世に存在するとすれば、その方々へ筆者から一言だけ申し上げたい。テレビでアニメを見るときに部屋を明るくして離れて見るように、ここから頁をめくる際は肩の力を抜き、物語への期待値を駿河なる富士の高嶺から東京の高尾山、あるいは大阪の天保山くらいまで下げて読み進めて頂きたいというお願いである。既に期待値が天保山である方は地中深く上部マントルまで掘り深めていただいても構わない。その方が筆者にとっては謂われのあるなしにかからず非難を受けにくい点において有り難い。読者にとっても期待外れの憂き目に見ずに済むという点において利害が一致するだろう。

何事も高いところばかり見ていると首が痛くなってしまうものである。

 

かの有名な文学者、夏目漱石は『草枕』の冒頭で人の世の住みにくさを滔々と語ったのち、更に一気呵成にこう記していている。


人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。

越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容げて、束の間の命を束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。


 この文章を恣意的且つ好意的に解釈し、更にコペルニクス的転回を加えると、人の世を長閑にし、人の心を豊かにできれば芸術の士としてまずOKということになる。

 この物語において魅力的な登場人物と壮大なストーリー、息もつかせぬ展開や劇的などんでん返しはない。そのため人の心を豊かにする方は誠に心許ない限りだが、長閑の方は期待に添う可能性がなくもない。なぜなら丸山家はごくフツーの家庭であり、フツーの家庭のフツーの物語が長閑であることは想像に難くないからである。

 


 一週間の歌


 とある平日の夕方。午後四時すぎ。

悟がいつものように自転車で学校から帰宅すると、家には母の和子がいた。悟はいつも鍵がかかっている家の扉がすんなり空いたので少し驚く。悟の母、和子はチェーンの弁当屋でパートをしており、平日の午前十時から午後四時が基本のため、この時間に家にいるのは稀である。和子はたまに同僚の従業員が時間を変更して欲しいと母もそれに対応して出勤が遅れたり、逆に早くなったりする。今日もそんなところだろうと悟は思う。

「ただいま」

「おかえり」と返す母はキッチンにいた。見ると夕飯の支度をしている。小鍋で何かを煮ていた。

「今日夕飯何―?」

 特に聞きたいわけではないが、反射的に質問していた。

「鯛の煮付けだよ」

「なんだ、魚か」

「何だって何よ。お隣の山下さんが自分で釣ったんだって。頂き物だからさ」

「釣ったの? すご」

「ねー。すごいよね。お刺身も美味しいらしいけど」 

 それなら普通に刺身で良いじゃん、と喉元まで出かかったものの、悟はその言葉をぐっと飲み込んだ。これ以上の発言は和子の機嫌を損ねる可能性が高い。そう悟の勘がアラームを鳴らしたのである。すぐにそのアラームを止めて、手洗いうがいを済ませ、リビングに向かう。壁に掛けられた時計は午後四時二十五分を指していた。

悟は学校のプールが使える夏の期間しか活動のない水泳部に所属している。そのためこうして夏以外は実質帰宅部員であるため、五限の授業と帰りの会が終わるとその二十分後にはだいたい家にいることができる。家から学校までは自転車を全力で走らせれば十五分で到着する距離であり、理論上は放課後、十五後には居間でテレビをみることができる。それを嬉しいと思ったこともあるし、悲しいと思ったこともある。嬉しいのは宿題をやる体力や時間に困らないこと。悲しいのはたとえばこうしてテレビをつけても何も面白い番組をやっていない、とかである。

 この地域ではもう少し遅い時間になると再放送の国民的アニメを流す風習があり、その後なら夕方のニュースの中に目を引く話題もあるだろうが、その前の時間だと悟が見たいと感じる番組は皆無だった。しばらくテレビショッピングの真珠のネックレスについてコストパフォーマンスと着合わせのしやすさを喧伝するおばさんの声に耳を傾けていた悟だったが、数分で飽きてしまい、ザッピングの後たどり着いたのがNHK教育だった。子ども向けの童話の時間だったらしく、軽快なリズムとオルガンの音で前奏が流れ出した。

『いっしゅうかんのうた』とある。

 

にちようびにいちばへでかけ

いととあさをかってきた

テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ

テュリャテュリャテュリャテュリャリャ


げつようびにおふろをたいて

かようびはおふろにはいり

テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ

テュリャテュリャテュリャテュリャリャ


聞いたことがあるメロディーだった。たぶん悟も小さいときにNHKの同様の番組で聞いたのだろう。こんなにテュリャテュリャ言っていたかの記憶は定かではないが、寒い国の歌というイメージは頭の片隅に残っていた。テロップで「ロシアの民謡」と流れてきてやっぱりな、と悟は腑に落ちる。耳に『テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ』という歌詞と調子が残る歌だった。

翌日の学校からの帰り道のことである。

 そのロシアの民謡を、悟は自転車に乗りながら口ずさんでいた。

「月曜日にお風呂を焚いて~火曜日にお風呂にはいり~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~」

 リズムに乗りながら急ぐことなく自転車のペダルをこいでいく。

 月曜日に焚いた風呂は月曜日に入るんじゃないのか。

素朴な疑問が頭に浮かぶが、ロシアは寒いからロシア人の特有の過ごし方があるのかもしれないと考え直す。古来より学校からの帰り道というものは非生産的思考を無闇に生産するのにうってつけの時間であり、中学生とは益体のない思考を繰り返しては無聊を慰める生き物である。丸山悟は中学生であり、よって三段論法的立脚点の下、悟は悟自身の一週間の歌を作ったらどんな歌詞になるだろうという中学生らしい無駄な思考に陥った。赤信号で止まったタイミングで少し考えてみる。

月曜日から考えてみよう。

前奏はもちろん、テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

月曜日は学校へ行き~国語と社会と数学と美術と学活を受ける~そのまま帰ってテレビを見て、夕飯を食べて宿題をして、風呂に入って寝る~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

こんな感じである。火曜日はどうだろう。

テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

火曜日は学校へ行き~理科と英語と国語と技術と社会を受ける~帰宅してテレビを見て、宿題をやって風呂に入って寝る~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

月曜日と火曜日の違いが受ける授業だけというのは寂しい限りである。

そこで悟は水曜日に少し趣向を変えてみようと思った。

テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

水曜日は学校へ行き~数学と英語と国語と美術と体育を受ける~塾へ行き帰宅してご飯を食べて宿題をやって風呂に入って、寝る~。テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

悟の日常に塾が加わった。しかしこれでもほとんど同じである。もう少し自分の色を出したいと悟は考えた。

 木曜日は苦手な体育~50メートル走という単語がいよいよトラウマになる~運動ができない奴の体操着に着替える時の心細さったらない~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

 色は出たが、同時に物悲しさも出てきてしまった。これはよくない。

 金曜日は合唱練習~担任は数学の教師なのになぜかやる気~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

土曜日は友達と一緒に遊ぶ~三時間まるまるゲーム。プレステのソフトはどれもなんとなく暗くて怖い~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

日曜日は午前中まで眠り~昼くらいにのろのろ起きる~暇だと家族でアピタ。外食して帰る~。テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~テュリャテュリャテュリャテュリャリャ~

 ここに丸山悟の一週間の歌が完成を見た。

しかしどうにも不出来である。そもそも歌詞が字余りでリズムに乗らない。

特に平日は、学校に行って、家に帰ってテレビをみてご飯を食べて宿題をして寝る、というだけの日々が続いて面白みに欠けるのだ。やはり月曜日に焚いた風呂に火曜日に入るくらいしなければとても歌にならないのだろうか、と悟は考えた。まさか、そんなことはないはずである。周りを見回せばもう少し多様性に富んだ毎日を送っている中学生はたくさんいる。どうして悟の毎日はこんなにもシンプルイズベストを貫徹しているのだろう。

悟は自己分析してみた。三秒で答えにたどり着く。それは塾や部活や習い事を悉く拒んできたからである。必要最低限のことをしかやっていなければ、必要最低限の毎日になってしまうのも無理はない。ではどうして塾や部活や習い事にトライこなかったのか。悟はまた自己分析してみる。今度は一秒で答えが出た。社交性がないからである。

悟は可愛く言えば一人見知りであり、小四の時、母の和子に「ミニバスケットボールのメンバー募集してるんだって」と言われても「やだ」「咲がいってる書道教室行ってみる?」といわれても「大丈夫いかない」「野球は?」「坊主にしたくない」「サッカーは」「足が痛そう」と、何か自分の生活を変えるきっかけがあっても、その都度チャンスを掴んでこなかった。いずれも既存のコミュニティに入っていく社交性が足りなかったためである。そして毎日変わり映えしない小・中学校生活を繰り返した後、悟は中学二年生になった。なれの果てに完成したのがこの「丸山悟の一週間の歌」である。

『月曜日は学校へ行き、国語と社会と数学と美術と学活を受ける。そのまま帰ってテレビを見て、夕飯を食べて宿題をして、風呂に入って寝る』

そう知ってから聞くと、受ける印象が変わる。この歌は「丸山悟の一週間の歌」であると同時に「自分の生活を変えることを拒み続けた中学生の一週間の歌」ということになる。一見、残念な響きがするが、少し含蓄に富んだ歌と言えなくもない。教訓として小学校の音楽の時間に歌ってみてはどうだろうかと考えた。

信号が青色に変わる。悟は自転車のペダルに力を入れて走り出した。

今日は昨日と違って、家にはまだ誰もいなかった。鍵を使って家に入り、今日もなんとなくテレビを付ける。昨日と同じようにNHKではまた童謡を紹介するコーナーがはじまった。テテンテテン、テテンテンテテンテテン~と今日は軽快でシンセティックな音楽が流れ出した。悟は、この歌も聞いたことがあった。これは日本の歌である。

そう、これはたしか……『にんげんっていいな』。



テスト前①


椅子に座ったまま、ぐっと伸びをして、悟は固まった上半身をほぐす。

肩甲骨の辺りがピキっと鳴り、一瞬ヤバっと思ったものの痛みは襲ってこなかった。椅子から立ち上がり、屈伸をして下半身の血行を促すとなんとなく気分もリラックスする気がする。

 勉強机には二日後に控えた定期テストのために『中学生の歴史』と題された教科書とキャンパスノートとが広げられ、授業中に書き落とされた文字が並んでいる。ちょうど一一五六年の保元の乱について書かれた頁である。社会科の篠崎先生いわく『当時、政治を牛耳っていた摂関家の藤原忠実(ただざね)には二人の息子がいてな、長男が忠通(ただみち)、次男が頼長(よりなが)。跡取りである長男の忠通になかなか子どもができなかったので……え? なんで子どもができなかったかって? そりゃ夫婦の間に色々あったんだろうよ、深くは触れないがな。先生も奥さんとの間に色々ありますよ。この前も仕事で疲れて帰ってきて風呂入ろうと思ったら、「今日何の日か覚えてる?」って言われて、「え、粗大ゴミの日だっけ?」って答えたら「結婚記念日です」だって。まぁ、そうやって失敗することもあるでしょう、そりゃ。ええと話を戻すと、長男に子どもができなくて、優秀な次男の頼長の方を跡取りにしようとしたところ、長男忠通が晩年になってようやく子どもが誕生。そう、今、佐藤くんが今言ったとおり、ああ、よかったねとなるはずだったんだけど、ならなかったんだな。お父さんの忠実は、次男の頼長の方を跡取りにしたかったし、実際そうしてしまった。次男の方が優秀だったし可愛かったんだろう。一族の血がかかってるからなぁ。見栄みたいなものもあったのかもしれない。それによって、まあ当然長男が反発するよな。俺の方が兄貴やぞ、と。結果、血で血を洗う戦いが起きました。これと鳥羽天皇の後継者が後白河になった際に、義理の兄の崇徳が俺の方が義理の兄貴やぞってことになって、こちらも血で血を洗う戦いが勃発。崇徳天皇・藤原忠実・頼長VS後白河天皇・藤原忠通という構図ができあがり、そこに平清盛率いる平氏と源義朝率いる源氏がくっついて、最終的に後白河方が勝ちましたっていうのが保元の乱』

 板書を交えた篠崎先生による一連の話から悟のノートには「保元の乱……男の恨みもけっこう怖い」とメモされている。

 中学生の日常のイベントで最も面倒くさいが、しかしながら最も重要なものといえば定期テストである。日頃の学習における習熟度を測る試験であるが、塾の先生や両親が特に気にする指標の一つでもあり、中学校日常生活の苦楽を左右するでもある。テストの点数が上がればお小遣いアップや誕生日プレゼントのランクアップに関する交渉も容易に事が運ぶが、点数が下がれば交渉権すら与えらないどころか、次の定期テストまで何かにつけて「次のテストで良い点取ったらね」の一言で片付けられてしまう。

「欲しいマンガがあるんだけど」

「次のテストで良い点取ったらね」

「今日の晩ご飯ハンバーグがいいんだけど」

「次のテストで良い点取ったらね」

「そこのお醤油とってくれない?」

「次のテストで良い点取ったらね」

 と言う具合である。

幸いにも悟はそのような窮地に陥るような点数をまだ取ったことはない。その理由は二つあり、一つは部活動がなく(悟は部活には入っているが、水泳部で、夏場以外は帰宅部と化すため)テスト勉強に充てられる時間は他の生徒よりも多いということ、そして二つ目の理由はテストの点数が下がるとどういうことになるのかよく知っているからである。

喉が渇いた悟は、椅子から立ち上がると部屋を出た。キッチンへ向かうと、冷蔵庫をあける。ジュースでも飲もうと思ったのである。丸山家のマンションはキッチンからリビングが見える構造になっており、悟がちらりとリビングに目をやると、そこには咲が座椅子に深々と腰掛けて、というより座椅子の背を枕のポジションにして、ポテトチップスを食べながらテレビを見ていた。

 悟は咲を視界から外し、冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを出して、コップに注ぐ濃縮還元100%ってどうやって濃縮してるんだろうという疑問が一瞬頭によぎったが、注いだジュースを一気に飲み干した後には世界平和への祈りみたいに消えていた。ああ美味い、生き返る。コップをシンクにおいてから冷蔵庫にジュースを戻すと再び姉の咲に目をやった。特に何か言うつもりはなかったのだが、高笑いしながらテレビを見ている姿に若干イラッとした悟は口を開いていた。

「咲、お前テスト勉強しなくていいのか?」

 悟は姉のことを「咲」と呼び捨てにする。敬うべきところが一つも無いからである。

 咲は高校二年生で、現在悟と同じくテスト週間である。でなければ平日の放課後は部活があるはずだ。

「しなくても、いいの」

「なぜ?」

 咲が視線をテレビから悟に映す。

「おりこーさんだねぇ悟は。テスト勉なんて前日にチョロっとやればそれで終わりよ」

 アメリカのコメディ番組のように表情の豊かな咲の顔を悟は冷静に見つめる。

「終わりってお前のテストの点数が終わってるって意味?」

「ははは、それおもしろーい」

そう言って咲は悟に向けて中指を立てた。

ファックユー。

 悟はそれ以上構わずに部屋に戻る。

 机に戻ると歴史の復習の続きを始める。保元の乱は藤原忠実がお父さんで忠通が息子と……そういえば悟の父の名前は忠(ただし)同じ漢字だから覚えられそうだなと思っていると、噂をすれば影。玄関の扉が開く音がして、「ただいま」と忠の声がした。

 時計を見るとまだ夕方の四時半である。

いくらなんでも早いので、一旦帰ってきてここからまた仕事に出るのだろう。しかしタイミングが悪い。忠と咲は酸性とアルカリ性みたいなもので決して混ぜてはいけないのだ。いつもは間に和子が入り一定の距離を保っているが、今は買い物で不在。これは実にまずい。そう悟が心配していると、程なくして案に相違せず父の怒声が上がった。丸山家が住む3LDKの部屋は扉を完全に閉めててもなんとなく会話が聞こえてくる。

「なんでお前はいつもそうなんだ!」

 戦いの狼煙が上がった。

 売り言葉に買い言葉。当然咲が反抗する。

「いつもって何よ、何も知らないくせに」

「知ってるさ。この前だって赤点とって、次も赤点とったら進級危ないって担任の先生に言われたってママから聞いたぞ」

 それは知らなかった。赤点ということは平均の半分以下である。やばいとは思っていたが、そこまでとは悟も知らなかった。

「教師にそこまで言われて、お前は恥ずかしいと思わないのか」

「うるさいなぁ。パパには関係ないじゃん」

 関係ないじゃん、の発音が「かんっけい、ないじゃん」になっている。その言い方に釣り込まれるように忠がヒートアップする。

「関係ないことあるか!」

「いつも私の学校の事なんて関心ないくせに、こういうときだけ口出しするわけ?」

「口出しって、お前……親に向かってなんだその口の利き方は!」

 まさに血で血を洗う言い争い。藤原忠実と忠通もこんな感じだったんだろうか。

だとしたら長男ではなく次男に家を継がせたくなる気持ちも理解できる。いつの時代もこのようにして人々は営みを続け、歴史が形作られていくのかもしれないと、忠と咲の喧嘩からテスト範囲以上のものを勉強する悟である。

 ところで忠は怒ると厳しいが、決して手は出さない。かといって口だけで終わりにする寛大さは持ち合わせておらず、昔から咲や悟に手を焼くとマンションのベランダに子どもたちを出してロックアウトするという陰湿な手を使う。ここは地上八階であり、ベランダにだされた子ども達になす術はない。

 今回もその方法が数年ぶりに行われたらしい。二人の争いの声が聞こえなくなったかと思うと数分後に今度は悟の部屋の扉がノックされた。

「入るぞ」と言って、忠が扉を開けた。

「なに」

「咲と口論になってな」

「うん」

「あいつの頭を冷やすためにベランダに締め出した。三十分たったら入れてやってくれ」

 そんなもん自分でやってくれよ。

喉元まででかかった言葉をぐっと飲み込む。悟が承知すると、忠は「まだ仕事が残ってるから」と言い残してそのまま家を出ていった。

「仕方ねぇなぁ」とため息を吐きつつ、悟は三十分のアラームをセットしてから勉強を再開する。ようやく集中力が上がってきたと感じたあたりで、アラームが鳴る。

「チッ」と舌打ちをしてから、悟がリビングに出て行くと、姉はベランダで横になってすうすうと寝ていた。

 反省の色が見えない。

「仕方ねえなぁ」とぼやきながら悟は鍵を開錠する。鍵が開く、カチャンという音で咲が起きた。ガラス製の扉を引いて開けてやる。「お、やるじゃん」と言って、咲が室内に入ってきた。

「優秀な弟をもってよかったな」と悟が言う。

「優秀ならもっと早く来いよ」

「死ね」

 咲も悟もおのおの自屋に戻る。悟は机に戻って、咲の部屋から何か物音がしないか一度、耳を澄ませる。無音だった。さすがに少しはテスト勉強を始めたのだろう。しかし再び約三十分後。悟がトイレに席を立つと、玄関に出かけようとする咲の姿があった。

「え、どっかいくの?」と聞くと、咲は晴れ晴れしい笑顔を浮かべた。

「うん、イライラするから友達とカラオケ行ってくる」

「テスト勉強、三十分で終わりかよ」 

 咲は人差し指を左右に振ってから言った。

「五分。あとは着替えとメイク」

 玄関の扉を開けて、一言。

「じゃあな、弟よ。アディオス!」

 アディオス。

 スペイン語でさよなら。

 この様子だと次も赤点とって、咲が学校からアディオスする日も近い。

 そう思う悟だった。



 花見


 和子が普段から親しくしているママ友が二人いる。

 咲が小学校一年生の頃のママ友なので約十年の交友になる。子どもたちが幼なじみだったから親が親しくなったのか、親が親しくなったから子どもたちが幼なじみになったのかは、鶏と卵の問題であるが、小学校卒業までに三回あったクラス分けで一度も離ればなれになることなく、当の子ども同士は高校生になって別の高校に進学して疎遠になっても母親たちの交流はずっと続いていた。交流と言えば聞こえは良いが、要はおしゃべり友達である。日ごろの子どもや旦那のグチやら生活への不満やら、趣味の話やらで盛り上がり、ストレスを解消する。小学校のママ友なので家が近く、それぞれの生活リズムも昔からそれほど変わっていないので予定が立てやすいのだ。平均すると月に一回くらいの頻度で近場のカフェやレストランで昼食をとったり、お酒を飲んだりする仲だった。

 ある日、和子のスマホがブっと震え、ロック画面に「LINE」の通知が表示された。「中田小学校ママの会」真由子:写真が送信されました

「中田小学校ママの会」真由子:公園の桜、もうすぐ満開でした。久しぶりにお花見しない??

 スマホのロックを解除するとLINEのトークに桜の木らしい写真が一枚ぽかんと浮いている。タッチして拡大する。綺麗なピンク色に染まった桜の木々の写真だった。場所はこの辺りでは一番広い市民公園である。

 お花見かぁ、もう何年もしてないなぁ。和子はそう思った。

 それこそ咲が小学生のころはクラスの友達とそのお母さんでこの市民公園にお弁当とレジャーシートだけもってお花見したっけ。あれがもう十年近く前のことなのか、としみじみとする和子。咲もあのときは小さくて可愛かったなぁ……あ、そうだ、返信しないと。

「今年はきれいに咲いたね。お花見、賛成」と打ち込むと、程なくして詩織ママからも「いいね」と返事がくる。

「いつがいいかしら?」

 日程を調整して翌週の、いつもだいたい三人の都合がいい水曜日の昼ということになった。子どもがいないお花見なので、地面にレジャーシートっていうのも三人だとさびしいね、という話になる。「うちにキャンプ用の組み立てテーブルと椅子あるから使おう」という真由子さんが言う。ありがとうのスタンプが二つ続き、そのあと当日の待ち合わせ場所だけを決める。

詩織ママ:天気予報も晴れになってるからちょうどいいね!

詩織ママが追いかけているジャニーズアイドルのスタンプが押される。

「そのスタンプ新しいやつじゃん」という話から最新曲の情報や若手アイドルについての話が繰り広げられる。続きは来週の水曜日にということになった。

真由子さんは天馬(てんま)くんという息子がいて、詩織ママは呼び名の通り詩織ちゃんという娘がいる。三人とも小学校、中学校までは同じだったが、高校は別。天馬君はやんちゃな男の子。スポーツ推薦で地元の私立高校へ進学した。詩織ちゃんはどちらかといえば大人しく、商業高校へ。そして咲はこの辺りで下から二番目に偏差値が低い公立高校へそれぞれ進学した。部活はそれぞれ天馬君がサッカー、詩織ちゃんが美術部、咲がバドミントン部。この親にしてこの子あり、とよく言うように子どもから親の性格が推測でき、天馬くんママの由美子さんは豪快というか、強烈という感じ。見た目もはっきりした目鼻立ちに、メイクも少し濃いめを好んでする。大のお酒好きで酒量も並外れて多い。詩織ちゃんママの沙織さんは穏やかな性格。ただしこちらは無類のジャニーズオタクでコンサートのために全国を飛び回っている。その伝で言うと咲は天衣無縫というか、我が儘な性格のため和子も気づいていないだけでその気があるのかもしれない。ただ和子はこれといった趣味がなく、その点は悟に遺伝してしまったのかもしれない。

当日は丸山家のマンションの下に集合し、徒歩で市民公園まで向かう。マンションの下で少し早めに待っていると、道の向こうからノロノロと持ち手の着いた大きめの段ボールを抱えた女性がやってきた。誰だろうと思っていると真由子さんだった。

「久しぶり~」と笑顔である。和子も挨拶に応じてから、

「ごめんね真由子さん、意外とデカいんだね、それ」

 真由子さんが抱えていたのはこの前話していた折りたたみ式のテーブルと椅子だった。本来は来るまで運ぶレベルのサイズである。一応三人とも免許はもっているが、お酒を飲む予定だったため車は使えなかった。

「いいのいいの、こんなのいつもサッカー部の応援のときとかに持っててるから」

「そうなの?」

「そうよ、それにちょっと疲れた方がお酒が美味しいから」

「そうなの……」

 しばらくして詩織ママも合流し、三人はまずスーパーに向かう。お弁当は沙織ママが作ってきてくれていて、各々持ち寄りもあるが、おつまみとお酒を買う必要があるのだ。

 買い物を済ませ、公園への道すがら自ずと桜への期待は高まっていく。

「きれいに咲いてるかしら」

「先週から雨も大して降ってないし、風の強い日もなかったから大丈夫でしょう」

「楽しみねぇ」

 果たして、桜は満開だった。

 茶色くゴツゴツとした木の幹から伸びた枝には薄いピンクの花がこれでもかと開いている。つぼみがまったくない。正真正銘の満開である。風がないので桜吹雪は見られないが、春の穏やかな日差しに桜の花が輝いている。

しばらく立ったまま三人は桜の木々を見上げる。

「これは、ソメイヨシノ?」と由美子さんがたずねる。

「そうみたいよ」

 桜の木にタグが付いてていて、詩織ママがそれを指差した。

「きれいねぇ。ソメイヨシノがやっぱり一番きれいねぇ……まあ、他あんまり見たことないんだけど」

「たしかに」と三人で笑いながら机の組み立てやらお弁当や飲み物の準備をしているとき、ふと和子は思った。一応二人に言う。

「あのさ、今日すごく良い天候じゃない?」

「そうねぇ」と椅子を組み立てながら真由子さんが言う。「ほんと、ブランケット持ってきたけど必要ないね」と言いながら詩織ママも準備の手を止めない。

「桜も満開だし、平日だからうるさい人たちもいないし」「そうそう。ほんと、最高よね~」

「そう、いないのよね人が」と和子が言うと、詩織ママが「え?」とこちらを向いた。

 和子の発言の真意を悟ったのか、周りを見渡しながら「ああ……」と声を漏らす。

 真由子さんが椅子を組み立て終え、机の上には主に詩織ママが作ってくれたお手製のサンドイッチやら、ロースビーフやらがサラダがキレイな彩りでボックスに詰まっている。缶ビールや缶チューハイも、あとはプルタブをあけるだけという状態でスタンバイされている。

しかし……。

「二人ともどうしたの?」と真由子さんが聞くと。和子は詩織ママと顔を見合わせて言った。

「なんか、この広い公園に私たちだけしかいなくない?」

「そうだけど、それが?」

「いや、そんなつもりないんだけどさ、なんか私たちだけ浮世離れした人たちみたいじゃない??」

 数秒の間があって、真由子さんが吹き出した。あははははとまるで十代の少女のように笑う。

「ああ、お腹痛い」

「そこまで笑わなくてもいいでしょうに」と詩織ママ。詩織ママはさっきから苦笑いだ。どっちとも着かない表情を浮かべてる。

「ごめんごめん。でも、和子さん、考えすぎだってそれは」

「そうかなぁ」

「そうそう。平日だから仕方ないわよ。休日なら今頃私たちのスペース無いくらいに花見客でごった返してたでしょう? それが平日のいいところじゃない」

「まあ、それはそうなんだけどさ、でもいざ来てみたら私たちだけって言うのはなんか寂しいような、場違いなような」

 そんな和子を尻目に、真由子さんは笑顔で「平日も休日も、宇宙から見ればみんな同じ一日よぉ」と言う。

 もう酔ってるんじゃないかと思った和子だったが、ここまで準備もして花見を中止するわけにも行かない。結局は乾杯をすることにした。ちょっと散歩に来たご年配の方や仕事の休憩をしているタクシー運転手さんの視線が気になるものの、アルコールのせいもあって、そのうち気にならなくなった。

「それが、この前ね、咲が定期テストで赤点取って」

「あら」と詩織ママ。

「笑えるでしょ、今どき赤点なんて言葉、久しぶりに聞いたわよ」

「たしかにねぇ」と真由子さんが缶ビールをあおる。

「それで、パパが怒っちゃって、次のテストまで小遣いなしにするべきだって」

「それは過激ねぇ~」

「また咲ちゃんの反抗期が長引いちゃうね」

「そう、ただでさえ毎日喧嘩が絶えないって言うのに」

 和子は先日忠が咲にベランダロックアウトを敢行したことしたことの子細を語った。真由子さんはウケていて「それうちもやろう!」と笑っている。詩織ママはしきりに体罰で隣の家から児童相談所に連絡されないかを気にしていた。

「天馬君や詩織ちゃんは反抗期とか来てる?」と和子が振ると、既に三本目の缶ビールを空けた真由子さんが「うちは子どもが二人とも男だからさ、父親とは仲いいのよ、私に対して若干反抗期来てるっぽいけど……まぁ、昔からそんなに変わらないかな」

「いいじゃない、仲良くて」と詩織ママが言う。

 うちは詩織一人っ子で咲ちゃんと同じように主人とは全然話しないわね。もっぱら私が主人の話し相手になってあげてる感じ。見ていてちょっと可哀想だけど。でも私も高校生の時父親とは会話した記憶あんまないから仕方ないよねって感じ」

「ほんとそれ!」と三人の意見が一致する。春風のように、爆笑が立つ。

 話題はそこから詩織ママがこの前詩織ちゃんと二人で行った、ジャニーズのコンサートに移った。

「今まで一番良い席だったのよぉ~」と最前列の右側の、「推し」のアイドルの立ち位置的に一番近くで見られる席だったことを説明される。三階席の後ろの席だとまず肉眼でアイドルを捉えることは不可能らしい。「あとね、」といって、詩織ママがアンドロイドの画面の大きなスマホをバッグから取り出した。

「アマゾンプライムのライブ配信に私と詩織が移ってるのよ」と言って、動画の有料定額配信サービスのアプリを開いてダウンロードされていた動画を流した。

「あ、いたいた」「え、どこ」「ここ」「ほんとだ」

 結局、お弁当箱が空になるまでライブの動画を視聴し、メンバーの名前が全員フルネームで頭に入ったところが詩織ママが言った。

「なんか甘い物ほしくなっちゃった」

「ああ、わかる」と和子も同意する。酒飲みの真由子さんだけは「糖質とるならビールでとる」と否定的だったものの、もともとお酒がそこまで強くない二人は「なんか近くでスイーツのお店ある?」とスマホで調べる。「そういえば、駅の近くに美味しいレアチーズケーキのお店があるらしいよ」「いいねぇレアチーズ」となったものの、駅までは少し遠い。しかも三人ともアルコールが入っている。困っていると「あ、ここウーバーやってるって」と詩織ママが気づいた。デリバリーサービスでこの公園に届けてもらおうという算段である。

「ウーバーって公園とかもいけるの?」

「うん、いけるっぽい」

「へー知らなかった。便利だねぇ」

 ウーバーの注文をし終えると、真由子さんがスマホで何か動画を見ていた。

「何見てるの?」と和子がたずねながら、僅かに真由子さんのスマホの大きな画面を覗く。

「え、それって……」

「うん、お花見動画」

 スマホにはどこか桜の名所と思われる場所の、辺り一面に咲く満開の桜の木々の動画が流れていた。タイトルは「おうちでお花見(京都仁和寺ver.)」

「それは……今もっとも見てはいけない動画では?」

「たしかに」

詩織ママも同意する。

「え、なんでキレイじゃない」という真由子さんは完全に酔っ払っていて、遂に最も言ってはいけない発言をしてしまった。

「でも、これなら家のテレビでユーチューブ見ながらお酒飲んだって変わらないよね。好きな時にアマプラも見られるし」

「……」

 程なくしてマウンテンバイクに乗ったお兄さんが三人分のレアチーズケーキを配達してくれる。

その時、和子は完全に酔いが冷めてしまっていたとさ。



 エレベーター


 悟にとって、エレベーターは気まずい。

 もともと「超」がつくほど非社交的な性格であり、忠が咲が中学生の頃、娘の将来を案じて『「頭のいい人」がやっていることを一冊にまとめてみた』(中野信子著)という本を書店見つけてきて買い与えたところ、咲は一ページも読むことなくそれを当時小学生だった悟に手渡した。そのうち咲の学校の成績が手の付けられないところまで落ち込み、両親も妥協を余儀なくなれた頃、中学になった悟がその本をぱらぱらとめくって目に留まったのが「本からなんでも吸収する」という見出しだった。テレビを見ながら高笑いをしている咲を眺めて、ああ、なるほどこの本は信用できるなと実感してからというもの、読み通すことにした悟は、その中に「空気は読まない」という別の見出しを見つけた。「空気を読まないで自分の強みを鍛えることが大事」という主旨の文である。当時自分の得意な分野がよく分かっていなかった悟は、とりあえず空気を読まない方だけでも心がけようと早とちりをして友達を大幅に失うことになるのだが、その話はまたの機会にしようと思う。何が言いたいのかというと、そういう経緯で人付き合いが苦手な少年に成長したということである。

そんな悟にとっての、エレベーターの気まずいことは何個もある。一つ目は初対面の人が乗ってきたときである。高層ビルの定員が二十名とかいった巨大エレベーターならまだ知らず、収容人数六名の一般的なマンションの狭いエレベーターに複数人で乗り合わせることが悟は精神的に苦痛であった。丸山家は十一階建てのマンションの八階に位置している。八階から一階までの間に人が乗って来た時は先ず「おはようございます」と型どおりの挨拶するのだが、悟はその後がなかなか続かない。空気が重たい。途中で乗り合わせるということは別の階の住人ということであり、悟は別の階の住人と基本的に話す機会がない。全く話したことがない人間に「今日も良い天気ですね」とか「お仕事ですか」などと気さくに声をかけられるはずもなく、永遠にも感じる十数秒をただじっと自分の足下を見つめながら過ごすのである。その空気の重たさに押しつぶされそうになるのをじっと耐えながら乗るのが下りエレベーターである。

悟にとってのエレベーターの気まずさはまだある。それは知らない人が複数人で乗ってきたときである。たとえば八階で乗ったエレベーターがのっそりのっそりと移動を始め、六階で停止する。そこに高齢の女性とその娘らしき中年女性が乗ってくる。これがつらい。自然と先に乗っていた悟が階数ボタンの前に立つことになり、後ろに二人が立つのだが、もしこの後ろの二人が悟と和子なら、悟はもう他人に母親との会話を聞かれたくないので無言を貫く。しかし社交性の高い、かつ開放的性格の持ち主は赤の他人が密室にいてもまるでここが我が家のリビングであるかのように自然と話し出すのである。「今日三時に本通りの村上さんが会いに来るからさ、それまでに帰ってこないとね」「え、お母さん三時半って言ってなかった?」「三時だよ、三時」「あらそうー。じゃあお菓子買っておかないと。きんつば好きだったよね。村上さんって」

そうだね、とおばあさんが言ったタイミングでエレベーターのドアが開く。こんな会話をただ自分の足下を見つめながら聞かなくてはならないのだ。地獄だと思った。もはや村上さんにすら怒りを覚える。

このように複数人の他人と乗り合わせることは辛いが、さらに辛いのは知り合い人と乗り合わせることである。知り合いならば気楽ではないかと思われた諸君はここで本項の冒頭二行目を読み直して欲しい。社交的にあらず、と書いて非社交的人間と書く。非社交性人間は家族、友達未満の人たちと容易にコミュニケーションを図ることができない生き物である。特に同じ階の人がそもそも下りエレベーターに乗る前からエレベータ待ちをしていた時はひどい。待っている時間が厳しい戦いになる。同じ階ということは要するにご近所さんなので、つきあいから「おはようございます」ぐらいは言うが、例の如くその後が続かない。エレベーター待ちの時点で気まずいということは、エレベーターに乗ってからは尚更気まずい。それは避けねばならないと悟の危機察知能力が働き、仕方なく「今日は良い天気ですね」とか「富士山に雪が積もってますね」などとりとめの無い会話を絞り出すが、やっぱり二言三言で会話がなくなるのであった。

とまぁ、ここまでが下りの話である。

そして読んで字の如く、エレベーターとは上りが本職であった。

夕方、一階で別の階の住民と遭遇する時である。最初の「こんばんは」は朝の「おはようございます」と同様に定型文なので容易い。その後の空気も、乗り合わせた各々が仕事や家事、学業等で疲労しているため話がなくとも気にならない。むしろお互い静かにしていてくれて有り難いくらいの気持ちである。しかし問題はその後であった。降りるときである。

ここに俄に「マンションのエレベーター、降りる時はなんと言って降りるのが正解か問題」が発議される。都会の単身世帯向けマンションならいざ知らず、地方の三人世帯以上の比率が高いマンションにおいてはご近所づきあいというものが現存しており、エレベーターを降りるときにその程度が如実に表れると言える。乗り合わせたエレベーターから先に下りる際、無言でエレベーターから立ち去る行為は所謂「なんか無愛想なかんじ」を引き起こし、引いては住民の噂の種になって火のない所に煙は立つともわからない。ということで「エレベーターを降りるときは挨拶をせよ」というお達しが和子より出ているが、何というのがベストなのか、悟は分かりかねていた。

悟がよく受ける挨拶として最も多いものが「おやすみなさい」である。上りエレベーターを使う時間帯が夕方から夜にかけてなので、朝乗り合うときの「おはようございます」の対義語として夕方、降りる際の「おやすみなさい」は理にかなっている挨拶である。しかし、よくよく考えてみるとこれはおかしい。悟がエレベーターに乗るのは日が暮れていたとしても18時や19時である。そして眠るのは深夜の0から遅いときは午前一時の時もあるくらい。おやすみなさいと言ってから夕ご飯を食べて、宿題をして、テレビも見たりして、寝る。つまり「おやすみなさい」と言ってから、大分活動するのだ。これでは「おやすみなさい」の虚偽申告になってしまう。

では、他にどんな挨拶があるだろうか。そう考えたときに「おやすみなさい」の次に多いのが「さよなら」である。忠も和子も大抵はこの挨拶を使う。さよなら=グッバイ。万国共通の表現であり、これを言っておけば間違いないだろうな。悟もそう思い一時期「さよなら」を使用していたのだったが、そのうちに、ふと「こんばんは」で始まって赤の他人と十数秒一緒に乗り合わせただけで「さよなら」というのは大げさなのではないか、と思えてきた。そう思えてくるのが非社交的人間である。乗っているときに雑談があったのならまだしも頑なに沈黙を守った人間が去り際だけ「さよなら」を呟くというのは相手を冷たく突き放しているように聞こえるのではないか。悟はそう思った。「この十数秒は私にとって、とても辛いものでした」という告白になってしまう恐れもある。しかしそれでは一体何と言ってエレベーターを降りれば良いのか。しばらくの間、悟は恋する乙女のように悩ましい日々を送った。

そんなある日。

悟は若いサラリーマン風の男性とエレベーターを乗り合わせた。いつものように沈黙は金なりを固く遂行しながら男性が降りる六階でエレベーターが停止した。他人が先に下りる分には構わない。悟は余裕綽々と男性が下りる姿を見守った。扉が開く。若い男性は去り際に「閉」のボタンを押すと、軽く会釈をしてこう言った。

「失礼しました」

 悟は思わず声を上げた。

 美しい。

 そう思った。自分が降りた後に扉が早く閉まるようにという思いやり。相乗りやその間のしばらくの沈黙を失礼したという謙虚さ。そして去り際のこれこそ、悟が長年追い求めていたマンションのエレベーターにおけるベストな挨拶なのではないか。

感動に打ち震えた悟は、それ以来はこのやり方を実践している。




 うっかり爆弾


 うっかり爆弾というものがあるという。

 うっかり爆弾とは当方にまったく悪意はないものの、こちらのうっかりによって先方に対して精神的または肉体的な痛手を負わせる爆弾的破壊行為のことであり、運悪く命中した者は相手の行為が故意でない、うっかりであるが故にその咎を激しく論難することが憚られ、行き先を失った怒りはやがて苦悩に変わり、最後にはどうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのかと神や仏に呪詛の言葉を唱えながらちょっぴり悲しくなるものである。

 そんな爆弾的破壊行為なんて受けたことがないと言われる読者諸賢に注意申し上げたい。

概してうっかり爆弾は赤の他人よりも勝手知ったる者同士の方が爆発しやすい。

 たとえば夏のある日のことである。この日は真夏日で三十度を超える暑さだった。

「暑いなぁ、今日は」

額の汗を拭きながら、忠が帰ってきた。

「おら、お帰りなさい。すごい汗ね。何か飲みます?」

「ああ、頼む」

 和子は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出すと、慣れた手つきでコップに氷を二三個入れてから注ぎ、「どうぞ」と忠の前に差し出した。

「すまんな」

 忠はごくごくごくと、一息に飲み干そうとしてコップに口をつけたとたん、

「しょっぱい!!」

 台所に戻ろうとしてた和子が振り向くと、そこには忠が苦虫をかみつぶしたような表情のまま、和子を睨んでいた。

「なんだ、これ……すごくしょっぱいぞ……」

「ええ?」

「あ、」

忠が思い当たる。

「もしかして、これ、そうめんつゆじゃないのか?」

「え~?」

 そう言って、和子が確認する。

 果たしてそうめんつゆであった。

 お歳暮でもらったそうめんを処理するために和子がつゆと水を一対三の割合でいれて昨晩こしらえたのである。麦茶と同じプラスチック容器に入れて冷蔵庫で保管していたところ液体の色が全く同じなので和子が間違えたのである。運悪く、その時麦茶は咲が飲み干していた。

「まぁ、塩分が取れて良かったじゃないの」

「うるさい!」

 これがうっかり爆弾である。

 うっかり爆弾はこんな時も落ちる。

 忠が、朝から腹を下した。朝食後に和子に「胃薬ないか?」と訊ねると、「あったはず」といって、薬箱を取り出してごそごそと調べはじめた。

 忠はごはんと味噌汁と焼き魚という日本人的な朝食をとった後、和子が差し出した白い錠剤を二錠、水と一緒に飲んだ。

「お昼の分を持ってく?」

「いや、これくらいならすぐ治るだろう」

 そう言って、忠はそのまま出社。しかしどうも腹の調子が悪いままであった。結局その日、何度もトイレに立つ羽目になり、ただの腹痛じゃなかったのかな、なんかよっぽどへんなものでもくったかな、と振り返りながら忠は帰宅した。

 夕食もごはんに味噌汁と焼き魚という日本的な夕食をとった後、再び和子に出された同じ薬を飲んだ。

「今日はデスクにいた時間よりトイレにいた時間の方が長かったかもしれない」

「そうなの? この薬、あんまり効かないのかね」

 和子は心配そうな表情を浮かべながら、薬のパッケージを見た。

「あっ」

「なんだ?」

「これベンザブロックだった」

「なんだって?」

「ベンザブロック」

「ベンザブロックってあの、『あなたの風邪に狙いを決めて』?」

「そう」

 道理で腹の調子が戻らないはずである。

 その後、ビオフェルミンを飲んだら腹痛は一晩で治ったという。

 と、この辺りは殺傷能力の低いうっかり爆弾であるが、最近あったうっかり爆弾は強烈であった。

 和子の誕生日は八月五日である。誕生日が夏休みなので友人から全然祝われないというよくある話は置いておいて、忠の誕生日が五月十二日。「織田信長と同じ誕生日だぞ」と家族に自慢して総スカンを食っていることもここでは関係ない。しかし先日忠の四十七歳の誕生日ということで、和子の手作りケーキと忠が好きなケンタッキーフライドチキンでお祝いをしたことは実は大いに関係があったりする。誕生日プレゼントは一応咲と悟からという体で和子がデパートで買った「ラコステ」のシャツが贈られた。ラコステとは胸に小さなワニのロゴが付いている高級なシャツである。「誕生日なんてすっかり忘れてたよ」と喜びながら忠は笑ったが、本当は忘れてはならなかったということを二月後に思い知ることになる。

 七月のある日、家に帰った忠は和子から深刻な面持ちである話を打ち明けられた。

「なんだ改まって。バッグなら買っていいぞ。テレビはまだ保つだろう?」

「いえ、そうじゃなくて……」

「なんだエアコンか、確かに最近ちょっと調子が悪いときがあるからな」

「いえ、それでもなくて……」

「ん? じゃあなんだ」

「これなんですけど」

 そういって和子は一枚のはがきを忠に差し出した。両手で。

「なんだこれ」

「通知です」

「なんの」

「見て下さい」

 見ると、運転免許更新のお知らせだった。

「なんだ免許の更新はがきじゃないか、行ってくればいいじゃないか」

「それが、私のじゃないんです」

 そう言うと、和子は目を伏せた。

「私のじゃない? じゃあ一体誰の…………まさか!」

「そのまさかです」

 氏名の欄を見ると、丸山忠と書いてある。何度見直してもそう書いてあった。

 忠は混乱した。

「な、なんでこのタイミングで送られてくるんだ!」

 運転免許証の更新日といえば自分の誕生日。つまり今年の五月十二日。二ヶ月前にケーキとケンタッキーフライドチキンで祝ってもらっている。

 すると和子が衝撃的な事実を口にした。

「違うの、私が自分の通知だと思い込んでずっとしまっていたの」

「なんてこった」

 うっかり爆弾、爆発の瞬間である。

 忠は俄には信じられない事実に直面しながら、茫然自失の体で更新はがきを見つめた。

「まさか、運転免許をもう一回取り直すのか? この歳で?」

「わかりません」と首を横に振る和子。

 忠は失意の中その足でふらふらと警察署に向かったところ、「免許失効六ヶ月以内」ということで数千円のお金と簡単な身体機能検査で後日、運転免許を再取得することができた。

「助かったぁ……」

思わず膝の力が抜けてしまった忠。しかし秘かに誇っていたゴールド免許は剥奪されてしまったとさ。

 皆様もうっかり爆弾には用心することをおすすめする次第である。

 まぁ、用心して未然に防げるものではないが。



 ゲーム、ケータイ、ダメ、ゼッタイ


 丸山家はゲーム禁止の家庭であった。

 理由はゲームを買えば、ゲームばかりで勉強や運動をしなくなり、心身ともに不健康な子どもに育つ気がするという忠と和子の漠然と一致した意見のためである。そんな教育方針に則り、丸山家のテレビ周辺には一度も任天堂やソニーのゲーム機が現れたことがない。咲は友達と遊ぶときはおしゃべりをしたり、少女漫画を読んだり、中学に進学してからは部活に励むようになったことでゲームに関してはそこまでねだることはなかったが、悟はゲームを欲した。理由は単純明快で周りの友達がもっているためである。周りの友達がもっていて自分だけもっていないというのは話について行けなかったり、仲間はずれにされたりする要因になってしまう。仲間はずれも何も、悟の周りに仲間がいたのかと首をかしげる読者もいるだろう。驚くべきことに小学生の頃は今より少しだけ協調性があり、今よりも少しだけ友達の輪が広かった。友達との関係性をつなぎ止めるべく、当時の悟は忠と和子に何度もねだったものの、両親の意志は思いのほか固かった。クリスマスと誕生日を足しても買ってもらえないと分かった十回目の嘆願の後、これ以上ねだっても結果は同じだと考えた悟は段を下した。

友達の家でやるしかない、と。

 もはや友達の家でやるしかない、と。

 小学生の当時には、クラスメイトたちも部活動がなく、習い事がない日など、平日は比較的遊べた。悟はゲームをもっている友達の家に遊びに足繁く通っては中国の戦国武将が槍や剣を振り回して戦うゲームや、狩人が巨大なモンスターを狩るゲームや、マリオがテニスをしたり、乱闘したりするゲームに興じた。しかし、当然といえば当然なのだが、友達と対戦をすれば悟は大体勝てない。ゲームを自宅に所持している友達は家で何時間でもプレイできるが、悟は家に帰ってもゲームができないからである。仮に悟が非凡なゲームセンスを備えた少年であれば、友達を圧倒することもできたであろうが、残念ながらそうではなかったため、悟は合理的に負け続けた。負け続ける気分がよくない。気分が良くないとどうしてもゲームをやりたいと思うことが少なくなり、徐々にゲームそのものから距離を置くようになっていく。気づけば小学校六年生のころにはゲームを目的に友達の家に行くことはなくなっていた。

 こうしてみると、忠と和子の「ゲームを買い与えない」という作戦は図らずも成功を見た。ゲームをやらせないのではなく、得意にさせないという逆転の発想であり、仮に悟がすさまじいゲームセンスを持って生まれたテレビゲームの寵児であり、天賦の才を以て友達の家でゲームの楽しさを味わい続けたとしても、友達の家で遊ぶということはつまり門限が設定されるということであるため長い時間遊ぶことはできない。時間による使用制限がある事に加え、視界にゲームが入らない時間を持つというのは子どものゲーム欲求を喚起させないという点でも有効かもしれなかった。

 つまり、もし子どもがゲームを買ってくれとねだってきた場合、「友達の家でやらせてもらいなさい!」という教育が正しいのかもしれない。それだと徐々に友達が減っていく恐れもあるため、一日につきお小遣いからの天引きで子どもに駄菓子を持たせてあげればよい。比較的低い費用で子どもにとってまあまあ良い環境を与えることができるだろう。

一方咲はというと、ゲームには興味を示さなかったが、中校生になってから猛烈にねだったものがある。スマホである。

 その自由奔放な性格から誰とも垣根無く話すことができた咲には友人が多く、自然と交遊の場はネットに移っていく。そのためスマホは中学女子にとっては必須アイテムであった。

「ダメだ」

 夕食後に本を読んでいた忠に咲がスマホを買ってくれ、とねだると忠はその要求を撥ね付けた。当時まだ反抗期は今ほどにひどくなく、咲も「パパぁ」と言ってモノをねだるくらいはした。

「なんで~。桜も詩織ちゃんも怜ちゃんも雪りんも買って貰ったんだよぉ」と伝家の宝刀「友達も買ってもらった」が飛び出すと、「友達は友達。うちはうちだろう」と忠も抜き身で応じる。

「えー意味わかんないー」

「意味わかんないことはないだろう」

 この辺りはまだ穏やかな親子の会話であった。

「だって、月二千円だよ、安いじゃん」

「安いってなぁ、その二千円は誰が払うんだ」

「パパ」

「そう、パパだ。だから安いかどうかはパパが決めることだろう」

「でも、パパだってラッキーストライクは月に五千円で買ってるじゃん」

 ラッキーストライクとはタバコ銘柄である。痛いところを突かれてしまった忠は苦し紛れの反撃に出た。

「タバコを吸いながら本を読むのがパパの唯一の趣味じゃないか」

「じゃあ、私もスマホを唯一の趣味にするからさぁ」

「いい加減にしろ、バカなことを言うな」

 その言葉に無言の抵抗を試みる咲。

 それを察知した和子が間に割って入ってくる。ただし今回は忠の肩を持った。

「ママはお金のことも走だけど、咲の勉強の方が心配よ。スマホばかりやって勉強が手に着かないんじゃないかって」

「大丈夫だよぉ」

 当時中学一年生だった咲の成績はゆるやかな下降を見せていたものの、ぎりぎりのところで持ちこたえていた。ただしこれ以上テストの点数が下がってしまっては旗色が悪いことや、得意の保健体育で挽回したとしても焼け石に水であることも咲には自覚があった。そうなってはスマホはおろか、お小遣いさえ減らされてしまう。そうなる前に一刻も早くスマホの購入成約に漕ぎ着けなくてはいけない。そう咲は考えた。

「勉強ちゃんとやらなかったらスマホ没収でもいいからさぁ」と交換条件を出した。

「でもねぇ、この前テレビの番組でスマホの特集やっててね、子どもにはあんまり良くないみたいなこと言ってたしねぇ」

 和子が腕組みをすると、忠も、

「そうだぞ、最近読んだ本でタブレットは子どもの我慢する力を低下させるって書いてあったしな。あのビル・ゲイツをそれを分かっていて、子どもが十四歳になるまでスマホを持たせなかったらしいしな。お前も十四までスマホはダメだ。一年後の咲の成績を見てまた考えよう」

 一年後の成績など見せられたものではない咲は、その前に片をつけたかった。

「十四歳も十三歳も変わらないって。我慢する力ならあるってば。ねぇー宿題やらなかったら没収でも良いからさぁ」

「そんなこといって買ってしまえばこっちのもんだと思ってるんじゃないのか?」

 図星であるが、違うと首を振る咲。

「大丈夫だってば」「しかしビル・ゲイツがな」「勉強もするからぁ」「だからビル・ゲイツがな」

 やたらとビル・ゲイツで食い下がる忠にうんざりした咲が遂に言い放った。

「うるさいなぁ。ビル・ゲイツの子どもたちはスマホがなくても他に何でも買ってもらえるじゃん。パパはビル・ゲイツじゃないじゃん」

的を射た発言である。

しかしその発言は忠の「父親としプライド」という名の的も射貫いてしまったらしい。

程なくして仁義なき戦いが始まった。

「そもそもお前が勉強できないのが悪いんだろう。なんで成績が悪いのに勉強しようとしないんだ。勉強しろと何度言ったら分かるんだ」

「嫌だ。勉強嫌いだから。絶対しない」

「ばか者! そういうやつはこうだ」

 和子が止める間もなく、忠は咲をベランダに閉じ込めてカーテンを引いた。このときは流石に咲も大泣きし、ご近所の目もあるので十分ほどで咲は解放されたが、その光景が目に焼き付いた小学生の悟は以降、ゲームやスマホをねだることをしなくなった。腑に落ちる話である。しかし同時に、この一件を機に悟には夢が一つできた。それは自分が大学生に進学したら、一人暮らしをすること。そしてアルバイトをして貯めたお金で小学校の時に買ってもらえなかったドラクエやマリオとかバイオハザードを買って思う存分プレイすることである。そのためには大学に進学するだけの学力がなければいけない。しかもただの大学ではダメだと悟は思った。物理的距離の観点から自宅から通学が困難な場所、つまり他都道府県にある大学で、且つ忠が学費を出すことを許可するくらい良い大学でないといけない。そのためには今からある程度しっかり勉強をしておこうと悟は思っている。

 一方、咲のスマホはどうなったのかというと、それ以降、咲の成績はまるで何かの重力がかかったのように降下の一途を辿り、両親も「もはやこれはスマホを持つ持たないの問題ではない」という結論に至った中学二年生の春、十四歳になったからという建前で晴れてスマホを買い与えられた。平たくいえば両親は諦めたのである。それから三年たった今も咲にとってスマホは友達と電話をしたり、SNSで写真を上げたり、コメントをしたり、コミュニケーションを楽しむ重要なツールであり続けている。悟は咲の同じ中学二年の春、こちらは別に勉学でつまずくこともないのですんなりと格安スマホを買ってもらった。スペックも低ければデザインも無骨であるが悟にはそれで十分だったようである。

世の教育関連の本や雑誌では、子どもにスマホを持たせるべきか、持たせるとしたら何歳かという議論が盛んだが、丸山家の例を見るとそんなことを話し合う前に我が子が勉強を自発的にする動機の創出を急いだ方がよいかもしれない。ただこれはよく言われることだが、人生はテストの点数や学校の成績で決まるものではない。一発逆転サヨナラ満塁ホームランだって狙えるし、幸せの価値観は人それぞれであろう。忠と和子もきっとそう思って、我が子の成長を見守ろうと思ったはずである。きっと。



 何でもできる、根拠のない自信同盟

 

 とある日曜日、咲は友達の三央(みお)と佳奈(かな)と遊びに出かけた。

 日曜日は練習試合や大会といったバドミントン部の活動がなければクラスの友達と遊べる。今日は午前中から三人で町中をぶらつき、アースミュージック&エコロジーで高校生にしては少しオトナな服を背伸びして買ってみたり、ドクターマーチンのローファーを物色して結局高すぎて買わなかったりした。普段から五千円以上する靴や洋服は咲のお小遣いの許容範囲を超えるため、和子や和子の母、つまり咲の祖母が買い物に出かけるときに「私も行くー」と便乗してついでに買ってもらうのだ。「またばあばにたかって~」と和子に小言を言われることもないではないが、祖母がなにより孫に何か買ってあげるのが好きなので、祖母も咲も笑顔であった。

 そういう経緯で浮いたお金が他に使える。その後マックでテリヤキバーガーセット(ポテトLとコーラM)を注文し、食べた終わった後、それでもまだお腹が満たされなかったので、「お前の食欲は無限か」と佳奈に笑われながら三角チョコパイとチキンナゲットを一つずつ追加購入。三人でシェアしながら食べて、腹ごしらえが済んだ女子高生三人はカラオケに向かう。最近のカラオケはすごい。アプリで予約ができて受付けをしなくてもそのまま入室し、利用し終えたら自動精算機でお会計して終了である。人と話す機会が全くない。

「前より楽だよね」と咲。

「確かにありがたい。たまにマジキモい店員とかいるしさぁ。話さなくてもいいじゃん?」

 三央の言葉に佳奈がすぐに反応する。

「キモい店員! いるわ」

「でしょ?」

「これもうバイト要らない時代来るぞ」と咲が言うと、「でも、ひたすらフードを作るバイトはいるよねキッチンで」「あ、私それやるわ」「咲は絶対自分で作って、こっそり食べるでしょ」「バレたかー」

フリータイムのカラオケでは一緒に知ってる曲を歌って盛り上がることが多いが、各々の好きなアーティストの曲を合間に入れたりする。そこで「へぇーこの曲良いじゃん」となる場合が多く、咲はカラオケで他の人が歌っていて聞くようになった曲が何曲もある。佳奈がデンモクのりれきが見て、前の客がひたすら天童よしみをメドレーして歌っていることに爆笑したり、「写真撮っとこ」と言ってインスタに早速上げたり、三央がなぜか唐突にジャニーズ縛りを敢行して咲の歌える曲が急に減ったりを繰り返すうちに三時間が経過していた。「一旦休憩」と言ってアイドルのインスタを見ていた三央が唐突に呟いた。

「咲はさ、将来の夢ってある?」

 顔を上げて、三央の顔を見る。

「え、なに急にどうした?」

 佳奈もスマホの画面から視線を三央へ移す。

「いやさ、うちの親がさぁ、私の進路のこと結構気にしててさ。だるって思ってるんだけど二人はどうかなって」

 咲は佳奈と目を合わせる。佳奈が「普通に進学じゃないの? 大学とか、専門学校とか」

「私もそう思ってるんだけど、なんかその先のことまで考えろって」

「先……大学院?」

「いや、うちらの学力でそれはないでしょ」

「じゃあ……就職か」

「そう。将来どんなことがしたいのか考えて、逆算して大学にするのか専門にするのかとか考えろって」

「えー三央のパパ尊い~」と佳奈

「でしょ? 真面目か! って」

 そんなんまだわかるわけないじゃん? と三央がジョイサウンドTVの音に負けそうな声のボリュームで言う。となりの部屋で新世紀エヴァンゲリオンのテーマソング「残酷な天使のテーゼ」を熱唱している男の人の声がバックグランド的に聞こえる中、「で、なんて答えたの?」と佳奈が聞いた。

「一応教師」

「「え、マジ?」」

「うん、まぁテキトーに。中学の美術の先生が可愛かったから」

「たしかに美術の伊藤先生可愛かったけど……三央、絵下手じゃん?」と三央と同じ中学出身の佳奈が言う。

「たしかに……じゃあ美術はなしで」

「変えるの早!」

「じゃあ、技術は?」と咲が提案すると、三央がぷっと吹き出した。

 その理由は間違いなくうちの高校で技術を教えている平木先生。呼称名「ヒラキ」の存在である。平木先生は太った体に遺伝的な直毛のツンツン頭。顔は吊り目でいつもなにかに怒ったような表情をしているが、別段何かに怒っているわけではない。

「ヒラキのせいでうちらの中の『技術』教科のイメージ最悪だからね」

「あいつ、マジで声高くない? スーパーソプラノじゃん。もののけ姫のテーマソングかって」

咲が「ものの~け~たち~だけ~」と声真似し、「曲いれる? いれちゃう?」と三人で爆笑する。

「授業の中身、全く入ってこないよね」「それな」「絶対五年以内に女子生徒にセクハラして警察に捕まると思う」

 まったくもって散々な言われようである。

「夕方のニュースでさ、アナウンサーが真剣な顔で性犯罪者のコメント読むやつあるじゃん、あれシュールだよね」と咲が言う。

「あー『調べによると容疑者の男性は『どうしても性欲を抑えることができなかった』と供述しているとこのことです』ってやつでしょ」

「そうそう。家族で夕飯食べながら見てると一瞬空気固まるやつね」

「お父さんとか顔背けたりしてね」

「それわかる~」と佳奈が同調する。

 平木先生の話から飛んで、よく分からない所まで来てしまった。

「で、結局何の話してたんだっけ?」と佳奈が言う。

「将来の話だよ」と三央が言う。

「そうだった。私も言っちゃうとねぇ、看護系の専門学校とか考えてる。今後、需要ありそうじゃん?」

「ああ、たしかに」と咲。

「そんなこと言って、最終的にイケメンの医者と付き合うのが目的なんじゃない?」

「へへ、確かにそれもあるね」

 流れで咲にも話が振られる。

「私は将来の夢は何ですかって聞かれたときは『無限』って答えてるよ」

 三央と佳奈が顔を見合わせる。当然半笑いの表情である。

「無限? 未定じゃなくて?」

「無限! まぁ未定とあんま変わんないんだけどさ、まだ何も決まってないってことは、まだ何にでもなれるってことじゃん?」

 カラオケルームのオレンジ色の照明の下、咲はそう言ってサムアップする。

「うーん、まぁそうだねぇ」

「スーパーポジティブシンキング?」

「イェス!」と咲が胸を張って続ける。「でも、そう考えたらさ、ちょっと気が楽にならない? なんにでもなれるんだよ? 東京でバリバリのキャリアウーマンとかさ、インフルエンサーの社長とかさ、たいそうなご身分とかにもなれるかもしれないんだよ」

「インフルエンサーの社長ってなにさ?」と佳奈がツッコむ。

「咲はいいなぁ」と三央が呟く。しかし、また例の如くバカにしてくるのかと思いきや、「でも分かる気もする」と言った。

「えーわかるのー?」と佳奈。

「いや、インフルエンサーの社長は意味分かんないけどさ、私も教師とかまあまあ現実的なことは考えてるけど、現実的なことばっかりかんがえてたら、現実的なところにしか行けないよね。私ももっと面白い人生を歩みたいっていうか」

「いいねぇーそれ。よくいった三央!」と咲が立ち上がる。

「でしょ?」と三央も釣られて起立。

「それでこそ三央だ! 目指せ玉の輿!」

「世界的インスタグラマー!」

「漫画家! は絵が下手だから、原作だけ!」

「美人世界遺産撮影家!」

 咲と三央が狂ったように非現実的妄想を叫ぶのを佳奈が座りながら驚きとともに見上げている。咲が言った。

「ほら、佳奈も佳奈も」

「え、私も?」とうろたえる佳奈を無理矢理立たせる。

「えっと……じゃあ……日本で一人しかいない……傘職人?!」

「いいじゃん、それ!」と三央が言う。

「じゃあ、乾杯だ。海賊の映画みたいに」と咲がドリンクバーで入れてきたオレンジジュースを持ち上げる。三央と佳奈も同じように飲み物を掲げた。

「マジなにこれ」と佳奈が笑うのを無視して、咲は高らかに宣言した。

「今日ここに何の根拠もない自信同盟を結びます」

「なにその同盟。まあいいけど」「三人でビックな人間になろう!」「おおー!」 

 三人は笑いながら、プラスチックのグラスをカチンと合わせて乾杯した。



 影響されやすい父、忘れやすい母、時間にルーズな娘


 丸山忠は一部の人間から「鉄のような男」と形容される。そう称される人物は往々にして精神的かつ肉体的にタフであったり、自らの信念は決して曲げないという性格的長所を以て「鉄」という表現を私用する場合が多いが、忠の場合は少し趣が違った。忠が鉄の男と呼ばれる由縁、それは「熱しやすく冷めやすい。冷めた後に形が戻りにくい」ことである。

忠が学生時代はバスケットボール部に所属するスポーツマンであったが、社会人になり体を動かすことがなくなって数十年。体型はあの頃の見る影もなく、「昔は西高の韋駄天と言われたんだぞ」と和子に自慢すれば「今では韋駄天と言うより海老天ですね」と鮮やかに応じられるほどの体型になっていた。そのため気づけばインドアを思考するようになり、趣味は読書をするようになる。読書と言っても何も小難しい哲学の本や文豪の大傑作を読むわけではなく、健康とか自然科学的雑学の本とか、たまに仕事に使えそうな自己啓発の本などを月に数冊、ベランダで加熱式たばことコーヒーをお供に気になったところを読むだけである。そのうち覚えた知識を家族や職場の部下や同僚に披露しては、「課長、博識ですね」とか「丸山はインテリだったのか」と好意的な反応がもらえるようになり、次第に周囲からの賞賛を欲しさに読書を続けていた。もっとも家族からは大抵「また始まったよ」と煙たがられていたが。

こうして本から種々雑多な知識を得ていくにつれて、本に影響されるようになっていった。それが鉄の男と呼ばれるきっかけである。

たとえば次に挙げるようなことがあった。

 ナッツが血糖値の上昇を緩やかにして、頭も良くなると言うことを知り、コストコでナッツ五キログラムを買ってきた「ナッツ爆買い事件」。

 朝食を抜けばダイエットに効果的という本を読んでは翌日からいきなり「今日から一週間朝食は要らないから」と宣言し、和子が「聞いてないわよ!」とキレて、その日から夕食もなくなった「究極のダイエット事件」。

 立って仕事をすることで脳に血液がスムーズに流れ、業務の生産性が2割上がると知った忠が、職場で自分の課の椅子を全て撤去した「スタンド・アローン事件」など枚挙に遑がない。

 得た知識を実行に移したくなってしまう性格の忠は、周りの人間が迷惑を被るが、本人はそれに気づかないまま同じ事を繰り返し、そして割とすぐに終わってしまうことが多い。それ故に人は彼を鉄の男と呼ぶのであった。しかし忠のなけなしの名誉のために付け加えておくと、全員が全員忠に反目しているわけでない。たとえば悟は忠が買ってきた五キロのナッツをおやつとしてたまに食べているし、忠の部下の黒山氏は一週間に及んだ椅子の撤去により、仕事の効率アップを実感していたりする。

 さて、そんな忠が最近読んだ本の中に「人間の記憶」に関する文章があった。物忘れというのは脳の正常な働きだ、という主旨の文章であった。一体人間は忘れることを忌み嫌う生き物である。宿題を忘れれば学校の先生に怒られるし、仕事で頼み事を忘れれば同僚から信頼を失う。ごく稀に自分の誕生日の存在を忘れれば、免許を失効することもあるだろう。

 しかしそれらも「忘れる」という脳の機能の一つで正常に働いている証拠だという。人間は楽しいことよりも悲しいことや辛いことの方を長く記憶に留める生き物だというの「トラウマ」と言う言葉が存在することからなんとなく感覚的に理解できるが、もしそれが一生鮮明に記憶され続けたらどうなってしまうだろう。毎日トラウマになった出来事を追体験するようなもので気が狂ってしまう。それを防ぐために人間はどんなに辛いことや悲しいことでも数年すると少しずつ忘れてきて、精神が破綻しないようにできているらしい。この文章に忠は痛く納得するとともに、人間を作った神様はよく考えているなぁと思う反面、忘れるべきでないことは忘れない機能をどうして付けてくださなかったのか、と思った。「これはどうしても忘れたくない」ということをパソコンのフォルダーのようにしまって置ければ全国津々浦々で連綿と爆発するうっかり爆弾の悲劇を防ぐことができ、多くの尊い命が救えたはずである。もしかしたら案外、神様自身もその機能を人間に与えるのを忘れてしまっていたりして。


「あー、またやった!」

和子が台所で唐突に声を上げた。

 夕食を終え、リビングでテレビを見ていた悟はその声に驚く。おそるおそる台所へ向かうと和子が電子レンジから昨日の残りのとん汁を取り出していた。一体とん汁になにがあったというのか。尋ねる。

「どうしたの?」

 和子は悟に顔を向ける。ばつが悪そうな表情を浮かべた。

「いや、ね……これ昨日の残りのとん汁を夕飯の時に食べようと思ってチンしたんだけどね、チンしたことを忘れてたのよ」

なんだそんなことかと、悟は冷蔵庫からジュースを取り出して飲み始める。

和子は、はぁー、と深い後悔のため息を吐いた。

「どうも電子レンジを新しく買い換えてから、中にいれたたものを取り忘れるのよねぇ。扉が黒くて中が見えないタイプにしたの失敗だったわ。この前は煮物の小皿。その前はコロッケ一個。なんか忘れてるなぁっておもってたんだけど……そういうこと悟はない?」

「ないよ」

悟の返事は素気ない。

「そう……あんたはそのへんはしっかりしてるからね」

「うん」

「咲は、よく忘れたけどね」

「うん」

咲が昔からよく忘れ物をすることは覚えている。

咲の忘れ癖は悟が小学生低学年の頃、つまり咲は小学校の高学年だった頃にピークをつけた。

「ママ―、学校の『書写』で使う半紙ってないー?」

「咲が持ってないなら無いわよ。うちは書道教室じゃないんだから」

「ママー、モールと折り紙ってないー?」

「折り紙はちょっとならあるけど、モールなんてないわよ。もしかして明日学校で必要なの?」

「……うん」

 咲がそれを和子に告げるのは決まって前日の夜七時半すぎなのである。

「どうしていつももっと早く言わないの!」

流石の和子も怒声をあげながら、咲を連れて八時まで営業している文房具店に車を走らせる。小学校低学年の悟を夜に一人は置いておくわけにはいかないので一緒に連れ出されるのだが、文房具店に着くまでの車内は当然ながら終始緊張が張り詰め、悟までも叱られている気分になるので損した気分であった。そんな時間でも娘のために学校で必要な物を買いに行くということ自体が和子の子どもへの優しさを表しているのだが、普段からあまり怒らない人が本気で怒ったときのあり様はこちらが慣れていないだけより一層恐ろしく感じられる。幼い悟の記憶にはこの記憶が強く残り、それ以来悟は机の引き出しの中に半紙と折り紙とモールを常にストックするようにしている。

 しかし咲はそれからも「ママー給食着出し忘れちゃったー」とか「ママーぞうきんないー?」など性懲りも無く忘れ物や忘れ物未遂を繰り返し、「なんですぐ言わないの!」という定型句を総身に受け続けてきたが、結局和子のその言葉を聞き入れて、「すぐに言う」ことはなかった。

 それどころか、高校になった今は時間にもルーズになっている。もっぱら朝のショートホームルームが始まるチャイムが鳴り終わる三秒前に教室に滑り込む毎日である。


「咲っていつもギリギリだよね?」

 とある昼休み。お弁当を食べながら喋っていると一緒に食べていた三央が言った。

おかずを口に運ぶ手を止める。

「まあ、それほどでも?」

「いや、褒めてないから。クレヨンしんちゃんか」

「めんご~めんご~」

「なんでそんなにギリギリなのよ?」

「え、むしろこっちが聞きたいよ。なんでいつもギリギリじゃないの?」

 三央が絶句した。

一緒にお弁当を食べていた佳奈も失笑する。

「いつも自然とギリギリになっちゃうんだよねぇ」

 嘆息しつつ、弁当箱の玉子焼きに手を伸ばす咲。三央が言った。

「そんなのこのくらいの時間に家を出ればこれくらいに着くって分かるから。八時十五分までに教室に着いてればいいだけじゃん」

「そうなんだけど。できないんだなぁそれが。なかなか」

「なんで」

「これくらいに家を出たいなぁって時間が合ってもテレビ見たり、スマホ触ったりしてたら気づいたらその時間が過ぎてる」

 ああ、と三央が、呆れとも嘆息ともつかない声を吐く。

「それならさ、余裕持たせれば良いんじゃない?」と佳奈が別のアプローチを提案した。

「余裕?」

「そう。学校までいつもだいたい十五分で着くなら、思い切って三十分前に家を出るようにしておく。そうすればついうっかり十分テレビ見ちゃってもたいてい間に合うでしょう」

「あーなるほどその発想ね。それは考えたことなかったわ。逆ならよくやるんだけど」

「逆?」

「そう。学校までいつもだいたい十五分でつくとして、チャリで本気出せば十分で着くから十分で計画する」

 その発言に即座に友人二人から非難の声があった。

「ダメだよそれじゃ」「てかそれが遅刻する原因だろ」

 三央はやっぱり咲だなぁ、という表現を用いた後、お弁当の生姜焼きを一切れ口に入れて、賞味し、飲み下す。三央の弁当は陸上部の練習までスタミナが持つように肉肉しいおかずが多い。まるで男子の弁当である。

 佳奈が言った。

「それ信号ツいてなかったら遅刻するでしょ?」

「する」

「だろうね」

「でもさ、佳奈はバス通だから分かんないと思うけどさ、自転車だと無限の可能性あるよ?」

「ないよ」

「あるんだってば」

調子良いとき五分くらいで着くときあるもん。そう口を尖らせる咲に、佳奈が言う。

「なんか咲の遅刻の原因はそのメンタルな気がしてきた。ギリギリでいつも生きてたいみたいな」

「別にそういうわけじゃないんだけどね……単純に勉強が嫌いすぎて、体が学校を拒絶しているだけなのかも」

「それだ。それしかない」と三央。

「じゃあさ、学校以外の待ち合わせとかは遅刻しないの?」

「する」

「するんかい」「やっぱだめじゃん」

「あ、でも理由が違う。友達の待ち合わせに遅れるときは、いつも場所を間違える」

「駅のスタバ集合だと思ったら町のスタバだったみたいな?」

「そう」

「それはもう遅刻以前の問題だね」「それは間に合わないね」と三央と佳奈が頷き合う。

 咲は水筒からお茶を注いで一口飲みこんだ後、言った。

「間に合うこともあるよ」

即座に「また自転車で本気出すと、でしょ?」と佳奈が笑う。それに対して咲が首を横に振った。

「違う違う。この前土曜日に部活の練習試合があってさ、八時に駅の改札前集合だと思って自転車で行ったら、駅の改札に誰もいないの。うわー学校集合だったーって思って」

「超焦るやつじゃん」

「でしょ? で、死ぬ気で自転車こいで、なんと奇跡的に七時五十五分に学校に着いたの」

「五分前だ」

「そう。間に合ったと思ったらね、……いないの誰も」

「ええ? どいうこと?」

 咲は語る前に破顔すると、告げた。

「学校じゃなかったんだ。集合場所。私はてっきり駅じゃなかったから学校だと思い込んでて」

「「えー」」

 周りの男子がびっくりするほどのボリュームで、三央と佳奈が声を上げる。

 三央も佳奈も口を半分開けたまま、目は笑っている。

「つまり、二回集合場所を間違えたってことか? すごいな咲はやっぱり。モノが違うわ」

「で、どこが正解の集合場所だったの?」

「練習試合相手の学校」

「それどこなの?」

「清水の、電車で三十分かかる駅の高校」

 清水は静岡の隣町である。

「うわ、絶対間に合わないじゃん。だってもう駅から学校来てんだから」

「そう。で、さらに最悪なことに、スマホ家に忘れてたんだよね。財布は持ってたけど。だから遅刻の連絡もできない」

「ヤバ」「詰んだな」

「うん。でもとにかく少しでも早く合流しないとまずいでしょ」

「そりゃあね」

「だからすぐに学校から自転車こいで、また来た道を必死で駅まで戻ったわけ。悲しかったなあの時の道のり」

「で、駅の駐輪場に自転車を入れて電車に飛び乗ったと?」

「そう。電車に揺られること三十分後」

「もう絶対練習試合始まってるね」

「前に練習試合で行ったことある学校だったから降りる駅は分かったけど、そこから相手の学校までは道覚えてないの」

「スマホもないしね」

「そう。それで駅員さんに学校の場所を聞いて、その方角目指して走っていったらそれっぽい建物が見えてきた」

「よかったよかった」

「あ、あれだって思ってダッシュしたの」

「うんうん」

「みんなになんて言って謝ろうかって考えながら必死に走った」

「うんうん」

「そしたら間に合ったの」

「……え?」と三央が動画の一時停止ボタンを押したように静止する。

「なにに間に合ったの?」と佳奈が三秒後に尋ねる。

「部活の集合時間」

「へ??」

 三央も佳奈も理解不能な表情を浮かべている。三央が言った。

「え、もしかして、必死でダッシュしたら時空を飛び越えてしまった、的な? 時をかける少女的な?」

 咲ははははと笑った。

「そんなわけないじゃん。三央はバカだなぁ」

 三央は必死で「お前だけには言われてくない」という言葉をぐっと飲み込んだ。

佳奈が言う。

「だって、七時五十五分に学校を出て、駅まで戻って、三十分電車に乗って、そこから走って相手の学校まで行って……絶対八時超えてるよ?」

「うん、集合時間、九時だった」

「…………」

 佳奈と三央が二の句を告げない。咲は「ミラクルでしょ?」と一人でお弁当の残りのおかずを片付けながら苦笑している。

「……咲さ、」と三央が呟いた。

「うん?」と咲がアスパラのベーコン巻を咀嚼しながら顔を上げる。

「あんた、斜め上行きすぎ」



 何もない休日


 その日、朝起きると家には誰もいなかった。

 まだうつろな意識のまま、悟はリビングに向かう。リビングの掛け時計は相変わらず十分進んでいて、誰も直そうとしないため午前十一時五分を指しているが、本当の時刻は十時五十五分である。昨夜、悟は金曜日だからと夜更かししてアマゾンプライムビデオの映画をスマホで視聴していたため、就寝したのがたしか深夜の二時くらい。ということは約九時間寝たことになる。大きく伸びをして「うううーーー」と声を上げてみる。マンションの窓から見える遠くの山を見ながら、息を止めて、吐き出す。視線が下に下がると食卓テーブルの上にメモ用紙がある事に気づいた。

 近付いて読むと和子の字である。

「咲のバドの大会で藤枝まで行ってきます。パパは洗車と床屋と本屋です」

 なるほど。

 このメモから分かることは四つ。

一つは咲がバドミントンの大会で市外(藤枝)へ行っているということ。二つ目は咲が参加するバドの大会は県大会以上の大きな大会であろうということ。三つ目は県大会なら和子が送迎だけでなく応援までしてくる可能性が高いということ。そして最後に忠が休日を満喫しているということ。

県大会以上の大会、と悟が思ったのは、市大会の場合、県庁の近くに位置する市民体育館があり、ほとんどの室内種目の大会はそこで行われるからである。そして送迎だけでない、と判断できるのは静岡から藤枝までの距離にある。正確な距離を知らないが、なんとなく遠いというイメージがある。車で一時間くらいだろうか。となると往復で二時間。行きで送っていって帰りに別の父兄が迎えに行く、ということを和子はなんとなく遠慮する気がした。「どうせ暇だから私が帰りまでいて送り届けますよ」と言いそうだと思ったのだ。いずれにせよこのメモから分かる一番大切なこと。それは数時間の間、この家には悟以外誰もないということである。

「よし」という言葉が口をついて出た。気づけば右手の拳がガッツポーズを作っている。普段は咲に占拠されているリビングやテレビを自分の思うままに使えるというのは悟には胸がすく思いである。

 とりあえずお腹が空いているので、冷蔵庫の中を覗いてみる。十センチ角に四角く切ったサンドイッチがお皿に四枚ぽつんと乗っている。具材はレタスとハム、たまごといちごジャム。おそらく咲の昼の弁当のあまりだろう。冷蔵庫内を見回してもその他にすぐに食べられそうな食料が見つからない。仕方ないのでそのサンドイッチの皿を取り出す。近くに常温で保存されていたバナナの房から一本を取って皿の余ったスペースにそのまま置く。食べ物はこれでよし。さて、飲み物はといえば、いつもならオレンジジュースだが、今日はなんとなく贅沢で大人な雰囲気を味わいたい気分だった。悟は予め水が入っていた電気ケトルのスイッチを入れると、シンクの真上に位置する戸棚の戸を背伸びして開ける。そこにはコーヒーや紅茶など高温多湿を避ける系のものたちがごちゃごちゃと保管されており、悟はブラックコーヒーが飲めないので、紅茶のティーパックを黄色いリプトンの箱ごと取り出した。ティーパックを一つつまみ出すと本体から紐を剥がしマグカップに入れて、お湯を注ぐ。透明のお湯がティーパックを動かすことによって徐々に琥珀色に染まっていく。白い湯気とともに紅茶の香りがキッチンに広がった。良い香りである。これだけで悟の休日の充実度が少し上がった気がした。

 サンドイッチの皿と紅茶のマグカップを持ってリビングへ行く。丸山家のリビングはテーブルと椅子の洋式ではなく食卓と座布団の和式である。咲がいつも陣取っている一番テレビが見やすい位置にどっかりと腰をおろす。これだけで咲に勝った優越感を覚える。テレビをつけるが、休日の十一時は悟の感興を催すような番組が放送されていなかったため、仕方なくまたアマゾンプライムビデオをテレビで視聴することにした。リモコンに専用のボタンが付いているためボタンを押すだけで勝手にアマゾンのロゴがテレビ画面に浮かび、悟の一生をかけても視聴しきれないであろう数の映像作品が並ぶ。リモコンの上下左右ボタンを操作して、毎週見ているアニメの最新話を探して流した。サンドイッチをもぐもぐと食べながら見終えると、時刻は十二時になっている。

ぐるりとラグの上を横転して近くに置いておいたスマホのロックを解錠すると、ユーチューブのアプリを立ち上げた。アマゾン同様ユーチューブはテレビでも視聴できるが、テレビのリモコンだと視聴したいコンテンツの検索を図書館の書籍検索みたいな五十音表でやらなくてはならず、「あれ、正しく入力しているのに、検索にでてこないな」と思っていると、一番最初の字の濁点が抜けていたりしてすこぶる面倒くさい。スマホでAIがおすすめしてくる動画を見ていると、特に何を見たというのでもないのに、時間はどんどん過ぎ去るものである。午後一時三十分を回り、動画にも飽きた悟が漫画でも読むか、と部屋に戻るべく立ち上がった時。ふとベランダから見える外の景色に目が行った。

丸山家はマンションの八階なのでそれなりに市街地を眺望することができる。ベランダは南向きなので富士山は見えないが、ここから見える景色には雲一つ無い青空が広がっていた。ベランダの扉を開けると、外は風のない穏やかな気候である。

 悟は考えた。せっかくこんなにいい天気なのに一日家にいるのは非常にもったいないのではないか、と。家を占拠できるチャンスではあるが、考えてみれば特にやることがないのでつまらなくもなっていたところである。「よし」と悟は決心の声をあげた。

 出かけよう。

 ジーパンとトレーナーという服装になった悟は十分後にはマンションの駐輪場にいた。

初夏の風が心地良い。自転車の鍵を解錠し、サドルに跨がる。さてどこに行こうかと思案した。ただぶらぶらと行く当てもなく自転車を走らせるのもいいけれど、せっかくなので目的地を決めようと思う。と言っても中学生の悟の行動範囲は学校を除けば家から程近い市立図書館とその先にあるアピタのみであり、三点を結べばほぼ一直線である。つまりこの一直線以外は悟にとって未知の領域である。大人であれば時間がたっぷりある休日に天気が良いから出かけてみようとなった場合、どこか未踏の地を探索してみようというような気分になるが、中学二年生の悟からするとその冒険には怖さがある。所持金も千円弱しか持っていない。それに悟は好奇心に駆られて行動するようなタイプではなかった。つまり自転車は図書館へと向かったのである。

 丸山家から自転車で十分ほど野市にある図書館は市内に四つある市立図書館のうちの一つである。悟が小学生の頃、和子がPTAで学校の子どもたちに絵本の読み聞かせボランティアをやっていた。その絵本をこの図書館で借りており、悟もよく和子に着いていった記憶がある。悟自身、読書はするが、読む量は人並みである。忠のように書店に行って本を買っったり、学校の図書室で何十冊も本を借りて読んだりする子どもではないが、悟は図書館という場所が好きだった。天国とすら思っていた。なぜか。社交性に欠ける悟にとって、会話をしなくてもいい、もしくはしないことを推奨される空間はこの地球上において図書館だけだからである。静謐を旨とする図書館において唯一のコミュニケーションといえば本の貸し借りだけであり、それも本を借りなければ発生しない。つまり本を借りさえなければ図書館とは、非社交的な人間にとって至福の空間なのである。至福の空間で至福の時を過ごすべく、悟は月に一回のペースで市立図書館を訪れている。

 自転車を自転車置き場に止めて、図書館の自動ドアを通る。おそらく悟が生まれる前からここにあったであろう市民図書館はどうしても冷たい印象を与える御影石のピカピカした

外装に、学校の教室のようなベージュ系の内装、子ども用の足が低い椅子や机は一時代前の作りではあるものの、館内に設置されているパソコンや棚は悟が知っているだけでも数回マイナーチェンジをしている。昔は入り口付近に設置されているデスクトップ型パソコンからやっていた書籍の予約もスマホの普及によって自宅で簡単にできるようになった。入り口を入ってすぐに貸し借りを行う大きなカウンターがあり、「かりるところ」「かえすところ」とひらがなで書かれている。お母さんと五歳くらいの女の子が一緒に絵本を借りようとしている姿を入り口からなんとなく眺める。微笑ましい光景である。

 相変わらず埃っぽいにおいのする館内の空気を掻き分けるように歩を進めると、年齢層が急に上がる新聞・雑誌コーナーにたどり着く。ご老人の海を抜け、雑誌の棚からアニメ雑誌を引き出す。学校の図書室もそうだが、意外なことに漫画やアニメやライトノベル関連の書籍の貸し出しがある。ポップであってもカルチャーには変わりないということだろうか。悟の級友が学校の図書館に『涼宮ハルヒの憂鬱』が蔵書されていることを知り、ハルヒがアリならと、肌の露出面積の大きい表紙のライトノベルをリクエストしたところ校内放送で教頭に呼び出されたのは有名な話である。

 長椅子に座りながら雑誌のページをめくる。周りにはこくりこくりと船をこぐ老人ばかり。悠久の時間である。

 満足の面持ちで雑誌を読み終え、館内をぐるりと無闇に一周してから悟は図書館を後にした。雰囲気を十分味わったからである。時刻は二時半。次は近くにあるアピタへ行く。

 アピタとはこの地域一体の中学生以下の子ども、その子どもを持つ親に愛された総合スーパーである。「やることのない休日、全ての道はアピタに通ずる」と言われるほどアピタの人気は高い。その理由は黄色い「m」のマークの某有名ハンバーガーチェーンや同じく「m」のドーナツチェーンを擁するフードコート、緑色のファミリーレストラン、星の名を冠する外資系喫茶店、ユニークなクロージングを販売する某衣料品店と青と黄色いロゴのその姉妹店、ピンク色の百円ショップ、ローカルチェーンの本屋、アーケードゲームコーナー、おもちゃコーナー、食品スーパー、パン屋などなどが揃っておりワンストップで買い物を楽しむことができるからである。併設する建物には三フロアのスポーツ用品店とゴルフショップがあり、地域のお父さんは月に一度は必ず訪れると言われている。

 悟はおもちゃコーナーにある家庭用ゲーム機のハードやソフトを眺めた。丸山家はゲーム禁止の家庭なので、この手のものは手に入らないが、悟は自分が将来大学生になったらアルバイトをして、ゲームを買ってみたいと思っている。そのときに買うべきゲームソフトを今からじっくりとリストアップしておかなければならない。入念に調べを進めるも、先週も学校の友達と来ていたためとりわけ目新しいゲームは見あたらなかった。ゲームソフトは週刊誌のようにコロコロとラインナップが変わるわけではない。エスカレーターで二階に上がると二階は衣料品が多くの面積を占めている。悟は洋服にあまり興味が無く、服も和子が買ってくるものを文句も言わず着ている。今着ているトレーナーもここで購入したものである。その先に一般的なコンビニくらいの面積の本屋さんがある。悟はここでよく漫画を買う。雑誌と漫画と小説の新刊や流行の作家の品揃えしかない本屋ではあるが、悟はこのコンパクトにまとまった感じが好きであった。悟が読んでいる少年ジャンプの単行本の新刊が出ているので購入する。以前は週刊ジャンプの雑誌も毎週コンビニで買っていたが、どの教科書や参考書よりもデカいサイズの雑誌が毎週毎週、部屋に積み上がり、このままではジャンプで机ができあがってしまうというくらいまでなってから購入を断念した。結局古紙回収に出すのだが紙紐で縛ってマンションの一階に持って行くその作業もなかなか大変なのである。

 書店のとなりにはアーケードゲームのコーナーがある。太鼓の達人をその名の通り「太鼓の達人レベル」でプレイする大学生くらいのお兄さんのプレイを斜め後ろから眺めたり、コインゲームに興じる子どもやおじさんを見たりする。アピタのゲームコーナーには無いが、ラウンドワンなどの大型ゲームセンターに足を運ぶと意外と高齢者がコインゲームで遊んでいる姿を見かける。それが本物のお金ではないと分かっていても、コインを手に入れることによる喜びは他に代えがたいということか。そういう老人はたいてい自前の手袋を使い、黙々とプレイしてコインを荒稼ぎしている点において興味深い。

せっかくやってきたので悟もユーフォーキャッチャーをやることにした。

さきほど購入した漫画のキャラクターのぬいぐるみを見つけたので、その台に決める。筐体に百円を投入してボタンを押すとテラテラテラテラリ~とリズムよく音楽が流れ出した。スティックを動かして狙いを定める。ここだ、とおもったところでまたボタンを押す。アームがぬいぐるみに向かって降下していきそれを掴む。持ち上げる。しかし、もう少しで獲得できそうなところで無情にもぬいぐるみは落下した。

「くそ」

 その後何度か挑戦してみたが、中途半端なところで落ちたぬいぐるみの獲得は難易度が格段に上がっており、普通のこどもなら店員さんに元の位置にもどしてもらうものだが、悟は声をかける勇気が無かったため五百円を失うことになってしまった。こういうものは千円くらいかけてとったところで実際に買った方が安く済むようになってるんだ。そうだそのとおりだ、と自分に言い聞かせ、納得した悟は漫画の購入代金と合わせて財布が底をついたのを潮にゲームコーナーに別れを告げた。

 スマホで時刻を確認する。午後四時半。そのまま帰宅すると夕食には少し早い。フードコートで漫画の新刊を読んでもよかったが、正直週刊誌の方で先を読んでいるのですぐに読みたいとは思わなかった。漫画の単行本は何かにつけて読み返すために存在するものである。ということでお金がないのでアピタを出た悟は、夕暮れの下、自転車でぷらぷらと学校の方面に向かった。特に目的があったわけではない。家と図書館とアピタを除けば悟が土地勘がある場所が学校方面しかなかったからである。

 こんな時間にアピタから学校に向かうのは初めてで、普段は通らない道や場所はなんとなく心細い気持ちがする。もしここで交通事故に遭ったら誰にも顧みられず、助けられずに死んでしまうのではないかという妄想が悟の頭をよぎった。

悟はたまにふと意味も無く自分が死んだらどうなるのだろうと想像することがある。家族は悲しむだろう。数少ない悟の友達やクラスメイトだって泣きながら、「あのときもう少し丸山君と仲良くしてやれば良かったかも」と思うかもしれない。普段から周りに注目されることがない人間が死んで初めて注目されるなんてことは寂しく、皮肉である。

見慣れた学校のグラウンドや校舎が見えてくるとそんな気持ちも雲散霧消して、安心に変わった。日曜日でもどこか熱心な部活はグラウンドや体育館で練習をしているのではないかと思い、悟は正門付近から校内を覗いてみたが活動を行っている部はなく、見えたのはなぜか休日にいる教頭が学校の植木に水やりをしている光景だけであった。正門付近にかけられた時計が午後五時という正確な時刻を指し示している。気づけばアピタを出た時より夕暮れの色は濃くなり、正門付近で自転車とともに立ち並んでいる悟を優しく照らしている。

「帰るか」

 呟いて、いつもの下校路につく。見慣れた道にはやっぱり安心感があった。マンションの駐輪場に自転車を止めて、エレベーターで八階に上がる。家には忠が帰っていた。

「ただいま」と言うと、忠の「おかえり」が返ってくる。するとすぐに後ろからマンションを廊下を笑いながら歩く和子と咲の声が聞こえてきた。悟がリビングに移動すると果たして数秒後に二人が家の扉を開ける音がした。

「あー疲れたぁ。シャワー」と咲が風呂場に飛び込む。和子が「ただいま」というとまた忠が「おかえり」という。

「大会はどうだったんだ」と忠が聞く。

「五位入賞。すごいでしょう。応援したかいがあったわ」

「すごいな」

「今日のご飯は焼き肉にしましょう」

和子が決めて準備に取りかかる。

「咲の健闘をたたえて焼き肉か、いいな」

珍しく忠がキッチンで準備に加わった。



 弁当屋のトラブル


 和子はローカル弁当チェーンでパートタイムのアルバイトをしている。

 お店の営業時間は午前十時から午後十時までの十二時間であり、準備と片付けがあるのでシフトは朝の九時から夜の十一時まである。和子は家事があるため二人が学校に向かったあとの午前九時から夕食に間に合う午後四時までのシフトで勤務している。お店ができたときからのオープンスタッフであり、かれこれもう二年ほどになる。それまで小さな印刷会社で庶務のパートをしていたが、会社の経営が傾き和子のポジションが廃止、つまりクビになったのが三年前。結婚前からずっと事務の仕事をしており、いくつか資格も有していたためパートといえば同じような事務仕事を選んできたが、主婦として毎日料理もしているし、調理は難なくこなすことができる。このスキルを使ってもいいのではないかと思い、時給も割と良いこの弁当チェーンに応募したところ採用となった次第である。この店の通りを挟んで向こう側にもライバルチェーンの弁当屋があったが、こちらの方が新しくキレイであったためこの店に応募した。働き始めた当初は想像以上に体を使う仕事だということが判明し、以前のデスクに張り付いてパソコンのキーを叩いたり、気まぐれに部長にお茶を出しに行ったりすればよかった仕事と比較するとそのギャップに大いに苦しんだ和子であるが、徐々に重たい中華鍋を片手で回したり、約三升の米を専用のガス炊飯器で炊いたあと、特大しゃもじで炊きむらをなくしたりすることもできるようになった。十時から営業をスタートする弁当屋のピークは当然お昼と夕方であり、昼は外回りのサラリーマンが中心になる。和子の勤める店舗は住宅街に立地しているため、昼はそこまで忙しくない。日によっては十二時台の一番忙しい時間にお客さまが数名の時もあり、これでお店は大丈夫かしら、もしかして向こうのライバル店にお客様を取られてるじゃないかしらと心配になったりもしたが、店長(三十八歳独身・基本午後一時からクローズまで勤務)いはく「夜はお客さんそこそこ来るから大丈夫ですよ」とのことであった。

 今日もお客様がさっそく来店してきた。

 二十代の若奥様パート、南澤さんがレジに向かう。和子が勤めるチェーン店はキッチンとレジを両方やらなくてはならない。大体はいつも南澤さんが対応してくれる。若い女性の方が男性客のウケも良いのだ。四十五の和子や既に喜寿を迎えたベテランシニアの三島さんだとやはり客が付かない。逆にキッチンは和子たちの方が手際が良いので適材適所と言えるだろう。亀の甲よりなんとやら。

「オーダー。野菜炒め一丁、からあげ一丁」

 南澤さんがレジに備え付けられたマイクに向かって声を発すると、キッチンに設置されたスピーカーからその声が流れてこちらに注文内容が伝わる。「野菜炒め一丁、唐揚げ一丁」と和子と三島さんが復唱すると和子は一升は入っているご飯の保温器(たまにホテルのビュッフェバイキングとかにある巨大炊飯ジャー)から通常サイズのしゃもじで定められた量のごはんを掬い取り、容器に入れる。すぐそばに電子計量器があるが、半年くらい勤めたあたりからなんとなく手の感覚でこれくらいと分かるようになった。店が込んでいないときは確認のためしっかりと計量する。今回もぴったりである。それを二つ作り、予め上げて保温器の中で温められてある唐揚げを四つ、おかず容器に入れる。唐揚げ弁当はそれで完成。おかず容器にはミックスサラダとお漬物を入れるが、唐揚げ同様にこちらも予め準備しておくことでスムーズに提供することができる。たまに唐揚げ弁当三丁、とか予期しない量の注文を受けるときもあり、そうなると唐揚げを新しく揚げるため五分ほどの時間がかかる。

三島さんの担当する「焼き場」を見る。三島さんは熟練の身のこなしで焼き肉弁当や野菜炒めとか、中華鍋とガスコンロを使用するメニューを捌いていた。洗い物も同時にしないとならないため、もっとも体力が必要なポジションであるが、三島さんは苦も無く洗練された動作で中華鍋に油を入れ、解凍済みの個装された豚肉を開け入れて、焼き、必要な野菜を入れると最後に特製タレを入れて野菜炒めを作り上げる。専用の容器に入れて蓋がされたものを三島さんがこちらに持ってくる。ソースの匂いが漏れ出て、お昼を食べていない和子の食欲を刺激する。それを先ほどのご飯と輪ゴムで止め合わせてカウンターに出す。それを南澤さんが受け取って「お待たせいたしました。番号札三十番でお待ちのお客様~」と提供する。

こんな流れで永遠にお弁当を生産し続けるのが和子たちの仕事であった。揚げおき、つまり予め多めに揚げておいた揚げ物がなくなり、「揚げ場」担当の人がその場で揚げなくてはならないときはレジを受けた人がアルコール消毒と衛生手袋を装着し直して「ごはん」をよそう係につく。つまり三人いればレジとキッチンの仕事は回すことができるということになる。店長クラスになるとこれをワンオペ(ワンオペレーションの略。一人で全ての仕事を行う地獄の時間)で行うからすごい。和子は一度だけ退勤間際、夕方からシフトに入る大学生の清水君が急性胃腸炎で出勤できず、店長のワンオペ作業を見たことがあるが、自分で注文を受け、その注文を一人で作りあげてお客さまに手渡す様は電光石火の早業であり、その姿はまるで何かの見世物のような芸術性を帯びていたように記憶している。もし自分があのような状況に追い込まれたら、頭がパンクして卒倒するだろうなと和子は思った。

 朝から夕方までのシフトは私と三島さん、南澤さん、店長、それからもう一人週二回だけは栗田さんという和子と南澤三の中間くらいの歳の主婦の五人のメンバーで回していた。

 しかしある日、その店長が風邪で倒れたと昼勤務のLINEグループで連絡があったのだ。

「すみません、皆さん。昼は三人揃っているので大丈夫なのですが、夜が普段は僕ががっつりシフトに入っているので足りません。夕勤シフトの人たちに声をかけてみたんですが、明日だけどうしてもシフトが埋まらなくて、どなたか夜の時間入れる方いませんか?」

 飲食業の店長の勤務状況というのは往々にして厳しいものであり、ひどいときはまだ三十五歳の店長が一日に四本のリポビタンDを胃袋に流し込みながら過労死寸前と思われる状況で店を回している。それを知っている和子は店長を不憫に思い、「私出ましょうか?」と名乗りを上げたのであった。

 しかし後に振り返ると、その立候補には後悔しか残らない。せめてもう一人他の昼勤スタッフと一緒に入るべきであった。これはそういう類いの話である。


 その日、栗田さんが無理をして普段は入っていない日の昼勤務を和子と変わってくれたため、和子は家族の夕食を作り置きし、和子自身も簡単に食べてから夜シフトの仕事に向かった。普段は夕飯を作るのが面倒な時、パート先の弁当屋で帰り際に自分で好きな弁当を作り、従業員割で安く購入して帰るが、今日はその逆といった所である。 

いつもは退勤する時間帯にママチャリをこいで職場に向かう。足取りは重たかった。

 やはり一度も夕方のシフトに入ったことがないということが和子にとって大きな不安要素である。店長は「夕方の方がちょっと忙しいかな」というような軽い物言いであったたが、それは一人で全てをこなせるレベルの店長から見た話であり、田舎の人に「すぐ着くよ」といったら実際には一時間くらいかかったというように一般人からしたらとても大変な作業量である可能性を和子は危惧していた。

 人類未踏の地に臨む探検隊員の心持ちで和子は入店した。昼のメンバーと引継ぎを済ませると、夕勤メンバーがやってくる。はじめましてと挨拶を済ませるとさっそく持ち場をきめる。次の通りに決まった。

 レジ・ごはん=佐藤さん。大学学生。二十歳の女の子。

愛想も手際もよく、地元の国立大学に通っている賢い女子大生。ずっと水泳をやってきたためか肩幅が広いことがコンプレックスなのだと彼女が前に一度だけ昼のシフトに入った時に話した記憶がある。

 焼き場=牧さん。三十七歳男性。独身。基本無口。引きこもりからの社会復帰のため弁当屋でアルバイトとして働く。体型は小太りで服装もだぼだぼの小汚い服ばかり着ているが、童顔で純粋な子供のような目をしている。どういう経緯で引きこもりになったかは不明であるが、本人は真剣に弁当屋の仕事に励んでおり、将来は定職に就きたいと思っている。

 揚げ場=和子。パート歴二年。主婦歴十五年のキャリアで未体験の夜勤務に臨む四十五歳。

 制服姿でエプロンを付ける。髪の毛が混入しないように専用のネットで頭部をまとめ、紙製の帽子とマスクをつけて準備はオーケー。手洗いと消毒をしてから厨房に入る。

「今日一日だけだけど、改めてよろしくね」と挨拶をする和子。

「お願いします」と佐藤さんが元気よく挨拶を返してくれた。その笑顔に少し救われる。咲も佐藤さんくらいしっかりした子になってほしいと思う。牧さんは聞こえていなかったのか無視されたのか、洗い場で中華鍋を洗っている。悟はこうなってしまいそうで怖い。

 そこへいきなりお客様が三人、雪崩を打つように入店してきた。早速佐藤さんが対応する。

 ほどなく注文が入ってきた。

「オーダー入ります。特撰一丁」

 特撰? 特撰幕の内弁当か。

 特撰幕の内弁当とは、読んで字の如く幕の内弁当の中でも最高ランクの弁当である。おかずの品数も多く手がかかり、お昼の時間に注文が入ることはまずない商品だった。作り方がうろおぼえなので壁に貼られたマニュアルで確認しつつ作りながら、なるほどお昼と夜では客層が違うから注文される商品も変わってくるのかと和子は気づいた。これは大変なことになりそうだ。

 十七時からシフトに入り、一時間半はなんとかやりきり、夕方ピークなのでお客様は絶えないものの、これくらいならなんとか回せそうだなと思っていた時間帯だった。何事も油断は禁物である。

「オーダー入ります。特撰五丁」

「特撰五丁」と牧さんが驚きの口吻で復唱する。

 特撰五丁? オーダー表を見ると既に唐揚げ弁当とカツ丼と焼き肉弁当が入っている。その上に特撰五丁。

「ごめん、佐藤さん、十五分ほどお時間いただけるかな」

 和子の弁当チェーンではお客さまから注文を言われると、すぐにマイクで厨房に伝え、キッチンにいる従業員は時間がかかってしまう状況であればお会計を確定させる前にそれをレジの従業員に伝えるというシステムをとっていた。そうすれば後で「こんなに時間がかかるなんて聞いてない」というクレームを受けなくて済む。

佐藤さんがこちらを向いて「はい、分かりました」と返答し、くるりと振り返って「申し訳ございません。ただいま大変混み合っておりまして、十五分ほどお時間頂いてもよろしいでしょうか」と丁寧な言葉遣いで了承を取った。

 ありがとう佐藤さん。と心の中で呟き、からあげを揚げている時間でカツ丼を作り、その間に手が空いた佐藤さんに特撰幕の内弁当五丁の準備をして貰う。その時であった。

「あっ」と牧さんが低い声を発した。「肉が解凍されてない」

 その言葉に焼き場を見る和子。

 牧さんはまるで汚れを知らぬ少年のような目でこちらを見ていた。そのあたかも自分に非はありませんよとでも言いたげな目に和子は若干の怒りを覚えつつ、「一個もですか?」と聞く。「はい」と牧さん。

 焼き場で使う豚肉や牛肉は個包装されたものが段ボールに詰められ、冷凍の状態で店舗に納品される。それを店舗の冷凍庫で保管し、使用する前に使う分だけ冷蔵庫に移し替えて2時間くらいかけて解凍するのだが、その作業は基本的に昼のメンバーが行っていた。具体的に言えばいつもは和子の仕事なのだが、今日和子はこうして夜のシフトに入っており、代わりに入ってくれた栗原さんが肉の解凍を失念してしまったのだろう。無理を言って入ってもらっているので和子は栗原さんを責めきれないところがある。そもそも焼き場に一時過半もいて、解凍された肉が少ししかないのに気づかない牧さんも相当抜けている。しかしそんなことも言っていられないので、和子は冷凍庫から冷凍の牛肉を数袋取り出すとボウルにお湯をためてその中に袋ごとぶちこんだ。これでかちかちになっている肉を解凍するしかない。凍ったまま中華鍋に入れると水滴で油が跳ねるし、なにより味に影響がでてしまう。

 その余計な作業をしている間も、オーダーはたまっていく。佐藤さんが時間を多めにとってくれているが、特撰幕の内弁当を五つ作り終えたときには五人分の注文=時間にしてざっと三十分待ちになっていた。

 そこに年配の女性がやってくる。佐藤さんが相変わらず応対する。

「この、特撰幕の内弁当、六ついただけるかしら」

 厨房にいた和子と牧さんは慄然とした。特撰六丁。このタイミングで? 

 すぐにカウンターごしに佐藤さんに近寄る。

「すみません、今ちょっとトラブルで特撰六丁は三十分ほど時間かかります」

 これで特撰五丁から普通の幕の内弁当や比較的簡単に作れる「のり弁」六丁に変更してくれれば有り難かったのだが、年配のご婦人は「ええ、待ちますよ」と長期戦の構えを見せたため、再び厨房は戦場と化した。和子はここ数年で最も機敏に立ち回らざる得ない状況に陥った。今いるメンバーは大学生の佐藤さんと頼りにならない牧さんである。ここは自分がしっかりしなれければ。しかし頭の中で頑張ろうと思っても今年で四十五の身体は重たい。結局特撰六丁ができあがった時には、既に七人分の注文がオーダー表に貼り付けられていた。つまり、七人が店の中で待っている状態である。更に追い打ちを掛けるように途中で電話注文もかかってくる。電話注文は一時間後の受け取りであったものの、事前予約の電話注文は絶対に落とすことが許されないので時間通りに作れるかどうか確認していると、更に通常の注文がたまっていく。気づけば佐藤さんが「ただいま非常に、大変混み合っておりまして、今ですと五十分から六十分ほどお待ち頂くことになってしまいます」とまるでディズニーランドの従業員のような台詞を連呼していた。

流石にその時のお客さまは「それなら止めときます」と帰って行かれたが、夜ピークの恐ろしさをまざまざと見せつけられていると、最悪の事態が起きる。

 とんカツ弁当のカツを切ろうとした時だった。レジにいたと思っていた佐藤さんが和子の背後、すぐ後ろに立っていた。

「わ、どうしたの?」

「丸山さん、ヤバいです」

 佐藤さんは半泣きで「ごはんが、炊き上がるのに二十分かかります」と言った。

「え、ごはんが? なんで?」

「ごめんなさい、私が気が回らなくて、さっきごはんを炊くスイッチをいれるのが遅れてしまって」

「そっか……それはまずいねぇ……」

 三升分のご飯が炊ける巨大ガス炊飯器は蒸らしも合わせて五十分ほどかかり、寝かせる時間を省略しても四十分の時間がかかる。すでにお客様を二十分近く待たせており、この状況であと二十分の延長はクレーム案件であることはある程度この仕事をしていれば分かる。佐藤さんの半泣きはそれが理由であった。さしもの牧さんも「それはまずいですね」と真剣に焦りだした。

 新たなお客様がまたやってきて、佐藤さんがオーダーを接客に向かう。ご飯がなければ弁当は提供できない。おかずのみというメニューの提供はできるが、客が糖質制限ダイエットをしていない限り厳しい。しかし炊きあがるのを待っていては待ち時間が大台の九十分に乗ってしまい、冗談抜きでディズニーランドのアトラクションである。

 どうしよう。どうしよう。

 糖質制限か、ディズニーランドか。いや、違う違う。

 和子の脳内もだいぶパニックになっていた。その時だった。天啓が下りた。

 和子は佐藤さんにあることを頼んだ。

 佐藤さんが「え、」と一度驚いてから、しかし他に方法がないと察したのだろう。「分かりました」と神妙に頷いて、エプロンと帽子を脱ぐと弁当屋の制服シャツの上からパーカーを来て店を飛び出した。牧さんが「どこかへ逃げたんですか?」と野太い声でごにょごにょ言っているのを半ば無視しながらオーダーを捌いていると、数分後佐藤さんが店に戻ってきた。

厨房に駆け込んでくる。

「買えた?」

「買えました!」

「よかった!」

「はい、ほんとによかってです」

佐藤さんは安堵の表情を浮かべる。両手にライバルチェーンのビニール袋を提げて。

 和子は佐藤さんに、店の向かいにあるライバルチェーンの弁当屋で「ごはんのみ」を購入してきてもらったのである。和子の弁当屋にもある「おかずのみ」「ごはんのみ」というメニューがライバルチェーンにもあると踏んだ和子の名推理であった。

しかし喜んでいる暇はない。

袋からごはんを取り出して、容器を開け、しゃもじで丁寧に救うと当店のご飯容器に移し替える。

「これで!」

「はい!」

 佐藤さんは再び半泣きでお客さまに弁当を渡した。客はなんのことかさっぱり分からないまま、お弁当を受け取って帰って行く。もし客の中にお米マイスターがいればこれはこのチェーンのお米ではないことが分かってしまうが、その確率は低そうであった。

 その後、ご飯は無事に炊き上がり、ピークが下火になるにつれ、お客さまの待ち時間も減っていった。和子達は嵐のような夜ピークを乗り切ったのである。

退勤後、三人は困難を乗り越えた達成感と充足感から互いを大いに讃え合った。

「やりましたね、丸山さん!」

「そうね、佐藤さん、牧さんも」

「はい。良い経験になりました」

三人の間にはいつしか言い知れぬ絆が生まれていたのである。

「また、夜のシフト入って下さいね!」

 佐藤さんが子猫のような笑顔を浮かべる。

「そうね、また」

 和子も力強く頷いたが、内心では二度と入るかと思っていた。


 

 咲、バドミントン部にした理由


 中学の友達、薫(かおり)と杏那(あんな)とは高校が別になった今でもLINEのグループやインスタの相互フォローで繋がっており、休みの日にカラオケに行ったり家に遊びに行ったりしている。

 今日は久しぶりに杏那の家にお邪魔している。

「何度来てもピンクだねぇ~」

 薫が杏那の部屋の頭がおかしくなるほどピンク色の壁紙に触れながら茶化すように言った。

「目立つでしょう?」

「目立つっていうかもはや洗脳されそう」

「え~可愛いじゃん」

杏那は小さい頃からピンク色が好きな子で、初めて会った中学校一年生の頃からハンカチや筆記用具、指定バッグのキーホルダーに至るまで全てピンク色のものを所有しており、流石の咲も初めて会ったときはちょっと近付き難いと感じるほどであった。しかし話していくうちに性格は意外といいやつで咲にとってはクラスで最初に仲良くなった友達であり、その後二年生に進学して薫と合流し、卒業まで同じクラスだったことで今もこうしてよく一緒に遊んでいる。

「勉強机もピンク、テーブルもピンク、カーペットもピンク」と咲も久しぶりの友達の部屋の家具や絨毯を記憶の中のそれと比べるかのように逐一触れる。咲が初めて杏那の家に来たときはこの部屋に招じ入れられて開口一番「うわ」という声を発したのを覚えている。色鮮やかだが少しずつ異なる色のピンクで彩られた部屋に両の目をやられたのだ。

「そっか、二人とも久しぶりだもんね。毎日見てるとそのうち慣れるよ」

「いやぁ、どうだろ。ここに住む人の色覚が心配になるわ」と咲。

「あれ、前はバッグまでピンクじゃなかったっけ?」と薫が言った。

「お、よく気づいたね。高二でバッグが全ピンクはちょっとアレかなって思って、差し色ピンクに変えてみました」

「中二から変えとけ」

「彼氏は何も言わないわけ。杏那のピンクへの執着について」と咲が言った。

 杏那はピンクが似合うはっきりした顔立ちをしており、高校一年の夏から同じクラスの男子と付き合っている。頻繁にインスタにあげる二人の自撮り写真に「BooBoo」とブーイングマークのリプライを送りながらも羨んでいる咲と薫である。

「なーんにも。杏那は可愛いからOKだよって言ってくれる」

「彼氏共々変態か」と薫。

「えーなんでよー」と杏那が唇を尖らせる。

 今日杏那の部屋に久しぶりに集まったのは咲がインスタで部活の県大会で五位入賞を果たし、東海大会への切符を掴んだということをSNSで報告したところ、杏那が「お祝いしなくちゃ」とリプライし、それに「じゃあ、ケーキ」と咲が返すと「私はベイクドチーズケーキ」と薫が入ってきたためである。杏那のお母さんが気を利かせて本当にいちごのショートケーキとベイクドチーズケーキを近くのケーキ屋さんで買ってきてくれて、今、部屋のテーブルの上にアールグレイの紅茶と一緒に並んでいる。

 杏那が音頭を取る。

「では、咲の県大会五位入賞と、それから定期テストの赤点を祝して」

「いや、そこは県大会五位入賞だけで」と咲。

 咲は赤点を取ったこともSNSで報告していた。

 咲がイチゴのショートケーキにフォークを入れ、口に運ぶ。ホイップクリームの甘さにイチゴの酸味が加わり、美味しい。

「うーうまい!」と咲が思わず声を上げた。

「いやーでも凄いね咲は。県大会で五位でしょう?」と杏那がチーズケーキを賞味しながら咲を褒める上げる。

「コンビ組んでる子が凄いだけだって」

 バドミントンというのはシングルスとダブルスがあり、咲が入賞したのはダブルスの大会である。

「シングルスは出ないの?」とカオリンが尋ねる。

「うーん、出ないことはないけど、私はダブルス専門選手だから」

 中学の時に顧問の先生からお前はダブルスの方が良いプレーする、と太鼓判を押されてから咲はずっとダブルスで試合や大会を戦ってきた。単純にシングルスにもっと強い子がいて、その子を試合に出したい方便かも知れなかったが、真実は藪の中である。

「なにそれ、専門とかあるんだ」

「いや、本当はないんだけどさ。なんかダブルスの方が好きなんだよね」と咲は言った。

「あれでしょ、咲面倒くさがりだからもう一人の子にたくさん動いてもらって自分はおいしいところだけ持ってくんでしょ?」

「お、さすがカオリン、私のこと分かってる!」

「どうせ、そんなところだと思ったわぁ」

 薫の言う通り、面倒くさがりは大いに当たっていた。しかしそれ以上にやっぱりシングルスだと咲は調子が出ないことが多い。ただその理由を咲自身も分かっていないのであった。

 薫が杏那に尋ねる。

「杏那は? テニス部どうなの?」

 杏那は中学は軟式、高校に上がってからは硬式テニス部に所属している。

「ウインブルドン行けそう?」という薫の小ボケにツッコむかと思いきや、杏那は「私さ、テニス部やめたんだよね」と衝撃発言をした。

「えー」と驚く薫。「ウインブルドンって何?」と本気で天然でボケる咲を放置し、「なんで?」と詰め寄った。

「近い近い。えーなんか顧問と喧嘩して、もう辞めてやるって」

「へーそれってドラマチックなやつ?」

「全然。でもおかげで今は帰宅部だからたくさん遊べるよ」

 杏那はけろりとしているが、中学の頃から休日に遊ぶときも背中にラケットケースを背負って来て、「このあと自主練行くんだ」と言っていた杏那がテニス部を辞めたというのは咲と薫にとっては驚きだった。

「新しくなんか部活入るの?」

「うーん。入っても良いけど、途中から入るのも人間関係とか大変かなって」

「それなー」

「じゃあ、杏那もうちの高校でバド始めようよ」と咲が頓珍漢な提案する。

「なんで咲の学校? それにもうラケット競技はいいや」

「じゃあ、私と同じギター部やる?」

 薫は中学まで吹奏楽部でバイオリンを担当しており、高校からはギター部でエレキギターをかき鳴らしている。

「ギターは……大変そうだからヤだ」

 えーと唇を尖らせる薫。

杏那には正直やりたいことが無いらしい。「カオリンはなんで吹部とギター部なのよ」とケーキの最後の一切れをぺろりと平らげるとたずねた。

「私は小さい頃にピアノやってて、音楽好きだったからかなぁ。高校からはなんか違う楽器やってみたいなってなってギター部」

「はー、なるほどね」

 納得すると先の方を向く。

「咲はなんでバドミントン?」

「えー、私は特に理由なんてないよ」

「それもそうか」「咲だもんね」と簡単に引き下がった二人に「えーもうちょい粘ってもよくない?」と咲が笑う。「粘っても特に出ないじゃん咲は」「そんなことないよ」

 仕方ないな、というような顔で杏那がアナウンサーのように透明のマイクを咲に向ける。

「では丸山咲さん、あなたはどうしてバドミントン部に入部したんですか?」

 咲は腕組みして考える。

「うーん、文化部はダサいから先ず消去じゃん?」

「消去法?」と薫が笑う。

「え、だめ?」

「だめではないけど」

「運動部だけど、そこまで激しい運動じゃないやつがいいなって痛い怪我とかしたくないし」

「じゃあ、バレーとかバスケとか接触プレーがあるやるはダメだね」と杏那が言う。

「そう、たしか卓球かバドミントンか空手部に絞ったんだったな」

「空手? 中学の時に三人しか部員がいなかったあの空手部?」

 咲が頷く。「三人しかいないから、なんかもう割り切ってできるじゃん。これは技術を磨くんじゃなくて精神の修行だ! 的な」 

「ああ、まあ武道ってそういう側面あるっていうよね」と薫が苦笑する。

「友達がバドミントン入ったからじゃないの? 私はそれでテニスにしたもん」と杏那が言う。咲は四年前の記憶を思い出すべく「うーん」と唸った。あ、

「ちがうわ。だって、小学校の頃一番仲良かった春ちゃんが卓球部入ったもん。で、私も体験入部したんだ。だけどイマイチ面白くなくて入らなかった……気がする」

「へぇー」

「そうだよ。今から考えたら卓球のユニフォームってデザインがずば抜けてダサいから今なら絶対入らないけど、中一の当時はそんなこと気にしてないはずだもん」

「それならどしうして?」

「うーん。なんでだっけかなぁ……」

 しかし、結局咲は自分がどうしてバドミントン部に入部したのかを思い出せないまま、ケーキを食べ終え、紅茶を飲み終え、気づいたら話題は杏那と彼氏の話に移り、咲のバドミントンに決めた理由など忘却の彼方へと去っていた。

 杏那の家には午後五時までいた。

「じゃあ、またねー」「今度は既読スルーするなよー」「わかったってばー」

杏那が家の前まで送ってくれて、すぐのところで薫とも別方向になる。

「バイバイ~」「うん、またー」

 自転車のペダルを踏み込もうとすると、チノパンのポケットのスマホが振動した。自転車を止めて見ると部活の二年生LINEグループが動いている。咲の代は部員が七名しかいないからか、仲が良い。LINEをすると既読がすぐに六つ付く。沙亜子(さあこ)がエジプトのスフィンクスの全形写真を上げて、「理科のアイコに激似」とメッセージを送っている。

 思わず吹き出す咲。

理科のアイコとは咲の高校で理科を教える教師である。ファーストネームが愛するに子と書いて愛子。生徒からは親しみを込めて「アイコ、アイコ」と呼ばれている。理科の実験なんてほとんどしないくせに授業中には科学者然とした白衣をいつも着ている。

「たしかに。似てる……あごのしゃくれ具合とか特に」

 すぐに『アイコじゃん』『いや下半身もアイコ』『いや下半身はライオンらしいよ』『私たちもしかしてエジプトのキメラに理科教わってた?』などなど八人のメンバーがいる二年LINEが騒ぎ出す。咲も『肌あれ具合が冬のアイコ』と送って賛同を得た。

 ひとしきり笑って、まだちょっとお腹が痛いまま自転車をこぐ。マンションに着くとエレベーターホールで知らないおじさんと鉢合わせた。「こんばんは」と咲が声をかけると「こんばんは」と振り返ってきたおじさんのアゴがしゃくれており、咲は再び先程の写真を思い出してぶっ、と吹き出してしまった。「人の顔を見て吹き出すとはな」と怒り出すようなタイプのおじさんではなかったのは幸いであった。代わりに「大丈夫?」と不思議そうな表情で咲を窺う。

「あ、大丈夫です。ちょっと風邪気味で」と軽快な嘘をつき、一緒にエレベーターに乗り、その間も笑いを必死で堪えながら、八階で「さよなら~」と言い捨てて下りた。

ああ、危なかったと思う咲。

 急いでスマホを取り出して『いま、マンションであったオッサンもしゃくれてて』と打ち込みながら、咲の足がふと止まる。

思い出したのである。なんでバドミントン部に決めたのかを。

 中学一年の部活見学の時、バドミントン部でダブルスの試合を見た。夕陽を湛えた体育館。前衛と後衛に並んだ四人の選手たち。きゅっ、きゅっ、と音を立てて弾ませるステップ。厳しいところに落ちそうになったシャトルが、ギリギリで体育館の天井に向けて打ち上がった。それを捉えた相手選手が落下点に入る。僅かに上がった片手と上向いた身体。次の瞬間、パチン。凄い音がして、打ち込まれたシャトルは相手コートに落ちた。

「はやっ」「すごーい」「バドミントンのスマッシュって世界で一番早いらしいよ」

 隣にいた見学の新入生たちとともに咲もスマッシュの速度に圧倒された。でもその後の方が実はずっと印象に残っていた。

ポイントを取った後、味方の先輩同士が近寄り、お互いのラケットでタッチして、笑顔になる。その自然な感じを好きだと思った。心と体の距離。その距離の近さを見て決めたんだった。一人より二人の方がいい。遠いより近い方が良い。嬉しいことや楽しいことを感じた時にその瞬間を共有できる人が、近くにたくさんいた方がいい。

「最初からダブルスやりたかったんだなぁ、私」

 だから、戦績も、ダブルスの方がいいのかもしれない。

後で杏那と薫に教えてあげよう。そう思いながら、咲はおじさんがしゃくれていたという主旨のメッセージの送信ボタンを押す。

六つの既読がすぐに付いた。マンションの廊下で止めていた足を再び動かす。

咲は軽く助走をつけると、ジャンピングエアスマッシュを打った。



 両親の呼び方の問題


 悟には両親に対して、日頃から物申したいことが一つあった。呼び方である。

 忠と和子は咲と悟に自分たちのことを「パパ」「ママ」と呼ばせた。最初の子どもが女の子であったため、柄にもなく忠も自分のことをパパと呼ばせたのだろう。世の父親はなんだかんだ言って娘が可愛いものである。二人の間でその呼び方は自然になり、悟が生まれると咲と同じようにパパママ呼称で育てた。まぁ咲が「パパ」と呼んでいる忠を悟が「お父さん」と呼べば、近所の人々から複雑な家庭事情を推察されてしまうため、やむを得ない選択ではあるが悟にはそれが痛く不満であり、かつ大問題であった。なぜなら、

めっちゃ恥ずかしいじゃん、ということである。

「え、だってさ、普通分かるだろ。赤ちゃんがハイハイしてるときにい『パパですよ~』『ママですよ~』って呼ばせてそのまま大きくなったらずっと『パパ』と『ママ』のままだってことくらい」

 昼休み、悟はクラスの親友の沖と佐々木と一緒に教室の隅っこに身を寄せ合うようにしてかたまり、窓からグラウンドでサッカーをしている活動的なクラスメイトたちを眺めながら嘆いていた。三人は一年生から同じクラスであり、背の順で悟、沖、佐々木の順だったことから始業式以来話すようになった。三人とも派手な外見でもなく特筆すべき技能も持ち合わせておらず、文字通り教室の隅にいるようにな三人であるが、それ故に同類合い求むが如く親交を深めた。悟はこの二人に対してのみ、打ち解けた雰囲気で話すことができる。

「女子はいいよ、そういうのが普通、みたいな、キャラとしてむしろカワイイみたいな、ところあるからさ。でも男子はないよな? 友達と話してて、突然『うちのママがさぁ、』とか口走った時はもう大変なことになるだろ。その瞬間からイジりが始まるよな。半年は続くよな」

 佐々木が「まあまあ」と飼い主が帰ってきて興奮した犬を制するように悟の肩を軽く叩いた。

「マルヤンだけじゃいって。他にも結構パパママ呼びもいるだろ、隠してるだけだよ」と沖がフォローする。マルヤンとは悟のあだ名である。丸山だからマルヤン。そう呼ぶのはこの二人だけであり、他のクラスメイトは悟のことを「丸山君」と呼ぶ。

「だから、隠してることがもう問題なんだよ。後ろめたいから隠すんだろ」

「そうかなあ」

「そうかなって、沖はもしかして?」

「俺は父さん、母さん」

 沖が丸顔をさらに丸くして笑みを浮かべる。

「ちなみに俺も」と佐々木が黒縁メガネを理由もなく人差し指で直すと言う。

 ふん、と悟は気を吐いた。

「マジョリティーにマイノリティーの辛さが分かってたまるか」

「マイノリティ?」

「少数派ってことだよ」

「はぁ、なるほどね」

沖と佐々木は呆れ顔をした。

西暦二〇〇〇年から二〇一〇年あたりにかけて、キラキラネームというものが世間に広まった。「奇跡」と書いて「ダイヤ」と読んだり、「光宙」と書いて「ぴかちゅう」と読んだりする、一読して読みが分からない個性的な名前のことであり、当時の世間は子どもにキラキラネームをつけることに割と冷ややかな反応をとった。当然それは子どもが学校の出席確認で新しい先生が着任した度に「えっと、これは『ひかりくん』ですか?」「いえ、ダイヤです」「はあ、ダイヤか」とか、病院で「やましたピカチュウさん、やましたピカチュウさん、診察室へどうぞ」とか、キラキラネームをつけられた子どもが長じて様々な場面で氏名を呼ばれたときに名前を正しく読んでもらえなかったり、その名前を聞いた周りの人間から嘲笑の憂き目に遭うという点において可哀想だという類いのものである。

 ではなぜ「パパママ呼称」はそういった論調にならないのか。

「キラキラネームが一生ついて回るなら、パパママ呼称だって一生ついて回るよ?」

「そうかぁ?」と佐々木が苦笑いを浮かべる。

「いやいやいや、名前はさ、大人になれば改名できるじゃん。市役所とか区役所で一時間くらいの手続きで終わるじゃん。でもさ、パパママ呼びは一朝一夕じゃ直らないんだよ。十年、二十年かけて染みついた呼び方は矯正するのにも同じくらいの年月がかかると思うんだよ。やったことないけどさ」

 つまり、我が子に自分をパパママと呼ばせる親こそ、キラキラネームをつける親と同様に酷い親であると言えないか。

 悟は涙ながらにそう結論づけた。

 二人は悟に同情の意を表しながらも、共感できるわけでない。「でもさ、」と佐々木が言った。

「キラキラネームはマルヤンが言ったみたいに、病院とかで赤の他人が読み方を知って『あ、何あの人の名前、ウケる(笑)』みたいな感じになるけどさ、パパママ呼びは、基本自分が呼ばなければ周りにはバレないわけだから、そこまで不便ではなくね?」

 佐々木の意見に、悟は断固抗議した。

「甘いよ佐々木くん、甘すぎる。たしかに自分が口を滑らせなければバレないって言うのは合ってる。でもな、口を滑らせた時のダメージはキラキラネームが発覚したときより大きいのだよ。名前っていうのは初対面の時に知り合うものだろう。だから「ピカチュウ」なら「ピカチュウ」として、そういうものとして関係性やその人の個性ができていくけど、パパママ呼びは既にできていた関係性やそいつのキャラが壊れるじゃん。例えばジャイアンが「母ちゃん」じゃなくてスネ夫みたいな「ママ―」だったらまるで面目が立たないだろう?」

「たしかにそれはキャラ崩壊の危機だな」

「だろ」

 するとそれを聞いた沖が「素朴な疑問なんだけど、」と発言する。

「マルヤンのお父さんとお母さんは、悟のおじいちゃんとおばあちゃんのことをなんて呼んでたの?」

「うちのじい……おじいちゃんとおばあちゃん? なんで」

「いや、俺の両親はおじいちゃんとおばあちゃんのことを父さん、母さんって呼んでて俺もその呼び方で両親を呼んでるから。そこは関係あるんじゃないかなって」

「ああ、なるほど。沖にしては良い考え」と佐々木。

「『にしては』ってなんだよー」と沖が不満げに口を尖らせる。

悟も納得し、思い出してみる。えーと、うちの両親は……は、

悟は気づいてしまった。忠も和子も祖父母のことを「お父さん」「お母さん」と呼んでいることを。

「パパママじゃない!」と悟は悲鳴にも似た声を上げた。

「違うパターンもあるのか」と沖がふんふんと感心する。悟は感心している場合ではなかった。これは大問題である。

「……罪深い」

「え?」

「だって、自分が両親のことをパパママって呼んでたら子どもにもそう呼ばせようとするのは分かるよ。でも違うって事は意図的に変えてるわけで、計画的な犯行じゃないか?」

「いや、犯行では……」

 しかし一体何の意図があってそんなことをするのか、悟には不可解であった。パパママという西洋的呼称に憧れがあったともでもいうのか。忠と和子の日常の言動を思い起こしてみる。特に思い当たる節はない。

「まぁ、何か海外への憧れ的な?」と佐々木も同じようなことを言う。

「心当たりがない」

「あ、」とまた沖が何かを閃いた。

「なに? なに?」

「そういえば、赤ちゃんが言葉を話し始めるときってまだ舌とか口とか上手く動かせないから「パ」「マ」が言いやすいって聞いたことある」

「ほんとかよ、それ」

沖は普段は天然であるが、無駄な知識には富んだ男である。

ただ、無駄な知識の多くは情報ソースが定かでなかったり、記憶が曖昧であったりするため信憑性は約五十パーセントと言われていた。

「また嘘じゃないよな」と佐々木が尋ねる。

「嘘じゃないよ。嘘ついた事なんて無いじゃないか」

「あるだろ、前回のテストの範囲、お前に聞いたら絶妙に違うところ教えられて、俺の国語の点数激落ちしたことわすれんなよ」

「あれは嘘じゃなくてミスだよ」

 他にも隣のクラスの倉田くんは政治家の息子だという情報を悟に流したが結局それもデマで倉田君のお父さんはトラックドライバーだったなど、数え上げれば切りが無いが、悟にとってそんなことはどうでもよかった。

「なんでパとマがいいやすいの?」と悟が話を本題に引き戻す。

「唇をつけるだけで出せる音だかららしい」

 そこから三人の「パ」「マ」の合唱が三十秒ほど繰り返された。

「なるほどな、確かに言いやすいかも。ってことは、つまりマルヤンのお父さんとお母さんは子どもが発音しやすい言葉を教えてあげたってことじゃん。優しいじゃんマルヤンのお父さんとお母さん」

 佐々木の言葉に悟は首を捻る。目を閉じて、深く考え込んだ。

 そうなのだろうか。本当にそうなのだろうか。そもそもそんな知識を忠と和子が持っていたか。仮にそうだとしても言葉を覚えた二三才で「お父さん」と「お母さん」に矯正すればよくないだろうか。

沈思黙考の末に結論が出た。悟が顔を上げる。

「でもさ、」

しかし沖と佐々木の姿はそこになかった。二人とも悟の「パパママ呼称談義」に飽きて、教室を後にしていた。

「薄情者め」

 こうして悟の嘆きはいつまでも理解されることがないのであった。


 

 ダイエット


「あら、」と和子が呟くと、忠が声に振り向いて尋ねる。

「どうした?」

 和子は忠の顔を見ることなく、視線は体重計に注がれたまま「最近ちょっと食べ過ぎたかなって思ってたのよねぇ……」

 と弱々しい声を出した。

「体重増えたのか?」

「ええ三キロも」

 忠は薄笑いしながら「そりゃまずいな」と言った。

 その言葉にようやく和子は忠へ視線を移す。

 自分で言うのはへっちゃらでも、他人に言われるとイラッとする。健康診断でプリン体の数値引っかかっている人に言われたくないわ、という心境であった。

 目は口ほどに物を言うので、視線を感じた忠は「俺はこの体型をキープしてるんだ。ちょっと太ってるキャラで若手社員に慕われるために」

「けっ」と、和子は恨みを声にして吐き捨てたが、忠の耳には残念ながら届かなかった。

 今年の八月で四十五歳。四捨五入すれば遂に五十路(いそじ)に差し掛かる和子にとって、ホルモンの減少とともに体型の変化は気になってくるところである。三十代の頃は食後にジョギングに言ったり、休日に咲や悟と公園で体を動かしたりし、カロリーを消費する行動を起こしていたものだが、今はただ摂取するばかりに専念している。

 もうすぐ五十代、ここから美しいマダムになるためには体型の維持は不可欠であろう。

 ダイエットをしなければならない。

和子はそう思った。

しかし三十代の頃から二年おきくらいにどこからか沸き起こる和子の中のダイエットブームにおいて、体重を減少させるべく開発された食品やグッズ、アイデアというものは洋の東西を問わず様々試してきたが、どれも効果はいまひとつであり、和子が理想とする体が実現されることは一度としてない。理想なんてものは、どこまで追い求めても追いつくことはない逃げ水のような概念だわと、もはや哲学者のような思想を繰り返す始末である。

 しかしながらたとえ理想の体を手に入れることは叶わなくても、徐々に自分が太っていくのを座して待つわけにもいかない。

すると、忠が思い出したように言った。

「そういえば、近所に二十四時間やってるジムができたよな」

「そうなの?」

「ああ、きのう車で前を通ったら見つけたんだ。今だけ入会金無料ってのぼり立ってたぞ」

「へぇー」

 聞くと、場所は歩いて十分くらいの位置である。それなら自転車で行けば五分かからないだろう。

 ジムか。ジムも和子のダイエットの歴史の中で何度か現れては消えていった登場人物である。一番始めに通ったフィットネスジムは咲の幼稚園時代のママ友と加入し、なかなか楽しかったが、コースが予約制であり、人気のヨガとかエキササイズのコースを取るのが面倒くさくてそのうちに行かなくなってしまった。二回目の時はスイミングが目的だった。スイミングなら夏は気持ちいいし、冬は温水プールでしょうと期して加入したが、プールの塩素で髪の毛が傷んでしまい、女の命である髪の毛を守るため止めてしまった。今回はどうだろうか。三度目の正直となるだろうか。スマホで二十四時間営業のジムについて調べてみる。今まで通ったジムとは違い、ランニングマシンと筋トレマシン、そしてシャワーだけというシンプルな設備であることがわかった。二十四時間三百六十五日使えるから気軽に自分の好きな時間で運動ができます、という宣伝文句。お値段なんと七千円。

「七千円かぁ。けっこうするなぁ」

 忠のタバコが月五千円。和子のスマホ料金は月三千円。水道光熱費もそれぞれ五千円くらい。果たして和子のダイエットはスマホや水道光熱費よりも価値があるのだろうか。

 それから一週間、和子は悩んだ。

 様々なことを考えたが、その間も和子の体重は僅かながら増え続け、考えている場合ではなくなった。

 ある日の夕食時。和子は持っていた茶碗と箸を置くと、口を開いた。

「みんな、聞いて。ママ、ジムに通うことにしたわ」

「へー」と悟は気にもとめない様子。「え、あのランニングマシン外から丸見えのジム?」と咲が反応し、「遂に本格始動か」と忠が言う。

「『巧遅拙速に如かず』っていうじゃない? 何事も理想を求めて待つよりも、すぐに取り組んでみるってことが大事じゃないかなって」

 咲がきょとんとした顔をして言う。

「高知、四国にあらず?」

 忠の表情が曇る。

「『巧遅拙速にしかず』よ。遅くて上手いより早くて雑な方がまだ良いって意味。お金もかかるからさ、迷ったんだけど、お金をかけた方が逆にもったいなくて行くんじゃないかなって思ってね」

「なるほど、ママ頭良い!」

「でしょう」

 悟と忠は既に食卓に流れていたテレビ番組へと興味を移していた。

「案ずるより産むが易し」

そうつぶやいて和子は食後、ジムの加入手続きを始めた。

 手続きは簡単であった。ネットで登録者の情報を決済情報を入力して申し込むと数日後にジムの利用カードが届く。それを持って行くだけで、二十四時間、三百六十五日いつでも施設を利用できる。

 数日後に利用カードが届き、いよいよ、ジム初日。

 自転車のカゴにアルペンで買ったランニングシューズとウエア一式が入ったトートバッグを入れ、ペダルをこぎ出す。「さあ、理想の体に向かって出発よ!」

 ジムには五分で到着した。自転車を止めて、入り口へ。ドキドキの瞬間である。

 カードキーを入り口の機会に当てると、キーが開く。扉を開けて中へ入ると、煌々たる白い光が和子を照らした。

「へぇー明るいわねー」

感心しながら周りを見回す。スタイリッシュなグレーの内装の空間にランニングマシンが全面ガラスばり壁に向かって十台ほど並び、その背後にいかめしい筋トレマシンが何台も鎮座している。和子は筋トレというものを本格的にやったことがないので、それらの器具は一体どこの筋肉をどう強化するためのものなのか判然としない。今回も筋肉をつけたいわけではないためさほど興味も沸かないが。

平日の夜ということもあり、利用者は数人であった。

「こんな感じなのねぇ」

 ざっくりと視察を終えると、いよいよ準備に入る。

奥に男女の更衣室・シャワー室のスペースがあった。ロッカーが並ぶ更衣室で着替えを済ます。これで準備万端である。

 マットのスペースでストレッチをしてから、ランニングマシンに乗る。初日はこれを三十分くらいやって帰るつもりであった。

 スイッチを入れると、ゆっくりと下の巨大ベルトが動き出す。それにあわせて和子も両足を動かす。徐々に速度を上げていくと、最初はウォーキングペースだったスピードはジョギングくらいになった。いっちに、いっちに、いっちに。

 しばらくは気持ちよく体を動かしていたが、問題が生じた。

 このジョギングという速度は、無心で走るには楽すぎるが、それ以上速度を上げると今度は足がついていけなくなる。帯に短し襷に流しである。

どうしたものかと思い、周りを見ると二つ隣のマシンで走っていた和子と同じくらいの歳のおじさんがマシンにイヤホンを繋いで画面を見ている。何かと思えば、テレビである。マシンの速度が表示される液晶画面に「TV」ボタンがあり、タッチすると家と同じテレビ番組が流れ出したのである。和子もテレビでジョギングの退屈さを紛らわせることにした。

 一度マシンを止め、ロッカーの中からイヤホンを取ってくる。マシンに取って返すとイヤホンを差し込んでスイッチを押す。火曜日夜七時半のテレビ番組『衝撃映像百連発』の特番が流れ出す。チャンネルを変える。ひらめき系クイズ番組。チャンネルを変える。若手芸人が山でキャンプをする番組。チャンネルを変える。日頃の生活の疑問を解決する系番組。チャンネルを変える。他にも何個かあったが、すべて退屈な内容であった。

「ジョギングより退屈じゃない」

どうしたものかと思い、さらに周りを見ると、奥のマシンで走っている二十代の若者は耳にワイヤレスイヤホンをつけて音楽を聴いているらしい。まぁ、ランニングといえばやっぱり音楽かしら、と思う和子。

若者の真似をするのは恥ずかしい気もするが、真似することにした。再びロッカーに戻り、スマホを持ってくる。イヤホンをスマホに差し替えて、マシンの中央部分に載せる。音楽のアプリを起動させた。

すぐに最近一周回ってハマっている矢沢永吉が流れ出す。

 永ちゃんロックを聴いているうちに徐々にテンションが上がってきた和子はその調子を駆ってスピードを上げてみた。

ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン。足がマシンに付く音が大きくなり、良い感じに運動をしているという充実感が沸いてきた。

ほんの少し更にマシンのスピードを上げる。足がマシンに付く音がさらに大きくなる。三キロ増量した体重でマシンが壊れないか一瞬だけ心配になったが、問題はなかった。

ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン。

 和子はまるで自分がカモシカになった気分で走る。

永ちゃんが盛大にシャウトしたときだった。

ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、デュルン、

足がもつれた。バランスを崩した和子が後退する。後退と同時に和子の両耳に繋がれたイヤホンが綱引きのツナの要領でスマホを引っ張る。数十+三キロの物体と数十グラムのスマートホンでは勝負は明白であった。勢いでスマホが高速スピン回転を起こして和子めがけて飛んできては、腹部に当たる。一瞬うろたえるも体勢を立て直す和子。しかしスマホは動くマシンのベルト部分に落ち、そのまま後方にすっ飛んでいった。

「あらららららら」

 和子は急いでマシンのスイッチをとめ、スマホを回収する。幸いスマホは無傷であり、被害は和子の鳩尾だけであった。

「……ワイヤレスイヤホン、買おう」

なんだか疲れてしまった和子はそれからしばらくゆっくりとしたペースで十五分ほど走ると、シャワーを浴びてさっさとジムを後にした。

運動した時間三十分。まあ、初日はこれくらいでいいでしょう。

 帰りも同じ道を自転車で帰る。所要時間は五分なのですぐに帰れると思われた。しかし信号待ちをしている時。視界にコンビニが入った。ジムと同じくらい煌々とした白い光が夜の町を照らしている。その入り口の自動ドアの上。横断幕にこう書いてあるのを見つけてしまったのである。「王道シュークリーム新登場」

 まずい。

 和子は本能でそう感じた。運動後食欲の湧いた今、シュークリーム、しかも王道は尚更まずい。こんなものを買ってしまった折には今しがたジムで消費した以上のカロリーを摂取してしまい、和子の三十分のジョギングが水泡に帰すとともに、七千円のジム代が無駄になる。三十分走ってプラマイゼロ。むしろ鳩尾に一発食らい損である。

耐えろ、耐えるんだ、私。と和子は心を鬼にして、ペダルを踏む足に力を込めた。

「ただいま」

 和子が玄関でそう言うと咲が自分の部屋から顔を出す。

「おかえり。初ジム、どうだった?」

「初日にしてはまあまあかな」

「よかったじゃん。ママちょっと痩せたんじゃない?」

 咲の言葉に「一回走ったただけじゃまだ痩せないわよ」と受ける和子。

「お風呂、先入っていい?」

「いいよ」

 咲が脱衣所へ向かおうとする。しかし、思い出したようにその歩みを止めた。

「あ、ママ」

「うん?」

「ところで、それなに?」

 振り返った咲が和子が下げたビニール袋を指差す。

「あ、これ? シュークリームだけど?」

 数秒の沈黙。

「……ごめん今ちょっと聞こえなかったんだけど」

「シュークリーム」

「え?」

「だからシュークリームよ、王道の」

和子は心を鬼にしたが、和子の心の鬼は優しい鬼であった。

「ちゃんとみんなの分もあるよ」

そして家族を同罪にするために四つ購入するという、ずる賢い鬼でもあった。

「あ、うん」と咲も僅かに戸惑いの色を見せる。咲が何も言わなかったのは、苦悩や葛藤を乗り越えた先に今ここにシュークリームがあるという事実を察したからである。

和子の理想の体を目指す道のりは幸先の悪そうである。

シュークリームは絶品だった。



 お風呂戦争


お風呂戦争をご存じか。

日清戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、お風呂戦争。

歴史の教科書に載っている名だたる戦争と並べると異質さが際立つ。終戦宣言によって終わりを迎える他の争いと異なり、お風呂戦争は家庭に『家風呂』が登場して以来、未だ戦争収束の糸口が見えないところにその特徴がある。一つ一つの戦いはごく小規模かつこじんまりした戦闘であるものの、日本全国津々浦々で毎晩同時多発的に勃発しているその争いの憎しみは、国同士の戦争に匹敵するとさえ言われている。専門家の間でもこれを戦争と呼称するか否かの議論が盛んに行われており、賛否が分かれるところではあるが、正義の対立という建前の下、人々が対立し、衝突しているという点に置いては戦争も戦闘も内戦も口げんかも本質的差異はないため、今回はこれを戦争と呼称したい。

お風呂戦争とはつまり、お風呂に入る順番を巡る壮絶な争いのことである。

近年、丸山家においては第三次お風呂戦争が丸山悟の無条件降伏という形で終結して以来、束の間の平和が訪れていたが、丸山家の済むマンションの一室に二つ目のお風呂が誕生したわけでない以上、丸山咲と丸山悟の間で小規模な軍事衝突はことある毎に発生しており、その度、平和主義の悟がこれ以上の争いを避けるために咲にお風呂の順番を譲り続けることで武力衝突を避け続けていた。

しかしある日、悟の内政状況の変化に伴い、今まで我慢を強いられてきた過激派が首脳陣を人質に取り、軍事蜂起した。これにより丸山悟は一斉に開戦へと動き出すことになったため、ここに第四次お風呂戦争が始まろうとしていた。

事の発端は学校で、クラスの友達たる沖と佐々木と話したことである。

佐々木には今年高校三年になった兄がおり、その佐々木の兄が早起きに目覚めたという。

「なんかさぁ、人間は起きてから二時間から三時間までが一日の中で一番集中できる時間だってテレビで見たらしくて」

 昼休みの雑談である。

「何時に起きてるの?」と沖がたずねる。

「四時」

「四時? まだ夜じゃん」

 佐々木は実に眠そうな力ない表情で「だろ」と答える。佐々木は眠りが浅い質らしく、隣の部屋で兄が起き出す音で毎朝目が覚めるという。

「そりゃ、キツいな」と悟が佐々木に同情する。

「でも、佐々木の兄ちゃん偉いよ。俺なんて朝七時半でも起きられない」

 沖はだいたいいつも八時十五分の朝のチャイムにギリギリかギリギリアウトで教室に飛び込んでくる。「お前はもっと早く起きろ」と悟が沖にツッコんだ後、「朝ご飯はどうしてんの?」と佐々木に聞く。

朝ご飯抜きで勉強というのは悟には低血糖の無理そうだったからである。

「バナナ食ってる」

「バナナ?」

「そう、バナナ食いながら宿題とか授業の予習して、その後に朝ごはんちょっと食べて学校行ってる」

「超ストイックじゃん」と悟と沖は口を揃えた。聞くとやはりサッカー部らしい。運動部は精神力が違うなと悟は思う。

佐々木は半分嫌そうな、半分誇らしそうな顔で言った。

「マルヤンのねーちゃんも高二だったよな?」

 悟は頷く。

「朝起きて宿題とかしないよね?」

「しない。そもそもあいつは宿題とかやんないから」

「まじで? それはそれで精神的にタフだな」

「まあな。それで、実際どうなの早起きの成果は」

「うーん、本人は調子が良いって言ってる。いつもより集中できてるって。早起きすると、部活して家帰って飯食ったらすぐ眠くなるらしくて、つまんないテレビ見たり、スマホで無駄な時間使う事が無くなっていいって」

「あーなるほど。いいな、それは」

 悟が納得する。

「いや、だから良くないって朝四時に起こされる俺の身にもなってくれって」

 はははと沖が笑い、「佐々木も朝四時に起きれば良いじゃん」と軽口を叩いた。佐々木が「うるせっ」と沖の頭頂部をはたく。

「俺はそんな勉強したくないし、月9ドラマ見たいの!」

「それもそうだよね」

 という沖と佐々木との会話の中で悟はふと、あることを思い出していた。

 それは悟が小さい頃から早起きが得意だということ。小学校のクラス文集で「得意なこと」の欄に書くことがなさ過ぎて「早起き」と書いたところ、咲に発見されて「うわ、まじウケる」とバカにされた記憶である。もし朝早く起きるだけで集中力が上がり、勉強の質が向上して、学校の成績が上がるのであればやってみてもいいんじゃないか。悟には咲という反面教師の中でも校長先生クラスの反面教師がいるので勉強はしっかりやって、良い高校、良い大学に進みたいと思っている。

 ということで、その晩、悟は和子に、佐々木の兄貴の一連のエピソードを伝えた。

 和子は若干面倒くさそうな顔をすると、「何時に寝るの?」と聞いてくる。

「流石に四時起きはキツいから五時起きを目指す。睡眠時間を七時間として十時に寝る」

「ふーん。今十時にお風呂入れてるから九時くらいにするか」

「ありがとう」

 そしてその夜、和子は約束通り九時にお風呂を入れてくれた。悟はいつもはやっている宿題を途中で投げ出して、お風呂に向かう。その途中で尿意を催したため、悟はトイレに寄った。トイレから戻ってくると、咲が風呂に入っていた。

 悟は愕然とした。

 長らくお待たせした。ここに第四次お風呂戦争の開戦を宣言する。

 咲の風呂は長い。とにかく長い。ここに諸悪の根源がある。

約四十五分。長いと一時間以上入っていることもある。そんなに長いこと何をしているのかと思いきや、防水機能つきのスマホでユーチューブを見ているのである。しかしだらかといってここで、ドンドンドン、と扉を叩いて「早く出ろ! お前は包囲されているのだ」と声高に叫んでみても栓がない。咲は激怒し、容赦なく悟の顔面に鉄拳を食らわせることだろう。過去二回の大戦ではそのような末路を辿ってきた。いくら三歳の差があるといえども男女では力の差は悟の方が上なのではないかといぶかる者も多いだろう。そこは悟の運動神経と筋力が並の十四歳男子のそれ以下であるという事実を以て説明に代えたい。

 つまり状況は、力の差がある者同士でありかつ、過去に敗北を喫していると言う点においてまるで日本とアメリカのごとき様相を呈しているのである。悟の戦いは武力を主としない。それは憲法第九条で定めるとおりである。しかし、では建前で有名無実な抗議声明だけを出して手をこまぬいているのかというと決してそうではない。戦績で負け越しているものの、悟には三回にわたる大戦と度重なる紛争の経験がる。そこから導き出されるもっとも効果的な戦い方を実践するまで。

 まずは国連に協力を求める。

「ママー」

 リビングでテレビを見ている和子が「なあにぃ?」と伸びやかな声で答える。

「咲に風呂入られたんだけど」

「あら。タッチの差だったね」

 タッチの差というか、ほぼ横入りである。

しかし悟は敢えて平静を装った。ここでしっかりと哀れむべき被害者を演じることで、のちのち咲との戦いが持久戦に持ち込まれた際に国連による「そろそろ出なさい」勧告がなされるからである。この勧告無くして弱小国が列強に勝つことは叶わない。

 ここで悟は更なる一手を繰り出す。脱衣所兼洗面所の占拠である。浴室の隣に位置するここを占拠することは三つのメリットがある。一つ目は占拠している間に、歯磨きをすることで寝るまでの行程を一つ減らすことができる。通常悟は風呂を出てから歯磨きをし、髪を乾かして就寝する。今日もいつものようにお風呂の後に歯磨きをすれば、咲のせいでお風呂が遅れているのでドミノ式に歯磨きとドライヤーの時間も遅れてしまう。先に歯磨きを済ませておくことで、悟は少しでもこの遅れを取り戻すことに成功するのである。

 二つ目のメリットは咲に無言のプレッシャーをかけ続けることができることである。歯磨きで敢えて大きめの音を立てることで自分がここにいて、風呂を待っていることをアピールし、咲の自主的な投降を促す。残念ながらこれによりお風呂戦争が早期に幕引きになったことは未だかつて無いが、無言の主張は悟の唯一の得意分野であった。

 そして三つ目のメリットは歯磨きの精度向上である。これは戦いとは直接関係の無い副次的結果であるが、二つ目のメリットたるプレッシャーを与えるためには最低でも五分は歯磨きをしなければならず、結果的にいつもよりキレイになった歯を眺めることができる。

まさに一石二鳥ならぬ一石三鳥の戦術である。

こうすると、咲の入浴が三十分に達しようかという頃合いで、「咲~そろそろ出なさいよ~」と和子が声をかけてくれる。すると咲も「は~い」と返事をし、大人しく風呂から上がるのである。この日もそうであった。咲が自室に戻ったことを確認する。いつもならここから風呂にゆったりと入り、心の傷を癒やしていた悟だったが、今夜は勝手が違う。目的が早寝だからである。今までは日付が変わるまで起きていることもなくはなかった悟だったが、今日からは早早起きをして三文の徳を獲得しなければいけない。それは使命である。

そのために過去の対戦経験より悟は反撃に出ることに決めた。現在既に夜九時四十分。就寝目標時間は十時である。すでに大幅に時間をロスしているため五分で頭と体を洗い、湯船にもつかるというカラスもびっくりの速度で入浴を済ませたのである。高速で頭を洗いすぎでシャンプーの泡が方々に飛散し、後に国連から是正勧告を受けたほどである。しかしその甲斐あって、悟は五分あまりで風呂から上がり、脱衣室兼洗面所を再び占拠する事に成功したのである。これが何を意味しているかおわかりだろうか。人は入浴中に洗髪すれば、入浴後に髪を洗う必要がある。咲がまだ髪を乾かしていない段階で、悟が脱衣所のドライヤーを占拠することで、先行して髪を乾かすことができ、これにより悟は着替えて寝るだけの身となるのだ。もし、髪を乾かすことなくちんたらと自室でパジャマに着替えていたら、ドライヤーで髪を乾かしに来た咲に洗面所を占拠されて更に寝る時間が遅れることになるが、こうすることでその必要はなくなる。悟のクレバーな一手により、なんとその夜、悟が布団に潜り込んだのは十時ぴったりだった。今夜の目的である十時就寝は見事に達成されたのである。たしかに咲より咲にお風呂に入ることはできなかったが、目的が達成されれば及第である。悟にとってこの日のお風呂戦争は勝利と言って良い結果であり、勝利の安堵から十分後にはぐっすりと深い眠りに就いた。

これはお風呂戦争のほんの一幕である。

つまり、続きがある。


翌晩。

 前日の如く、夜九時に和子がお風呂を入れてくれる。悟は自室でアニメを見ていた。今まではその時間に学校や塾の宿題をこなしていた悟だったが、早朝にやることになったので少しだけ余暇の時間が生まれたのである。その時間をネットでアニメ鑑賞に使っていた悟が、和子に「お風呂沸いよ~」の声を聞いたのが、アニメの一話分が終了する五分前であった。

佳境である。しかし昨晩はトイレに行った三十秒ほどで咲に先を越された。この五分を惜しんでいては昨日の轍を踏むことになってしまう。しかし好きなアニメのラスト五分を見ないままで置くのも後ろ髪を引かれる。悟は部屋から出るとリビングの咲の様子を窺った。咲が今まさに風呂に入ろうとしているのなら、アニメを諦め、風呂に入って翌日また見直すつもりであった。しかし、咲はリビングの座椅子の上で爆睡していた。

「しめた!」

 悟は部屋に戻ると残りの五分を見るべく再生ボタンを押す。

 すると、部屋をノックする音がした。和子である。一時停止する。

「お風呂沸かしたけど? ママ先には行ってもいい?」

 悟は一瞬だけ考え、「うん」と答えた。和子の入浴時間が長くないことは知っているからである。和子の後に入っても昨晩より十分な余裕を持って就寝することができる。そんなことよりアニメのクライマックスが気になって仕方が無かった悟は再生ボタンを押して視聴を急いだ。

 五分後。和子が風呂から上がるのを待つべく脱衣所の扉から近い位置に悟は立っていた。咲はまだ眠りの中にいるため、ここに立っていればまず次に風呂に入ることができる。いわばトイレの個室を待つ人のような格好である。カレンダーを眺めたり、リビングで徒に流れているテレビ番組を遠目から見たりしながら更に五分待つ悟。そろそろ和子が出てくるか、という折。咲がのっそりと起上がった。まるで夢遊病の如き足取りで悟の隣を横切り、リビングに向かうと、冷蔵庫から三ツ矢サイダーを取り出し、コップに注いで飲み干した。

 男子か、こいつは。と思った悟だったが当然沈黙を守る。咲はまだ眠たそうな顔のまま、悟のもとに戻ると「どいて」と一言。

「顔でも洗うの?」「いいからどけ」

悟が道を空ける。咲は脱衣所兼洗面所に入った。

しかし咲はとんでもない発言をした。

「ママーお風呂は入っていい?」

「え、嘘!」と悟は扉の奥の見えない咲を睨んだ。

 了承を得たのか、咲は浴室の扉を開けると中に入る。

「そんなのアリかよ。高校生で母親と一緒に入るかよ普通」

悟は悄然たる面持ちで脱衣所の扉の前に立ち尽くした。


日清戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、お風呂戦争。

歴史の教科書に載っている名だたる戦争と並べると異質さが際立つ。終戦宣言によって終わりを迎える他の争いと異なり、お風呂戦争は家庭に『家風呂』が登場して以来、未だ戦争収束の糸口が見えないところにその特徴がある。一つ一つの戦いはごく小規模かつこじんまりした戦闘であるものの、日本全国津々浦々で毎晩同時多発的に勃発しているその争いの憎しみは、国同士の戦争に匹敵するとさえ言われている。

お風呂戦争が歴史の教科書の一頁に載る日も近いだろう。



 忠、釣りに目覚める


忠には秘かな夢があった。

アウトドアな趣味が欲しい、ということである。

今年で四十九になる忠の趣味と言えば、たまの休日にふんふんと言いながら読書をするくらいであるが、実は学生時代は、陸上部で短距離を専門に日々汗を流すスポーツマンであった。鍛え上げられた肉体を躍動させて走るその姿に周りは彼を「西高の韋駄天」と呼んだらしいが誰が呼んでいたかは定かではない。それから三十と数年。度重なる飲み会と不摂生によりかつての引き締まった肉体と大地を駆けた健脚は見る影もなく、揚げ物とビールに由来する糖質の過剰摂取によりいたずらに贅肉を纏う体に成り果てた。これじゃあ「韋駄天」というより「海老天」ね、というのは和子の言であり、いみじくも現在の忠の姿を言い得ていた。

月日が忠の体をそうさせたのであるが、それでもやっぱりテレビのスポーツ中継などで若者が汗を流している姿を見ると、自分も体を動かす趣味かにかがあったらなぁという気持ちがムクムクと沸き起こるのである。接待でたまにゴルフをするが、それはあくまで仕事であって趣味ではない。何か別のものはないだろうか。そう思っていた。しかし先ほども述べたとおり往年の頃よりも体は動かないのであまり激しくない趣味がよい。

そんことを考えていた折、父の剛(つよし)の七回忌で実家を訪れた忠は、母の波子から「お父さんのこんな写真出てきたわよ」と生前の剛の写真を見せられた。

「懐かしいなぁ。俺が小学生のころのだな」

 居間にあぐらをかきながら何枚か見ていると、父の剛がどこかの池の浅瀬に立ち、肩幅ほどのサイズがあるへらぶなをカメラに向けて掲げている一枚があった。

「そういえば、親父って昔は釣りしてたんだよな」

「昔って。そんなに昔でもないよ。体悪くなるまではずっとやってたじゃない」

「そうだっけ?」

「そうよ。朝早く出かけてねぇ。ほんと朝食作るこっちも大変だったわね」

 写真を見ながら微笑む波子を尻目に、釣りかぁ、と忠は呟いた。

釣りっていうのもいいな。

剛がやっていたのは池釣りだが、一般的に釣りと言えば海釣りがメジャーである。きっと幼い頃の忠にもその感覚があり、マイナーな釣りをしている父親の趣味に憧憬の念を抱かなかったのだろう。自分がやるなら海だなとなんとなくぼんやり考えた忠は次の休日、市内の釣具店に足を運んでいた。悟も連れて。

「あのさぁーパパ。僕は正直釣りそこまでやりたくないんだけど」

 釣具店の駐車場でそう父に訴えた息子に対し、「正直者だなぁ悟は。何事もまずはやってみることが肝心だぞ。一回やってみてつまんなかったらやめれば良いじゃないか」と悟の顔を見て言った。忠の足取りは軽い。

「えー」と顔をしかめつつ、仕方なく悟もその後に付いていく。

 釣具店に行くぞ、といわれて悟がイメージしていたのは体育の授業で柔道着を買いに行った武具店のような、おじいさんが小さい店で商品に囲まれながら店番しているみたいな店だったが、実際は家電量販店のように昼の屋外よりも明るい照明の店に釣り竿を始めとする種々雑多な釣り道具が壁一面にぎっしりと並べられたお店であった。忠はそれを眺めながらゆっくりと店内を回遊する。忠は分かっているのかいないのか分からないが、時よりふむふむと頷く。悟もその後に付いていったが、立ち止まっては進み、立ち止まっては進みを繰り返す忠の動きにじれたくなり、一人で店内を見て回ることにした。

 棚を眺めながら歩くと、悟は水槽を発見した。

 何か魚がいるのかと思ったがよく見ると水が入っていない。では何かと思ってみると、下の方にミミズのような小さな虫が大量に蠢いていた。

「うわ、キモ」

悟は思わず声を漏らした。

 虫餌と書かれた紙が水槽に貼ってある。これをエサとしてつけて魚を釣るらしい。こんなもの絶対に触りたくないなと悟は思った。悟が店内を二周し、三周目に入ろうかという頃合いで、忠が釣り竿を購入した。さきほどから店員さんを呼びつけて話を聞いては釣り竿を手に取っていたので買うのだなと予想していたが、まさか二本も買うとは思わなかった。

「やっぱかっこいいな。初心者向けだけど」

「なんで二本買ったの?」

「なんでって、そりゃ二人で行ったら二人分必要だろう?」

 悟は自分が頭数に数えられていたことに驚愕した。


次の週の休日。朝五時。

まだうっすらと太陽の光が漏れるくらいの暗さの中、忠と悟は隣の市の釣りスポットに向かう車内にいた。悟は平日に早起きをして宿題をしているが、休日もその要領で起きると、忠が既に起床しており、「行くか」と悟の部屋に入ってきたのである。忠も悟も早起きは得意らしく、それは忠の父の剛が朝釣りをしていたと言う事実からも親子三代の遺伝かと思われる。悟は忠が釣り竿を二本購入した時には大いに嫌気がさしたが、父と二人で出かけるということはなかなか新鮮でもあり、結局ついていくことにした。悟は咲と違い、忠と出かけることが割と好きだったりする。朝食は和子が当然の如くまだ布団の中にいたので食べていないため、忠は釣り場に向かう途中のコンビニに寄った。忠はツナマヨと梅のおむすびとあんぱんとお茶。悟は普段は一度も食べたことがない、レンジでチンして食べるハンバーガーを二つと炭酸飲料を買った。和子と一緒に買い物に行くときは「健康に悪いからやめなさい」と禁止されるので買うのを断念していたが、忠なら何も言わない。悟は忠のこういう所が好きである。車は海沿いを走った。「覚めないうちに食べた方が良いぞ」と忠が運転品しながら言うので、悟はだんだんと明らんでいく海の景色を見ながらハンバーガーの包装を開いて一口食べる。ハンバーガーのてりやきソースの強烈な甘さでまだ少し寝ていた悟の頭は目を覚ました。

「あ、海だ」

悟の座る助手席の窓から駿河湾が見えた。

「海を見るのは久々か?」

「うん。あんまり見ないから。パパは?」

「俺は仕事で清水港までいくからなぁ。しょっちゅう見てるよ」

 車内のスピーカーからは忠が若い頃に聞いていたビートルズの「Help」が流れている。悟はビートルズもよく知らないが、何かのテレビ番組のテーマソングで使われていたから知っている。

「パパ、このヘルプって曲はなんて言ってるの?」

「助けてくれっていってるんじゃないのか?」

 海が近づいてきた。

 早速海岸に行くのかと思っていた悟の予想とは裏腹に車が向かったのはこの前行った所とは別の釣具店であった。ちょっと待ってろ、と言い残して忠が車から降りると五分くらいしてビニール袋を下げて戻ってきた。スーパーの鮮魚売り場の生臭いに臭いが車内に立ちこめる。

 悟が聞く前に

「エサだよ」と忠が言う。

「ルアーじゃないの?」

「いまから俺たちがやるのはサビキ釣りだ」

「サビキ?」

「エサで引き寄せる釣り方だな」

「へぇー」

 車を護岸に止めて準備をする。

 扉を開けて外に出ると潮の香りが忠にも悟にも感じられた。

 太陽が顔を出している時間だったので、視界は良好だったが、寒い。もうすぐ夏なのにも拘わらず早朝の海岸は海風を防ぐものがないため体感温度が低い。悟も忠もジーンズにパーカーという晩春の格好であるため時折両手をこすりながら釣り竿のセッティングや昔バーべーキューで使った折りたたみの椅子やエサの準備をした。忠は全くの初心者であったが、釣具店の店員からセッティング方法は一通り聞いており、また自分でも初心者向けの釣りの本を購入して予習していたのでさほど手こずることなく準備は完了した。

「悟、ちょっとパパから離れてろ」

「うん」

「ここを引いて、ひょいっと落とす」

 忠は釣り竿を海岸から割と近い位置にアンダースローした。

 忠が釣り糸から手を放すと、シュルシュルシュルという音と供に先端に重りがついた釣り糸や針やエサが海に向かって落ちていく。そのまま釣り竿を上下させると、忠はそれを悟に手渡した。悟はよく分からないまま受け取る。釣りと言えば野球のピッチャーのように振りかぶって遠投するイメージだった悟は少し期待外れだったが、よく考えれば遠投すれば小さなプラスチック製のカゴに入れたエサがすべて落ちてしまうような気がしたので、遠投はルアーを使う釣りだけなのだろうと思った。

 忠が二本目の釣り竿を準備して、同じように朝日をキラキラと反射する海面に放擲する。

「こうして上下させると、エサを入れたカゴの網目からエサが落ちていってしたの針のほうにエサの匂いが充満するだろ。それを嗅ぎつけた魚たちがやってきて針に引っかかるって寸法だ」

「あーなるほどね」

 悟も見よう見まねで竿を上下する動作とリールを引いたり下げたりしてみた。

釣り竿に感じる海の重さが新鮮である。立ったり座ったりを繰り返しながら、十分くらいそうしていたときだった。ピクピク、っと竿から今までとは異なる振動を感じたのである。最初は気のせいかなと思っていたその振動が連続したとき悟は忠を呼んだ。

「なんかヘンだよ」

「どれ……おう! かかってるぞ悟。リールだリールを回せ」

 リールというのは釣り竿の持ち手に付いている糸を回収する装置である。悟はリールを回した。力加減が分からないのでとりあえず引けるだけ引く。糸が引かれる間もピクピクという振動が続いた。キラキラ光る何かが浮かび上がってきたかと思うと、それは姿を現した。小さな銀色の魚である。

「「おお」」と丸山親子は感嘆した。

 引き寄せてみると、体長十センチから十五センチくらいの、横から見ると少し丸っこい形の魚だった。

「これはなに?」

「わからんなぁ」

 とりあえず針を外して海水が入ったバケツに入れる。何の魚かは分からないが、記念すべき一匹目の釣果である。

「釣れると楽しいもんだな」

「だね」

それからまるでその魚の群れがやってきたのかというほどに二人の竿にその銀色の丸っこい魚が釣れ、最終的に約一時間のフィーバーが終わったときには二十匹ほどの魚たちがバケツの中を泳いでいた。大漁である。しかし大きな問題が一つあった。それはこの魚がどういう種類のどういう名前の魚であれ、食べることができるのかということである。アジやサバといったオーソドックスな魚であれば、忠も見分けることができるが、これは見たこともない。何かの子どもサイズの魚なのだろうか。そして心配なのがこの魚がバケツに入れたときからヌルヌルした液体を分泌していることである。果たしてこれらの魚は食べることができるのだろうか。悟はたくさん釣れた魚の写真をスマホで和子に送っているが、食べられないとなるとリリースしなくてはならない。

すると二十メートルくらい先に釣り人がやってきた。道具などから本格派の様子であることを察すると忠はバケツをもってその釣り人のもとに向かった。

「すみません」

 釣り人は忠より一回りほど上らしいおじいさんだった。

「ん?」

「これ今子どもと釣ってたんですけど、なんていう魚か分かります?」

 おじいさんはかけていたサングラスを外すとバケツを一瞥する。

「ああ、そりゃ、ジンダベラだな」

「ジンダベラ?」

「そう」

「食べられますかね?」

「ああ、食べられる。ヒラキとか」

 おじいさんはそういうとサングラスをかけ直して自分の釣りを再開してしまった。他にも聞きたいことはあった忠だったが、これ以上は迷惑かもしれないと遠慮して悟のもとに戻る。それからエサがなくなるまで糸を垂らしたが、結局その後ヒットはなかった。


「あら、すごいじゃない!」

 昼過ぎに家に帰ると、和子も驚いた顔をした。まさか初日から釣れると思ってはいなかったようである。サザエさんの波平さんのように魚屋さんで買ってきたお刺身をクーラーボックスに入れて帰って来るというオチを期待していた和子は本当に釣ってきた魚をどう調理したものかと困り果てた。

「ヒラキで食べられるって隣の釣り人曰く」

「えー魚ひらけないよ私。こんなに小さいし」

「じゃあ、どうする?」

 和子は少し考えて「フライにする?」と提案するとそれが採用された。丸くても小さくても青魚なので、アジフライみたいにはなるだろうと忠も思った。

 その晩、丸山家の食卓には忠と悟が釣ったジンダベラのフライが並んだ。

「これで色々釣ってくれば自給自足だな」と忠が言う。「マグロはないの?」と咲がバカなことを言い、家族で笑った。

「いただきまーす」

 そんな微笑ましい夕食の雰囲気はすぐに消えた。

「うん……なんか……うん、骨があるな」

「そうね……とにかく、やっぱり骨があるわね」

「骨が、身より多いね」

「あ、骨が喉に刺さったかもしれない。どうしようママ」

 ジンダベラは小骨が非常に食べづらい魚であった。

「そのおじいさん、ほんとにこれ食べたの?」と和子が忠にたずねる。

「いや、食べたとは言ってなかったな……食べられるとは言ったけど」

 和子が忠をにらみつけた。

「まだあの魚、半分残ってるんですけど」

「……味噌汁のだしとかにしたらいいじゃないか」

「異常にヌメヌメしてるから無理よ」

 忠が絶句する。「まぁ、いいじゃないか、無料なんだし。なぁ悟」となんとか捻り出した言葉に悟が追い打ちをかけた。

「釣り竿セットは二万したけどね」

 悟の発言に和子は「そんなにしたの!」と声を上げた。どうやら知らされてはいなかったらしい。咲も「もったいなーい」と忠を非難した。

 それで忠は少し拗ねてしまった。その後何回か別の場所で釣りに出かけたが、結局いくら釣っても食卓に並ぶような魚を釣ることはできなかった。釣りは釣れれば面白いがつれなければ面白くない。悟もすぐに飽きてしまったため忠一人で出かけることになり、冬になって朝の寒さが身に沁みるに従って休日に忠が釣りに出かける回数は激減した。「最近行かないんですね、釣り」。言外に二万円の元手を取れというプレッシャーを感じさせる和子の言葉に「シーズンオフだよシーズンオフ。春になれば再開するさ」と答えていた忠であったが、翌年の春になっても再開のめどは立たず、気づけば釣り竿セットはマンションの駐車場の壁に立てかけられたままその存在を忘れられていた。

こうして忠のアウトドアな趣味を持つという夢は儚く潰えることになった。相変わらず鉄の男、丸山忠。

しかし忘れ去れたそんな思い出の中で、悟は忠と釣りに行く途中で食べたコンビニのハンバーガーの味と、車のカーステレオでかかっていたビートルズの『Help』を意外にも後々まで覚えているのだった。父と子の思い出というのは概してそういうものである。



 別所くん


 悟のクラスメイトに別所爽(べっしょそう)という生徒がいた。

 クラスの中心にムードメーカー的生徒がいるとしたら、そことは距離を置いた立ち位置から意味深な発言をしたり、たまに周りを笑わせたりする、ちょっと変わった雰囲気を持つ悟の同級生である。例えば体育の授業中に普通の生徒の二倍の声を出しながら、準備体操をして教師に「別所、今日は張り切ってるなー」と言われて「はい、僕マラソン好きですから」と胸を張り、持久走で一番後ろを笑顔で走るような奴である。もしも悟がそんなことをしたり言ったりしたら翌日から筆箱を隠されるいじめに遭うこと請け負いだが、太いべっ甲色のフレームのメガネに西欧系のハーフかと思われるほど彫りの深い顔立ちと白い肌を持つ彼の口から出る言葉はとなぜかストンと周りに受け入れられる不思議さがあった。別所爽はその他大勢の生徒と同様に朝、徒歩で登校してくる。ただその他大勢の生徒と違うところは自宅が学校から三キロ以上離れた場所にあるということである。しかもこれがバスなどの公共交通機関を使わずに、徒歩でやってくるのだ。都会の有名私立中学なら話は別だが、ここは地方都市の市立中学校である。そこへ片道三キロかけて通学しているのだから通学時間は往復約三時間を超える。まるで周りに中学校がない山間部に住む子どものそれである。

 なんでこの中学に通ってるの? という質問に別所は「家庭の事情で」という深く尋ねるのを憚られる一言でいつも答えをはぐらかしたが、男子中学生のほとんどはその答えで満足するほど大人びていないので、あの手この手を弄して別所から真実を聞きだそうとする。しかし、そのたびに別所は「分かった。本当のことを言うよ」と切り出しては、「うちの家族はずっとこの中学に通っていて、この中学出身じゃお父さんが家に入れてくれないんだ」とか「毎日六キロ以上歩かないと死んでしまう難病に犯されているんだよ」とか「ここの学校の校章のデザインが好きだからだよ」とか周りを煙に巻くような答えをその都度繰り返したため、次第にその質問をする者は誰もいなくなった。ただ自分に関する事柄についてはほぼ何も明かさない代わりにその他の話題には自ら首を突っ込んで入っていき、誰とでも分け隔て無く話すことができるさっぱりとした性格からか、クラスの中で「あいつはヘンな奴だけど悪いやつじゃない」という独自のポジションを確立したのである。悟はというと他の男子生徒らより精神的成熟が若干早かったため「世の中には色んな事情を抱えた人がいるんだな」と考えている。ただそんな悟も三キロも離れていてどうして自転車通学じゃないの? という疑問は湧き、ある日、ふと聞いてみたところ「自転車だとせっかくの景色を見逃しちゃうだろう。ゆっくり歩けば景色がよく見えるよ」と答えたという。悟が「学校の通学路の景色なんてたかがしれてるじゃない。それに毎日みていたら飽きるし」と言うと、「毎日同じ景色だと思っていたら同じに見える。でもよく見ると結構違うものだよ」と別所は名前と同じように爽やかな笑みを浮かべた。悟はその意見に完全に同意したわけではないものの、なるほど一理あるかもしれないと思い直し、それ以降別所爽に対して教室の隅っこから秘かに畏敬の念を抱いていた。

 ある日の朝。授業の前の時間。クラスの中心的な生徒たちがスマホを弄りながらテレビの話で盛り上がっていた。悟は沖と佐々木といつものようにクラスの隅で益体もない話をしていたが、太陽の光が地球全体に届くように、クラスの中心にいるグループの会話というのはなんとなく端っこの悟達の耳にも入ってくるものである。女子のリーダー格、姫野さんが言う。

「そういえばさー昨日うちの家の近くでテレビのロケしてたんだよー」

 男子の中心グループの黒川君が「えマジ? 芸能人とかいた?」と大きな声を上げる。

「いたいた」

 姫野さんの口から国民的アイドルグループの名前が出てくる。アイドルとしてはベテランの部類なので、流石に黄色い声こそ上がらないが、こんな地方都市の住宅地で芸能人を目撃できる確率は年末ジャンボの下から三番目に安い賞金に当選する確率と同じくらいなので、つまりは相当珍しいことである。

「すっげー。いいなー」

 黒川君の声が一層教室に響く。

「なんの番組??」と倉持さんが聞く。

「近くのため池で水を抜いて外来魚を捕獲しようってやつ」

「あ、それ見たことある。なんかどろとかさらって、キモい魚とか食べるやつでしょ」

「そうそうそれそれ。それでさ、ゲストがさ、」

 悟たちの知らない芸能人の名前が教室を飛び交う。悟達はそれにあたらないように体をすこし縮めたくらいである。

「うちの学校の池でもやってくれないかなぁー」

「あ、たしかにあの池、汚いよな」

しばらくするとその隣でスマホを弄っていた山本君が今の一連の話とは全く関係のない話題の載ったスマホ画面を三人に見せ「うそー」「こいつやば」という声が上がり、彼らは別の話題に入っていった。

「賑やかだなぁ」と沖が呟いた言葉は悟にはなんだか的を射ていないような気がした。

 その日の放課後のことである。

 その日、悟は教室の掃除当番になっていた。部活がある沖と佐々木と別れると、同じように掃除当番になっていたクラスメイト達と一緒にクラス全員の机の上に椅子を乗せて教室の片側に運ぶ作業を始めなくてはいけない。そろそろ机を運び始めようかという時、別所が教室の窓から何かを見ていたのに気づいた。

「別所くん」と声をかけた。そろそろ掃除やろうよ、と悟は話しかけるつもりだった。除当番は出席番号順で決まっており、ハ行の「別所」はマ行の「丸山」と出席番号が近いので同じ当番だったからである。しかし別所くんが声をかけても反応がない。近付くと、太いフレームが特徴の黒縁メガネの奥の目が何かをじっと見つめているのに気づいた。

悟は別所の横まで近付くと「何見てるの?」と尋ねた。

「学校の池だよ」と別所が答える。

 悟の学校にはグラウンドの脇、ニワトリ小屋の隣に小ぶりな池がある。昔はニワトリと一緒にコイやメダカを飼っていたらしいと、佐々木がいつか話していた。

「池がどうしたの?」

「昼休みに姫野さんたちが話してたんだけど」

「ああ、テレビ番組のロケの話?」

 別所はこくりと頷いた。

「あの番組、池の水を抜いて、泥をさらって、外来種を捕獲するんだ」

「そうだね」

「どう思う?」

 別所君が隣に立つ悟を見る。

「どう思うって……」

 悟はその番組を何度か見たことがある。たしかに普段は抜かれることがない池の水をポンプ車を使って抜いて行き、底を晒す作業は見ていて痛快なものがある。その後に出てきた外来種のカエルや魚はもともとそこにいた在来種の生き物を食べてそれらを絶滅の危機に陥らせているというから、悪い生き物だなぁと思った。

 悟がそう別所に伝えると、別所はしばらく口を閉じまま、今度はグラウンドの野球部が練習を始めようとしている風景に視線を落とし、口を開いた。

「ザビエルがさ」

 ザビエルというのは社会科の教師である。ご想像の通り頭頂部がしっかりと禿げている。

「歴史の最初の授業で日本列島はずっと昔、中国大陸と繋がっていて、僕らの祖先は食べ物や住みやすい環境を求めて後に日本列島となる場所に移住してきたって教えてくれたんだ」

「それ俺も一年生の時に聞いたかも」

「でもその土地にも、色んな動物が既にいたと思うんだよね。その動物の肉を求めて移動しているわけだからさ」

 悟の脳内に猪を追いかける原始人のアニメーションが浮かぶ。

「そうだね」と悟は言った。

「てことは、僕らの祖先も、その子孫の僕らも外来種なんじゃないかな」

 そう言われて、悟はとっさに言葉が出なかった。

自分たちが外来種だなんて考えたことは生まれてから一度も無かったからである。悟は一瞬、自分たちがお祭りの縁日で屋台で売られたり、飼えなくなって池に放されたりする想像をした。それは想像するだに恐ろしい。

別所が言う。

「まぁ、厳密には人間は外来種には入らないらしいけどね」

「え、そうなの?」

「外来種って人間の手によってもともとそこにいなかった生き物のことで、人間自身のことを『外来種』とは呼ばないらしい」

「そうなんだ」

「それでもやっぱり僕は、広い意味では日本人は外から来た種族だと思うんだよね。じゃあ、ここで丸山君に問題」

 言われて身構える悟。

「人間の都合で連れてこられた生き物は、彼ら自体は悪くないのに、悪者扱いされて駆除されるけど、その生き物を連れてきた人間の方を駆除する生き物がいないのはなぜでしょう」

「人間を駆除する生き物? それって人間以外でってこと?」

「うん」

「そりゃ人間より強い生き物はいないからじゃない?」

 自分の回答に悟自身なんだか見当違いな気がしたものの、別所はふんふんと頷いて、しみじみとした口調で言った。

「強いものが生き残る。それだけなんだよねぇ」

 その口調から悟は別所の言いたいことが少し分かった気がした。

「弱肉強食だから、在来種が絶滅しても仕方が無いってこと?」

そうじゃないよ、と別所は答えた。

「僕が思うのは、池にいた外来種のカメや魚のこどもたちが、かわいそうだなって」

「こどもたち?」

「そう。人為的に連れてこられた魚に罪はないけど、その子ども達なんてもっと罪がないじゃない。そこで生まれて自分たちが生まれた場所で当たり前に自分たちの獲物を捕食していたらある日突然人間がやってきて、お前達は外来種で悪いやつだから駆除するよってなるわけでしょう」

「まあ、そうだね」

「それって僕たちと同じだなって。当たり前に生まれた日本という国で暮らして、毎日お母さんが作ってくれる肉や魚の料理を当たり前に食べて生活してる。当たり前のことを当たり前にしているだけなんだ。あの池の中のちょっと醜い顔をしたカメや魚たちだってそうなんじゃないかなって思うと、なんだか切ない気がするんだよね」

 別所はまたグラウンドで部活を始めた野球部や陸上部やサッカー部の生徒たち見た。

 悟は在来種を守るために外来種を悪者に仕立てていた番組の演出をうっすらと思い出す。別所はきっとそこに違和感を覚えたんだろうなと思った。

「丸山くん、別所くん、サボってないで掃除してよー」

 いつまでも掃除を始めないで窓の外を眺めている二人をクラス委員の南さんが二人を叱責する。

「ごめんごめん」と別所が南さんに謝って、箒で教室を掃き始める。

 悟も黙ってそれに加わった。



 テスト②


 咲が忠の逆鱗に触れ、ベランダにロックアウトされた日。悟に鍵を開けてもらい、解放された咲は三十分後には友達とカラオケに繰り出した。これはその後の話である。

 忠に対するストレスを忠とのやりとりごと記憶から消去することに成功した咲はカラオケから帰宅すると、軽い夕食を摂り、自室へ引き上げた。忠は仕事で帰宅が遅れていた。

 いくら咲でもノー勉強でテストに臨むほど愚かではなく、一夜漬けを試みるくらいの常識はあった。

 テスト日程を確認する。明日は英語、数学、国語、というビッグスリーが控えている。咲は高一年の二学期に数学とは絶交しているため、テスト勉強はしない。国語は日本語なので赤点になることはないと早計し、英語を勉強することにした。

「英語は……単語だな」

 咲はそう言うと学校で使っている英単語帳を取り出した。英語のテストを作るのはいつも中山(なかやま)という初老の英語教師であるが、この単語帳の範囲を指定して、その中から単語の意味を日本語で書く形式の問題を十点分、日本語で書かれた例文を(単語帳の各単語には英語と日本語で例文がついている)、ランダムに並んだ英単語を並び替えて英文で回答させるという形式で十点分を出題する。これで二十点なのでここをある程度とれれば赤点回避にぐっと近付く。というより咲にとってここくらいしか正解できそうな問題がなかった。咲は定期テストの度に全ての時間を単語にオールベットしている。

 単語帳を開いた。

 単語帳は折り目のない、まるでついさっき買ってきたばかりの状態である。名詞、形容詞、動詞、副詞とあって、まずは名詞である。テスト範囲を確認してから咲はそのページを開いた。

Problem:問題 a major problem:大きな問題

 中山先生は単語を発音しながら書くと記憶の定着が良くなると教えてくれたので、咲は発音しながらノートに英単語を書いていくのを五回ずつやっていく。なぜ発音しながら覚えるのが良いと先生が言っていたのかは記憶に定着していなかった。

Drama:ドラマ、戯曲

「戯曲ってなんだろう? ……まぁいっか。『それは非常に人気のあるテレビドラマです』

Its a very popular TV drama.

 五回、発音して書き上げていく。しばらく簡単な単語が並んだが、ふと咲はある一文を前に手が止まった。

『このボールペンは録音機にもなります』

 ……。

 え、どういうこと?

 ボールペンが録音機になる? ならないだろ。発想がスパイかよ。

 ついツッコんでしまった。

集中しなければ、と思う反面、ニタニタが止まらない。『録音機』の例文としてこれを作ったところに編集部の遊び心を超えた異常性を咲は感じた。こいつらヤバいぞ、と思ったら笑いが止まらなくなってきたのである。テスト勉強からの防衛反応で部屋の片付けをしたくなってしまうようなものであろうか。

そう思って単語帳をよく見ると、間歇的に可笑しい例文が混じっていた。咲はその例文を英語で、例文に対するツッコミを日本語でノートに書いてみる。

『みんな賛成したが、私だけ反対している』

悪いことは言わないから賛成に回っとけ。

『彼の特長は立ちながら寝られることだ』

すごい、でもそれ病気かも。

『結婚は人生の終点ですか、それとも始発点ですか?』

終点って答える奴いないだろ。嘘でも始発点で!

『彼女の顔を見ると、誰しもが笑う』

お笑い芸人を目指せ。

『あなたは羊肉の串焼きを何本食べましたか?』

そんなもん一本も食べねーよ。

『彼はまだ三十過ぎなのになぜハゲてしまったのか』

確実に遺伝。

『私はダーリアと出かけた』

ダーリアの性別わからん!。

 紙幅は例文とツッコミで埋まっていく。時間は刻々と過ぎていった。

「できた!」

 ノートいっぱいに英語の例文とそれに対するツッコミが日本語で五回ずつ書かれたものができあがっただけである。咲はそれをLINEで、三央と佳奈に送る。

 すぐに既読が付き、

「ワロタ」「また赤点確定やんw」とスタンプとともにメッセージが送られる。

時計は十一時を指していた。

佳奈:テスト勉強、光陰矢のごとし。眠い。

三央:わかるわぁ。でもあと私も英単語だけ叩き込んで寝ないと。

三央:スタンプ

佳奈:咲は?

咲 :わたしの集中力、春の夜の夢のごとし。

三央:いみわかんねーw

佳奈:平家物語、それ前回の国語のテスト範囲! 

咲 :zzz

三央:咲、目を覚まして!

 翌日。一時間目。テスト科目は、英語。

 ふと、ここに小さな奇跡が起きた。

 それはなんと、昨日咲がツッコみを入れた例文から二十問全て、単語と並び替えの選択が出題されたのである。咲はテスト中にも拘わらず人目を憚らずに大笑いした。周りのクラスメイトは皆、丸山咲が赤点を覚悟してついに気が触れたと思ったという。

ただ、咲は大笑したのち、ふと気づいた。

「これって、中山と私のセンスが全く同じってこと?!」

 意外な事実が判明したものの、おかげで咲は今回の英語のテストで赤点を回避することができたとさ。



 自転車が、ない


 ある朝、和子はいつものように弁当屋のパートに出かけようと家を出た。

 気持ちの良い朝であった。いつももより良い目覚めと良いお通じ。咲のお弁当のおかずも冷凍食品を使うことなく昨日の夕飯の残りの手羽先のマーマレード煮と小松菜のおひたしにプチトマトを添え、手早く調理した卵焼きと鮭おむすびで上手くまとまった。忠と悟のワイシャツもクリーニングしたばかりのものを出し、さっぱりとした気分で主人と息子を送り出すこともできた。そういう日は、和子の気持ちも当然晴れやかである。晴れやかな気持ちでエレベーターを降り、晴れやか気持ちで駐輪場に向かう。そこに自転車がなかった。

 ん? という一瞬の心の揺らぎは次第に動揺と呼べる感情へと変わり、「嘘」という漢字一文字ひらがな二文字になって和子の口から飛び出した。

「え、え、え、嘘」

 嘘ではない。

 計百台はあろうかという駐輪場の自転車を目を皿にして捜しても、和子の緑色の自転車は見つからなかった。和子が焦る理由は二つある。一つは当然弁当屋のパートの出勤時間に遅れてしまうこと。しかしそれと同じくらい大きな理由があった。それは自転車が買ってからまだ半年しか経っていないおニューの自転車だということである。鍵は和子が今、右手に固く握りしめている。予備の鍵は戸棚に仕舞ってある。ということは鍵をかけ忘れたわけではない。ではどうして自転車はなくなってしまったのか。

「鍵ごと壊されて、盗まれた……?」

答えにたどり着けないまま、和子は絶望しながらタクシーを捕まえるとパート先へ向かった。

 その日の夕方。

悟が学校から帰ってくると和子がリビングで頭を抱えていた。朝、溌剌たる元気を宿して悟を見送った和子が数時間後には意気消沈している姿を見た悟はびっくりした。

「なんかあったの?」と恐る恐る尋ねる。

「みどりが……」

「え?」

「みどりが……盗まれた」

「みどりってなに? 盗まれた?」

 和子は小さく頷いた。

「自転車。緑色だから愛称みどり」

「……弁当屋は?」

「タクシー。千二百円もした」

「なるほど……」

 悟は水泳の水着を洗濯機に入れる。七月に入り、悟の所属する水泳部の活動が始まっていた。くたくたになっていた悟が夕飯を楽しみにしていると、咲が帰ってきたタイミングで和子がキッチンに向かった。夕食の支度をする間も、和子の頭から自転車の存在が消えることはなく、「咲、ママのみどり、知らないよね?」と咲に聞いては「知らなあーい」という返事に肩を落とした。ダメ元でも今の和子のメンタルには堪える。

 部活動でくたくたの悟が食卓に着く。今日は唐揚げとか、ハンバーグとか、がっつりしたメニューが食べたかったが、食卓に出されたのは、買い置きのカップラーメンと納豆と冷や奴であった。

「今日は買い物にいく力が残ってなかったから、ごめんね」

「わーい、ペヤングじゃん」と咲はソース焼きそばにがっついたが、七月の夕食にカップラーメン絶妙に熱く、悟はなんどもふーふーとペヤングを必要以上に冷ましながら食べた。

 すると数時間後、忠が帰宅し、和子は再び自転車の所在を再びダメ元で聞いて見るも、忠が知るはずはなかった。事情を知った忠は買ってから半年しか経っていない自転車が盗まれたことに悔しさを滲ませつつ、

「まぁ、弁当屋のバイトもあるし、警察に届け出て見つからなかったら、また買うしかないな」と早くも現実的な案を提示した。

 和子は深いため息を吐きだして、「しばらくは歩きね」と意気消沈する。

「まぁ、ダイエットにいいじゃないか」という忠の一言にはイラッとした。

 

 翌日になっても自転車は現れなかった。

自転車というのは、あまり自分から現れるものではない。

 近くの交番で遺失物の手続きをした和子は、「見つかり次第ご連絡します」という心許ない台詞を警官から賜った。見つけ次第ではなく、見つかり次第という言い方に受け身で消極的な印象を受け、警察への不信感を覚えたが、そんなものを覚えてもみどりは帰ってこない。

しばらくは弁当屋へ徒歩で通勤することになった。

忠は何度か「新しいのを買ったらどうだ?」と薦めてきたが、もし新しい自転車を購入したのち、盗まれた自転車が見つかった場合不要な自転車が一台できてしまい、金銭的に損してしまう。そんなよく言えば節約志向、悪く言えば貧乏精神から、和子の自転車のない生活が始まった。自転車がないということは、いつもより早く家を出る必要がある。悟が最近早寝早起きを実践しているので和子もいつもより三十分だけ早く起き、朝六時に起床する。朝ご飯と咲の弁当づくり、洗濯機を回して洗濯物を干した後、いままでは九時四十五分だった出発時間を九時二十分にしてパート先へ向かった。パート咲の三島さんに「私も何年か前に盗まれた自転車、隣町の公園で乗り捨てられてて、無傷でもどってきたから大丈夫よ!」と慰めの言葉に希望の光を見いだしたものの、仕事が終わった後は体が大変であった。買い物があるのだ。今までは買い物袋を自転車のカゴに入れてあとは慣性の法則に任せていれば家までたどり着けたものの、自分で持つとなるとその重さは腕や腰や足にのしかかった。和子は運転免許を持っているが、丸山家の自家用車は忠が通勤で使っているため、お米など重たいものを購入した日は苦しい。二十代の頃はお米を買った日もこれほど過酷な道程を歩まなかったはずであるが、やはり四十五になると事情が変わってくる。その事実に荷物の重みが増すように感じられた。

 今年の七月は、猛暑こそ少ないものの、日中の陽光は当然夏のそれであり、和子の体力と気力を奪い、脇と背中から多量の汗をかかせ、和子は家に帰ったら食材を冷蔵庫に入れる前にまずシャワーという毎日であった。

 自転車はすごいなぁ。次第に和子はそう思うようになった。

 エンジンもモーターも付いてないのに少しの力で長距離を短時間で移動することができるものは他にない。自転車をいったい誰が発明したのか分からないけど、今生きていたらきっとノーベル賞に値するだろうなと和子は思った。自分はそんな文明の利器をこうも何気なく使っていたのかと思うと過去の自分にもっと自転車をリスペクトしてあげて、と一言声を掛けたい気持ちに駆られた。またこの頃に至っては、そこらへんで小さい自転車を乗り回している小学生や、道路の真ん中をママチャリで走るおばあさんには羨望の念を覚える程になっていた。やはりそろそろ購入を検討した方が良いのだろうか。

 ここに至るまでに何度もアマゾンで自転車を調べてみた。

ママチャリだと相場は一万五千円。折りたたみ式自転車だと八千円というものものある。和子の経験上、この手のもの安かろう悪かろうで、価格が高ければそれだけ長持ちする傾向がある。咲の自転車を高校入学時に買い換えた時、イオンで特売していた一万円の通学自転車を買い与えたところ、一年でギアが壊れ、カゴは簡単な衝撃で曲がり二回パンクして修理費で一万円かかった。そのため和子は三万円という少し値の張る「みどり」を近所の自転車ショップで購入したのである。アマゾンの一万五千円という自転車には信が置けない。

和子は懊悩した。もうこれ以上自転車なしの生活は難しい。精神的かつ肉体的に耐えられそうにない。ここから本格的な夏が到来し、炎暑がアスファルトをギラギラと照らしつける中、パートの疲労がたまった体でお米と食材が入ったエコバッグを両手に歩いたら熱中症になって死んでしまうであろう。

一刻も早く自転車が必要である。しかし……。

和子はみどりが帰ってくることをまだあきらめることができなかった。みどりが警察に発見されて戻ってきたとき、みどり二号がそこに居座っていたら、みどりが悲しむだろう。などと考えることは勿論なく、単純にお金がもったいないので八千円の折りたたみ自転車ですらも購入をためらっていた。

「う~ん」

もう盗まれたみどりもうは帰ってこないとあきらめて、三万円くらいで「みどり二号」を買うべきか……。

 ダメだ。決められない。

 決められないまま、和子は歩き続けた。重たい荷物にエコバッグの持ち手が掌に食い込もうとも、脇が汗びしょびしょになろうとも。

 ある日、公園で一輪車で遊ぶ女の子がいた。いまどき珍しいわね、と思うのが世間一般的な印象だろうが、和子は違った。

「一輪車……いいなぁ」

 もはやタイヤが付いていればなんでもいいという所まで来ていた。禁煙中のサラリーマンの禁断症状に近い。

 和子は我に返る。

「だめだめ。いくら自転車がないからって一輪車で通勤できるわけないじゃない」

 我に返り帰途に就く和子の背後からガラガラガラガラという音が聞こえた。

どこかで福引きでもやってるのかしら、と思っているとその音はどんどん増していった。何かが和子の背後に迫っている。そう思い後ろを振り返ると、

 ビュン。と和子の横すれすれのところを大学生らしき風貌の若者が通り過ぎていった。スケートボードに乗って。

「危ないじゃない! こんな田舎の住宅街でスケートボードなんて乗って、東京の代々木公園でやりなさいよ!」

暑さと疲労と偏見でよく分からない非難の声を上げた和子はスーパーで買ったりんごを掴んで若者の後頭部にオーバースローしかけたがすんでの所で踏みとどまった。それはその若者への怒りが急激に鎮火したからではなく、スケートボードに意識が向かったからである。「あれも車輪が付いてる……」

若者は片耳につけたイヤホンの音楽にのり、優雅にスケボーを走らせている。タイヤは小さいが前後に四つ付いているため見た感じ安定したバランスを保っていそうであった。和子が歩いていたのがちょうど舗装が粗い歩道だったためガラガラと耳障りな騒音がしたが、しっかりと舗装された道路ならある程度音も抑えられるのではないか。帰宅すると念のため、和子はアマゾンで「スケートボード」と検索した。すると、

「え、安い!」

 その価格に和子は目を見張った。税込で五千円と少し。自転車の三分の一である。これなら仮にみどりが見つかったとしても悟か咲の遊び道具にすれば損失を最小限に抑えられる。

不思議と羞恥心は感じなかった。

そんなものはこの二週間でどこかへ置いてきてしまっていた。指が自然と「購入」ボタンに向かった。その時。

 テラリーテラリーテッテッテー

 家の電話の着信音である。

 慌てて電話を取る。

「はいもしもし丸山です。あ、はい。ええ。はい」

「ただいまー」と悟が帰ってきた。

 どこかへ出かける支度をしている和子を見て、悟が「どっかいくの?」と尋ねる。

「みどりが見つかったら取りに行くの」

「え、よかったじゃん。どこにあったの?」

「それが、駅の駐輪場」

「乗り捨ててあったの?」

「いや、長期間放置してあったらしい」

「へー酷いことする人がいるね」

 和子は首を横に振ると「ちがうのよ」と言った。

「え?」

「それが、ママが金曜日にデパ地下に買い物に行った帰り、荷物が重くてバスで帰ってきたのを忘れてたみたい」

 和子は俄にばつの悪い表情を浮かべた。

「まじか」

 それから数時間後、無事みどりは丸山家に帰還した。駅の駐輪場に一定期間止められていたので管理会社が警察に届け出たらしい。二週間分の使用料金で千五百円の支払いが生まれたが、それくらいの額で済んで良かったと和子は胸をなで下ろした。あと少し連絡が遅ければ五千円のスケートボードを買ってしまうところであった。よく考えてみれば四十五歳の主婦がスケボーで弁当屋に通い、買い物をして買い物袋片手にスケボーで帰るというのは正気の沙汰ではない。もし仮に実現していたとすれば地元の名物おばさんに成り果てること間違いなしであった。和子はこの経験から二週間という長きにわたり、辛いノー自転車生活を強いられたが、そのおかげで普段何気なく使っている自転車のありがたみを痛感することになった。家族からの「単なるいつもの忘れ物じゃないか」という囂々たる非難は避けられなかったが、和子はひっそりと、これは神様が身近なものの大切さを教えるために自分に与えた試練だったに違いないと思っている。ものは言いようである。



 美容院


 美容院では性格が出る。

 古くは江戸時代より、静岡の地にまことしやかに伝わる格言である。

伝え聞くところによると、言わずと知れた徳川初代将軍、徳川家康公の発言に由来するという。徳川家康は鯛の天ぷらを食べた次の日から現代でいうところの胃がんを発症し、数ヶ月後に亡くなるのであるが、その今際の際、病床に側近の本多正純、金地院崇伝、南光坊天界らを呼び寄せ残した遺言が有名である。「一つ、わしが死んだら久能山にお墓を作ってくれ。二つ、一年経ったら日光に勧請してくれ。三つ、お墓ではわしの体を西向きにしてくれ。西国の大名を見張るような形にしたいからじゃ。四つ、美容院ってやっぱり性格出るよね」

真偽のほどは定かではない。

江戸時代に美容院というものはなかったはずだから床屋と言い換えるのが本当だろうという指摘もあるだろう。実にもっともなことだが、そのような事実を詳らかにすることにさほど意味は無い。格言というものは後生に伝わる過程でその都度変遷していくものだからである。しかし、丸山家のひとびとにおける美容院での立ち居振る舞いをみたとき、家康公の格言が、少なくとも格言の内容自体は正鵠を射ている気がしてならない。


和子はママ友の由美さんから紹介されたヘアサロン「アンシャンテ」に通っている。アンシャンテとはフランス語で「はじめまして」というような意味である。はじめましてと店名が告げている事からも分かるように、元々関東の美容院で経験を積んだ美容師夫婦が縁もゆかりもないこの地に神輿を下ろして始めたお店である。はじめましてという意味の店名にしたい。「いっそ、『ヘアサロン:はじめまして』にしたらどうだい?」そう言ったのは店主だったが、妻は「さすがにダサくない?」と同意しなかった。「それならハローはどうだい?」「チープな感じがするわ」「そしたら二つくっつけてハローハローにしたらどう?」「一歩間違えたら頭の中がお花畑な人たちじゃない」と、こういった経緯でフランス語が採用されたのであるが、大半の日本人はフランス語が分からないため店名から二人が新参者であることを理解した人は未だかつていない。

そんな美容院アンシャンテにどうして和子が通い始めたのかというと、初めてご利用の方はカット無料かつその方を紹介した人もカット無料というサービスを聞きつけたママ友の由美さんが和子を誘ったからである。来てみるとカットの技術は申し分なく、しゃべり上手で聞き上手な奥さんがその卓越した接客術を駆使して和子が気にしている頭髪の悩みや本当は試してみたかった髪型などを聞き出しては、アドバイスを与えたり上手く仕立てて和子を満足させたりした。次第に和子もこの年上の奥さんを「桜さん」と名前で呼ぶようになり、桜さんも和子を和ちゃんと呼ぶようになった次第である。和子はここにくるたび、散髪については桜さんに全幅の信頼を預けながら、会話を楽しんでいる。

「この前自転車なくしちゃってね、二週間もお弁当屋まで歩き」

「え~。この炎天下を?」

「そー。もう脇から汗でちゃって、シャツが染みちゃって大変だったわよ」

「やぁだぁー」

 品のない会話である。

「それでその時に旦那が言ったのが『ダイエットになって良いじゃない』だって」

「まあ」

「ふざけんじゃないわよ、って言ってやろうかと思ったわ本当。自分の内臓脂肪見てから言えって。プリン体制限されてるくせして」

 旦那や子どもに対する口を極めた愚痴も多い。

 無理もない。和子にとって美容院とは散髪をするためではなく、二ヶ月に一回おしゃべりをしてストレスを解消する場だからである。髪をきってすっきりして、ストレスまで解消できるなんてこんないいことはない。そう思う和子であるが、不満がいくつかあった。

それは美容院で得られるメリットに比べればなんてことない、小さな小さなものであったが、告白するとシャンプー台のサイズが合わないという問題である。

どういうことか。これはアンシャンテに限った話ではなく、美容院全般に言えることなのだが、散髪が済んだ後にするシャンプーのシャンプー台に腰掛けると往々にして首が洗髪台の所定の位置より微妙に飛び出てしまうのである。原因はおそらく和子の胴が一般的な女性よりも長いことにあると思われる。恐らく慎重一六五センチくらいを想定して作られている全自動可動式シャンプー台は客が腰掛けた状態で美容師さんがスイッチを押すと古典的なロボットが動く時のような機械音を発しながら徐に動き出して客の頭が洗髪台の真上に来るように設計されている。しかし和子は胴が長いため普通にシャンプー席に腰掛けると最後には首が所定の位置を飛び越してしまい、修正作業が必要になるのである。

和子はそれを度々面倒だと思っていた。

シャンプー台が動き出して停止したときに、「もう少し上ですかね」「あ、はい」というやりとりを嫌った和子は、最近は予め浅く腰掛けておいて、シャンプー台がウィーンと動き出して止まったときに首がベストのポジションにくるように自ら座る位置を調節をしているくらいである。シャンプーと言えば、もの申したいことがもう一つ。白いガーゼ状のものは必要なのかということである。「あれ」により美容師とお客の気まずい視線を回避したり、水しぶきが顔にかかることを防いだりする効果が期待されているのだろうが、それも「水が入ってしまうといけないので、目をつぶっていてください」の一言で済む話じゃない? と和子は思っている。目をつぶっていても話はできるし、そうすれば視線や水しぶきも関係ない。そもそも白いガーゼの下で目を開けているとまつげに当たってむずむずするので、和子はガーゼの下でいつも目を閉じているのだ。それなら最初から目をつぶってくださいでいいのではないか。まぁ、若いお兄さんに洗って貰うと少しドキドキするとか、逆に若い女の子だとおじさんにやってもらうと嫌とかそういうのはあるのかもしれないが……。最初からおじさんに髪切ってもらう以上、それは詮無いことである、と和子は考えている。それから、シャンプーをして貰っている最中。「かゆいところありますか?」と聞いてくるアレ。あれは非常に答えづらい。四十年近く美容院に通っているが、今までに一度として「じゃあ、右側お願いします」と言っている人を見たことがない。仮にかゆいところを洗ってもらうとして「右側がかゆいです。ああ、違うもう少し下で、ああ、そこのやや上」とかベストな気持ちいい箇所を洗ってもらうことを要求して良いのか分からないし、そもそもかゆかったら後で自分で掻く。

そういった疑問を桜さんに聞こうと思うのだが、結局、シャンプー台でも別の話をしていて聞き忘れてしまうのである。


咲もアンシャンテに通っている。

頻度は一ヶ月半に一回。前髪などあまり切りたくない咲は、毎回「整える」もしくは「伸びた分だけ切る」というオーダーで済ませるため、比較的すぐに髪が長くなる。なぜ短くしたくないのかというと自分を最も可愛いと思う長さの髪をキープするためである。桜さんにはその旨を事細かに伝えているため、最近はオーダーを言わなくてもやってくれるようになった。咲は髪を切ってもらうよりもシャンプーをしてもらう方が好きである。前髪も横も見よう見まねで結構カットできるし、後ろは多少伸びても平気だから、咲にとっては他人に頭を洗ってもらうシャンプーを楽しみにしている。

桜さんは絶妙な加減で頭皮をマッサージするように洗ってくれるのでとても気持ちがよく、まるで天国にのぼるような心地である。シャンプーだけ三十分くらいやってほしい。そう思いながらシャンプー台に座っていると、桜さんが話しかけてきた。

「咲ちゃん、ママから聞いたよぉー。またテストダメだったんだって?」

「え、ああ。数学ね。山が外れたわ」

「あんまり赤点だと進級できないっていってたけど」

「うーん。でも数学の杉沢先生、優しいから大丈夫だと思う」

 咲の答えに、桜さんは、ふふふと笑みをこぼした。咲はその声に僅かに目を開く。以前は白いガーゼをかけられていたが、シャンプーされながら喋っていると、鼻がむずむずしていつもクシャミをしてしまうので、みかねた桜さんがガーゼ無しで洗ってくれるようになった。

「咲ちゃんはどの教科が得意なの?」

「うーん。英語かな。この前も単語の問題全当たりして」

「ええ、すごいじゃん!」

「でしょ! 山はったところが全部出た」

「あぁ……また山なんだ」

「運も実力のうちだよ」

 シャンプーとリンスが終わると仕上げのドライヤーに移る。

咲にはここで一つ不満があった。それはドライヤーをかけるときに最後まで乾かしてくれないということである。なぜかだいたいいつも七割か八割くらいしか乾かしてくれない。生乾きで外に放り出されと冬とても寒いのである。確かに全ての客の髪を百パーセント乾くまでブローしていたら時間がかかって仕方ないといのはわかるが、しっかり乾いてないと髪に変なクセがついたり、もわっとしたりして嫌である。咲ならばそんなことは直接桜さんに言いそうなものであるが、言えない事情があった。それはカットをしてくれるのは桜さんなのだが、ドライヤーとたまにシャンプーも、イケメンアシスタントの加藤さんがやってくれるのである。咲にとっては大人な魅力溢れる加藤さんに髪の毛最後まで乾かして欲しい、という子どもっぽいお願いをするのが恥ずかしく、結局生乾きでも「こんな感じでどうですか?」と加藤さんに聞かれると「バッチリです!」とこれ以上無い笑顔で答えてしまうのである。

そんな様子を桜さんはいつも微笑みながら見守っている。


悟も実はこのアンシャンテに通っている。非社交的性格の悟は美容院という交流の場に最も不向きな類いの人間であるが、なぜか髪の毛が伸びるのが早かった。

周りの友達は髪の毛が短い者が多く、二ヶ月に一回の頻度で散髪に行っているが、悟はかなり短めにカットしても一ヶ月くらいでもう元に戻ってしまうのだった。まるで呪いの日本人形のようだと父方の祖母に言われたことがある。そのためアンシャンテに行く頻度がもっとも多いのだが、先に挙げた次第であるから、散髪中はほとんど会話をしない。いつも桜さんの夫が悟の散髪を担当するが、悟はいつも通りカットの注文をすると、難く目を閉じ、話しかけてこないでオーラを全開にしている。その間、何を考えているのかというと、何も考えていない。無心になり、はさみが自分の髪をさくり、さくり、さくり、と切り落としていく音に耳を傾けると心が落ち着く。三十分後に「こんな感じでどうですか?」と聞かれ、目を開けると「あれ、ちょっと切りすぎでは」と思うこともあるけれど、それも止むなしと悟は思っている。第一「すみません、戻してもらえますか」とも言えない。それよりも会話をする時間を極力短くする方が悟にとっては重要であった。そのため無駄なやりとりが目に付くこともある。シャンプーをしてもらった後に差し出される温かいタオルである。「よかったら顔を拭きますか?」と言われるのだが、なぜ顔を拭く必要があるのだろうといつも思っている。顔よごれたのかな? と思って鏡を見ても汚れているわけではない。たまにおしぼりで顔をふいているおじさんがいるけど、それと何か関係があるのだろうかと考えてみたりする。

大人になれば何か分かるのかも知れないと思う悟であった。


その大人の男、忠はというと一人だけ近所の床屋に通っている。

 忠の床屋における重要ポイントは予約が取りやすいかどうかである。忠は、元々の短髪に加え前髪も加齢による生え際の後退とともに切るまでもなくなりつつある状態であるため、カットの技術は不問である。予約が取れなくても問題は無さそうであるが、忠にとって散髪が重要ではないからこそ、予約を断られることが腹立たしい気がしていた。

 カット二千円。シャンプーを入れると二千五百円になると和子に三千円を要求したところ、和子は忠の薄くなりつつある生え際を見上げてから、視線を戻して「家でシャンプーしていけば?」と半分以上本気の口調で言った。それから忠のコースはシャンプーなしのカットになった。そんな感じだからいつも家人から「どこ行ってきたの?」と聞かれて「床屋」と答えると、視線を頭部に向けられ「それで(切ったの)?」と言われることが多い。毛量の減少は認めざるを得ない事実であるから「これでだよ」と笑いながら返事をしつつも、内心少し傷ついている忠であった。

 このように丸山家の美容院での振る舞いを見るなかで四人の性格が、日常生活におけるどのシーンよりも明々白々と浮かび上がってきたのではなかろうか。かの徳川家康もきっと「このシャンプー台、首のところ若干合ってなくない?」と毎回思いながら散髪をしていたのだろう。きっと側近の金地院崇伝や南光坊天界も、「殿、私に至っては出家の身なので、髪がありませんわい」「同じくつるつるてんでございます」「おぬしら、上手いこと言うの! 今日は宴じゃ」

というようなことを繰り広げていたのだろう。



夏祭り


和子の母の政恵は丸山家から車で一時間ほどかかる山間部の緑豊かな地域に住んでいる。和子が生まれた実家がある場所であり、ここに父の壮治とともに三人で暮らしていた。歳は今年で八十を迎える。十年以上前に壮治ががんで他界して以来、政恵はずっとこの地で一人暮らしをしており、これまでに何度か二世帯住宅を借りて家族五人で済む提案をしたのだが、政恵は住み慣れた土地を離れたくないと頑として譲らず、実現には至っていない。介護が必要なら話はスムーズなのだが、毎日元気に近所を散歩したり、近くのスーパーに一人で買い物に行ったりと、傘寿にして依然矍鑠としているため、まだ一人で大丈夫と思っているらしい。そういう油断が大敵なのよ、と政恵の耳にたこができるほど愛のある注意をしているが、政恵は一向に貸す耳を持たない。仕方なく和子は毎日朝起きたらボタンを押して安否を知らせる通信機器を購入して政恵の枕元に設置した。スマホと連動させて所定の時間に政恵からの発信がないと和子のスマホにアラームが鳴る仕組みである。今のところ三回ほど緊急地震速報並みの警報音が鳴り和子の肝を冷やしたが、いずれも政恵のボタンの押し忘れであり、大事には至っていない。

そんな政恵の住む土地、つまり和子の実家には夏になると毎年近くの小山の頂にある広場で夏祭りをするのが恒例となっている。壮治・政恵夫婦が親戚のツテでこの地に越してきた五十年前には既に祭りは存在し、ずっと続いている。当然和子が子どもの頃もよく二人に連れられて祭りに出かけたものである。地域の祭りなので、規模はそれほど大きくなく、特徴と言えば頂上に小さな社があり、そこにお参りをしたり、広場で「火渡り」という火の粉が舞う炭の上を裸足で歩くという南米部族の祭礼的イベントが開催されたりするくらいである。当然人々の関心は火渡やお参りではなく、山頂に至るまでに軒を並べる縁日の屋台であり、かき氷、リンゴ飴、綿菓子、落書きせんべい、お面、水飴、射的、金魚すくいなど縁日の定番屋台に関して、やれあちらの店の方が五十円安かったとか、あの店の景品の方がいいとか子ども達の嬌声と屋台の人の威勢の良いかけ声、どこからか流れてくる祭り囃子の音楽がごく平凡なアスファルトの道路や山道を非日常的世界へと一変させるのである。そこへ孫を連れて行こうと毎年この時期になると政恵は和子と咲と悟を呼び、楽しいひとときを過ごすが楽しみであった。

「ばあばがお小遣いをあげようね」

政恵の家を四人で出ると、政恵が財布から千円札を取り出すと三枚ずつ咲と悟にそれぞれ渡した。現ナマである。

 待ってましたとばかりに咲が歓声を上げた。

「うわ、ありがとう! 今日はこれでお祭りを満喫できるね」

和子は「三千円もいいのに」と遠慮する。咲の上手いところはお小遣いに対して全力の謝意を表現しつつ、結局縁日で欲しいものを見つけると、真っ先に「ばあば、あれなんだろう?」と屋台にすり寄り、「たこ焼きだねぇ。食べるかい?」という声に「うん!」と頷くだけで、結局政恵や和子に自分の分を買わせる、もしくは政恵や和子の分として買った物のお相伴に預かるという狡っ辛い手を使うところである。余った余剰資金はプールされ、後日遊興費となる仕組みである。その手練手管に気づいているのかいないのかは分からないが、政恵も孫の笑顔を見るためにお祭りに出かけているためたこ焼きを買ってあげることは本懐のようであった。悟はというと年々凄みを増していく姉の魂胆を憎々しく思いながらも、自分は与えられた三千円から好物のリンゴ飴を買ってなめつつ、三人の一歩後ろを歩いていた。この手の人口密度が高めの場所は悟にとって好ましい環境ではないが、和子に強制的に家から連れ出されるため行かないという選択肢がない。ましてやテカテカと赤く光るリンゴ飴に釣られてやってきたわけではない。断じてない。

 山道に近付くにつれて、徐々に人混みが増してきた。

ただでさえ暑い夜に、道幅が十メートルの通路を行き交う人の熱でさらに体感温度が高まる。祭りというのは申し訳程度に導線が定められているが、子どもなどが多いため徹底されることはなく、こちらから行く人と向こうから来る人と斜めから走ってくる人と、下にうずくまっている子どもなどなどさまざまな障害がある。まるで夜の障害物競走だと悟は思った。先を先頭にしてしばらく歩くと四人はひらけた場所に出た。そこに屋台が円を描くように並んでいる。

「あ、かき氷食べたい!」

咲が暑さに耐えかねてそう言い出し、政恵が「じゃ、買おうか」と応じる。

「あんたも食べる?」と和子が悟に尋ねた。

「うーん、いい。たぶんもう少し先で買った方が安い気がする」

悟は節約志向である。

「じゃあ、ここでちょっと待ってて。ママもかき氷食べたくなっちゃったから買ってくるよ」

「わかった」と言って悟が頷くと、咲と政恵と和子は白抜きに赤字の暖簾が下がるかき氷の屋台へと歩いて行った。かき氷には数人が並んでいる。その列に三人が加わった。その光景を見てちょっと時間がかかるかもしれないなと思った悟は、縁日の屋台と屋台の間にぽっかりと空いた何もない空間に身を寄せた。広いところに突っ立っていると必ずと言って良いほど誰かに追突されるからだ。その位置から三人が見えるので、かき氷を買い終えたタイミングで悟のほうから合流すればいいだろう。そう思っていると、つんつんと、誰かが悟の半袖のTシャツの裾を引いた。

「ん?」

振り返ると、小学生低学年くらいだろうか。白いシャツに赤いチェックのスカートを穿いた女の子が悟を見上げていた。

「お兄ちゃん、」

 ……お兄ちゃん?

「え、俺のことかな」

 キョロキョロと周りを見回してもそこには悟しかいない。少女が頷いた。

「お兄ちゃん、お願いがあるの」

「え、……えっと……」

 俄に悟は慌てた。いきなり知らない少女にお願いをされる経験がなかったからである。そして残念なことに不意を突かれた時の悟のコミュニケーション能力は小学校低学年の少女以下であった。

「え、え、えっと、……なに?」

「お願いがあるの」

お願いとはいかに。まさかかき氷おごってくれとか、そういうお願いだろうかと悟は考えた。たしかに悟のポケットにはまだあと二千五百円のお金が入っているが……。

「お姉ちゃんがね、いないくなちゃったの」

 悟は一先ず胸をなで下ろした。

「……なんだ、迷子か」

いったい見ず知らずの子どもに何を要求されるかと、びくびくしていた自分が恥ずかしい。悟は「どのへんでいなくなったの?」と尋ねた。

 少女は「あっち」と言って、向こうの山道の方を指差す。そこから段差の低いアスファルト敷きの階段を三百段ほど上がったところが山の山頂で、広場と神社の社殿がある。神社への参拝のために祭り客はとりあえずその階段の山道を登っていくので、下りてくる人も遭わせると人出はもっとも多い場所である。少女もきっとその間にお姉さんとはぐれてこの屋台の広場まで下りてきたのだろう。

「どうしようかなぁ」

 悟は和子達が並ぶかき氷の屋台を見遣る。まだ列の半ばであり、もう少し時間がかかりそうであった。

「お兄ちゃん……」と少女は悟のシャツの裾を再び引く。

 悟は俄に女の子をお姉さんのもとに送り届けたい気持ちに駆られた。目の前で健気に救いの手を求めるあどけない少女を放っておけない。しかし、悟は顔を上げる。

この雲霞の人だかりから少女のお姉さんを捜しあてるのが困難を極めることは言うまでもない。和子達を待ってから、祭りを運営する町内会の人たちの下へ少女を預け、無線放送かなにかで呼んでもらおう。少女のお姉さんだって今頃この子を探しているはずだから、放送により高い確率でお姉さんの元へと届けることができるはずである。悟がそう断を下したときだった。

「あ、お姉ちゃん」

 少女が姉を目撃したのか、人混みの中を指差した。

「え、どこ?」と悟も少女の小さな人差し指が指す場所に目をこらすが、人並みにはそれらしき人がいない。それらしき人がどれらしき人なのか分からない悟が困惑していると、少女が人混みに向かって走り出した。「あ、危ないよ」と悟は反射的に声を掛けたが少女は止まらない。このまま少女を行かせていいものか。悟は悩んだ。平時の悟であれば、積極的消極性を以て少女が走り去っていくのを見送ったことだろう。悟にとって少女は赤の他人であり、山へ登ろうが海で泳ごうが知ったことではない。しかし今日はお祭りであり、所謂お祭り気分は悟にも伝染していた。つまり、いつもとは勝手が違ったのである。まさか悟の中に「お兄ちゃん」と言って自分を頼ってくる存在を見捨てられないという母性本能が芽生えたわけではないだろう。気づいたときには「ちょっと待って!」と言いながら、悟はその少女の後を追っていた。


 一方そのころ。

政恵が「ブルーハワイって言うのは何味なんだい?」という質問をしたせいで店のお兄さんが返答に困るなど、ただでさえ他のお客が並んでいるのに余計に時間がかかっていた三世代女性チームは、無事にかき氷を購入し、悟が待つと言った場所にいないことに気づくと、はてと首をかしげた。

「私たちが時間かかってたから先に行っちゃったのかな」と和子が言うと、「大変、まさか迷子かね」と政恵が俄に動揺した。

「あいつ中二だよ? さすがに迷子はないでしょ。毎年来てるし」

 咲がこともなげに言う。

「そうかねぇ」

「そうそう」

そう言いながら咲は買ったばかりのイチゴ味のかき氷を口に運ぶ。氷の冷たさとほぼ同時にやってくる圧倒的なシロップの甘さが、うだるような夏の夜の暑さを一瞬忘れさせてくれる。

「あー頭キーン、キター」

咲にとって悟よりもかき氷の方が圧倒的に大事であった。

「しょうがないわねぇ、とりあえずLINEしてから私たちも行こうか」

 和子がそう言ってスマホを取り出す。

「いまどこ? ばあばたちと上にのぼってるよ、送信と」

メッセージを送ると、三人はゆっくりとした足取りで山道に入った。

山道といってもしっかりとコンクリートで舗装された低い段差の階段に、脇にはずらっと頂上に駆けて電気提灯がぶら下がっており比較的老人にも易しい道のりである。咲と和子はかき氷をプラスチックストロースプーンで口に運びながら、自然と政恵のペースに合わせて階段を登っていった。

「あーもう食べ終わっちゃったあ。かき氷って最後溶けるのはやいよね」

 咲がかき氷が入っていた発泡スチロールの容器をブラブラと振ってみせる。

「ゴミ箱までもってなさいよ」と和子が釘を刺すと、咲も「はーい」と答えた。

 和子が「お母さん、かき氷たべる?」と政恵に尋ねると、「いい」と政恵は短く答えて首を横に振った。

とぼとぼと階段を上っていく。すると八合目あたりで山の一部を平らにして作ったらしき広場に出た。広場の一角には砂場とシーソーといった簡単な遊具があり、その手前で祭りの屋台がまた何台か出ている。煌々たるライトの明かりで黄色い暖簾の文字が見えた。やきそば、たこ焼き、焼き鳥という祭りの三大焼き物屋台が一堂に会している。夜風に乗ってただよってくるソースやタレの臭いに三人は吸い寄せられていった。

「咲ちゃん、たこやき食べるかい?」

「たべる!」

 政恵がたこ焼きを買い、和子が焼きそばを買い、咲は焼き鳥を二本買い、ちょうど空いた近くのベンチに腰を下ろした。

たこ焼きのパックを開けると、ソースと鰹節の匂いがたまらなく食欲をそそり、咲は早速つまようじ刺したたこ焼きを、大口に放り込んで賞味した。

「うまい! でもあつい」

「大丈夫かい」とあわてて政恵が心配する。

「大丈夫、かき氷で口が冷たくなってたから助かったあ」

 咲が笑うと、その笑顔を見た政恵もまた笑顔になる。

「咲ちゃんはほんとに大食いだねぇ。大きな口で」

「へへへ」

「咲、うまいじゃなくて、美味しいって言いなさい。まったく」と和子が言葉遣いを注意するが、和子の注意は右から入って左から抜けていった。

 和子は仕方ないわねぇ、と言ってからレバーのタレのももを一つ頬張る。咀嚼して飲み下してから言った。

「やきそば、たこ焼き八百円。やきとり一本百円。スーパーで普通に買えばもっと安く買えるのにどうして祭りとなるとこんなに買っちゃうのかね」

 政恵が満面に笑みをたたえたまま、「そんなの、」と和子のつぶやきに反応する。

「みんな焼きそばにお金を払ってるというより、お祭りにお金払ってるからだろう」

 和子も焼き鳥を口に入れながら納得したというように、少し頷いた。

「なるほど、童心に返ってるわけか」

「そうよぉ。昔は今よりも娯楽が少なかったからねぇ。年に一度の夏祭りに多くの大人が関わって、盛大にやったもんさ。あんたが高校生の頃なんか、周りの子どもはみんな祭りを喜んで参加しとったでしょ」

「そうだった、そうだった」

 和子は幼い頃の日々を思い出すかのように山の木々を見上げた。

「そういうのも、今は随分減ったねぇ」

 政恵も広場にポツンとある遊具を感慨深げに眺めて呟く。

「今はもう小さい子どももいなくなっちゃったねぇ。時代だねぇ」

「そうだねぇ」

咲もふむふむと頷きながらたこ焼きと焼きそばを食べる。

「あ、たこ焼き残しておいてよ、悟にも。あとで食べるから」 

 そう言って、和子はプラスチックのパックを指差す。

咲はしぶしぶ口に入れようとしていた最後の一個をパックに戻した。

「さぁ、早く上に行って、悟と合流しましょう」

「えー暑いからもうちょと休んでこうよ~」

そう言ってごねる咲を政恵もたしなめた。

「咲ちゃん、悟ちゃんが待ってるわよ。それに、頂上まではもうすぐよ」

 咲は不承不承に「はーい」と返事する。

 そして再び三人は階段へと向かった。悟を待たせるのは悪いと思いつつ。

 

一方その頃、当然悟は待ってなどいなかった。待ってはいないが、こまっていた。

 少女が悟のTシャツの裾をつまみながら、姉を見たという方向に進んでいくのを、悟は後ろから追っていったのだが、しばらく走っても少女は止まらない。山頂へと続く階段の道を通り越して、更に悟たちが来た方向とは逆の方向に進んでいる事に気づいた時、少女はようやく足を止めた。悟が追いついて、尋ねる。

「どう? お姉ちゃん、見つかりそう?」

 少女は振り返って悟を見ると、「いなくなちゃった」と首を振った。

「もしかしたら違う人だったかも知れない」

「ええー」

 ここまで走ってそれかよ。

悟は内心そう思ったが、すぐに「お兄ちゃんとしての威厳」という名の不要な見栄が顔を出し、努めて済ました表情を浮かべた。

「ところでお姉さんは何歳?」

「お兄ちゃんと同じくくらい」

「じゃあ十四くらいか」

 今日、悟と同い年くらいの女の子は数人見てきたが、いずれも妹を探している様子の人物はいなかった。

「お姉ちゃんの名前は?」

「サヤ」

「サヤさんね。ところで君の名前は?」

「私はクミ。スギヤマ、クミ」

「クミちゃんね。じゃあ、ここをずっと捜しても埒があかないから、お祭りを運営している人たちのところに行こうか」

 クミちゃんはきょとんとした顔を浮かべた。何かと思ってしばらく待つと、悟に向けてこう質問した。

「らちってーなあにー?」

「……」

 どうやら埒があかないの意味を聞いているらしい。非常に好奇心旺盛な女の子である。しかし……

「ねぇ、ねぇ、らちってー?」

「えっと、つまり、うーん」

 小学生低学年の子に「埒があかない」の意味を説明することほど難しいことはこの世にない。悟はしばらく考えてみたが、説明することはできなかった。

「『らち』ってなあにぃ?」

「あのね、えっとね、」

「ねぇねぇ、『らち』ってどういう意味ぃー?」

「クミちゃん、あんまり『らち』っていうのやめてね」

まるで悟がこの少女を拉致したと受け取られかねない状況である。悟が中学二年生でなければ警察が呼ばれていただろう。

 仕方が無いので説明は諦め、悟はクミを祭りを運営する人たちのもとへ届けることにした。悟は成り行きからクミの手を取る。小学生とは言え女の子の手を握るということは、悟にとっては緊張の一瞬であったが、握った手が思ったよりも冷たくて、きっとこの子も不安なのだと思い至った時、「お兄ちゃん」の責任感がまた少し顔を出して、悟はクミの手を少し強く握った。ここに来る道すがら背中に「祭」の文字が刻された法被の中年が交通整備をしているのを見かけていた。その人にクミを引き渡せば悟のお役目はご免である。しばらく歩いて、最初にクミと出会った屋台の広場へ戻ってくる。広場の前を通ったときに悟は政恵以下三名を捜したが、三人の姿はなかった。恐らく悟が先行して頂上の神社へ向かったと思い、先に進んだのだろうと思う。念のためスマホで連絡を入れておくかと悟はポケットをまさぐって「あ、」と声を上げた。

「どうしたの?」とクミが聞く。

「いや、スマホ忘れてきちゃった」

「スマホってなあに?」

「携帯電話だよ」

「携帯電話?」

「そう。お兄ちゃんのママ……お母さんに預けたんだった」

 普段からそこまでスマホを使わない悟は、祭りなど人が多いところでスマホを落とさないように和子に預けていた。一度咲が商業施設でスマホを忘れて大騒ぎになったことがあるからである。今回も和子の手提げの外ポケットにしまってもらったのを忘れていた。これでは和子達と連絡をとる手段がない。悟はしばらく考えたが、考えても仕方ないということに気づいた。なるべく早くクミを自治会の人たちに預けて自分も頂上に向かわなければ、こんどは悟自身が迷子として捜索されてしまう。

 そんな夏休みの笑い話になるわけにはいかないと、意を決して歩き出すと二人は程なくして法被のおじさんを見つけた。おじさんは交通整理で使うような棒状の赤いライトを持っており、車が通るところで大きな声を上げて、信号の役割をしていた。

 近付こうとすると、クミの足が止まった。

「どうしたの?」

「あのおじさん、怖い」

「怖い?」

 たしかに法被の男性は濃いめの髭面で、ずいぶん険しい表情で交通整備をしている。おそらく暑いからだろう。悟も他人に声をかけるのは苦手なので気持ちはクミの気持ちは理解できた。

「じゃあ、お兄ちゃんが聞いてきてあげるから、待っててね」

 クミはこくりと頷いた。

車がいなくなった折を見て、「すみません」と駆け寄る。

「うん?」とおじさんが悟を見た。

「迷子の子どもの家族を呼び出したいんですけど。どうすればいいですか?」

 おじさんは一瞬考えて、

「ああ、迷子放送か」と考え至った。

 それなら上の社務所だな、と続ける。 

「上の社務所って山の上の神社の横のですか?」

「そう。他に社務所はない。そこで放送をしてもらって、親には社務所に来てもらうことになってる」

 大人の男に「他に社務所はない」などと言われると非社交的な性格の悟はすくんでしまう。内心はこの人にクミを預けて社務所まで連れて行ってもらうか、この人に仲間を呼んでもらってその人に連れて行ってもらおうと考えていた悟だったが、心理的安全上の観点からそれを口にすることは叶わなかった。「分かりました。ありがとうございます」と会釈をしてクミのもとへ戻っていく。

 クミが悟の顔を見る。

「お兄ちゃんと一緒にもう少し上まで上がろう」

 どのみち、神社には三人を追いかけて行かなければいけない。悟はクミの手を引いて、今度こそ山頂の神社へと続く階段へ向かった。


 山頂の広場は燃え上がっていた。

 比喩ではなく、文字通り。

 広場の中央に木の棒と縄で仕切られた空間に黒い土と灰がまかれ、その周りには藁に火がくべられてキャンプファイヤーのように燃えさかっている。近くで鳴る和太鼓の律動に合わせて、長蛇の列の人たちが一人、また一人と裸足で火の粉が飛び交う「灰の道」をかけていく。

「うわ、でた!」と咲が目を見開いた。

「ほんと、何回みてもすごい光景よねこれ」と和子が言うと、近くの生け垣の石に腰を下ろした政恵が呟くように言った。

「それでも前よりは炎が弱まってる気がするね。昔はつむじかぜで火がついた藁が巻き上がって近くの木々に引火してね、あわや山火事かなんて年もあったねぇ」

「それ本当?」

「本当だよ」

 階段を上がってきた人がぞろぞろと神社のお参りの列に加わり、お参りを終えた人々のうちの五分の一くらいの人たちが火渡に参列する。火を渡らんとするのは男性や子どもが多いが、中には若い女性や和子くらいの年の女性もちらほらいた。

「お参り行く?」と咲が促すが、和子は「おばあちゃんが疲れてるからもう少しまちましょう」と答えた。政恵は年の割には元気だが、そうはいっても今年八十になる後期高齢者である。高さは低くても何百という階段を上ってきた疲労はあった。

「はーい」と咲が政恵の隣に座ってスマホを弄り始めた。

「それで、悟はいる?」と和子が辺りを見回す。頂上の広場はある程度ひらけており、提灯と燃える炎で視界は悪くないが、悟の姿は見えなかった。

「ここに来るまでは一本道だし。もしかしてまだ上がってきてなかったのかしら」

 和子はスマホを取り出して、ラインを確認するも悟は和子のラインをまだ読んでいなかった。

「悟のやつ、スマホ持ってる意味ないじゃん」と、咲がケラケラと笑う。

「そうねぇ。あの子はそんなに携帯使わない子だからね」と自分で言ってから和子はようやく気がついた。悟がスマホを自分に預けていたことに。手提げのバッグの外ポケットを探ると果たせるかな、悟のスマホが出てきた。

「あちゃー忘れてたぁ」

それを見た先が「え、マジ?」と今度は呆れたような顔で言う。

 和子のうっかり爆弾が爆発した。悟と連絡する手段がないことに気づき、急に少し心配する和子に咲が提案する。

「とりあえず、ちょっと待ってみてのぼってこなかったら私たちが探しに行けば良いんじゃない? 階段は一本道だし」

「うん。でも階段を下りてもいなかったら?」

「それは……うーん」

 咲が答えに窮していると、政恵が「そこの社務所に無線の放送があるはずだよ」と救いの一案を提示した。

「無線放送?」

「そう。なんか合った時用に電柱の上についとったでしょう」

「えーそんなのあったっけ?」

「ある。あんまり使われないけどね」

 政恵の助言により、少し待っても悟が来なかった場合は和子が下まで下りていき、その間に悟を発見できなければ、無線で呼び出してもらうことに決まった。

「ママ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。ディスニーランドじゃないんだし。たかだか地元の町内のお祭りじゃない。悟だって昔はよくここらで遊んでたんだからさ、ばあばの家までの道順だって知ってるし。最悪勝手に帰るでしょ」

 和子は少し悩んだものの、咲の言葉も一理あるなと考え直した。

「まぁ、それもそうね。何も初めて来るところじゃないしね。大丈夫よね」

「じゃあ、もうしばらく待つかね。それにしても今日は暑いねぇ」と政恵が手で内輪をつくって煽いだ。

 

 その頃、悟はというとまた更に困ったことになっていた。

 山頂の神社へと続く階段の手前、山の麓の少しひらけた場所を通った時だった。クミが「あ、」と声を上げた。

「どうしたの?」

「あきこちゃんと、まさるくんと、ともくん」」

 クミが指差す方にクミと同じくらいの年の少年と少女三人が木の根の周りを何やら叫びながら走り回っている。

「クミちゃんのお友達?」

「そう」

この熱帯夜で、かくまで活発に動けるものかと悟が感心していると、クミがずんずんと少年達の下へ進んでいった。

「え、ちょっとクミちゃん? お友達より咲にお姉ちゃん探そうよ」

 しかし、悟の制止はクミの耳に届かなかったらしい。クミは少年達と合流すると、しばらく何やら話し合いの時間を持ち、そして彼らを悟のもとへ連れてきた。

「「こんばんは」」と少年少女が声を揃える。

 悟は十四年の人生において、複数人の子ども達に囲まれた経験がない。恐る恐る挨拶を返した。

「……こんばんは」

 クミちゃんが言う。

「まさるくんとあきこちゃんとともくんがね、お腹が空いたんだって」

「うん」

「それでね、たこやきとやきそばとやきとりが食べたいんだって」

 見ると、近くの屋台にはたこ焼きと焼きそばと焼き鳥というイオンのフードコートのようなラインナップが並んでいる。

「でもね、お金がないんだって」

「……うん」

「だから、お兄ちゃんに買って欲しんだって」

「……」

 それは、また、なんというか……。

 悟はポケットに入った二千五百円を確かめる。お金はあった。しかしこれは悟の今日の軍資金である。まだリンゴ飴しか買っていないうちにこの子達にやきとりとやきそばとたこ焼きを買ってしまえば三分の一くらいしか残らないだろう。

「お兄ちゃん、買えない?」

 難しい質問である。

 悟が返答に窮していると、まさる君と呼ばれる男の子が心配したのか、

「上にも屋台があるけど、こっちの方が五十円安いよ。僕は上の屋台でも良いけどね」と徐に言い放った。

 どうやら着実に悟が購入する雰囲気になっている。これはいけない。そう悟は思った。

「買えないことはないけどね……お兄ちゃんにも買うかどうか決める権利があるよ」

 するとクミが純粋無垢の瞳で悟を見つめた。

「『けんり』ってなにぃ?」

「……」

 十分後、目の前に並んだやきそばとやきとり四本とたこやきとオレンジジューズにはしゃぐ小学生達を眺めながら、悟は今日はとことんついていないなと思った。流石にやきそばとたこやきとやきとりを飲み物なしで食べるのは残酷なので、水でも一本買ってあげようかと思ったのだが、少年少女は全員一本ずつオレンジジュースを所望した。押し切られて買うことになったバヤリースを開けて、悟はグビグビと音を立てて飲む。

「ああ、美味い」

 暑い夏の夜に飲む冷えたジュースは最高である。

 クミちゃんがたこ焼きを一つつまようじでつまむと、「あげる」と言って、悟にくれた。

「ありがとう……俺が買ったんだけどね」

 しかしクミちゃんのあどけない表情が悟の心を穏やかにしたのは言うまでも無い。

 たこ焼きを味わっていると、ふと疑問が浮かんだ。

「ところで、君たちはお父さんとお母さんは?」

 クミはお姉ちゃんとはぐれたが、この子達の付き添いが見当たらない。付添がいないからこそ、悟のポケットマネーが搾取される結果となったのである。

 ともくんと呼ばれる少年が言った。

「お母さん達は下にいるよ」

「え、いるの?」

 それではなぜ悟が食べ物や飲み物を買わされたのかという疑問が真っ先に浮かんだが、それをぶつけるには目の前の子ども達は幼すぎた。概ね子どもをここらで遊ばせて自分たちはビールでも飲んでいるのだろう。ここに来るまでにテントの中で赤ら顔をした中高年を何度か見てきた悟はそう断じた。クミのお姉ちゃんの「サヤ」は悟と同年代ということであり、さすがに飲酒をして妹を忘れているわけではないだろうが。いずれにせよ一刻も早くクミを社務所に届けなくてはならない。悟はそう思った。

「クミちゃん、そろそろ行こうか」

「もう?」

「うん、お姉ちゃんがきっとクミちゃんを捜してるからさ」

 クミは友達の顔を見て、後ろ髪を引かれているようだったが、最終的には頷いた。

 悟はクミの手を引いて、再び階段を上り出す。クミが言った。

「お兄ちゃんはお姉ちゃんいないの?」

「いるよ」

「なんで一緒にいないの?」

 悟は少し考えて、

「うーん、どちらかというと一緒にいたくないタイプのお姉ちゃんだからだよ」と言った。


 咲がくしゃみをした。

「夏風邪かい?」と隣に座る政恵が聞く。

「違うと思う。たぶんこの火渡の煙と火の粉のせいかな。鼻がむずむずする」

「それもそうだねぇ。煙が体に悪い気がするねぇ」

そんなことよりと、和子が口を挟んだ。

「もう二十分以上待ったけど、悟がこないわ。いくらゆっくりのぼってきても二十分はかからないんじゃない? この階段」

「そうかね。私はかかるけどねぇ」

「それはお母さんはね」

「たこ焼き食べてるんじゃない? 下とかで」と咲が言った。

「そうかもしれないけど……でもやっぱり心配になってきた。私が下まで見てくるわ。咲はばあばとここにいて。もし悟が見つかったら携帯に電話して」

「分かった」と咲がサムアップする。和子は政恵を見てから「お願いね」と言い残して階段を下りていった。

「まったく、和子はほんとに昔から心配性だねぇ」

「だねー」

 残された咲と政恵は特にすることがなく、人間の習性で何の気なく燃え上がる炎と飛び交う火の粉を眺めた。

「それにしてもさ、」と咲が声を出した。

「なんだい」

「なんで火渡なんてへんなことしてるの?」

 咲の疑問に政恵は「わからんねぇ」と言った。

「ばあばも知らないの?」

「うん。ばあばがここに引っ越してきたのがはずっと前だけど、その時からあった行事だからね。考えたこともなかったねぇ」

「へぇ」

 黒土が敷かれた部分を裸足で女性がかけていく。数年前まで実際にあの中を走っていた咲や何十年前に走ったことのある政恵はあの土や灰が実は外から見るほどには熱くないことを知っているが、その行事の由来は二人とも知らなかった。

「うちの家の近くの神社でも毎年夏祭りやるけど、こんなことしないよ?」

「まぁ、そりゃしないだろうねぇ。私もここくらいしかやってるところ見たことないし」

「それに、なんか火渡は盛大にやるけど、この神社? はかなり小さいよね。私の家の近くの神社の方が大きい気がする」

 政恵は細い目を少し開いて、神社の社を見た。

「そういえばそうだねぇ……咲ちゃんは観察が鋭いねぇ」

「え、ほんと? 初めて言われたかも、人生で」

「そうなのかい。ばあばは咲ちゃんはいい目をしてるって昔から思ってたよ」

「いい目? 確かに視力は両目とも一、五あるけど」

 はっはっはと政恵はゆっくりと大笑した。咲はそれを見てきょとんとしていると、そこへ一人の男性が通りかかった。政恵が気づいて声を掛ける。

「ああら、こんにちは」

「おお、海野さん、こんにちは」

 海野(うんの)というのは政恵の苗字、つまり和子の旧姓である。政恵の知り合いらしかった。背が高く、作務衣姿の男性は、ほぼ白い頭髪から忠よりも一回り上の年齢と見える。

「韮山(にらやま)さんご苦労様です。今日は天気が晴れて良かったですねぇ」

「ええ、ええ、ほんと、去年は途中から雨が降ってきましたから大変でした」

「今日はもう祝詞は上げられたんですかね?」

「ええ、もう仕事終わりです」

 男性は穏やかな表情でそう言った。隣に座る咲を見て、「お孫さんですか?」と尋ねる。

「そうです。咲ちゃん、挨拶してね。こちらこの神社の神主の韮山さんだよ」

「丸山咲です。どうもお世話になってます?」

 韮山さんが笑みをこぼす。

「こちらこそ。いつも海野さんには自治会で色々助けてもらってます」

 深々と礼をする韮山神主に咲も珍しく背筋を正して頭を垂れた。

 政恵が言う。

「そうだそうだ、韮山さん、ちょうど良いところにいらっしゃった」

 韮山神主が政恵の方を向いて「なんでしょう?」と聞く。

「この子に今さっき、『火渡』をどうしてやってるのかって聞かれてねぇ、私も長いことここに済んでるけど、知らなかったんだよ。韮山さんなら由来を知ってるだろう」

「火渡の由来ですか」

 それまで笑顔だった韮山神主は一瞬だけ眉間にしわを寄せ、言葉を選ぶような間を取った。

「まぁ、知ってはいますよ。お知りになりたいですか?」

その表情はさきほどの笑顔に比べると少し冴えない。

「実はあんまりいい話じゃないですが……」

「そうなのかい?」と政恵が受ける。

「ええ、まぁ、言い伝えのようなものなので」

「なに血なまぐさい話かね?」

「血、はでてこないんですが。子どもには少し酷かもしれないですな」

 韮山神主はそう言って咲を一瞥した。

「そう言ってるけど、咲ちゃん、どうする?」

「え、私? 私はグロい話いける方だよ」

「こう言ってます」

「はあ」

 韮山神主は少し考えてから観念したというような顔をして、言った。

「では単なる言い伝えとして聞いて下さい。このあたりの山で昔、江戸時代の終わりくらいから、神隠しがあったんですよ」

「「神隠し?」」と政恵と咲がオウム返しをする。

 神隠しと言えばジブリしか知らない咲は、この山に八百万の神の疲れを癒やすお湯屋があって、湯婆婆や釜爺がいたのかと思ったが、そんなわけはない。

「つまり、ここらで人が消えたってことかね」と政恵が聞く。

韮山神主は頷いた。低く、落ち着いた声で続ける。

「数年に一回の頻度で子どもが行方不明になったと言い伝えられとります。当時の住人たちは、それをこの辺りの山の神の祟りだと思っていたとか。小山の天辺に社を建てて、農作物を献上し、定期的に参拝できるようにした。そして夏になると、他の神社でも行うように神の怒りを鎮めるために縁日と火渡を催すようになったわけです。つまり、」

 韮山神主は一拍置いてからこう言った。

「これは神に見せる余興なんですな」

 政恵が火渡に目をやる。

「神様に見せる余興ねえ」

神主も政恵に釣られるようにして振り返り、同じように火渡りに興じる人たちを見つめら「そうなんですよ」と呟いた。

咲は韮山神主の話を半分くらいしか理解できなかったが、なんとなくシリアスな感じの話だということは伝わり、胸の内が少しばかりぞわっとするのを感じた。次にこちらに向き返った韮山神主の顔が先ほどの穏やかな表情に戻っていたので、安心することができたのだが。

「もっとも、最近で行方不明になった人はいません。三十年前に遠藤さんという、ここら一体の地主の娘さんがいなくなったことはあったんですが、その原因が神隠しだと考えている人はやっぱりそこまで多くはないですな。単なる人さらいだったんじゃないかって。当時は警察も今ほど真剣に捜索してくれなかったですし、人出も足りなかった。誘拐があっても、いなくなった人が見つからなかった。まぁそういう事情もあっただろうということなので、皆さんには、ぜひこの祭りの由来など気にしないで、縁日や火渡を好きに楽しんでもらえればいいなと考えとります」

政恵が韮山神主の話を聞き終えると、「そうだったんだねぇ」と嘆息する。それを見届けた神主は「今夜は特に暑いので、熱中症には気をつけて」と気遣いの言葉を言い残し、社務所の方へ戻っていった。

 祭りの喧噪が大きくなる。忘れていたうんざりするほどの暑さが蘇ってきた。

「暑いねぇ」と咲が言う。

「暑いねぇ」と政恵が返す。

「ねえねえ」と咲が聞いた。

「なんだい?」

「さっきの話って、つまり、どういうこと?」

 政恵は細い目を見開いて、言った。

「咲ちゃんはいい目は持ってるんだけどねぇ……」


 一方その頃、悟はクミと階段を上っていた。階段段の差は低いが奥行きが大きく、おそらく数百段しかないものの、はてしない距離を感じた。悟一人ならいくら隠れ帰宅部たる水泳部所属と言えども、これくらい一気に駆け上がってしまえると悟は固く信じているが、隣に小学生女子を連れているとなるとそうもいかない。クミの歩幅に合わせながら階段を上るのに苦労する。半袖のTシャツが汗で背中に張り付くほどの暑さの中、悟は頂上を目指していた。人通りは先ほどよりいくらか減っており、先ほどよりいくらか歩きやすい。

「お兄ちゃんは全部の名前なに?」

「全部の名前……ああ、苗字か……丸山悟だよ」

「まるやまさとる?」

「そう」

「お兄ちゃんのお姉ちゃんは?」

「お兄ちゃんのお姉ちゃんはまるやまさき」

「まるやまさき」

 悟は当然クミの質問の意図が分からなかったが、この年ごとの子どもの発言に意図などあるはずがないので気にせず言った。

「クミちゃんは『すぎやまくみ』だろ?」

「うん」

「クミちゃんのお姉ちゃんは『すぎやまさや』だろう?」

 うん、という返事が返ってくると思ったが、意外にもクミは首を横に振った。

「ちがうの?」

「うん。ちがう」

 どういうことだろうか。少し考えて、悟は思いついた。

「そうか、親戚のお姉ちゃんってことか」

 しかし、クミはまたきょとんとした顔を浮かべている。

恐らく親戚という単語の意味が分からないのだろう。親戚くらいは説明できそうだと考えていると、その時は突然訪れた。

「クミ!」

 上から声がした。

顔を上げると、頂上付近に少しひらけた場所があり、そこから悟と同い年らしき少女がクミを見つめていた。クミが「お姉ちゃん!」と声を上げてその子に駆け寄っていく。そこでこの子がクミの姉のサヤだということが悟にわかった。

 サヤの心配そうな表情が少し剣を帯びると言った。

「どこに行ってたの。ずっと捜してたのよ。お祭りだからってそんなにはしゃがないようにいったでしょう?」

 叱られてクミは少しシュンとしてしまう。

「ごめんなさい」

「怪我はしてない?」

「うん」

「お腹は空いてない?」

「うん、大丈夫」

「そう、それはよかったわ」

 悟はその光景を少し下から見上げていた。非社交的人間の免許皆伝を受けている悟ほどの者が、初めて会う同世代の女子に話しかけられる可能性など万に一つ無い。このような場合、ことの成り行きを遠目から見守る他なく、悟はサヤの着ていたTシャツのキャラクターがどこかで見たことがあるような気がして記憶を探っていると、クミが思い出したかのように言った。

「あのお兄ちゃんに助けてもらったの」

 クミがそう言うと、サヤは目を驚いた表情で悟を見た。君さっきからそこにいたけど、私たちに関係ある人だったの? という顔である。悟はそういった反応には慣れていたので、そこに動じることはなく「どうも」と言って、会釈した。なりゆき上、悟も階段を上って二人に近付く。

「そうだったの」

サヤはそう呟くと、すっと背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。

「クミがお世話になりました。本当にありがとうございました」

 悟も釣られて頭を下げる。

「いえいえこちらこそ」

 よくお金を巻き上げられましたとも言えない。

 クミが言った。

「ねぇお姉ちゃん、『らち』ってどいういう意味?」

「らち?」

「うん。さっきお兄ちゃんが私にらちって言ったの。意味が分からないから教えて欲しいの」

サヤが訝しげな表情を浮かべる。

「あ、それは、」

悟は背中から違う種類の汗が出て来るのを感じた。

「それは、つまり『埒があかない』って言っただけなんです」

「ああ……そういうことですか」

サヤは得心がいったような顔をしたので悟も安堵する。迷子の少女を助けた末に誘拐犯と勘違いされてはたまらない。

「それでは私たちはこれで」と言って、サヤが暇を告げる。クミが悟に手を振って「お兄ちゃん、ありがとう! またねー」と言った。

「もう迷子にならないようにね」

 悟は二人が階段を下っていくのを見送る。二人が人並みに隠れて見えなくなると、ふうとため息を吐き出した。ようやく終わったのである。迷子の子どもを助けるのは楽ではないと学んだ。まぁ、社務所まで届けなくて済んだのは不幸中の幸いというやつなのだろうけど。代わりに多くのお金と時間を失った。

 気を取り直して広場を通り過ぎ、再び階段を上がっていくと、程なくして和子が下りてきた。

「あ、いたいた!」と和子が声を上げて階段を下りてくる。

「悟、あんたどこにいたの?」

 和子は少し息が上がっていた。心配させてしまったらしいと悟も気づく。

「ごめん、ちょっと迷子の女の子を助けてた」

「なによそれ、本当なの?」

「うん。クミちゃんていう小学校低学年くらいの女子が迷ってたんで上につれていこうとしたら、ついさっきお姉ちゃんが見つかったんだ」

「そう……それは偉い子としたね」

 和子は半信半疑である。しかし、悟が見つかったので一先ずよかったと胸をなで下ろした。

「ばあばと咲が待ってるから、行きましょう」

「うん」

悟は和子とともに上に上がっていく。頂上で二人と合流すると咲が悟の顔をみて言った。

「あ、いた! あんたなにしての?」

 悟が面倒なので無言を貫くと、代わりに和子が答えた。

「なんか迷子の女の子を助けてたんだって」

「えー、絶対嘘じゃん」

「嘘じゃねーよ」

 悟にもなけなしの名誉がある。

「そんなこと言って、どうせ買い食いしてたんでしょう」

「してない」

「じゃあ、残金出しなさいよ」

 悟がしぶしぶ千二百円を取り出すと、咲は鬼の首を取ったかのように「やっぱりじゃん!」と大きな声を上げた。

「迷子の子とその友達に買ってあげたんだよ」

 悟が説明しても、咲は「そんなのあり得ないでしょう」と尚も悟を糾弾する姿勢を崩さない。政恵が間に入り「まあまあ、咲ちゃんももういいじゃない。悟ちゃんも帰ってきたことしだし。それが何よりよ。ばあばはさっきから悟ちゃんが神隠しに遭ったんじゃないかって心配してたんだから」

「神隠し?」と和子が聞く。

「さっき、ここの神社の神主さんが来てね、火渡の由来を教えてもらったのよ。なんか昔小さい女の子が神隠しに遭ってその祟りをとめるために始まった催事らしいのよ」

「へぇ知らなかったぁ、そんな物騒な由来があったんだ」と和子が驚きの声を上げる。

「でも、俺は男だから大丈夫だよ」と悟が言う。

「そうだねぇ。その悟ちゃんが助けた迷子の子が危なかったかも知れないねぇ。悟ちゃんがその子を神隠しから救ったかも知れないねぇ」

 悟は神隠しなんて非現実的な、と反論しようとしたが、疲れていたので止めて「そうだね」と応じる。

「気を取り直してお参りして行きましょうか」と和子が言うので、それから四人は神社の社殿にお参りをして、火渡りはせずに、政恵宅への帰路に就く。


 帰りがけ、悟は今日ずっと食べたくて食べていなかったかき氷を、下の屋台で買った。

選んだのは定番のいちご味である。

白い氷の上に真っ赤なイチゴシロップがたくさんかけられた、かき氷をおじさんから受け取る。悟はプラスチックのストロースプーンで氷をすくう。サクリ、サクリと音をたたせて全体をかき混ぜると、氷の白がイチゴシロップの赤に染まる。こうすると味が染みて美味しくなるのだ。一口食べる。思った通り美味しい。二口目を口に運ぶ時、イチゴ味のかき氷の色がふと、クミが着ていた白いシャツと赤いスカートを思い出させた。

「せっかくなら、クミちゃんにも食べさせてあげたかったなぁ」

 悟はそう呟いてから、かき氷を食べた。



 夏休みの宿題


 夏の日差しと蝉しぐれ。そう聞くとなんだか風情があるようだが、実際は午前中から強烈に照りつける日差しと叫び声に近い蝉の鳴き声である。それらを一身に浴びながら、悟は自転車で自宅から程近い市立図書館に向かっていた。出発前に天気予報のアプリを確認したところ、午前九時の段階で既に気温が三十度を超えており、悟の額には汗が流れ、着ている半袖のTシャツは汗でぴったりと肌に張り付いている。今日は最高気温が三十五度を超える猛暑日の予報であった。夏休みに入ってから早一週間が経ったが、悟は毎日気温がピークになる前の午前中に家を出て、図書館に向かう日課を過ごしている。当然本を借りるためではない。大量に課された夏休みの宿題を処理するためである。いつもならまだ暑くない時間であるが、今日に限っては炎暑であるため、仕方なく額に汗して自転車を走らせている。なにもそこまでしなくても宿題など家でやれば良いじゃないかと思われる者が多いだろう。しかし悟はそう思わなかった。図書館にはそこまでするに値するものが二つあった。

 一つは静謐な環境。家にいれば咲や和子が見ているテレビの音、和子がかける掃除機の音など、回避不可能な騒音により集中力がどうしてもそがれる。

 二つ目はクーラーである。じつはこちらの方が悟にとっては大きなメリットがある。

 悟の部屋にはクーラーがない。丸山家にはクーラーがある部屋が二つあり、一つはリビング。もう一つは3LDKの部屋のひとつに備えられているのだが、悟は姉の咲より三年ほど生まれるのが遅れたためクーラーの付いた部屋を咲に明け渡す憂き目に遭っている。気象学的に定義されるところの真夏日を超えると往々にして丸山家のクーラーが動き出すのだが、リビングから悟の部屋までには廊下を隔てているため、その冷気を自室で勉強する悟のもとまで届けようとすると扇風機を二台駆使して若干入ってくるなぁ、という程度であり、当然のことながら悟の部屋の扉は全開にしておらねばならず、そうすれば先にあげた家人による騒音へ無防備になるというジレンマを抱えていた。悟は夏の間だけまるで地域のゴミ拾いボランティアのような気構えで水泳部の活動に参加しているため、午後は部活があるのだが、午前中は時間があり、こうして毎日市立図書館に通っては宿題を片付けてから、学校でプールには行って運動をして帰って来るという割に健康的な毎日を送っていた。

 十分ほどで図書館に到着した悟は、自転車を駐輪所に置き、入り口へ向かう。自動ドアを抜けると冷房の効いた室内のひんやりと冷たい空気が悟の頬を撫で、汗で濡れた肌を徐に乾かしていく。

「ああ、最高」と悟は思わず声を漏らした。入り口に設置されているウォーターがサーバーで水を飲めば、準備は万端である。

 満足の足取りで図書館の奥にある書籍閲覧スペース兼、学習スペースに向かい、適当な席に腰を下ろした。まわりの顔ぶれはいつも通りである。夏休みの間に一度は見たことのあるお爺さんとお婆さんが新聞やら雑誌やらを読みながら、時折午睡している。やはり今日も、悟の同世代の生徒はいない。それもそのはず、まだ夏休みが始まって一週間しか経っていないのに、早々に夏休みの宿題を終わらせにかかっている生徒など稀有だからである。

 悟は英語の問題集を開くと、昨日の続きのページに取りかかった。英語で書かれた長文を読み、設問に答える。下線部の単語の意味を答えなさい。下線部の内容を和訳しなさい。下線部の「it」とはどれを指すのか、文章の中の単語十文字いないで答えなさい。次のうち、この文章の内容として正しい文を以下の四つから選びなさい。

 悟は英語が苦手ではないので、比較的すらすらと設問を回答していく。

 

 夏休みの宿題を如何にこなすかは、さながら人生をどう生きるのかの縮図である。

 よく例え話に出てくるイソップ物語の「アリとキリギリス」のごとく、毎日コツコツと働くアリのように少しずつ宿題を終わらせて後で楽をしようという者、宿題なんてやってられるか、とさじを投げ、教師に散々怒られるキリギリスのような者。一人でやるより二人でやったほうが早く終わるじゃないか、と友達や親に助力を乞う者や、そもそも宿題なんて本当にやる必要あるのだろうかと諦念から悟りを開き出す者も現れ、夢と希望溢れる夏休みの一月半に憂いの影を落とす。

 してみると、悟は断然「アリ」タイプだった。悟は他人と意思の疎通を図ることに多少の難がある中学二年生であるが、その副作用として目立つことを避ける傾向がある。他人の目に立つようなことをすれば、余計な会話を発生させ、悟自身をのっぴきならない状況へと陥れてしまう可能性が高いことを経験的に知っていた。たとえば夏休みの宿題において、もし悟が持てる全ての頭脳と財力と権力を行使し、すべての宿題を五日間で終えたとする。悠々自適に残りの期間を遊んで暮らしていると、学校の友達は「宿題はおわったの?」と聞くだろう。悟が「終わったよ」と言えば、その日から悟はあいつは凄いやつだと一目置かれる。そうすればどうやって終えたのかと夏休みの宿題を終わらせる秘訣を聞きに来るだろうし、悟が「ただ頑張っただけだよ」と答えれば、「すごい。実は丸山くんは天才だったんだね」とか「そんなの嘘だ。絶対になにか裏があるはずだ」とか、何かしら打てば響く反響があり、悟にはそれを否定したり肯定したりする手間と労力がかかる。悟がその手間を怠れば、新学期からクラスの中に今も大して存在しない居場所を更に失うことになってしまうだろう。

それを見越して、悟は「早く終える」でも「何もやらない」でもない「少しずつやる」という平凡な方法を選んでいるのであるが、「選んでいる」などと言ってしまうと、まるで悟が周りの人間から目立つ力を有しているにも拘わらず、まるで能ある鷹が爪を隠すが如く敢えて目立たないようにしていると捉える読者がいるかもしれないため、ここは悟の名誉のためにそんなことは一切無いと申し伝えておく。丸山悟はその素材から正真正銘目立たない人間である。正真正銘に目立たない人間であるにもかかわらず、更に努めて目立たないように行動するくらい非社交的人間なのだという解釈が正しい。

そしてその傾向は小学校の低学年くらいから既に発現していた。

小学校低学年の宿題は主に国語と算数のドリルだった。なぜあの問題集のことをドリルというのかは知らないが、ドリル、ドリル、トンネル工事の作業員よりドリルと言う単語を連呼していたのが懐かしい。悟も例年の如く国語と算数のドリルを二冊ずつ配られ、「夏休みの間にこれをすべて終え、裏にある解答をみて○付けをしてくるように」と担任教師に指示され、その日からコツコツと書いていき、夏休みが終わる五日前くらいに無事全て終了した。しかし、その翌日、悟は学校の開放プールで級友と会い、驚くべき事実を知らされる。それは悟がドリルを解く際に計算式などを書くためにノートを使い、ノートに全て問題を写して回答していたのだが、級友達は皆、ドリルに直接書き込んで○付けまでしているということである。

それに何の問題があるのか、と思った方が多いだろう。普通ならばノートに書こうが、そのままドリルに書き込もうが、どちらでもいいではないか、と思うだろう。しかし先に理由を挙げた通り、平凡を旨とする悟にとって、周りと違うということは由々しき事態であった。同調意識ではなく、損得勘定により、小学二年生の悟は、残り三日で約一ヶ月コツコツと時続けてきた四冊分のノートの答えをドリルに書き写さなければならなくなったのである。

翌日から過酷な日々が始まった。朝六時に起床し、朝食を摂ると自室の勉強机にかじりついて正午まで三時間。ひたすら一度解いた回答を書き写すだけの時間が流れた。その後、昼ご飯を食べて小休憩を挟んでから勉強を再開。午後二時、人間が一日のうちで最も眠くなるといわれている時間には、和子のすすめで熱いシャワーを浴び、目を覚ました。まるで中学受験を控えた受験生のようである。しかし、これは夏休みの宿題をするごく平凡な小学二年生である。  

この間、悟にとって最も辛かったことは長い間勉強机に座っていることではなく、夏休みの貴重な時間を答えを書き写すだけという、国語や算数の習得になんの益もない単純作業に費やすことであったことは言うまでも無い。結局悟は精神的に過酷な三日間を耐え抜いた悟はしっかりとドリルに答えを移して担任の教師に提出した。しかし悟を待ち受けていたのは衝撃の結末であった。悟のクラスメイトに大林君というクラスのムードメーカー的ポジションを欲しいままにする生徒がいた。大林君は先生に宿題を提出するときにこういった。

「あ、先生。俺勘違いして全部ノートに書いてきちゃった」

 担任教師は「あら、」というような顔をして激怒するのかと思いきや、こう言った。

「仕方ないわねぇ。まぁやってないよりはいいでしょう」

 悟は愕然とした。

 何かに負けたという気がした。

朝六時に起き、午前三時間午後三時間の計六時間を費やして答えを書き写し続けた三日間が走馬灯のように脳裏によぎった。眠たくなればシャワーで心身を奮い立たせ、まだやれる、まだやれると自分に鞭を打ち続けた日々を思いだした。一体あれは何だったのかだろうか。悟は小学二年生にして世の中の理不尽を覚え、そして立ち眩みがした。

 その経験が中学二年になった今の悟の中に根を張って生きている。どうせ大林君にはなれないのだから、やるとしたら石橋を叩きながらコツコツと正しく生きよう。そう悟は思っている。

 毎日こうして図書館で勉強する間、本当に自分のやっている宿題が求められた手段や方法に適っているのかを確認してから宿題をするようになった。より注意が必要であるが、もう二度とあのような経験をするのはご免だからである。


 悟はそんな日々を一ヶ月以上続けた。

 そして時は過ぎ、夏休みもあと三日という頃になった。

すでにとっくに夏休みの宿題を終えていた悟は残り三日を沖や佐々木と遊んだり、映画を見たり、マンガを読んだりして過ごした。

そしてついに最終日、悟が家に帰ってくると、咲がリビングで勉強をしていた。

「宿題まだやってんの?」と悟が聞く。

咲は悟を睨め付けてから言った。

「もうすぐ終わるって。あと三分の一」

「結構あるじゃん」

 咲は英語の問題集を解いている。咲くらいの学力レベルとなると、夏休みの問題集もさぞ難しいことだろう。

「三分の二もやればもう終わりみたいなもんでしょ?」

「は?」

 悟はソファに身を預けながら咲を見る。

咲は「よっと」と言って、宿題をテーブルの上に置いたまま、部屋に戻ると手にカッターと下敷きを持ってきた。

一体何をするというのだろう。悟が僅かな興味から咲の行動を観察していると、咲は徐にカッターの刃をキリキリキリと抜き出し、英語の問題集のページに刃を入れた。

「え、何してんの?」

 悟が身を起こして声を上げる。「なにぃ?」と言って、咲が至極面倒くさそうに悟を見あげた。

「今集中してるんですけど」

「いや、集中してるって何に?」

「問題集の切り取りに決まってるでしょ。邪魔すんなよ」

「…………はい」

 咲はそう言うと、ゆっくりと問題集を切っていく。既に解いた方と、まだ解いていない方とを切り分ける。シーーーという音が無音のリビングに響いた。

「できた」

 咲は切り分けた三分の一を手に取ると、悟に向けて手でひらひらと振った。

「要る?」

「要らない。どうするのそれ?」

「これ?」

 咲はまた手を振る。

「うん」

「捨てる」

「は?」

「だって、要らないじゃん」

「え、いや……じゃあ……切り取られた後の問題集は?」

「提出するに決まってんじゃん」

 悟は絶句した。

「三分の二くらい解けば、教師も気づかないって」

「いや、気づくだろ!」

「だって今まで気づかれてないもん」

「今まで? それ何回もやってんの?」

「ピカピカの中学一年生から」

 悟は今度は口をあんぐりと開けて絶句した。

 咲は勉強道具と問題集(三分の二)を腕に抱えて、立ち上がる。

「センセイも大変だよ? 高校なら担当教科、一人で何クラスも受け持つから百人以上になるし、そりゃあ、いちいち隅から隅まで確認する暇なんてないでしょう。そもそも夏休みの宿題なんて夏休みに先生が休むために出すものでしょ? 夏休み終わった後にそれいちいち確認してたら先生休んだ意味なーい。答え合わせまでセルフでやらせてるんだから、そこだけ確認すればいいよね、ってなるでしょ」

 そう言って、咲はそのまま部屋に戻っていく。悟の横を通るとき切り取った三分の一の問題集をゴミ箱に捨てながら。

 悟は我に返った。

まるで幻を見ていたかのようだった。しかしそれは実際に悟の最も近くで起きていた現実だった。それを悟は受け入れなければいけない。

 夏休みの宿題を如何にこなすかは、さながら人生をどう生きるのかの縮図である。

 イソップ物語の「アリとキリギリス」ではコツコツと夏の間から食料を貯めて、冬に備えたアリは冬の期間をやり過ごし、夏にサボっていたキリギリスは冬に食料がなくなり死んでしまう。その寓話は、早い段階からコツコツと努力した者は救われて、サボっていた者は痛い目を見るぞという訓話であるが、ここには一つ落とし穴がある。

 それは冬に食べ物が手に入らないという外的環境は変化するかもしれない、ということである。環境の変化に対応した者が生き残ることはチャールズ・ダーウィンが『種の起源』で説いて久しいが、その変化を鋭く分析したとき、たとえば夏休みの宿題を与えられた手段でやらなければ、本当に怒られるのか、「まぁ、やらないよりはいいわね」と怒られない場合もあるのではないか。たとえば与えられた問題集を全てやらなかったとき、気づかれない可能性はないのか。咲の言ったように先生も隅々まで見ていられないという現実もあるのではないか。

そう考えると、冬になれば食料がなくなるという外的環境も疑う必要が出てくる。本当に冬になれば地球上から食料はなくなるのか、暖冬の影響で食料が残っている場所があるのではないか、季節が反対の南半球には食べ物があるのではないか。

キリギリスの知恵では分からないことも人間なら考えられる気がする。

 悟は思った。

そういったことを考えることに、夏休みの宿題の真価があるのではないか、と。

そしてこうも思った。

そんなわけはない、と。



 これどこから持ってきたやつ?


 悟は中学を卒業し、高校も卒業したら、大学生になるのだと漠然と考えている。

 何かこれという夢やなりたい職があれば、そのために大学に進学するとか専門学校に進学するとか、はたまたどこにも進学しないという選択肢もあるのだが、悟には残念ながらそういう類いの追い求めたい夢や全力を傾けたい仕事を見いだしていなかった。そのためただ漠然とこのまま美空ひばりの『川の流れのように』穏やかにこの身を任せていたら、安倍川の先に駿河湾に着くが如く、いずれ大学に流れ着くだろうと思っていた。

 当然大学に通うにはお金が要る。お金を稼ぐ算段はまだ立てていないので、本当に大学生になれるのかは分からないが一人暮らしにはなるだろう、いやならなければならぬ、という気持ちでいた。その理由の一つ、お風呂戦争についてはいつぞや書き記したため割愛するが、その他にも悟が独り立ちしたいと思っている理由が何個かあった。

 一つは自分の服や靴下が戻ってこない。

「これ僕のじゃないんだけど」

 悟が黒いインナーを差し出すと和子はアイロンをかける手を止めた。

「え?」

「え、じゃなくて、これどー見ても女ものだろ。首下広がってるじゃん」

「どれどれ」

 和子は黒いインナーを確かめると、

「ああ、これママのだわ。ごめんね」と言ってひとり高笑いした。

 悟は一体何がそんなに面白いのかと思いながら、自分は悪くないのにまるで悟自身が嘲笑されているかのような不快な気分になるのである。

 家族の衣服を全て把握しろとはいわない。和子が買っているとは言え、上、下、下着、靴下、ハンカチタオルを含めると、四×五=二十種類。靴下は二足ずつあるなど、実際はもっと多くの洗濯物を選別するのは骨が折れるだろうし、そのうちどれが、誰の者であるかを覚えるのは難儀なことだろう。しかし、と悟は思った。自分の衣服は覚えていてしかるべきではないのか、と。

「あ、これは咲のだった」とか「パパのだったとか」は理解できる。しかし、「あ、これママのだったわ。ごめん」はおかしいだろうと悟は思った。実際に靴下が忠のだったり、部活で使うタオルが咲のだったり、一体どうしてコレが悟の下に届けられたのかというものが混入することはそれまでもあったが、悟はこの一件以来自分の洗濯物を自分で畳み、持っていくことを買って出た。

「あら、助かるわ」

 悟はえらいわねぇと言われたが、その心境は複雑であった。

 他にも、共同で使うものに変なものが混じっているというのもある。

悟が朝、起床して一番、顔を洗ってタオルで拭くと、やけに毛羽だったタオルであった。

鏡で顔を見てみると、拭いたところの皮膚がヒリヒリしている。悟はそばを通った和子を呼び止めた。

「ねぇ、これってなんのタオル?」

「ああ、それはパパが車の洗車したときに間違って持って帰ってきちゃったタオルね」

「なんでそんなものが?」

「まだ使えるかなって思って」

悟は顔を顰める。

「てことはこれ、車拭いたタオルってこと?」

「うん」

「車拭いたタオルで顔拭かないだろ、普通」

「そうだけど、大丈夫よ? ちゃんと洗ってあるし」

「そういう問題じゃなくて」

 極めつきは雨の日だった。

 悟が音を立てて降りしきる雨を見て、傘を取り出そうとしたところ、悟の傘がなかった。

「それならさっき、お父さんが持ってちゃったわよ」

「なんで?」

 心からそう思った。

 なんで。

「んー。なんでだろうね?」

「確認だけど、パパだって傘もってるよね?」

「持ってるけど……そういえばこの前コンビニで盗まれたとか言ってたな」

「えー」

 つまり、忠は自分の傘が盗まれたから息子の傘を持っていったということになる。

被害者面をしながら加害者に成り果てたのか。

悟は深いため息を吐いた。

誰のものかわからない黄色くて絶妙に小さい傘をさして、近所のコンビニに向かう。絶妙にはみ出した肩が雨で濡れるのを見やりながら考える。

もし悟が自由に一人暮らしができたら、このような傘がないなどいう問題は起きない。それは物理的に家族と離れることによって、接点が減り、接点が減るから不要な諍いが減るためである。現在享受している様々な恩恵を失うことにもなるが。

雨はしとしとと降っている。

悟はぽつぽつと歩く。

道すがら、野党の政党ポスターを見つけた。「戦争のない国、日本を!」と書かれていた。悟は空想した。

もし国が、悟が今願っているように自由に移動することができれば、戦争はなくなるのではないか。たとえば、ニッポン国に足が生え、よっこらしょと立ちあがって「最近、隣国くんとはなんだかそりが合わないようだから、お互いのために引っ越しするよ」と言って、移動することができればどうだろう。少なくとも土地争いや水争い、信仰や宗教の違いなどによる国同士の大規模な戦争はずいぶん減るのでないだろうか。隣り合っているから争いが起きるのなら、距離を取ればいいじゃない。それができたらどんなにいいだろう。

悟は黄色い小さな傘の骨にサビをいくつか見つけながら、そんなことを考えた。



 チャリ通


 悟の生まれた静岡市の公立中学校は、自宅から学校までの距離が直線で一キロ以上ある家の生徒について自転車での通学が認められている。高校まで脈々と続くこの制度のことを、自転車=チャリによる通学、略してチャリ通という。

 世が平安時代なら、チャリ通をチャリ通(みち)と呼んで藤原チャリ通(ふじわらのちゃりみち)という風な名前があってもいいが、自転車の方が平安の時代に存在しないため、実現はしないだろう。ちなみに自転車とは十九世紀の発明品であるが、そんなことはどうでもよい。

チャリ通では、中学生はヘルメットをかぶらなければいけない。小学生の時は自転車に乗っていてもヘルメットを装着していなかった悟からすれば、なぜ長じてヘルメットをかぶらなければいけないのか不思議であった。まるで自転車に乗れるようになってから三輪車をつけるようなものである。しかしその言を以て教師たちと論戦を繰り広げたとしても規則という名の最強の矛に敵うことはないことはわかっていたし、規則を破って教師からの心証を損ねるのも、他の生徒から悪目立ちするのも悟には不本意であった。仕方なくたとえ夏の暑い日にヘルメットの中が蒸して髪の毛がくしゅくしゃになっても、雨の日にヘルメットの上に雨合羽のフードをかぶるという珍妙な格好で通学させられることになってもヘルメットをかぶり続けた。教師は毎朝、校門や西門の前で自転車通学の生徒がしっかりヘルメットをかぶっているか確認をしており、ヘルメットをかぶっていない生徒がいると厳しい注意が与えられるほか、加えてサッカーのイエローカードのような警告書が発行され、一学期に三回警告書をもらうとレッドカードとなり、二週間の自転車使用禁止令が出される規則があった。片道一キロ以上ある通学路を歩くことは避けたい生徒達はこのヘルメットだけは装着を心がけた。どんなことがあってもヘルメットだけはつけなくてはならないというのはチャリ通生徒の鉄の掟なのである。

しかし悟は身近な人間がこの鉄則を破ったことを知った。悟の数少ない友達の一人、沖である。

昼休み、職員室に呼び出された沖が教室に戻ってくると、開口一番、

「いやぁ、レッドカード」と言った。

 日常生活でいきなりレッドカードと言われてもピンとこない。悟と佐々木がなんのことかわからないで顔を見合わせていると「自転車通学のだよ」と沖が封筒からA4の紙を取り出した。

「え、まじか」と悟が座っていた席から立ち上がり、その紙を奪い取った

 通告書:二年三組沖大樹殿を二週間の自転車通学停止とする~

 悟は通告書を佐々木に渡し、再び沖に目をやる。

沖はばつの悪そうな表情でへへへ、と苦笑いをしていた。

「えー」と言いながら通告書に目を通した佐々木が微笑を浮かべた。佐々木は徒歩通学なのでレッドカードの重みがピンとこないらしい。悟は無論チャリ通のため重々承知しているし、以前和子が自転車を無くした際に、厳しい生活を強いられていたのを見ていたため沖のこの境遇には身につまされる。自転車通学が二週間禁止されるということはたとえば普段から電車や車で出勤しているサラリーマンが一切の公共交通機関を使用することなく自力で出社するようなものであり、仕事の前から一仕事するという辛さがある。

 悟は同情の思いを込めて。「ドンマイ」と言った。ドンマイというのはドントマインドという和製英語の略称である。ドンマイと言って、ふとした疑問を抱いた。

「お前、イエローカードそんなにもらってたのか?」

沖は首を横に振り、「いや、一枚ももらってなかった」と答える。

「じゃあなんでいきなり一発退場なんだよ」

「いやぁ、それは、別にちょっとしたことなんだけどね」

「どうだか」と佐々木が呆れた声を出す。

 ここで悟の親友、沖大樹について少し紹介しておこう。沖という男は天然である。家庭科の調理実習で使う長ネギを学校指定のリュックに入れて登校し、長ネギの緑の部分がリュックからはみ出したまま教室まで悠然と歩いてくる男であり、私用のリュックを学校指定リュックと誤って持ってきては教科書など勉強道具をもろとも自宅に置き忘れ「お前は一体何のための学校に来たんだ」と教師から叱られても平然としている男であり、結局担任から借りた消しゴム付きの鉛筆一本とわら半紙五枚で授業を受けても平然としている男である。そんな沖の「別にちょっとしたことなんだけど」という前置きは実に当てにならない。

「昨日の朝いつものように八時五分に家を出たんだけどさ」という話の入りからうさんくさい。悟の学校では毎朝八時十五分までに登校しなければならないため、八時五分に出れば十分で到着しなければならない。悟の家より学校から遠い沖の家からどうやって十分で登校するというのだろう。そう聞くと、

「俺こうみえても、五十メートル走六秒五だからさ。フルパワーでこげば間に合うんだよ」

「ほんとか?」

「ほんとだよ」

そう言って、少しぽっちゃりとしたお腹をつまんで見せる。

たしかに沖はその体を左右に振り、体重移動によって生まれる遠心力を推進力に変えるという独特の走法で毎回体育の五十メートル走において好タイムをたたき出していた。悟は五十メートル走で一度も六秒台を出したことがないどころか、七秒台の後半であるためなんとなく虫が好かない。

「そういう奴はいつか遅刻するんだよ」という言葉にその口吻が漏れた。

「まだ遅刻してないよ?」

「いつかだよ、いつか! うちの姉ちゃんがそうだから。自転車には無限の可能性がある、早くしようと思えばどこまでも早くこげる! って」

「それ分かるなぁ」

「分かるな。そんなわけねーだろ」

「でもそう思えるとき、あるよ」

こいつらまさか同じタイプなのかと悟が愕然としていると、閑話休題とばかりに佐々木が話を戻す。

「それで、八時五分に家を出て、どうなったんだよ」

「八時五分に家を出て、フルスピードで走ったんだよ。なんか体が軽くてね、まるで自分が競輪の選手みたいだと思ったな」

「危ないなあ」

「ちゃんと信号は守るよ。それでこれなら間に合いそう、あと二百メートルで学校の西門につくって時に、あって思った。ヘルメットをしていないやって」

 佐々木がははは、と乾いた笑い声を上げる。

「本当に体が軽かったわけか、ヘルメットの分」

 沖がはにかむ。

「そう。ただ、もうここまで来てヘルメットを取りに家に帰ることはできないし、俺も困った。こんなところでもたもたしていたら八時十五分になっちゃう」

「そうだな」

「そのとき閃いたんだ。そうだ、徒歩にスイッチすれば良いんだって」

「「徒歩にスイッチ?」」

 悟と佐々木が同時に聞き返した。

 沖は俄に胸を張ると、まるで世紀の大発明を成し遂げたかのように豪語した。

「自転車を降りて、徒歩通学の生徒として正門から入っていけば、ヘルメットは要らないってことだよ」

 二人とも、ああ、と答える。

 つまり、チャリ通だからヘルメットが必要なのであって、徒歩通学者になりすませばヘルメットは必要ないという理屈である。車に乗らなければ無免許運転にはならないようなものか。しかし問題があるとすれば乗ってきた自転車をどうするのかということである。さすがに手で引きながら歩行者ずらするのは無理がある。今まで乗ってきたのがバレバレであるし、「先生、私は今、自転車に乗っていないので徒歩通学生徒です」という一休さんのような頓智を見せたところでそのまま生徒指導室へ導かれるだけだろう。

「そう、自転車を止めるところが無かったんだなぁ」

 沖がそう言うと、悟が頷く。

「そりゃ、ちょうど良いところに無料の駐輪場なんて無いよな。まさか道ばたに放置するわけにも行かないし」

「うん。放置した」

「え!?」

悟の声が上がった。

佐々木の「まじか」という声の後にしばらくの沈黙が下りる。謎めいた沈黙である。

「うん」と沖が頷く。

「うん、じゃないだろ。いったいどこに放置したんだよ」

「民家、の前」

 佐々木が吹き出した。今度は、ははは、と腹を抱えて笑っている。悟はというと笑い半分心配半分という表情で言った。

「自転車は大丈夫だったの?」

「うん。ちゃんと鍵もかけたよ」

「いや、そういう意味じゃなくて、回収できたのかって?」

「回収に行ったら民家の住人が警察に通報していて、撤去された後だった」

「全く大丈夫じゃねぇ……」

 佐々木はもはや教室の床の上で笑い転げている。

「それでさ、自転車に貼ってあった中学のシールで警察から学校に電話があって、教頭がかんかんに怒っちゃって。ヘルメット忘れたことがバレてイエローカード一枚。民家に不法駐輪でイエローカード一枚、警察に迷惑を掛けたことでイエローカード一枚だって」

「野球のトリプルアウトか」

 悟の心からのツッコミは教室の隅で空しく消えた。

 翌日から二週間、沖は徒歩で学校に通い続けたそうである。


 風邪を引いた日


 ピピピピ、と目覚ましのアラームが鳴った。反射的にスマホを手に取り、画面をタッチしてアラームを消す。その後身を起こそうとして、違和感を覚えた。なんだか体が重い。昨日の夜ついうっかり食べてしまったスイートポテトが、という類いの重さではない。なんというか体がだるくて熱を帯びているような……熱!

 和子は額に手を当てた。なんとなくいつもより熱い気がする。

 なんとか身を起こすと時間はいつも起きる時間より三十分遅かった。たぶんスマホにセットされた一回目の時間のアラームを無意識に止めていて、二回目の時間で起きたのだろう。つまりそれは和子の体がさらなる休息を必要としている証拠だった。

 救急箱から体温計を取り出して熱を測る。最近購入した遠赤外線で一秒で熱が測れる優れものである。一昔前は体温計を脇に挟んで十分間も待たなければならなかったため腕の筋肉が疲れて大変だったのに、ずいぶんと楽になったものだが、その文明の利器が示した和子の熱は三十七度五分であった。微熱である。微かな熱と書いて微熱。判断に困る数字であえるが、不思議なもので自分に熱があると分かるととたんに具合が悪く感じられる。以前から一週間くらいそうであった気もするのに、急に喉がなんだかイガイガするように感じる。咳は出ていないが、鼻水は少し出る。

「とりあえず、お弁当は作らない方がいいか」

 お弁当というのは咲に毎日持たせているお弁当である。風邪の菌が入ってはいけない。

 和子はなんとか立ち上がると、隙間から日差しが差し込んでいるカーテンを全開にした。「いつもならとっくに起きている時間なのに、私が起きないと誰も起きないんだから」

 そのままベランダのドアを開ける。玄関のドアも僅かに開けて換気をした。いまさらでも風邪の菌を室外に飛ばそうと思ったのである。

 その音で忠が起きた。

「おう、おはよう」

「おはよう。なんか風邪引いたみたい」

 忠は大いに寝ぼけており、「誰が?」と聞く。和子は舌打ちしたい気持ちに駆られたが耐えて「私に決まってるでしょう……」と声を落とす。

「ああ、そうか……熱は?」

「七度五分」

「そうか」

そう言うと、少し考えて、

「一応休んだ方がいいな」と忠はまだ寝ぼけた声で言った。

「そうよね」

「薬は?」

「市販のやつ切らしてたから後で買ってくる。朝ご飯、買い置きの食パンとかでテキトーにお願いします」

「うん」という返事があったので、和子は先ほどまでは忠が寝ていた畳の一室に自分の布団を持って行き、襖を閉めた。先ほどまで寝ていた忠の布団は隅に畳まれているが、一晩部屋に補充された忠の加齢臭が残っているため、ベランダのドアを開けて換気する。その間に消臭剤を部屋にスプレーしているとパートのことを思い出した。今日はシフトに入っているので、休むなら連絡を入れないといけないのである。店長の携帯に電話を入れるか迷い、思い直して三島さんにかけた。

 少し早すぎたかと思ったが、幸い三島さんは三コールで電話に出た。

簡単に事情を説明すると、向こうから「それなら今日代わりに私、シフト入ろうか?」と言ってくれる。

「本当ですか、お願いできますか?」

「何言ってんのぉ、こいうときはお互い様でしょう」

「ありがとうございます」

 快諾してくれた三島さんに心から感謝しつつ、店長の携帯に電話する。「ふぁい」と明らかに今の今まで寝ていたであろう声の店長が「なにかありましたか?」と尋ねた。

「すみません、実は朝起きてから体調不良で、熱を測ったら三十七度五分あったので、今日の勤務をお休みさせていただいてもよろしいでしょうか。代わりに三島さんが入っていただけるのでお願いしました」

 店長は「今日お休みさせていただいてもよろしいでしょうか」のところで「ああぁ」と悲嘆に暮れた相槌を打ち、三島さんに代わりを頼んだという段では九死に一生を得たというような「あぁぁ」という声を出した。

「承知しました。そういうことなら大丈夫です。代わりの人立ててくれて本当にありがとうございます」

「いえいえ。こちらこそすみません。今月残業時間四十時間超えそうでしたもんね、店長」

「そうそう。危ないところでした」

 和子は電話を切ると、ようやく布団に入った。

 こほんこほんと少し咳が出る。眠れるかどうか一抹の不安を抱いた和子であったが、劣悪な労働環境下にいる店長にとどめを刺すことを免れて安心したのか、はたまた単純に身体が休息を求めていたせいか、恐らく後者であろうがすっと眠りに落ちた。

目覚めたのは午前十時である。頭が働かず、三時間くらい寝ていたらしいと計算するのにもしばらくかかった。体調はというとあまり変わらず、むしろ先ほどより体のだるさを覚える。身を起こし、襖を開けると家には誰もいなかった。そういう時間である。起上がるとしんとしたリビングを横切り、冷蔵庫の扉を開ける。ポカリスエット的飲料はないかと探すがみつからない。いつもは悟や咲がコンビニで買ってきたこの手のペットボトル飲料が冷蔵庫の牛乳パックコーナーに刺さっており和子が麦茶を入れようとするのをブロックしているが、欲しいときにないものである。仕方なく蛇口を捻ってコップ一杯の水道水を飲み干す。

「買いに行くか……」

薬も買ってこないといけないと思った。そういえば朝から何も食べてないし、食欲はそこまでないが、ご飯を食べないと治るものも治らないだろう。

和子は重たい体で外着に着替えると、なるべく暖かくして自転車で近所のドラッグストアへと向かった。自家用車は忠が乗って言っているので使えない。秋の涼風を全身に受けながら、いつもよく行く生鮮食品なども販売するドラッグストアに向かった。パートに帰りにいつもトイレットペーパーなどの消耗品や、化粧品などの美容品、冷凍食品やお菓子などを買っているが、実は薬の購入を目的にドラッグストアに行くのは久しいため、風邪薬の売場がなかなか見つからなかった。ご丁寧に売り場の上に「風邪ぐすり」と書かれた札が吊られていることに気づいたのは和子が薬売り場を一周回ってからである。

棚一面に市販薬が並んでいる。

ざっくりと目を通す。

これは、一体どれが一番効くのだろうか。

そう思いながら箱のパッケージを見ていく。「鼻のかぜ」「喉のかぜ」「咳のかぜ」とかかれているものを発見した。和子の場合は咳の風邪であるが、その薬を手に取ってからふと思った。

「これって咳だけにきくってことかしら」

 咳と熱だけ収まっても今度鼻水が出てきたらこの「鼻のかぜ」を買わなければいけないのだろうか。その後喉が痛くなったら? 今度は「喉のかぜ」だろうか。壮大ないたちごっこである。そんなことをしている暇はない。

 すると和子は棚の一角に「総合かぜ薬」なるものを発見した。総合と書いてあるのだから全体的に効くのだろうと解釈する。これがいいだろう。そう思って手に取ると、その商品名が微妙に違う事に気づいた。具体的には「スーパー」「プレミアム」「エクストラ」という得体の知れない横文字が並んでいる。和子は少し考えた。

 スーパーは分かる。スーパーマンのスーパーである。凄いという意味だろう。ではプレミアムは? もっとすごいのか。プレミアムはスーパーより凄そうだが、エクストラとどっちが上なのだろうか。和子はすでに発熱している頭で沈思黙考していたが、ついに脳内回線がショートしたため、店員さんを呼んだ。

「これってどれが一番効きますか?」

 優しそうなお兄さんが丁寧に説明してくれ、結局「風邪のひきはじめならこれですね」と言って葛根湯を薦められた。和子は葛根湯を買った。

 

 家に帰えると、先ほど購入したたまごがゆをレンジでチンして食べ、葛根湯をお湯で飲んでから布団に入る。ご飯を食べて薬を飲むとなんだか無敵になったような、鬼が金棒を得たような気分になる。安心したのか気づけばまた眠りに落ちていた。

どれくらい寝ていたのだろう。

目を覚ますとまだ辺りは明るかった。陽が出ている。

 布団の中で身動きをすると、衣服が汗で濡れている。

起き上がって先ほどのポカリの水分をトイレで排出すると、熱が下がるときってこんな感じだったな、と思い出す。と同時に無性に、生きている、という気がした。

そのまま浴室に向かい、シャワーを浴びて、着替えると、少し体が軽い気がした。もしかしたらもう平熱に戻ったのではないか、と体温計で計るとまだ七度四分である。熱に体が慣れただけらしい。けれど倦怠感はずいぶん取れ、体が正常に近付いている気はした。耳が寂しくなったのがその証拠である。テレビをつけると昼のワイドショーが流れていた。見るともなしにつけておく。

 誰もいない家に一人。テレビの音だけが流れた。

 和子は横になりながら、ふと頭に、ずっと昔、自分が小学校の高学年くらいの時の記憶が浮かんだ。風邪を引いて部屋で寝ていると和子の母、政恵が生姜牛乳を作って持ってきてくれた。当時政恵は近くのクリーニング店で働いていたが、休んでくれたのだろう。

風邪を引いたときは心細い。まるで自分だけ世界から取り残されているかのような気分に陥る。この時間なら学校のみんなは三時間目の授業中かな、とか、今頃体育の授業で長縄跳びをしてるかなとか、自分がいるはずの場所で流れている時間を想像していたら、なぜか涙が溢れてきた記憶がある。そんなとき政恵がそばにいてくれたのは嬉しかった。

 大人になって流石にそんな寂しさや悲しさに駆られることはないまでも、風邪を引いて家で寝ていると、自分がちっぽけな存在であることを和子は感じる。ポカリとか、葛根湯とか、パックのおかゆとか、色んなもののおかげで自分は生かされている気がする。

いつの間にかまた、眠りに落ちていた。

 

襖が開く音がして目を覚ました。悟だった。

「大丈夫?」とこちらを心配しつつも、ちゃっかり自分に風邪が移らないように最低限の距離を取っている。和子は微笑みながら「うん。寝たらだいぶよくなったよ」と答えた。それでも悟は和子の顔をじっと見つめると、「でもまだちょっと顔赤いね」と言って襖からひょいと姿を消すと湯飲みを置いたお盆を持ってきた。

「なにこれ」

「柚子湯」

「あら」

 ゆず湯とは瓶に入った柚子の皮入りジャムをスプーンでひとさじすくって湯飲みに入れ、そこにお湯を入れるだけでできる簡単な飲み物である。和子は柚子が好物なのでよく飲んでいるが、それを悟は知っていたのだろう。

 一口頂くと、柚子の香りと供にツンとする甘さが体を温める。

「どう?」

「美味しい。ありがとう」

「飲み終わったらお盆に置いておいて」

「ありがとう」

 普段は恥ずかしがり屋で面倒くさがり屋の悟がこんな風に和子を心配してくれるのは意外だった。普段から冷静沈着すぎて周りの人に冷たい印象があることを和子は内心では心配したのだが、こうして周りの人を思い遣ることができるのならばそれは杞憂なのかも知れない。

 それから程なくして咲が帰ってきた。咲は帰ってくる前からマンションの廊下を走ってくるので音で分かる。ああ、来たなと思っていると扉が元気よく開いて「ただいまー」と声がする。襖から咲の顔がひょっこりと和子を覗く。

「ママ、コンビニでプリン買ってきた。冷蔵庫入れとく?」

「ありがとう。そうね、お願い。そういえば、今日のごはんは?」

「なんかパパが帰りに吉野家買ってくるって」

「そう。よかった」

 噂をしていると、出張だったからかいつもよりずいぶん早い時間に忠が帰ってきた。

 また襖から覗く。

「大丈夫か」

「ええ、ずいぶん良くなった」

「そうか、よかった。鍋焼きうどん買ってきたから作ろうか」

「ありがとう」

 風邪を引いた日は、家族の支えが有り難い。人間とはまるで路傍の石ころのようにちっぽけな存在で、それ故に周りの支えが必要である。それは和子が小学生のころも、そして四十年以上過ぎた今も同じである。



 方言が欲しい


 これは絶望的に暇な昼休みのことである。

 悟は沖と佐々木いつも通り三人一組になり、これまたいつも通り陰気に教室の隅からグラウンドでサッカーに興じるクラスの中心的人物達を睥睨しつつ、グラウンドでサッカーをしない組のスリートップを形成していた。

佐々木が自分の机に突っ伏したまま言う。

「五時間目数学かよぉ。だるー」

 既に会話は尽き、会話というより感嘆が口々に漏れる。

隣に悟が「はあー」とため息を吐くと、その隣に立っていた沖が「数学より理科だよね」と言った。

三秒くらい遅れて「なにが?」と佐々木が聞くと、「なにがって?」と沖が答える。やはり会話になっていない。男子中学生の昼休みというのはこの世に何一つ有益なものを産み出さない時間である。教室の窓からそよ風が流れてきて、薄緑色のカーテンを揺らした。「沖は数学より理科の方がだるいって言いたいんだろ?」と悟が助け船を出すと「ううん、そうじゃないんだ。数学より理科の方がまだ人生において使える教科じゃないかなって思っただけ」と沖は平然と答えた。悟は顔を顰める。沖という男と以心伝心を試みた自分が間違っていたという表情である。そもそもさして転がすつもりもなかった数学の話題に面倒くさくなった佐々木は「あっそ」と言葉を落とした。

だらだらと不毛な時間を送りながら、それが不毛であるという実感すらないまま、三人は昼休みを過ごしていた。そんな時。

佐々木が言った。

「方言っていいよなぁ」

 またどうせ転がす気の無い会話なんだろうと思った悟はその発言を完璧にシカトして窓から青空に浮かぶ雲を眺めていたが、沖が「うん、いいよね」と返事をし、佐々木がそれを受けて「マルヤンもそう思わない?」と同意を求めてきたので悟は「どういうやつ?」と尋ねた。

「関西弁、大阪弁、京都弁、あれ? 関西弁と大阪弁って同じだっけ? まぁいいや。博多弁、東北弁。いろいろあるけどどれも話しただけでそのあたり出身ってわかるじゃん」

「それが方言だからな」

「そういうのが、俺らにはないじゃん」

「うん。まぁ」

 悟たちが暮らしている静岡市の人々はイントネーションが標準語に近く、仮に都会人に混じって一分間会話をしたとしてもどこの出身か分かることは恐らくない。山間部に行けば悟の母の政恵のようにそれなりになまっている人たちもいるが平野部にはほぼいない。

「~やん、とか普通にいってみたくね?」

「ネイティブ関西人的な?」と沖。

「ネイティブアメリカンみたいに言うな」と悟がゆっくりツッコむ。

「そうそう。こう、自然な感じで。女子の九州弁とか可愛いよね」と佐々木ががわずかに興奮する。悟は九州の方言を聞いたことがなかったのでピンとこなかったが、結局佐々木が言いたかったのは方言ではなくて方言を話す可愛い女子だと看過した時、沖が「方言ってさ、それだけでアイデンティティがある気がするよね」という言葉に感興を催した。

 ――アイデンティティ。

それは悟たちのような教室の後ろの方で非生産的な会話を繰り広げている日陰者にとっては喉から手が出るほど欲しい幻の秘宝であり、大半の若者が青春時代の全てを賭して命からがら手に入れる大人世界への通行証だと聞く。

 そんな人生における重要なパスポートが方言をマスターするだけで手に入るのだとしたら、それは割のいい話である。特に将来は関東に活動拠点を移す予定である悟にとって、議論する価値のある話題であった。

 悟は急に真面目な口調で言った。

「静岡県の県民的アイデンィティってなんだろうか」

悟の問いに佐々木が気のない返事をする。

「富士山じゃね?」

 富士山。静岡県の北東に位置する日本一高く、美しい山。確かに静岡の誇りである。

しかし、と悟は思った。

「富士山は、もはや日本の象徴って感じじゃないか?」

「世界遺産だしね」と沖も続く。

「たしかにそうだな」と佐々木。

それに富士山は山梨県と折半する秘密的条約が水面下で結ばれているため、仮に日本全体の象徴でなかったとしても静岡の独占は適わない。それはさておき、

「じゃあ他になんかあるかぁ?」と悟が聞いた。

「お茶じゃないかな」と沖が言った。

「やっぱりお茶か」

 お茶であれば確かに静岡が全国的にも有名であり、茶処のとしての矜恃もある。ただ問題は、

「どうやってお茶でアイデンティティを表現する?」

 ということである。沖が手を上げる。

「常に『静岡茶』と書かれた緑茶のペットボトルを持ち歩くとか」

「『静岡茶』と書かれた商品なんてあったか? コンビニで見たことないけど」

「え、この前ドラッグストアの入り口に一本五十円で山積みされてたよ」

 五十円。ドラッグストアの入り口。

「なんかパッととしないよなぁ」

「でも安いから僕らの小遣いでも買える値段だよ? 高かったらいつも持てないじゃない?」

「買えたとしても、そんなんいつも持ち歩いてたら筋金入りの節約家みたいだろ」

「そうしたら、本物の茶葉を持ち歩くとか」と佐々木が言い出したので言下に却下する。

「それならいっそ、みんなでスマホのホーム画面茶畑にするとか」

「それも却下」

 えーなんだよーとふて腐れる佐々木を無視しながら、悟は真剣に考えていた。やはり実在する物ではだめだなと。言葉……やはり方言しかないのか。

「静岡の方言ってなんだっけ?」と悟が聞く。

「~だら」とか

「田舎者であるっていう印象しか与えないんだよな、それ。他には?」

「この席とっといて、ていう時に『ばっといて』って言うらしい。この席ばっといて」

「他には?」

「靴って発音するときに『く』が上がる。橋じゃなくて箸みたいに」

「他には?」

「うちの父さんはゴム草履のことをゴムじょんじょんって言ってた。コレも方言らしいぜ」

 悟は嘆息した。

「中途半端なものしかない」

 佐々木が言う。

「でも、今持ってる俺らのアイデンティティよりはマシじゃね?」

 三人の間に切ない沈黙が下りる。

それは無言の同意であった。

と、その時。

教室の後ろの扉が引かれて、別所爽が入ってきた。別所爽とはエキセントリックなところがある悟のクラスメイトである。

 悟たちが話している教室の隅っこに近付いて、「そこいい?」と言う。沖が立っていた位置がちょうど別所の席の後ろだったのだ。沖が「ごめん」と言って場所を譲る。別所は椅子に腰を下ろすと、四時間目の授業の準備を始めた。悟はふと、別所ならなんと答えるか気になった。

「別所君、ちょといいかな?」

 別所は悟を見て、「どうした?」と一言。悟は今までの話をかいつまんで別所に話して聞かせた

「なるほど。方言による県民としてのアイデンティティか。面白いね。テレビでもその手の番組は結構やってるしね」

 別所は秘密にすることなく県民性を紹介するテレビショーの名前を出した。

「でも、僕としては県民としてのアイデンティティよりも個人としてのアイデンティティを確立したほうが良いと思うけどな」

「別所君、それができたら苦労はないよ」と悟が言う。

 それができないところから出発した議論である。

「なるほど」

 悟はさきほどから考えていたことを口にした。

「たとえば僕たちが将来地元から出て、東京とか大阪とかの大都市に出たときに方言みたいな地元のアイデンティティが威力を発揮すると思っているんだけど、どうかな?」

 うーん、と別所はしばらく考えてから答えた。

「それは所属する集団や付き合う友達に依るんじゃないかな。その中に同じ方言を話す人がいればそれはもうその人のアイデンティティーではなくなってしまうから」

「そうかー」と沖が肩を落としたので悟が「お前はもう天然っていう特性があるだろう」と慰める。しかし沖は「そんなアイデンティティ嫌だよぉ。もっと胸を張れるものがほしいよぉ」と贅沢を言った。

 佐々木が「でも、別所君の考え方なら、もしかして絶対に静岡県民がいない高校や大学に進学すれば良いってことか」

 その発言は日陰者たちの将来に一筋の光明を差した。

「そうなるね」と別所が平然と言う。

「「おお」」

「つまり、県外に転校だね」

「「おお……」」

 三人にそんな度胸も気概もないことは火を見るより明らかである。

「でも高校卒業まで我慢して、就職する時ならまだ可能性があるよ」と沖が言う。

「そうだ、静岡県民がいないような小さな会社とか」と悟。

「でも、就職するならやっぱり今の時代大学でてないと厳しいって父さんが言ってたぜ」と佐々木が言う。

「それもそうだな。そうしたら先に静岡県民がいない大学に進学だな」

「でも静岡県民がいない大学ってどんな大学かな?」

「有名な大学ならみんなそこに行きたいわけだから静岡県民がいてもおかしくないね」と沖。

「確かに。ということは、静岡県民がいないくらい遠くにあって、みんなが絶対に行きたくない大学か」

悟の言葉に「それならアイデンティティを確立する条件には問題が無さそうだね」と別所も頷く。

ついに三人は結論にたどり着いた。ここに人類史上初めて、男子中学生の非生産的な昼休みにおいて人間生活における有益な示唆が与えられる奇跡が起きた。かに思われが、佐々木が当然の事実を指摘した。

「でも、静岡県民がいないくらい遠くにあって、みんなが行きたくないような大学なんて、俺らだって絶対行きたくなくね?」

 三人の間に再び沈黙の帳が下りた。

「「確かに……」」

 悟と沖が声を揃える。三人ともそれは盲点であった。

 別所が「授業の前にトイレにいってこよう」と言って席を立つ。

 残された三人は顔を見合わせた。

「難しいな、アイデンティティって」

 悟がそう呟くと、それを待っていたかのように昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。



 長年の疑問が解ける 



 咲は小学生の頃から、長年の疑問があった。

それは「ある生き物」の鳴き声の主が分からないという疑問である。どういうことかというと、学校へ向かう通学路や夕暮れの街で何やらその生き物の鳴き声が聞こえてくるのだが、声のする方を見てもそれらしき生き物はおらず、一体何の鳴き声なのか分からないのである。まるでホラーの映画のように聞こえるが、そんなおどろおどろしい雰囲気の話ではない。なぜならばその鳴き声が、

 フーフ、フッフフ フーフ、フッフフ フーフ、フッフフ

 ホーホ、ホッホホ ホーホ、ホッホホ ホーホ、ホッホホ

 と、この調子だからである。

「フ」とか「ホ」というのは咲がなんとなくそう聞きとったに過ぎないが、声のリズムはまず、○―○ と伸ばす音があり、その後に○ッ○○と促音が入る。ひよこのピヨピヨでもニワトリのコケコッコーでもウグイスのホーホケキョでもない。

 この声が聞こえると「あ、きたきた」と鳴き声の方を見るのだが、声の主の姿は見当たらないという経験を、咲は半年に一回くらいのペースで体験している。合計したら既に人生で十回以上になっているが、それを耳で覚えて他人に聞こうとする時には既に記憶の中から声のリズムは失われているのである。それほど耳に残らない鳴き声だということもできるし、それほど咲が強く正体を知りたいと思っていないとも言える。つまり、「まぁ、いいか」と言う一言で片付けてしまえるような、取るに足らない疑問なのである。しかし、取るに足らない疑問でも疑問は疑問である。解決するに越したことはない。

 咲は思った。今まで十七年生きてきて、聞いたことがない生き物の声ってことは咲がまだ知らない、見たことのない未知の生物なのではないか、と。

 咲は記憶の中で「名前は知ってるけど、実際に見たことがない生き物」について考えた。ミーアキャットとかハシビロコウ、とかそういう生き物は実際に見たことがないから、鳴き声が分からない。

「でも野生のミーアキャットとハシビロコウは静岡にいないよね」

 そんなものは日本のどこにもいない。

すると「まだ見たことがない生物」の記憶として、中学一年生の頃、国語の授業で俳句の宿題が出たときのことを思い出した。授業で俳句の作り方や季語について習い、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」などの有名な歌人の句の解釈を先生がしてから、今度は実際にみんなで俳句を作ってみようとなった。季節は夏。先生が配るプリントに並んだ夏の季語から好きなものを選び、俳句を作る。クラスメイトたちが悪戦苦闘していると五十分間の授業は終わってしまい、あとは宿題になった気がする。

 咲は目についた紫陽花のイラストから「梅雨」という季語を使って直感的に「梅雨の日に紫陽花だけが咲いている」と書いて授業中に終わらせた。「咲く」という自分の名前を句に入れたかっただけである。

 そして次の授業で集めた俳句を発表することになった。その中に川上という名前の男子生徒が「梅雨の朝、かわず鳴く音の聞こえぬ日」という句を詠んだ。

「川上、それ絶対親に作ってもらっただろ!」とどこからか非難の声が上がった。

 川上は咲と成績でビリを争う程の鈍才のくせに変に見栄を張る男だったので、その批判も無理はない。

 咲を始め、多くの生徒は「かわず」という単語の意味が分からなかったし、発表している川上自信もなんのことやらよく分かっていなかった。先生も特に解説をすることなく「うん」と頷いて次の人を当てていったので、結局「かわず」というのがなんなのか教室にいたほとんどの生徒は分からなかった。ご存じの通り、咲は分からないことを強いて理解しようとするほど探究心のある人間ではない。分からないことは分からないままでも世界は平和に変わりないよねという太平楽な性格である。ということで「かわず」という生き物を知らなかった。

 きっとあのフッフーという声は「かわず」に違いない。そう咲は思い込んだのである。

 しかし、聡明かつ博識な読者諸賢は既にご存じの通り「かわず」とは「蛙」のことであり、蛙の鳴き声はゲロゲロかゲコゲコである。フーフッフなどとは鳴かない。

 では一体何の鳴き声なのか。その事実に気づく時は唐突に訪れた。

 三央と佳奈と駅のバスロータリーで待ち合わせをしていた時である。

咲が集合時間に間に合うというのは万に一回のことであり、非常に珍しかった。今思えばそれも何かの吉兆だったのかも知れない。

 例のフーフ、フッフフという鳴き声が聞こえた。

 咲とはとっさに周りを見回す。声が近い。これは遂に「かわず」を発見する時が来たと咲は思った。

 ホーホ、ホッホホ。ホーホ、ホッホホ。

 何もいない。ロータリーを行き交う通行人だけである。いや、違う。通行人の足下に生き物が一緒に歩いている。

 それは鳩だった。

 いやいや、鳩はポッポでしょ。咲はそう思った。しかし、ふと思う。

鳩がポッポと鳴いているのを聞いたことがあるか、と。

 答えはノーだった。

 咲はじっとベンチの付近をうろうろしている鳩を凝視する。

 鳩は人間になれているのか、通行人が近くを通っても飛び立つことなくひょいと歩いてよける。しばらく見ていると鳩の足がとまった。

 そして、鳩の首元がわずかに震えたかと思うと、

「ホーホ、ホッホホ ホーホ、ホッホホ」

 鳴いた。

 咲は一瞬その光景に釘付けになり、それから言った。

「君か!!」

 咲は通りかかる人たちが向ける奇異の視線なぞ構うことなく、鳩に近付いてその鳴き声と姿を目と耳に焼き付けながら、十年以上の疑問が氷解した瞬間を楽しんでいた。喜びとも感動とも似て非なる感情だった。

 鳩はほどなくして飛び去って行った。鳩からすれば、なんか変な人間に見られてるなぁとうっとうしかったことだろう。

 しかし咲の興奮はまだ冷めやらず、十分後にやってきた三央と佳奈に開口一番、

「今さっき十年来の疑問がとけた!」と言った。

「何なに? 十年来? すごいじゃん」

「ずっと鳴き声が分からない生き物がいたの」

「はあ」

「ずっと『かわず』だと思ったの」

「かわず? 蛙のこと?」

「ううん、蛙じゃなくて、『かわず』!」

三央と佳奈が揃って首をかしげる。「まぁ、いいや」と言って咲が続ける。

「でも今わかったの、結局鳩の鳴き声だった」

「鳩? 鳩はポッポじゃないの?」と三央が言う。

「違うの、それが! 違ったんだよ!」

 咲はまだ興奮している。

鳩ごときになぜそこまで興奮するのかという表情を三央と佳奈は浮かべる。

「じゃあ、どんな鳴き声なのよ」

 三央が聞いた。

「実はね、鳩はね、」

「うん」

 と、俄に咲が口ごもる。

「……くっくくく……いや、ふーふーふふふ……あれ」

「どうしたの?」と詩織が尋ねた。

「……くっくくくく……ふふふふっふふ……うわーどうしよう、忘れちゃった!」

 咲が絶望の面持ちで二人を見ると、二人はくるりと踵を返して歩き出した。

「じゃあ、思い出したら教えて下さい」「そうだねー先行ってるよ~」

「えーちょっと待ってよ! 長年の、十年の疑問だよ! ちょっと二人とも!」

 咲は二人を追いかける。

 結局いつまでもこの疑問を他人と共有することができない咲であった。



 和子の一日


 丸山和子。四十三歳。血液型O型。趣味ダイエット。好きな食べ物ラーメン。特技気持ちの切り替え。

 これは和子のとある一日を記したドキュメンタリーである。

 和子の朝は、カーテンの隙間から差し込む爽やかな朝日や耳に心地のよい鳥のさえずりではなく、目覚まし時計の機械的な電子音によって始まる。ピピピピピピ…………バン!  

まだ眠らせてくれというパワーのこもった一撃により数々の目覚まし時計の上部が犠牲となっており、現在使用してるのは今世紀に入ってから三代目である。咲に「スマホでよくない?」と言われているが、怒りのあまりスマホ画面をたたき割ってしまえば大事であるため踏み切れずにいる。

 和子は気合いを入れてがばりと起き上がった。

 寝覚めは特段良くもなければ悪くもない。

四十台後半から女性ホルモンの生成が一段と減少すると聞き、良質な睡眠で自律神経とホルモンバランスを整えるため毎日夜十一時までには布団に入っている和子だが、眠るまでに時間がかかる悩みを抱えていた。そのため入眠の助けとしてユーチューブで「自然の音」を聞いてから眠るようにしており、最近は「川のせせらぎ」がおすすめであるが、ちょろちょろちょろちょろ、ちょろちょろちょろちょろ、と水流の音に耳を傾けていると、それ急にトイレの小便の音に聞こえ出した途端、どうあがいてもトイレの小便にしか聞こえなくなるため注意が必要である。昨夜もそのせいで入眠に時間がかかってしまい、今日の寝起きもいまいちである。しかし、そんなことを言っても和子の他に家事を変わってくれる者はいないため今日も気合いで布団から立ち上がった。

家人はいまだ眠りの中にいる。カーテンを開く。

黄色い朝日が街を明るくしようとしている。良い朝だった。

 秋口の早朝は少し肌寒く、キッチンまで少し冷えた床を素足で歩き、キッチンの電気をつける、まずは電気ケトルでお湯を沸かす。Tポッドに紅茶を入れて、お湯が沸くのを待つ。パカ、と音がして沸いたお湯を注ぐと馥郁たる紅茶の香りが湯気とともにキッチンに立ち上った。このあたりで本格的に目が覚める。

 テレビの電源を入れ、適当に朝のニュースを流しながら布団を片付ける。洗面台で手と顔を洗い、キッチンに移動して最初に取りかかるのは咲と和子の弁当作りだった。

 基本的に和子の弁当は昨日の晩ご飯のおかずをタッパーに詰めて残った炊飯ジャーのご飯をおむすびにすればそれで良いのだが、咲の弁当はクラスメイトからの目があるので最低限お弁当の形をしていないといけない。昨日の晩ご飯の残りを主菜にして、その他のおかずを準備する。お弁当箱は緑、赤、黄色のいわゆる信号機の三色があれば形は整うというのが和子の持論であり、十中八九卵焼きとプチトマトとほうれん草のおひたしという三種の神器で乗り切る。そもそも和子が作れるおかずと作って咲が食べるおかずというのは決まっており、あとはもはや組み合わせの問題である。たまにメインがなければ冷凍食品の唐揚げか、ウインナー二本を焼いて代用する。昔は忠の分も作っていたが、忠が会社で中間管理職に就いたくらいから作るのを止めた。「部下に昨日のご飯の残り物弁当だとメンツが潰れる」とかなんとんか言っていたが、強いて保つほどのメンツがあるのかどうか和子には疑問であった。大黒柱としてのメンツを立てて、口にはしなかったが。

 お弁当ができあがると、朝食を作る。といってもお弁当に入りきらなかった卵焼きやらウインナーやらほうれん草のソテーやらをおかずに主食の食パンをトースターで焼くだけである。咲は割と何でも食べるが、悟は野菜が嫌いなのでコンソメスープにしたり、コンプレッサーでスムージーにして飲ませたり、色々工夫している。朝食を作っていると、忠が起きてきた。「おはよう」といってシャワーを浴びに風呂場へ行く。

 だいたい七時になると悟が起きてくる。「おはよう」と言っても「……はよ」とか「うん」とか挨拶をしないときが多いのでそのたびに「挨拶くらいしなさい」と朝から小言が増える和子である。食卓にお皿を並べると、時刻は七時五分である。忠が着替えを済ませて食卓に腰を下ろすとあぐらをかいてパンにバターを塗っている。悟はまたウインナーしか食べていないので和子特製スムージを冷蔵庫から取り出してコップに入れて悟の前に置いた。

「また?」

「いいから飲みなさい」

 悟は不承不承という表情を浮かべながら一気に飲みきった。なんだか文句を言って最終的にはやるところはえらいと感心する。咲が起きてこないので咲の部屋の扉をノックして開ける。「起きなさーい」

「う~ん」とうなり声が布団の奥から聞こえる。そのまま放置しておいて和子もささっと朝食を摂る。七時三十分くらいになると悟が立ち上がり、学校に向かう。そのくらいに眠い目をこすりながら咲が起きてくる。「時間は大丈夫なの?」と聞く。遅刻はしていないらしいが、この時間だといつもギリギリ登校なのだろう。和子としはもっと余裕を持つように言いたいのだが、いつも忠からことある毎に怒鳴られている咲が可哀想なので、自分はなるべく控えようと思っている。今日も朝食を食べ終わった忠が「おい、もう少し早く起きられないのかお前は」と小言を言ったが咲は完全に無視してトーストを口に突っ込んでいた。

 八時前には三人とも家を出て行った。和子は十時から自転車で十五分の場所にあるチェーンの弁当屋でパートをしているため、十時になる十五分前には家を出発したい。つまりあと一時間四十五分で洗い物をして、部屋に掃除機をかけ、洗濯機の洗濯物を取り出して干して、軽く化粧もして自分も着替え出かけるということになる。毎日のことなので慣れた手つきで淡々とこなし、今日もぴったり九時四十五分に家を出た。以前自転車を紛失するという憂き目に遭った時は自転車で十五分かかる道を徒歩で四十分かけて通ったため朝の家事ができずに大変だったが、今は愛称「みどり」のマイ自転車があるので楽々である。弁当屋につくと、朝からシフトに入っているベテランパートの三島さんと二十代の若奥様南澤さんが既に働いている。「おはようございます」と入っていき、準備をすると三人で昼のピークに向けた下準備を始めた。

 昼ピークを過ぎて、二時前になると店長が眠そうな顔をしながら出勤してくる。店長は出勤するといつものように気付の栄養ドリンクを一本飲み干し、「よし、そうしたら三島さん、休憩お願いします」と言った。店長はこの栄養ドリンクを一日四本飲んで勤務中に倒れたことがある。三島さんの後に和子が休憩に入り、そこで家で作ってきたお弁当を食べる。店長から「うちで買ってくださいよ~」と小言を言われるが、「たまに買ってるじゃないですか」とか「晩ご飯の残りを処分しないともったいないので」と言って誤魔化すのが常である。自分で作っているから分かるが、特製のタレとか少し体に悪そうな気がするのだ。

 南澤さんが上がると、三島さんと二人で夕方ピークの仕込みを始めた。

「先週のドラマ見た?」と三島さんが和子に話しかけた。

「いつもの刑事のやつですか?」

「そうそう」

和子は刑事ドラマは好きではないが、その時間はなんとなく他に見るものがなく、ユーチューブで動画を見たりする間、テレビではその刑事ドラマを流しているので内容はなんとなく知っていた。いつもは一話完結のドラマだが、先週は珍しく、二週にわたる内容になっている。後編が解決編らしいので犯人を当てる楽しみがあるのだろう。そういえば今夜放送だった。

「私はね、あの代議士の秘書が怪しいと思ってるのよ。こういうのってやっぱりそれらしくない人が犯人でしょう。俳優も、主演は張らないけどたまに脇役で見る人だし」

 和子も「ああ、そうかも。まぁ一番怪しいのは代議士だけど、そこは外しますよねぇ、普通」と返す。

「そうそう。でも秘書だとすると理由がわかんないのよね。普通政治家の秘書が政治家殺したら自分の将来はパーじゃない?」

「たしかにねぇ」と相槌を打ちながら、和子は深くドラマを視聴していたわけではないのでそれ以上の考察はできない。すると三島さんが包丁を動かす手を止めて言った。

「あ、そうだわ、あの政治家に娘がいたでしょう。あの娘と秘書がデキてて、その中を引き裂こうとした政治家を秘書と娘が共犯で殺した。これだわ! これならあの代議士が死んでも諸浦は義理の息子として弔い合戦的に出馬できるでしょう」

「はあ、なるほど。たしかにそれなら……。三島さん鋭いですね」

 十七時まで働いて退勤。家までの帰り道でスーパーによっていく。肉、魚、お菓子・飲み物と店によって価格も品質も違うので、今晩のごはんのメニューによって行くスーパーが変わる。18時前に帰宅すると、家にはまだ誰もいない。悟はいつも五時くらいには帰ってくるが、図書館にでも行っているのだろうか。手早く支度をして晩ご飯を作る。炊飯器は予約モードですでにご飯を炊き始めているからオーケー。今日はハンバーグなのでタマネギをみじん切りして合い挽き肉を取り出して種をつくる。ペタペタペタペタ。ハンバーグとロールキャベツは同じ中身だなと独り言を言っていると、扉が開いて誰かが帰ってきた。

 声がしない。ということは悟である。

「おかえり」と和子が言う。悟は小さな声で「ただいま」といいつつ、台所で手を洗う。

「洗面台で洗いなさいよ、晩ご飯作ってるんだから」

「……」

 無言で洗面台へと移動する悟。悟は図書館で宿題や授業の予習をするのは感心だが、こういうコミュニケーションの面で元気がないところが玉に瑕である。

「ただいマンゴー」

 その逆が咲である。

「お、今日はハンバーグだな」と匂いで玄関から夕飯のメニューを当てている咲は宿題をやらない。やらないどころか学校から持って帰ってこないので、やりようがないというレベルである。

 ハンバーグを焼き上げ、和子特製デミグラスソースをかけて完成。簡単に作ったサラダと和子が毎日食べる納豆。それから朝のコンソメスープ、ご飯とともに食卓に並べる。

 忠はまだ仕事から帰ってこないが、先に三人で食卓を囲んだ。

「ママ、土曜日にバトのみんなでピクニック行くことになった」

「ピクニック? どこまで」

「八幡山」

「へえ」

 八幡山とは丸山家から直線で三百メートルほどの距離に位置する小山で、小学生が学校の遠足で使うのに適している。

「だからお弁当よろしく」

「はいはい」

 食卓にはそれからも咲と和子によるとりとめの無い会話が飛び交った。悟は咲の休日の趣向にまったく興味が沸かないのでテレビのニュースを見る。夕方の県内ニュースではどこかの幼稚園児が動物園でカピバラと戯れるほっこりするような映像が流れていた。和子がそれを見て、「静岡は今日も平和ねぇ」と口にすると、次のニュースで四十代の県立高校教師が学校で生徒に痴漢をして懲戒免職になったというニュースが流れ、食卓は気まずい空気に支配された。パリッとしたスーツの男性アナウンサーが「警察の調べに依りますと、犯行の動機について『どうしても性欲を抑えられなかった』と供述しているとのことです」と真面目な顔つきで話す段にいたっては、ニュースへの反応よりもアナウンサーへの同情が先に立つほどである。

このニュースが流れてる間、悟は必死でハンバーグを咀嚼していた。

 三人が夕食を食べ終わって少しすると、忠が帰ってくる。忠は大抵仕事で少しだけ帰宅時間が遅いため、このように一人晩ご飯になる。テレビはゴールデンタイムに入っており、三島さんと話した刑事ドラマが始まっていた。和子は洗い物を済ませると、取り込んでいた洗濯物にアイロンをかけながら見るともなくテレビを見る。前回のあらすじを少し見ながらアイロンをかけて衣類を畳み、仕分ける。ドラマに気を取られて忠のパンツを悟の洗濯物と一緒にしてしまったり、和子のインナーが悟の所に行ってしまったりするのは実はこのせいだったりする。

 忠が録画したゴルフ中継を見ようとするのを、「ちょっと見てるんですけど」と言う一言で阻止する。丸山家ではテレビ番組は先手必勝であり、先に見ていた人のチャンネルが優先権される。ちなみに見ている者が眠りに落ちた場合は別の者にチャンネル操作権が付与されるという掟もある。忠は不承不承自分が食べた食器を洗いにキッチンへ行く間に洗濯物をそれぞれの部屋に運び入れるとようやく一息つける。

既にリビングで爆睡している咲の対角に腰を下ろし、寝転んだ姿勢で、ドラマの続きを見た。しかし、刑事が犯人につながる証拠らしき発見をしたあたりで睡魔がやってきた。「これは」という台詞でCMをまたいだが、しっかり見ていない和子にとってそれが何を示す者なのか皆目見当がつかないため、さらに睡魔が強まる。夕飯を食べて体温が上がったせいか、まぶたが重い。まぶたの重みに体を任せていると、知らぬ間に眠りに落ちていた。

「ママーお風呂は?」

悟の声で目が覚める。時計を見ると午後八時五十分である。

「ああ、今入れるよ」と答える。

「あと、これ学校の書類。ハンコ必要だって」

「後で見とくからそこに置いておいて」

テレビに視線を向けるとドラマがクライマックスにさしかかっているらしかった。犯人らしき男が崩れながら動機を吐露するシーンである。犯人は三島さんの読み通り代議士の秘書である。俳優もどこかで見たことがある脇役なので配役としても妥当な線だろうと思っていると代議士の秘書が動機を述べた。

「こんな毎日に意味を見いだせなかったです。苦しかったです……」

 どうやら犯行の理由は代議士の娘と婚約を反対されたからではないらしい。

「あいつ(代議士)は、マスコミや国民の前では『人はそれぞれ何か意味を持って生まれてくる。私にとってそれはこの国の政治を変えることだ』と嘯きながら、裏では周りの人間をゴミのように扱っていたんです」という自供とともに死んだ代議士が秘書に罵声を浴びせる回想シーンが流れる。

――お前なぞ人間以下だ。生まれてきた意味も価値も無い。

 自分の夢と尊厳を天秤にかけて、後者を選びました。そう言葉を落としながら忍び泣く演技には凄みがあり、和子も思わず画面に釘付けになる。

 エンドロールが流れ出し、悲哀さを醸し出すテーマソングが流れ出すと、中身をほとんど見ていない和子でも犯人に同情したい気持ちになった。

 風呂をさっと洗い、風呂炊きスイッチを押す。程なくして風呂が沸くと、悟が先を競って入っていった。咲は寝ているのに、一体何を心配しているのだろうと和子は不思議に思いながら、テーブルに残った急須のお茶を湯飲みに入れて一口飲む。出がらしだった。

咲は相変わらず深い眠りの中で、忠は隣の部屋で本を読みながらうたた寝している。悟がシャワーを浴びている音が浴室から聞こえてくる。

 ついさっきの犯人の言葉が頭に浮かぶ。

――こんな毎日に意味を見いだせなかった。

「毎日の意味ねぇ」

 普段はなかなか考えないようなテーマである。

 朝起きて朝食と弁当を作り、洗濯を干してからパートで六時間働いて、スーパーに寄って帰宅して、夕食を作る。食器を洗い、洗濯物をアイロンして、疲れてドラマを見ながら少し寝て、お風呂を入れ、子どもが入浴ってから自分も入って寝る。

「そんなものあるのかしらねぇ」

 そう呟いて、首を振る。

 たしかに忙しく、あまり変わり映えしない毎日ではあるものの、和子には夫を支え、子どもを育てるという役目がある。それは丸山家の中で自分にしかできないことであり、その事実を以て意義深い毎日なのだと思い直した。

 こうして和子の有意義な一日が終わる。和子は心の中で明日も有意義でありますようにと祈る。忠が、咲が、悟が、そして自分が明日も健康で過ごせますようにと願う。

 烏の行水並みに、早くも悟が風呂から出る音がする。忠はいつの間にか起きて本の続きを読んでいる。

「ん~」

隣で寝ている咲が寝言を口にした。



 散歩


 日曜日の朝。

いつもより早く目が覚めた忠が時刻を確認すると午前七時二十分だった。

日曜日の朝にこんなに早く、しかもこれほどはっきりとした意識で覚醒するのは珍しい。昨日寝たのが何時だったかを思い出す。たしか布団に入ったのは十二時前だったから、七時間くらいの睡眠時間は取れているはずである。付き合いの飲み会もないため体も軽い。カーテンから差し込む光もいくばくか平時より快く感じる。ちらりとめくったカーテンの外は好天だった。ガラス扉を全開にして朝日を全身に浴びたい気持ちの忠だったが、隣の部屋で寝ている和子に「寒いじゃない」と小言を言われるのが目に見えているので止める。襖を引いて畳敷きの寝室六畳を出ると、薄暗いリビングを横切って風呂場に向かう。

朝のシャワーを浴びながら歯磨きをするのが忠の朝の日課である。忠が学生だった三十年以上前からの習慣であるが、常に和子と咲からは白い目で見られている。風呂場で歯磨きをすれば洗面台が汚れることもないし、シャワーを浴びながら歯磨きをすることで時短にもなるし、体のみならず口内まで爽快になるため寝起きモードから目覚めモードにするのに適するという一石三鳥の取り組みなのであるが、女性陣からはすれば「生理的に嫌」らしい。唯一悟だけは理解を示してくれたが。

風呂場から出ても家人はまだ当然のように寝ていた。いつもならこの時間、咲の部活の支度に取りかかっている和子が池に住むカメの如く布団に頭を引っ込めている。ということは、つまり今日は咲の部活の大会がないのだろう。咲はというといつも夕方帰宅してから必ず居間で熟睡しているくせに、休日になると朝も午前中までいつまでも寝ている。一体あいつはいつそんなにエネルギーを消費しているのかと忠は時おり不思議に思う。腰タオル姿姿からベージュ色のジーンズと綿のTシャツの上にユニクロのトレーナーを着る。布団を畳んでから、テレビでも見ようかと思ったが、やはりリビングでここぞとばかり寝ている和子を起こしてしまうのはまずいので、代わりに寝室で新聞を読むことにした。襖を閉めた状態でカーテンを開ければ光はリビングに漏れない。これなら和子を起こすことはないだろう。マンションの一階エントランスの郵便ポストまで、新聞を取りに行くべく、忠は家の扉を開けて外に出た。

秋の早朝は一瞬だけ肌寒く感じるが、すぐに体が慣れる程度の気温だった。裏地が防寒仕様になっているふわふわしたサンダルを履いているので廊下を歩く際も足は寒くない。実は和子のサンダルを黙って履いてきている。北向きの玄関に太陽の光は直接当たらないが、遠くにそびえる富士山は太陽に照らされて綺麗に見えた。エレベーターを待ちながら、忠は深く深呼吸する。中高年の男性がよくやりがちな行為であるが、朝一番の空気を家族で最も早く味わう特権をかみしめているのである。もはや一番風呂さえ入ることが叶わない大黒柱のなけなしのプライドを慰めているのであって、見かけた方は「あのオヤジ、キモ!」と心の中で中傷するのではなく、むしろ可哀想にと慰めてあげてほしい。

エレベーターで下まで下る。エレベーターを降りると、十階のお爺さんが、外からマンションに入ってきた。いつも早起きして外を散歩しているお爺さんである。マンションの組合会合で何度か顔を合わせたことがある。名前はたしか、林さんだったか。

「おはようございます」と忠が声をかける。

「おはようございます。今日は良い天気ですな」とお爺さんは笑顔で言った。

「お散歩でしたか」

「ええ。ちょっとそこまで行ってきました」

 林さんは忠が乗ってきたエレベーターに乗って上に上がっていった。

 忠は郵便ポストから朝刊を抜き取る。エントランスからマンションの外を窺うと明るい歩道と向かいの家の風景が見えた。ふと、手に持っている新聞を、近所の公園のベンチで読むのも良いなと思った。散歩がてら公園まで歩いて、新聞を読んで帰ってくると和子もその頃には起きていて、朝食の準備ができているはずだろう。どちらかといえば普段からフットワークの軽い忠を、秋晴れの朝が追い風を吹かせたと言える。

忠は朝刊を脇に挟むとマンションのエントランスの自動扉を抜けた。朝の空気を感じる。また一度深く息を吸ってから歩き出した。

 丸山家のマンションは駅前の通りを南に五六百メートルほど南下した通りに面していて、普段は車通りもそこそこあるが、今日はまばらである。右へ折れてさらに住宅地へと入っていく。この先には咲と悟が通った小学校がある。小学生達の通学路となっているある程度の道幅の道路を歩いてもいいが、せっかくだから小さな路地に入ってみる。回り道にはなるが散歩というのは歩くこと自体が目的になるはずだからそれでもいいだろう。それに、普段あまり通らない道というのは面白い。

「へぇーこんなところに旅館なんてあったんだな」

「『熊野御堂』だって。なんて読むんだろう」

「立派な一軒家だなぁ。四千万はするだろうなぁ」

「あれ、ここの床屋つぶれてるな」

 独り言が増える。車に乗っているときは近所の細い道を信号のショートカットで通るときもたまにあるが、そういうときは当然こんなことは気づかないため、忠にとっては新しい気づきの数々であった。歩調はゆっくりとしかし、軽い。

今まで自分より若い人でも散歩が趣味ですという人に遭うと、「いいですねぇ」とかなんとか言いながら内心「老人くさい人だなぁ」と小馬鹿にしてきて節があったが、散歩も悪くないなと思い直していた。新しい発見をするという意味では「旅行」と同じ魅力があるのではないか。咲と悟が通った小学校が近付いてきた。日曜日の午前中の校庭には人の姿はなく、広々としたグラウンドには最近ペンキを塗り替えたのか、鮮やかな黄色いブランコや青いジャングルジムが居並んでいる。

うんていがなくなっていることに忠は気づいた。昔、まだ咲が忠を仇敵のように恨んでいなかった頃。忠は咲を連れて同じく日曜日に小学校のグラウンドに遊びに行った。その時うんていを咲が好んでやっていた記憶がある。うんていとは知らない読者のために書くと全長五メートルくらいあるハシゴを横にして脚を立てたような形をした遊具で、子どもたちがサルのようにぶら下がり、その腕力を駆使して片側から反対側へと進む。進んだ先に何があるわけでもないが、子ども達はねこがねこじゃらしに戯れるような習性で先に進み、進んだ後に必ず手に強い金属臭が付着する。そんな遊具無くても良いじゃないか、と誰かが声を上げたのだろう。学校側の賢明な判断と言わざるを得ない。

しかし忠は娘との思い出の遊具がなくなったことに一抹の寂しさを覚えた。

「まあ、なにごとも時代は変わるものなぁ」

さらに五分ほど歩いて目的地である公園にたどり着いた。

公園と言っても砂場と滑り台とブランコしかない、小さな公園である。先ほど小学校のグラウンドを見てきているからか尚更小さく感じられるが、小さいということは今日に限っては都合が良かった。天気の良い日曜日の午前中だというのに、この公園で遊ぼうという元気な親子の姿がない。せいせい新聞を読むことができるのだ。忠は普段であれば座ることはないであろう、青色の朽ちかけたベンチに腰を下ろした。ミシリとわずかに嫌な音がしたが、動いてもさすがにぐらつくことはない。一息つく。

そよ風に天を仰ぐと公園にはイチョウの木が一本、忠を見下ろしていた。まだ青い葉の隙間から青空が覗いている。もう少し気温が下がれば黄葉するのだろうなと忠は想像した。

「こういうのも、たまにはいいなぁ」

 しばらく空を見上げてから、新聞を開く。全てのページに目を通す間、公園に入ってくる者は十月の秋の陽光とそよ風をのぞいて、誰もいなかった。

 新聞を閉じてベンチに置く。ふと、散歩と言えば忠が高校生だった遙か昔、当時の国語の教師が授業中に話がしばしば脱線する人で、自分の趣味や経験、感動した体験など、聞いている生徒にはつゆほどの興味も無い話をしていたことを思い出した。なぜそんなことを思い出したのかというと、その教師の趣味が「散歩」で、とりわけ散歩の話が多かったからである。散歩の話というのは、「今朝散歩をしたら金木犀が咲いていてねぇ。あの香りを嗅ぐと秋を感じますねぇ」とか「雨の後の水たまりが道いっぱいに広がっていてねぇ。靴が濡れると行けないと思ったんだけど、結局渡ってきました」とかそのような話である。国語の教師らしくそこから「そんな金木犀を詠んだ句にこういうものがあります」とか「水たまり」が何かの比喩になっていて、禅問答的な掛け合いがあれば面白さがあるが、そういったことはなく、まるで全て独り言のように言葉を放った後、閑話休題とばかりに授業に戻るのである。忠はその教師の名前を忘れたが、その当時で定年間際だったその顔は覚えていた。穏やかな表情を浮かべ、いつものんびり歩く人だった。今思えば、散歩が趣味だという人を老人らしいと思うようになった原因の一端はあの先生にあるのかもしれない。

「近所の家の庭に立派な蜜柑の木がありましてね、生け垣を飛び越して道に出ていました。あまりにも綺麗に生っていましたから、一つ摘んで帰りました」

 昭和の頃の発言である。今なら翌日には教育委員会に保護者から苦情が入るだろう。

「公園の遊具も学校も、時代とともに変わっていくなぁ」

そして今の時代は忠からするとやっぱり少し寂しい感じがするのである。

よっこらしょ、と言って忠は立ち上がった。

「散歩はねぇ、読書に似ているんだよ」

 ふと、記憶の奥底の引き出しが開き、その教師が何かのタイミングで言っていた光景が飛び出してきた。三十年以上前の教室。教壇の上で先生はいつものように手元の教科書に目を落としながら授業をする。そして雑談になると顔を上げ、生徒達を見回す。

「なぜなら、読書はね……」

 しかし、その後先生はなんと言ったのかを、忠はどうしても思い出せなかった。

はて。読書と散歩が似ている。どういうことだろうか。

今の忠にとって読書は唯一の趣味である。忠が読むのはどちらかといえばビジネス書や自己啓発書の類いであるが、本を読むことには変わりない。その言葉の真意には興味が沸いた。忠はベンチの前に立ち尽くしたまま、脇に新聞紙を挟んで腕を組む。

読書と言えば、知識を得る。小説だったら物語に没入するなどの効用がある。対して散歩の効用は……気分転換だろうか。まぁたしかに小説を読むことが気分転換になると言う人もいる。 そういうことだろうか。しかし気分転換ならこの世のすべての娯楽に当てはまる気もする。ゴルフでもマラソンでもパチンコでも麻雀でも、気分転換になる。先生があえて「散歩」を以て「読書」と似ていると評した理由が他にある気が忠にはしたのだが……。

しばらく考えたが結局それらしき答えを思い出すことも、思いつくこともできなかった。

「まぁ、しかたない」

諦めて歩き出すと、そんなことも忘れる。

帰りは来た道を戻った。咲と悟が通った小学校を通り、住宅地を抜けていく。来たときより少し時間が経っていたからか、庭の植木に水をまくお婆さんとか、ジャージ姿の中学生が自転車で通り過ぎる姿とか、人影が増え、生活の匂いが漂いだしている。

帰り道にも発見はあった。

 四千万円はするだろう新築一戸建ての「柳さん」宅には小さな子どもの遊具が玄関先に置かれていた。子どものいる若い夫婦かもしれない。車はスズキの軽自動車だった。最近の若い人たちは車にあまり頓着しないという。忠が若いときはベンツ、アウディ、BMWといった外車に乗るのが一生の夢だったものである。「熊野御堂」という苗字は先ほど読んだ新聞の世界遺産という単語が出てきて思い出したがそういえば和歌山県の「熊野古道」にゆかりがありそうな名前である。くまのおどうか、くまのみどう、あたりだろうか。いずれにしても定期テストでは時間がかかって不利な苗字である。旅館はよく見ると扉に廃業の貼紙がしてあった。もう営業していないということである。看板だけ綺麗に残っていたので気がつかなかった。ほんの三十分くらいの時間の違いや歩く方向の違いで、意外と違う発見があるものだなぁと、忠はしみじみ思った。その時である。

「あ、」

 忠の後頭部を突然電流が流れたような衝撃が走った。後ろを振り向いてスタンガンを持った少年が笑っていれば大事件だが、そんなことはない。思い出したのである。忠が高校の時の国語教師の言葉を。それは奇しくも忠が今感じたことと同じであった。

 振り返ると、そこは三十年前の教室だった。教卓の上には先生が手元の教科書から視線を上げて言う。

「散歩というものはねぇ、実は読書と似ているんだよ。いつも何気なく通っている道が時間や視点が変わると全く違った景色になる。読書も一度読んだ本を再読すると、最初に読んだのとは全く違う気づきがあり、違う印象を抱くんだ。きっとそれは読み手の置かれた状況が変わっているからだろうなぁ」

 忠はその国語の教師の名前が「福島」だったことを思い出した。

 記憶の中で福島先生が笑っている。


「ただいま」

 そう言って家に入ると、

カーテンが開かれて、リビングには光がいっぱいに差し込んでいた。忠の当初の読み通り、和子は既に起床しており、朝食の準備ができている。「おかえりなさい」と朝食を摂っていた和子と悟が応じる。咲の部屋の扉は閉まったままなのでまだ寝ているのだろう。

「朝からどこいってたの?」と和子が尋ねる。

「天気が良かったから散歩だよ」

 忠は手を洗い終えると、キッチンのトースターに六枚切りの食パンを一枚セットし、インスタントコーヒーを入れるために電子ケトルのスイッチを押した。和子が「へぇー。日曜日に珍しい」と言う。

「どこまで行ってきたの?」と悟が聞いた。

「ああ、どこまでっていえば、そうだな……」

 首をこちらに向けて返答を待つ和子に、棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出しながら忠は言った。

「ちょっと三十年前まで、かな」



 しし座流星群


 丸山悟は目覚ましが鳴る前に目を覚ますことがある。そういうときは二通りあって、前日疲れていて早く寝てしまい、睡眠十分で快適な朝を迎えたとき。もう一つはその逆で、夜間によく眠れず、変に早い時間に起きてしまうときである。割合としては半々くらいであるが、今朝は残念ながら後者であった。

「ん~~ん~~」

約三秒間、悟はノーマルタイプの掛け布団にくるまりながら呻吟する。そのうなり声は何者かに対して救済と不満を表明していた。通訳すると「寒い」である。

 今年の冬は暖冬である。十一月になるというのに、木枯らしも吹かなければ、街ゆく人の装いも秋のそれであり、裏地がもふもふとしたトレーナーを着ていくと日中は汗ばむような気候が続いている。そのため悟は「そろそろ十一月だから」と言って和子が出してくれた毛布を押し入れにしまい直し、薄い長袖のパジャマに春用のかけぶとんとで寝ていたのだが、こうして今朝目を覚ますと総身に寒気を感じていた。冬の訪れを知る方法としては最悪のそれによって、悟は自分が住む街に秋が終わり、冬が始まったことを知った。

 悟の眠気と今朝の寒気が戦った結果、残念ながら寒気が勝ち、眠ることができなかった悟はしぶしぶ身を起こす。電気をつけて、部屋を出て、洗面所で顔を洗った。

やっぱり水道の水も昨日の朝より急に冷たい。その冷たさ驚いた悟がなんとか顔を洗ってリビングに行くと、次は別の驚くべきことが悟を待ち構えていた。咲がテレビを見ていたのである。それの何が驚くべき事かというと、咲が悟よりも早く起きていることである。あらゆることにおいてギリギリを生きる咲が悟より余裕を持って朝を迎えると言うことは驚くべき事と言っていい。覚醒してきた頭でその原因を考察すると答えはすぐに判明した。咲が推しているアイドルグループが朝の情報番組に出演していたからである。咲は熱狂的なアイドルファンではないが、定期的に何かにハマる習性がある。たとえばとある少女漫画にハマってお小遣いを前借りして全巻揃えたり、とあるバンドを好きになってライブに行ったりとかである。熱しやすく冷めやすいのだが。

悟も朝の食卓につく。

「ママ、出たよ!」

 咲が歓喜の声を上げると、和子も「どれどれ」という様子でキッチンからテレビがよく見える位置にやってきた。

「この真ん中の人が遊星くん?」

「違うよ右だってば。この前も言ったじゃん」

「えー右かぁ。ああ」

 そう言って品定めする和子。咲がファンになった「遊星」というアイドルは整った顔立ちというよりは、少し変わった「爬虫類」系の顔立ちをしている。蛇みたいな顔だと悟は思った。蛇顔アイドルがクイズに答えている。毎朝やっている三択クイズであり、今朝の問題は「今夜は、とある流星群が最も頻繁に見られると予想されていますが、それは次のうちどれでしょう?」だった。選択肢は「Aしし座流星群」「Bペテルギウス流星群」「Cふたご座流星群」の三つである。綺麗な女性のアナウンサーが「テレビの前の皆様もdボタンを押してクイズにご参加ください!」と語りかけている。面倒なので悟は一度も参加したことがないが、咲は参加していた。

「何コレ、よくわかんないけど、う~ん、じゃあふたご座にしよ。ママは?」

「え~ママも分かんないなぁ。じゃあママはしし座だからしし座で」

 悟は内心で「ペテルギウスかな」と思いながら朝食が乗った食卓に着く。流星群の名前など、悟はどれも聞いたことがなかった。ベーコンエッグを箸で切ると、蛇顔アイドルが「うーん、ペテルギウス流星群で! 名前がかっこいいから」と言う声がした。咲がちっと舌打ちする。

「ペテルギウスだったかぁークソッ」

 どうやら咲は正解ではなく蛇顔アイドルと回答を一致させる事を目的としていたらしい。悟が切り分けたベーコンエッグを咀嚼しながらパンに手を伸ばすと、「正解は、」とアナウンサーの声を張る。悟も徐にテレビ画面に視線を向けた。

「Aのしし座流星群でした!」

「うわー」とか、「ああー」とか、アイドルグループのメンバーたちが朝から大げさなリアクションをとる。

「しし座流星群かー」と蛇顔アイドルが小さな声で言った。

 しし座流星群。

 悟も名前しか聞いたことがないし、そもそも流れ星など、小学校の課外授業で行ったプラネタリウムでしか見たことが無い。

「しし座流星群は毎年十一月六日から三十日の期間に観測される流星群で、過去に一時間当たり千個を超える流星が観測されたこともあるなど、有名な流星群の一つなんです」

アナウンサーが話す説明を聞きながら、悟も咲も和子の「ふ~ん」と声を揃えた。

「千個!」とグループの真ん中に座るアイドルが本当に驚いたような顔を見せる。

「ていうか、流星群ってお願いするやつだよね。消える前に三回言うとお願い事叶うっていう。千個あれば楽勝じゃん?」

 咲のコメントに和子も「そうねぇ。でも早いからね」と笑う。

「そもそも流星群とはとあるものから出たチリが地球の軌と重なることで地球の大気圏の中でチリが燃え、その時に光るものなんですが、ここで二問目です!」

 咲が今度こそ遊星くんと答えを一致させようと身構える。

「流星とはもともと何のちりでしょうか? A火星 B彗星 C人間が出した宇宙ゴミ」

「え、もしかして」とアイドルグループが顔を見合わせる。

 何か思い当たる事でもあるのかとトーストを咀嚼しながら悟が見ていると、横で咲が「彗星じゃない?」と声を上げる。「咲知ってるの?」と和子が驚くと、「今度のウインズの新曲のサビに『彗星の軌道を追いかける』って歌詞あるもん」と朝から興奮気味にまくし立てた。ウインズというのはこのアイドルグループらしい。「なるほど、そういうことね」と和子が番組の意図に気づく。悟は彗星というのは漢字だとこう書くんだなとテレビ画面に若干の興味をそそられて見ていた。ウインズのメンバー全員が「Bの彗星!」と声を遭わせて答える。アナウンサーは少しためてから「正解です!」と笑顔で声を張った。

「いや、今度の新曲『新しい羽たち』の歌詞に「彗星」ってワードが出てくるんすよ、」と真ん中に座るアイドルが答える。その流れからスムーズにウインズの新曲の宣伝が流れ、クイズコーナーは終わってしまった。悟は彗星がどんな天体なのか、もう少し知りたかったため残念ではあったが、あまりテレビに夢中になっているといつも通りの時間に家を出られないのも良くない。悟は普段通り、学校に行く支度に取りかかった。

 その日、意外なことに学校では「しし座流星群」が生徒達の話題になっていた。とりわけ大きなニュースがない日というの間々あるが、しし座流星群はそんな日本の退屈な一日に文字通り流星の如く現れ、気楽なトークテーマを提供したらしい。流れ星に何をお願いするか、何時にどの方角を見ると流星が見れるのか、と話し合う者もいれば、しし座流星群を引き起すチリを出す彗星は名前を「テンペル・タットル彗星」というらしいといううんちくを傾ける者もいる。子どもの好奇心というのは面白い物で、理科の教科書で覚えようと覚え小用と思えばなかなか覚えられない知識でも雑談の中でだと簡単に空で言えるようになっている。

「しし座流星群」はヤフーの検索ワードのランキングにも上位に入っているようで、咲が熱を上げている『ウインズ』がランクインに一役買ったものと見えた。

「みんな流行にはしっかりのるんだなぁ。それとも意外に星好きだったりして」

 悟がクラスの後ろの方がからお喋りに興じるクラスの中心人物たちをチラチラと窺いながら言うと、隣の席で突っ伏している佐々木が「そうだなぁ」と気のない返事を返す。佐々木はこの前の席替えで悟とは隣の席になった。といっても悟は最初、前の席にいたのだが、後ろの席で黒板がよく見えないという女子生徒がおり、「そうしたら丸山君代わってもらえる?」と担任の教師に言われたため悟が欣喜雀躍として後ろの席に座ったら隣に佐々木がいたという次第である。

「そんなことよりさぁ、一時間目の授業なんだっけ?」と佐々木が突っ伏したまま尋ねる。

 悟は黒板の隣に貼ってある時間割表を一瞥して答える。

「国語」

「国語……くじら先生だな、よし寝られる」

「寝るなよ」

「いや、昨日二時までユーチューブ見ちゃってさぁ、睡眠不足なのよ」

 ちょっと寝かしてくれ、と言って佐々木はそれ以降口を閉じた。眠ったらしい。悟は国語の教科書とノートを取り出し、授業に備える。程なくしてくじら先生が教室に入ってきた。

 くじら先生というのは悟の通う学校の国語教師であり、年齢は不明だが、風貌から恐らく還暦すこし前と思われる。なにかの病気なのか、趣味なのか、常に濃い茶色の色眼鏡をかけており、教師の中では異彩を放っていた。くじらというのは苗字でも名前でもなく、悟が一年生の時に国語の授業で「くじらたちの声」という話を扱った際、先生が音読をしたのだが、その時「くじら」の発音を「ゴジラ」と同じ発音で読み続けたため、クラス中が「く、じら」だってとざわつき、その名残で「くじら先生」というあだ名ができあがった。本名は山崎である。

「起立」とクラス委員の山本君が言い、悟も立つ。佐々木が座っていたので小突くと、操り人形のような不自然な動きで立ち上がった。くじら先生が生徒を見回して

「はい、よろしくお願いします」と言う。

 全員で挨拶をして、着席。同時に佐々木はまた眠りに入った。

 生徒達が今日の国語の授業はなんだろうかと先生の話を待っていると、先生は開口一番に「今日は良い天気ですねぇ。ところで皆さんは今夜見られる特別な空の現象を知っていますか?」とのたまった。

教室中に白けた空気が漂い始める。散々朝の時間で話題にしていたことをまた聞かれたためもうその話題はいいよな、と生徒が感じたのである。しかし、聞かれたからには答えなくてはならない。姫野さんが「せんせーそれ、しし座流星群ですよねー」と言ってから周りの取り巻き的な女子生徒とクスクス笑った。くじら先生は意にも介さずにっこりとして、「その通りです。よく知ってますね。ではしし座流星群はどのようにして起こる現象かは知ってますか?」

「えっと、なんだっけ?」と姫野さんが周りをキョロキョロと見て助けを求めると山本君が「彗星が通った軌道にチリやクズが残っていて、そこに地球の軌道が重なるとチリが燃えて発光するんですよね」と一切の淀みなく答えた。「山ちゃんありがと」という姫野さんを悟は眺める。

「正解です。よく知ってましたね。彗星も地球を、太陽を回る軌道は一定ですから、毎年おなじ時期に流星群が見られるということですね」

 今度はクラスのムードメーカーたる大庭くんが「先生、その彗星の名前、テンペル・タットル彗星っていうんですよ」と自慢げに言った。

「テンペル・タットねぇ……それは知りませんでした」とくじら先生が真面目らしく答える。

「へへ。今日から天体については俺に聞いて下さいよ」と大庭君が胸を張った。

 くじら先生が頷く。

「では、大庭君、彗星というのは種類によって違いますが、短いものでも何十年、長いものでは二百年以上もかけて太陽を一周するというのはご存じですか?」

「へへ、知らねー」

大庭君が肩を上げるジェスチャーをすると、笑いが起こる。教室の笑いが収まるとくじら先生は続けた。

「地球も約一年かけて太陽を一周しますから、それと比べるとかなり遠くを回っていることになる。同じ太陽系の惑星なのに面白いですねぇ。まるではぐれ者のようだ。はぐれ者でも帰ってくるし、流れ星を見せるですねぇ」

 くじら先生は笑みを浮かべながら、独り納得するかのように何度か頷く。

 悟を含めた生徒達は一体それのどこが面白いのかといかという表情を浮かべながら、先生の言葉の続きを待ったが、くじら先生は結局頷いたままであった。こういうとき、くじら先生の色眼鏡は表情が読みにくいから困る。

「くじら先生もある意味教師達のはぐれ者だよな」

そう言って悟は佐々木に同意を求めようと隣を向くと、隣に座る友人は既に船をこいでいた。

「そういえば、先生」と倉持さんが手を上げる。

「はい」

「しし座流星群ってなんで十一月に見られるのにしし座っていんですか、十一月ならさそり座じゃないんですかー」

 その質問に周りの女子達が「確かに」「え、十一月ってしし座じゃないの?」「しし座は八月じゃない?」と間歇的に声が上がる。実は悟もそれについては気になっていたため、くじら先生の答えを待つ。

「それなら簡単です。流星群が流れてくる方向にしし座の星座があるからですよ。つまり、しし座の方向から星が飛び込んでくるように見えるからしし座流星群というわけですね。誕生月の星座とは無関係なんです」

「へぇー」と生徒たちが異口同音した。悟も例に漏れない。たしか和子が八月生まれで親近感があると言っていた。家に帰ったら和子に教えてあげようと悟は思う。

 くじら先生は生徒達の反応に満足げな表情を浮かべると「では、授業に入りましょうか」と言って、教科書のページ数を指定した。生徒達の興味を引くにの今日一日しし座流星群はお誂え向きであった。

「じゃあ第一段落から読んでいきますよ。はい、佐々木君起きて下さいね」


 咲のクラスの三時間目の授業は体育である。月末に毎年恒例のマラソン大会を控えた咲たちは、ただグラウンドをひたすら走るというシンプルかつ過酷な授業を受けるべくグラウンドに向かっていた。

「マランソンの練習って、ほぼ自習じゃね?」

 階段を下りながら三央が言いだす。

「たしかに。先生なにやってんだろ」と咲が答えると、「監視?」と佳奈。

「ラップ測ってるわけでもないしね」と三央が言うと、「せめて一緒に走れって感じだよね」そう咲が言うと、「いや、一緒に走ったら走ったでめんどくそうだよ」という結論になり、三人はため息を吐いた。

やや暗い気持ちのまま、上靴をシューズに履き替えていると、後ろから駆け足の足音が近付いてきた。隣のクラスの岩橋桜である。桜は佳奈と同じ吹奏楽部に所属しており、三央とは一年時のクラスが同じ。咲とは接点がないが、元来咲は「友達百人できるかな」タイプのため、話しているうちに仲良くなっていた。桜が三央のもとにやってきた理由は一つ、今朝の『ウインズ』についての感想を語らうためである。今朝SNSで散々やりとりしていた四人だが、リアルでも話したいのは人情というものか。言わずもがな岩橋桜はウインズの大ファンであり、宣教師としてウインズ教の布教活動も行っている。桜の導きで数多くの生徒がウインズの教えを乞うようになり、何を隠そうこの三人も改宗徒たちであった。

「秋人くん今日もかっこよかったわー」開口一番で桜はすこしぷっくりとした丸顔に悦に入った表情を浮かべながら言った。秋人くんというのはウインズの五人のうちセンターにポジジョンを取っている、最も人気が高いアイドルであり、巷では美しい顔とかいて「美顔王子」と呼ばれている。「今日も秋人くんのかっこよさは光ってたけど、」といって、桜が咲を見る。今日のハイライトは遊星くんの前髪の分け方逆だったことかな」

桜の言葉に「それな、それな!」と咲が飛び上がらんばかりに声を上げた。蛇顔アイドルこと遊星くんの前髪は通常右分けであるが、今朝の情報番組では左に分けていたのである。

「それって珍しいの?」と佳奈が尋ねる。

「初めてじゃないかな。遊星くんはあんまり髪型変えないから」と桜。

「へぇーなんでだろ」と三央が聞く。

「やっぱりドラマか映画の撮影じゃない?」

 桜の一般的な意見に咲が少し考えて言った。

「違うよ、やっぱり流れ星だけに流れ変えたかったんだよ。前髪も」

咲の謎のしたり顔に「なにそれ訳分からん」と、三央が咲の脚を蹴る。

「あ痛! バドミントン部エースの脚が」

 咲が三央にやり返そうとするも、陸上部短距離専門の三央は見事なスタンディングスタートで鼻先をかすめるように逃げる。

「まぁでも右分けも良いけど、左も良いね」と佳奈がそれを見ながら桜に言った。

「だねー。あ、そうだ、これ知ってる? 今日のしし座流星群を写真に撮って、送ると抽選で限定ウインズ卓上カレンダーがもらえるってやつ」

「え、何それ知らない」と咲が言うと、「私も」と三央。

「実は想像以上の反響だったため、急遽追加で番組が企画したらしいのです。ついさっき、公式SNSに流れてた。やるしかないよね」

 そう言って、桜がサムアップする。

先ほどまで憂鬱だった咲たちのテンションは急上昇した。

「とりあえず、四人でやって流星とれた人がラインで写真送るっていうことで」

「なるほど、頭良い!」と桜。

 咲は悪知恵は働く方である。

「でも流れ星って目で追うにも相当難しいのに、写真とか取れるのかな」

「大丈夫だよきっと」

 立ち話しているうちにクラスメイト達が続々と外へ出て行くので、四人もその流れに乗った。

「うわーやっぱちょっと寒いかも今日」と三央が体操服の袖を伸ばす。

「マジか、ジャージ忘れた~」と桜がしかめ面を作る。

咲の高校には冬季に羽織る学校指定のジャージがある。

「昨日まで暖かかったのに、今日急に寒いよね」

 寒いと言っても気温としては最高気温は二桁であるが、温暖な静岡の女子高生にとっては寒いのである。

「まぁ、走ってれば温まるでしょ」と咲はポジティブである。

「そうだね、走ろ、走ろ。私も来月のライブに向けてダイエットしないと」と桜が言う。

「ライブってそんな動くものか?」と三央。「ちがうよ、ライブに行くってことは秋人くんに見られるかも知れないってことじゃん。だったら少しでも綺麗な私を見てもらいたいじゃん?」「ライブの席、三階席の三列目じゃん。絶対入らないだろ視界」「入る、きっと入るそのためにおやつのケーキも抜いてるんだからきっと入る」「入らねーよ。秋人くんマサイ族かよ」

「あー私もおやつのケーキ食べたいなぁ」と咲がお昼前の空腹に耐えきれず放言すると、冷たいと涼しいの間みたいな突風が吹いた。

「「うわ、さみー」」と四人が声を揃える。

 咲が震えながら、「くっそー。こういうときは……」と言う。

「こういうときは……?」と桜が尋ねる。

「走る!」

唐突に咲が走り出した。グラウンドの一部、生徒たちの集合場所に向かって全力疾走する咲に「え、何どうしたの」と桜は戸惑う。「また始まったよ。待て~咲」と三央が陸上部仕込みの健脚を以て追いかけると、そこに「もー」と勝手知ったる佳奈も付いていく。「え、えー」と丸山咲という生き物に免疫のない岩橋桜だけが出遅れるも、結局桜も少しぽっちゃりした体を動かして走り出した。

一瞬だけ空気を冷たく感じたものの、その後は体の内側から熱が沸いてきて、風がわずかに心地よく感じる。

グラウンドの一角に、咲、三央、佳奈、桜の順番で到着する。

「走ったら、ケーキ食べたくなった」咲が言うと「ばーか」と三央が言った。


「ほんとに馬鹿なことしたわねぇ。まだ若いっていうのに」

「本当ですね、でも本当に命だけ助かってよかったですよね」と和子が応じる、三島さんは小さな体を少しうつむき、顔に皺を寄せると、もう一度「本当に馬鹿だよ、自殺未遂なんてねぇ」声を落とした。

 和子たちと同じ市の公立中学校に通う女子中学生が家のマンションのベランダから飛び降りて自殺を図ったというニュースが昨晩の県内ニュースで流れた。幸いにして女生徒の家が五階であり、落下して重傷を負ったものの一命は取り留めた。同じ市でも隣の隣のそのまた隣の学区のため、知り合いなどいなかった和子だったが、悟と同じ年の子どもが自ら命を絶とうとしたという事実には大いに衝撃を受けたし、考えさせられることも多い。遺書らしきものがベランダにあり、「生きていく意義を見いだせなくなった」と書いてあったと、ニュースでは報じられていた。

 三島さんがいつも通り豪快かつ慣れた手つきで白菜を所定のサイズに切りながら言う。

「生きている意義ねぇ。私も今年七十一になるから、そういうのも結構考えるけどね」

 ちょうどほら、と言って、三島さんは思い出す仕草をして、「あの、刑事ドラマよ。丸山さんもたまに見てるっていってたやつ、なんだっけ?」

「ああ、あれですか」と和子が言って、タイトルを答える。

「そう、それよ。先月のスペシャル回で丸山さんと犯人は誰か話したじゃない?」

「ああ、やりましたね」

「代議士の秘書が犯人だったけど、その時の秘書を殺した動機がたしか『毎日に意味が見いだせなくなった』だったのよ」

「あ、思い出した。そうでしたね、なんかあの俳優さん、名前は知らないけど結構演技上手かったですよね」

「牧ノ内領ね」

「よく知ってますね」

「いい男の名前は覚えるのに、ドラマのタイトル忘れちゃうんだから」

 三島さんは微笑んだが、その顔にはなんだか元気がないように和子の目には映った。

「こうして長く生きてると、生きる意義なんて毎年少しずつ無くなっていくように思えてねぇ」

「そんなことないですよ」と和子は言うと、三島さんはまた苦笑して言った。

「ほんとよぉ。昔は子育てや主人を支えるっていうのがあったけど、あの人も病気で先に逝っちゃったし、子どももとっくに独り立ちして、結婚して東京に住んでるし。昔は東京でかけて孫の世話もしてあげたけど、中学生に上がった今じゃあ、お正月に帰ってきたときにお年玉あげるくらいだからねぇ。私も年金もらって日がな一日家でぼおっとしてるのが嫌でこうして働いてるけどねぇ」

「そんなことないでしょ」

 和子はしんみしりした空気を嫌って努めて明るい口調で言う。

「ほら、三島さんがそうやってここで働いてくれることでお客さまだって美味しい弁当が食べられたり、店長が月に一回休めたりするんじゃないですか。私だって第二の母だと思って頼りにしてますよ」

 三島さんは少し驚いたように和子の顔を正面から見ると、

「あら、そりゃ嬉しいね」と言った。

「ええ。もちろんです」と和子が答えると、「呼びましたか」と店長が事務所から厨房に出てくる。

「三島さんがいるから店長が休めるんですよね?」と和子が店長がに尋ねる。

 店長は目の下にクマのできた顔で

「もちろんっすよ。三島さんがいなかったら僕はもう終わりです」

「ほら」

「じゃあ、私は生きる意義は店長ってことかいな。ちょっと切なすぎる毎日じゃない。そりゃ」

「それもそうか」と和子が笑う。三島さんも笑った。

「口だけじゃなくて手もちゃんと動かして下さいね」と最後に言って店長は事務所に戻っていった。そんなこと言って、店長も事務仕事が苦手で遅いことは知っている二人だが、劣悪な労働環境が原因の一つでもるためそこは言わないという優しさがある。その後、ずっと和子が夕方ピークの仕込み、三島さんが洗い物と片付けをしたが、和子はやっぱり少し三島さんが気になった。シンクで洗い物をする三島さんの背中はやっぱりいつもより少し小さいよう見えたからである。

退勤の時間が来て、和子が咲に仕事を上がった。

「お疲れ様です」と二人に挨拶をして、店を出ると、自転車に乗り近所のスーパーに向かう。

 夕焼けの空が綺麗に浮かんでいるのを見て、そういえば今日はしし座流星群が見えるのだと思い出す。朝、咲がテレビの前で騒いでいた。

夕焼け空を見ていると、少し寂しい気持ちになる時がある。

自分もいつか、三島さんと同じような思いを抱くのかもしれない、とふと思った。

十年後、咲はまぁ就職しているだろう。咲の性格だからもらい手があるかどうか判然としとしないけれど、あれで結構ちゃっかりしている子だから結婚して子どもも三人くらいできるかもしれない。悟は家を出たがっているから大学を卒業して就職したら、もう地元には戻ってこないだろうな。今のところ忠の健康に問題は無いから急に一人になることはないと思うが、だからこそ老後二人で年金生活というのは気が滅入る。そうなったときに毎日に生きる意味を見いだせるだろうか。

「想像もできないなぁ」

十年後、二十年後のことなんて想像できない。いや、と和子は思った。本当は想像したくないだけなのかも知れない。

毎日に生きる意味を見いだせずに、なんとなく日がな一日過ごす自分を。

想像できないのか、したくないのか。

自分の本当の気持ちがどちらなのかは、暮れなずむ街並みに消えかける山の稜線のように判然としない。

スーパーに入って、入り口の掲示板に貼られた特売のチラシを見ると、頭の中はもう夕飯のメニューのことで占められていた。

今日は少し寒いから、シチューにしようか。そう思い、和子は売り場からジャガイモを手に取った。


「もうこんな時間か、今日はなんだか時間がたつのが早く感じるな」

 オフィスの掛け時計から鳴るチャイムで、就業時間の十八時であることを知った忠は部下の田浦に声を掛けた。田浦が大きく伸びをして、答える。

「ですね。相変わらずまだ全然仕事終わってないですよ。この時計のせいで自分がどれほど無能かを思い知らされます」

 小学校時代を彷彿とさせる音階のチャイムが、時計から流れている。

 先月から総務がつけた新しい壁掛け時計は就業時間、昼休み、就業時間を毎日きっちりと正確に告げる機能が付いており、主に終業定時間際で残業している社員の尻を叩く役割を担っている。総務部長発案のアイデアらしく、これで社員の残業が減るだろうと言わんばかりの得意満面の表情でこの時計をオフィスの各階に設置しているのを見た全社員が、こんなことで残業が減るなら最初から残業などしていないと心の中で呟いたという。

「おいおい、そんなこと言うなよ。田浦が無能なら加藤はマイナスだぞ」

 田浦の隣でキーボードを叩いていた加藤が「いやあ」と苦笑する。忠としてはもう少し笑いになるかと思ったが、場が白けてしまった。

忠より二つ下の近藤が「課長、それパワハラですよ」とその奥から明るく声を掛ける。

「ああ、そうか、すまんすまん」

 パワハラとは英語のパワーハラスメントの略称であり、パワーを持っている上司などの存在が部下に対してその力を行使し、職務の範囲を逸脱して部下が嫌がる行為を強いることをいう。日本では二○一年代後半頃から権力を持たない平社員の最終奥義として盛んに使われ始め、昭和世代の管理職が「それがパワハラなら俺たちが若手の時なんて毎日パワハラを受けてきたぞ」という発言がパワハラになるというジレンマに陥ることで知られる。先輩にご飯をおごってもらって「お前も後輩ができたら飯をおごってやれ」と言われるのは納得できるが、全くおごってもらったことがないのに「お前は後輩に飯をおごるんだぞ」と言われれば納得しかねるようなものである。部下に働きやすい環境を提供することは組織の業績や人間関係改善の面からも吝かではないが、中間管理職の上司、つまり課長でいうところの部長がさらにパワハラ上司だった場合、上からかかる圧力を逃がす道が断たれるため、漬物石を上から置かれた押し蓋が漬物を押し潰さないよう懸命に堪えるがごとき困難な仕事を世の中間管理職は負っている。

 忠がその立場から逃れるように帰り支度を始めたのは、結局終業定時から一時間以上あとのことだった。オフィスから出るところを部下の宮下が呼び止めた。「すみません課長、会議室のホワイトボードの水性ペンのインクがなくなったので経費で買っても良いですか?」

「ああ、大丈夫だよ。まとめて買うと、どれくらいしそう?」

「アマゾンで十本で五百円でした」

「アマゾンか……安いな。……品質的に大丈夫なやつ?」

「はい、メーカーは今使っているのと同じです」

「そうなんだ。じゃあ、それで申請しといて」

「承知しました」

 忠はオフィスを出て、エレベーターホールへ向かう。

 退勤前に部下から呼び止められるとき、忠はいつも内心で戦々恐々としている。なぜならそういう場合、大抵部下が何か問題を抱えていて、それは今の今まで考えたもののどうしても一人では対処できなくなったというものであり、問題への対応が後手に回っているせいで難易度が数倍にも膨れ上がっているケースが多いからである。

ホワイトボードのペンでよかった。忠はエレベーター待ちをしながらほっと息をつく。

それにしても会社の備品もアマゾンで買うようになったんだなぁと忠は思った。

忠が若い頃はどの会社にもだいたいお抱えの事務用品店があり、底に電話したり、文具店かコンビニに買いに行ったりしたものだが、いまやアマゾンのサイトでワンクリックで買えてしまう時代である。なにを隠そう忠だって最近は書店ではなくアマゾンでビジネス書籍を買っている口である。食べ物もデリバリーが発達している昨今、実際のお店に買い物に行ったり、食べに行く回数は減っていき、そのうち買い物に行くという習慣自体がなくなってしまうのではないかと思われた。極論すれば少し高い金額を支払うことで一歩も家から出ることなく必要最低限の物が手に入るという殿様のような生活が可能だということである。やがて実際に物理的店舗を構える販売店は殿様が無聊を慰めるべく物見に出かけるような感覚で行くべき所というふうになってしまうのではなかろうか。

忠はエレベーターに乗って一階のボタンを押す。エレベーターは自動的に下っていく。

それは少し寂しいような気がするな、と忠は思った。

既に存在していた物が画期的な発明や技術の革新によって何か新しい物に取って代わる、ということは数えれば切りが無いくらい人間はそれを繰り返して今の生活がある。でもそれとは少し毛色が異なる何かが変わっている気が、忠にはしたのである。しかしそれが何なのかは分からないうちに駐車場に止めた車に到着してしまい、歳のせいか外に出て「お、ちょっと寒いなぁ」と呟くと、先ほどまで考えていた一切は記憶の彼方へと追いやられていた。夜の帳の中を外灯がぼつりぼつりと照らす中、駐車場にとめた自家用車まで早足で向かう。

車に乗り込みエンジンを入れるとFMラジオが流れ出した。

「今年も年賀状の販売が始まるのを前に、市の中央郵便局では……」

車を発進させながらなんとなく聞いていると今月末に年賀状が発売されるという話題らしい。今年の年賀状は例年通り十一月の第三週に発売される予定であること、去年の発行枚数が一昨年よりも三百万枚すくなかったことをラジオニュースのアナウンサーが伝えていく。

「年賀状もめっきり減ったよなぁ」忠は運転しながらそう独り言つ。

今年の新入社員たちはわざわざコンビニや郵便局で年賀状を買い、パソコンで来年の干支のイラストと家族写真を編集してプリンタで印刷してポストに投函する行為を省き、ラインスタンプ一個送って終わらせるという。忠などプリンタで印刷した年賀状に筆ペンで「初春のお慶びを申し上げます」を直筆しないと年賀状を書いた気にならないという質であるため、年賀状を送る部類としては比較的保守層に属すると言える。忠はこう考える。年賀状というのは有り体にいえば新年の挨拶の手紙である。人に挨拶をするというのは、心を伝えることが肝心である。そして心を伝えるには自らの手で心を込めて書くことが必要である。そういう意味では編集ソフトで作った大量印刷型の年賀状やラインスタンプで心が伝わらないのではないか。そこまで考えたとき、先ほど会社の外に出た瞬間に忘れたことを奇跡的に思い出した。なぜアマゾンで買い物をすることを寂しいと感じたのか。それは人とのつながりが薄くなっていく気がしたからである。

 たとえば階段がエレベーターになったり、車の運転が手動から自動になることに寂しさはない。しかし、年賀状がラインスタンプになったり、買い物という行為がワンクリックになったりしたときにそこに付随していたはずのコミュニケーションも同時に薄まってしまう。お互いの「心」、つまり気持ちを伝えることをしなくても買い物が成立したり、新年の挨拶が成立してしまうことに忠は一抹の寂寥感を覚えたのである。そう考えると、進化や発展も良いことばかりではないのかもしれない。

いや、良いこととか悪いこととかではないんだろうなぁ。

 忠はふと美空ひばりの「川の流れのように」が頭に浮かんだ。川の流れのように、穏やかにこの身を任せていたい、か。忠はうろ覚えの『川の流れのよう』を独唱しながら帰路に就いた。

 家に着く頃には日は完全に落ち、空は真っ黒になっている。

「ただいま」

一家の主が帰ったというのに家人から返事がない。

百歩譲って常時交戦状態にある咲はしないとしても悟は……ものぐさなのでしないとしても和子くらい挨拶を返してくれても良さそうなものじゃないか。

忠は少しむっつりしながら靴を脱ぎ、リビングへと入る。

電気が付いており、テレビを付いているが、人影がない。

机の上に三人分の食べかけの料理が置かれているが、何かの怪奇現象が丸山家を襲ったのかと思っていると、三人がベランダにいた。冬用のコートを着込んで空を見上げている。忠はベランダの扉を開けて顔を出す。

「ただいま」というと、

「あら、お帰りなさい」と和子が答えた。

「何してるんだ? そんな寒いところで」と聞くと、和子が何か答える前に「あ、いま見えた!」と悟が歓声を上げた。

「え、どこどこ」と咲がスマホを向ける。悟が指差した咲を懸命にシャッターボタンを押す。

 カシャシャシャシャシャシャ……というカメラの連写音を聞きながら和子が言った。

「しし座流星群ですよ」

「しし座流星群?」と忠がオウム返す。

「知らないの? 今日は一年に一回のしし座流星群が観測できる日じゃない」と和子が自らの専門領域かのごとき口調で言う。

「なんだ、流れ星か。なんでそんなもんを三人揃って追いかけてるんだ?」

「咲がファンのアイドルのカレンダーを当てるために。しし座流星群の写真を撮影して送ると抽選でアイドルのカレンダーが当たるんだって」

「またバカなことを、そんなことをしてる暇があるなら勉強したらどうだ」

「これも理科の実地勉強だって」と咲が言いながら撮影した写真を確認する。

「くそーだめだ。何も写ってない」

「まったく」と忠はため息を吐いた。

 和子が忠に尋ねる。

「そもそもしし座流星群って何のことか分かる?」

「そんなの……知るわけないだろ」

「彗星のチリやクズらしいですよ」

 忠は想像もつかない彗星のチリやくずをなんとなくイメージした。

「彗星のチリやクズ? それがなんで光るんだ?」

「それは……」と和子は言いよどむと「なんだっけ悟」と回答権をパスした。

「彗星の軌道上に残ったチリやクズが地球の軌道と交差すると大気圏突入みたい感じで燃えるんだよ。ちなみにその流星群が見えるポイントに星座の「しし座」があるからしし座流星群っていう名前なんだよ」

「「へぇー」」

 和子と忠が口を揃える。悟は少し恥ずかしくなって

「学校でくじら先生に聞いただけだよ」と弁明した。

「くじら先生というのは、くじらが専門の先生なのか?」

「ううん、国語」

「はあ」

「彗星って言うのは、太陽系のはぐれ者なんだって」

「はぐれ者?」

「うん、彗星は地球と同じ太陽系の惑星なのに、何十年もかけて太陽の周りを一周する軌道の上にいるんだって。だからはぐれ者。でもどんなに遠くに行っても戻ってくるし、通り過ぎた軌道に残ったチリが流れ星を見せてくれるって」

「なるほどなぁ。さすがは国語の先生、なんだか詩的な感じだな」

 そんなことを話しているとスタンバイしていた咲が再び声を上げた。

「あ、あ、あ、」

 再度カメラ連写音が鳴る。

「うわ、すごいすごいすごい」

部屋に戻ろうかと思っていた忠もそれを聞いてまた空を見上げる。

 漆黒の空にまるで白い糸を引いたかのように流星が流れていた。

夜空のあちこちに白い光が現れて、同じ方向に流れては、消える。まるで生き物のようだと忠は思った。

「あ、すごい、また流れたよ」

あまりの数の多さに、和子まで声を上げている。

流れたかと思えば、止み、止んだかと思えばまた流れる。

流星の数の多さとその美しさに絶句していた忠の横で、悟が「あ、お願いしなくちゃ」と拝みだした。悟は自らの願望を祈るべくしし座流星群を探しているのである。咲が「えっと、カレンダー当たりますようにカレンダー当たりますように、カレンダー当たりますように」と連呼すると、和子も「家内安全、無病息災」と三回早口で呟いている。言い終えて「ほら、パパは? 消える前に」「えー俺はいいよ」と言いながらも結局は「部長昇進部長昇進部長昇進」と家族のうち最速で願いを唱えた。

 流星群はしばらく経つと、現れなくなった。

 図らずも流れ星を堪能した忠が言う。

「たまにはこういうのもいいな」

「そうね、流れ星なんてロマンチックで良いわね」と和子が答える。

「いや、そうじゃなくて家族で星を見上げるというのもいいなと思ってな」

 こういう時代だからこそ、と忠は付け加える。和子は撮影した流れ星を友達に送る咲と天体の本を取り出して星を見ている悟に目をやる。

「そうね」という言葉を自然と口にした時、和子の頭には今日の三島さんの背中が浮かんだ。

 こうして長く生きてると、生きる意義なんて毎年少しずつ無くなっていくように思えてねぇ。

その背中に掛けるべき言葉を見つけた気がしたのだ。

「生きていく意味とか自分が毎日を過ごす意味なんてなくてもいいですよ」と。

 家族でも、友達でも、知り合いでも誰でもいい。意味がなくても一緒にいる人がいると分かるだけで、人は十分幸せになれると思ったからである。

「ママー、これとかよく撮れない?」

 咲がスマホを突き出して写真を見せる。横にスクロールすると流れ星が線を引く様が綺麗に見てとれた。

「ほんとね、いいんじゃない」

「でしょ! さっそく三央と佳奈に連絡しよー」

 そう言って、咲は室内へ入っていく。悟と忠も「さむくなってきたなぁ~」と呟いて咲に続いた。

「周りを見れば、きっとそういう人がいるはずです」

明日、三島さんにそういってあげよう。

和子は流れ星が消えた星空を見上げながら、そんなことを思った。

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