殺人者は青空の彼方へ
きよのしひろ
第1話 強盗
植松忠人(うえまつ・ただひと)は両親と妹の明希葉(あきは)の四人で横浜米軍基地近くの工場が立ち並ぶ町の一角で生まれそして今も暮らしている。
父太一(たいち)は四十歳で祖父譲りの昔気質の頑固者で子供のころから「長男は親の後を継ぐもの」と言われ続け本人もすっかりその気になっていて、工業大学の卒業と同時に祖父のやっていた工場で働き始め、三年前祖父が他界すると当然のように長男太一が社長となり、受け継いだ町工場を経営していた。
母の沙耶(さや)は三十六歳、二十歳で父と結婚して翌年には忠人を産み、三年後には妹を産んだ。祖母が祖父の無くなる二年前に病で亡くなっていて、その時から工場の経理や受発注の管理などの事務処理を一手に引き受けている。
工場は五百平米、住宅は二百平米ほどほどあってドア一枚で繋がっている。
その住宅の中に従業員の休憩所があって昼食は母の作ったご飯をみんな揃って食べるのが祖父の代から習慣になっている。その隣の和室では、たまに二日酔いの従業員のお兄さんが寝ている。
祖父は「仕事は人が大事だし仲良くなければ良い仕事は出来ない」というのが口癖の人で「昼食も一緒に取ってコミュニケーションを図るんだ」と言っていたのを、忠人は耳にタコができるほど聞かされていた。
忠人と明希葉は朝夕のご飯をその休憩所で食べているし、学校にあがる前は昼食もそうだったので、従業員と接触する機会も多く両親よりそこで働いていたいおじさんやおばさん達に可愛がられて育った気がする。
工場では父の他に五人の従業員と作次郎(さくじろう)叔父さんと一緒にカメラや望遠鏡などのレンズを作っている。
レンズの作成は球面研削、精研削、研磨の三工程からなる。研磨では液体の研磨剤をかけながら研磨皿で一時間程度かけて磨くのだが、研磨皿は加工するレンズに合わせて作成するもので、その出来栄えがレンズの面精度に直接影響があるので高いレベルが求められるのだ。
そしてそれらの作業を確実に実行するため、各工程に必要な工作機械類や精度を測るための検査機器など二十台ほどが工場内に所狭しと並べられている。
それ以外にもレンズの梱包機や運搬機などがあり、工場内はそう言ったもので埋め尽くされている。
忠人はいずれなるだろう「社長」という肩書にも魅力を感じていたが、それ以上に仕事の緻密さに魅力を感じていて将来父と一緒にこの仕事をしたいと思っていた。
忠人はこの四月で中学二年生になった。妹の明希葉は小学校六年生になり最近胸やお尻が大きくなってきて、忠人が親に内緒で友達と回し読みしているエロ本にでてくる女に体形が似てきた。
風呂上がりにすっぽんぽんで下着を取りに居間を走り抜ける妹を見ると、ドギマギして顔が赤らむのを感じ、ばれないようにジュースを飲んだりトイレに行く振りをしたりして誤魔化している。
母親は「明希葉、風呂場で着替えなさい!」
怒るが明希葉は全然気にしていない。
それでも妹は甘えん坊で何かと言うとお兄ちゃんお兄ちゃんと寄ってくる。
家族でホラー映画をキャーキャー言いながら観たあと自分の部屋で寝ていたら、突然明希葉が枕を抱いて部屋に来て「一緒に寝て良い?」と言いながら布団に入ってくる。
それに忠人が中学生になると通学路が変わるので朝玄関を出ると、すぐに右と左に分かれることになるのだが、その時妹はちょっと寂し気な顔をする。
またそれが可愛いなんて思ってしまう。
最近は恥ずかしくて冷たくあしらう事もあるが、結局は何でもいう事を聞いてしまう甘い兄貴だ。
五月十五日の夜だった、次の日の授業道具を鞄に詰めゲームをしていると、一階の窓ガラスの割れるような音が聞こえた。
何かな? と思っていると、
「きゃーっ」お母さんの悲鳴だ。
何事だと思った瞬間、父親の怒鳴り声が聞こえた。
「誰だお前ら、ひとんちに勝手に入ってきやがって!」
その直後に低い唸るような怒鳴り声が響いて、父親の呻く声がした。
それから少しして階段の軋む音がゆっくりと上がって来る。
咄嗟にテレビと電灯を消してベッドの下へ隠れる。
ドアが開いて
「ここは誰もいねぇのか?」
「ふん、ぼんずは夜遊びでもしてんだろうよ……」
――何で、男の子がここに居ること知ってんだ? ……
机の引き出しとか物入れを引っ掻きまわす音がする。押入れも荒らしているようだ。
恐怖で出そうになる悲鳴を両手で押さえ込むが、震えはどうしても止まらない。
一分が一時間にも思えた。
そして男らが妹の部屋へ入ったようだ。
「キャーッ」悲鳴が響いた。ドシンと何かが壁に激突するような音がした。
妹の声を聞いたのはそれだけだった。
助けに行きたかったが、震えておしっこをちびっていて動けなかった。
間も無く階段を駆け下りて玄関を開ける音がした。
恐る恐るカーテンの端から外を覗くと男が三人、門のところで何か喋っている。
会話の中に「……ふくよし……」と「……あさくさ……」という言葉が微かに聞こえた。
その時になってようやく、強盗だ! と思い、街灯に照らされたその顔を頭に刻み込んだ。
男らは東方向へ走り去った。
立とうとしたが足がガクガクして立てない。四つん這いになって必死に明希葉の部屋へ向かう。
――明希葉は大丈夫かな?
部屋を覗くと真っ暗な中に何かが見えた。電灯を点けると胸から血を流して明希葉が床に倒れているのが目に飛び込んできた。
「明希葉! しっかりしろっ!」
叫んで肩を揺すったが反応が無い。よほど怖かったのだろう顔が歪んでいて……とても可愛かった妹の面影が失せている。心に深く刻み込まれた。可愛そう……。
「明希葉! 死ぬな!」
「明希葉!」
……
救急車を呼んだ。状況を説明したら「警察に通報しなさい」と言われ慌てて電話した。
――父さん母さんは大丈夫だろうか? 見に行かなきゃ……
階段の降り口まで這ったが足の震えが止まらず降りるのは無理そうだった。
止むを得ず妹の所へ戻って妹の名を叫び続ける。
両親のことも気になって仕方がない。
もう一度と思って、足の震えを手で押さえ、尻を階段の踏板に一段一段乗せ替えながら降りる。
……思った通り最悪の状況だ。
「父さん! 母さん!」
母親と父親は寝室で重なるように倒れ、周りは血が一杯で近寄れないくらいだ。
這って傍へ行って声を掛け身体を揺すってみるが反応は無く、二人とも恐怖と苦痛が顔に貼り付けていて、いつもの両親では無かった。
改めて恐れおののきへたり込んでしまった。
なすすべもなく震えて涙を流していると、救急隊の人に名を呼ばれた。
「ここ! 早く来てぇー!」力一杯叫んだ。
救急隊の人が両親を見て「これはひどい」と一言。
首筋や手首などを触ってかぶりを振った。
「あの、二階に明希葉がいるんでみて下さい!」
隊員が階段を駆け上がる。忠人はまだゆっくりにしか動けない。
忠人が階段を上がりかけると、明希葉がストレッチャーに乗せられて下りてくるところだった。
「生きています。危険な状態なので急いで病院へ向かいます」隊員の声で少しホッとした。
そこへ警官が入ってきた。
警官に抱きかかえられるようにして明希葉を見送って、二階へ連れて行ってもらって着替えをした。
それから警官に事情を訊かれ、若い男が三人でその一人が「ふくよし」と呼ばれていたことと、「あさくさ」と言っていたことを話した。
人相も話したら「後で似顔絵描くからその時また教えてね」と言われた。
その後も色々の服を着た警察の人が大勢やって来て朝まで色々調べているようだ。
忠人は興奮していて眠気は全くない、朝八時過ぎに警官に「学校に連絡して、今日は行けないでしょ」と言われて「はい」と返事はしたが電話番号を知らない。
――えっどうしよう……あっ叔母さんなら……
「おはよう、珍しいね忠人ちゃんから電話なんて何か有ったの?」電話をしたら叔母さんの第一声だ。
「お父さんと、お母さんとが殺された」
忠人が言っても叔母さんは冗談だと思ったのだろう
「なにふざけてんのよ、お母さんは?」と訊いてきた。
傍で話を聞いていた警官が
「どれ、代わろう」と言ってくれた。
警官から説明された叔母さんは余程驚いたのだろう警官に「大丈夫ですか?」と心配されている。
「叔母さんがすぐ来てくれると言ってるから、君は座ってなさい」
警官に言われて冷蔵庫のジュースを一口飲んで居間のソファに座った。
――明希葉の怪我はどうなったんだろう……
妹の事が頭から離れなかった。
次に自分はどうなるのか、どうすべきなのかまったく思い浮かばない。今まで両親にいかに頼ってきたのか思い知った。
そのまま九時近くになって工場の従業員が次々にやってきた。
パトカーが沢山いたので心配して顔を出してくれた。
「両親が殺され明希葉は病院に運ばれた」と告げると、みんなおどおどして「仕事どころじゃないな」と言いながらも「でもよ、納期があるから……」
そう話しながら忠人を見るが、忠人は何て言って良いのか分からず俯いていた。
「忠人は大丈夫なのか?」声をかけられ頷いた。また涙が零れる。
おばさんは泣いている。おじさんがたは眉を下げ唇を噛んでいる。
ややあって「じっとしていてもしょうがないからやろう」誰かが言ってぞろぞろと工場の方へ行った。
程無く作次郎叔父さんと壮子叔母さんが目黒から飛んできてくれた。
叔母さんが玄関からはいるなり、
「忠人ちゃん!」泣き叫びながら居間に飛び込んできて忠人を抱きしめた。
叔母さんの顔を見るとまた涙が溢れ、その胸を借りて声をだして泣いた。
しばらくそうしていた。
叔父さんは両親の姿を見て呆然と立ち尽くしている。
「明希葉ちゃんもなの?」叔母さんに訊かれた。
「救急車で病院へ行った」
「で、どうなの? 大丈夫なの?」
返事が出来なかった。
黙っていると、叔母さんが警官に同じことを聞いて警官が確認すると言って席を外した。
間があって警官が戻ってきて、叔母さんと忠人を見詰めてかぶりを振った。
その瞬間、叔母さんが忠人をぎゅっと抱きしめ大泣きした。
忠人は、これは夢の中での出来事で、本当に起きたことだとは認めたくなくてただ警官を見つめていた。
学校へ連絡したのはテレビで強盗のニュースが流れてからだった。
それからは学校を休んだ。
自分だけ生きているのが不思議な感じがする。
血で汚れた部屋は叔母さんが掃除婦さんを頼んで一応綺麗にしてくれた。
叔母さんに目黒においでと言われたが、この家を離れるわけにはいかないと思った。
お父さんとお母さんと明希葉がまだ家の何処かに隠れていて、自分を脅かそうとしているような気がしてならないから……。
通夜があって、告別式があった。
三人とも普段と変わらない顔をしていて寝ているとしか思えない。あの恐怖で歪んだ顔は元に戻っている。
明希葉の頬をなでると冷たかった。
「どうして……死んじゃったんだ? もう一緒に遊べないのか?」
お父さんの顔もお母さんの顔もいつものままで寝ている。
じっと見ていると誰かに肩を抱かれその場から引き離された。
それから焼き場に行って、骨を見たら無性に涙が溢れてきた。
どうして泣くのか分からないまま声を出して泣いた。
妹の名を何回も、何回も繰り返し呼んだ。
――明希葉に会いたい……
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