第3話
――それは、夏休みが明けて一ヶ月が過ぎた頃、昼休みのことだった。
『だれか、私を殺して』
ふと、声が聞こえて顔を上げる。
「え……?」
聞いたことのない声だった。突然聞こえてきた物騒な言葉に、心臓がざわめいた。
教室を見まわす。みんな、楽しそうにお弁当を食べている。特別様子のおかしいのクラスメイトたちはいないが……。
カラフルな会話が飛び交う中、たったひとり、自席で本を読む彼女に目がいった。
……もしかして。
まるで、そこだけ教室から切り離されたように薄くしらじんだ空間。
彼女の黒髪は、特別にきれいだった。陽に当たるとかすかに青みがかって見えるのだ。まるで、髪の毛一本一本に、深海の水が混ざっているような。
それだけでなく、彼女は容姿も飛び抜けて美しい。
すっと通った鼻筋に、長いまつ毛。本に目を落とす横顔はさながら精巧な彫刻のようで、うっかり視界に入れると、息をするのも忘れてその横顔に魅入ってしまうことが多々あった。
今の声は、彼女のものだったのだろうか……。
しとしとと降る雨音のように穏やかで、それでいて流れ星のように儚い声だった。
初秋、夏の不快感丸出しの空気はどこかへ行って、少し落ち着いた色が街を包み始めた。
放課後、僕は街の図書館でテスト勉強をしたあと、図書館に隣接する公園を散策していた。
部活に入っていない僕は、放課後は基本自由だ。
俯いているのか、顔はよく見えないけれど、耳にかけた髪がさらりと垂れた瞬間、あ、と思った。
彼女だ。花野澄香。
少し近付いてから、足を止める。
相変わらず美しい横顔。
公園の一角、この東屋だけが、騒がしい世間と切り離されたように神聖なもののように錯覚してしまいそうになる。
ぽつ、と頬に冷たい感触があった。
空を見ると、いつの間にか青空は分厚く重い雲に覆われている。と、思えば雨粒はあっという間に公園を
「わっ……降ってきた!」
僕は慌てて東屋に逃げ込んだ。
髪についた雫を手で軽く払いながら、ちらりと花野を見る。花野は忙しなく東屋へ駆け込んだときだけ、僕をちらりと見たものの、すぐに視線を手元の本に戻して読書を再開していた。その後は僕のことにまったく関心を示す様子もなく、読書に勤しんでいる。
「…………」
僕は花野の読書の邪魔をしないよう、細心の注意を払って彼女の向かいに座った。
静かな空間。神聖な時間。
声をかけてみたいけれど、かけるのがはばかられる。沈黙が心地良いだなんて、不思議だ。
しとしと、ぽつぽつ。
雨が降っている。雨のせいか、いつもより緑が深く、花も鮮やかに見える。
僕はその日、彼女にひとことも声をかけられないまま、雨が止むのを待ち続けた。
――翌日。
学校に行くと、いつもどおり涼し気な顔をして、自席で読書をする花野がいた。
彼女は淡々と学校生活を終えると、ひとり学校を出ていく。
僕はひっそりとそのあとを追いかけた。
花野は図書館に入ると、本を一冊借りて隣接する公園に向かった。赤い椛の葉が揺れる公園の一角。花野は東屋に入ると、カバンから文庫本を取り出し、読み始めた。
どうやら、図書館で本を借りて、この公園で読書をするのが彼女の日課らしい。
僕は花野の読書の邪魔をしないように、なるべく静かに向かいに座った。僕は文庫本の代わりに日本史の教科書を取り出し、読むふりをしながら、たまにちら、と彼女を観察する。
長く濃いまつ毛。さらりとした青みがかった髪。なんの音も色もない、静かな心……。
まるで、永久の時に閉じ込められたかのように穏やかな時間が流れる。
誰かと一緒にいて、こんなに心が凪ぐのはいつぶりだろう……。
じっと見つめていると、花野がパッと顔を上げた。目が合い、慌てて目を逸らす。しばらくしてもう一度花野へ視線を向けると、彼女は既に視線を手元の本に戻していた。
どうやら花野は、僕が観察していることに気付いていたらしい。耳まで赤くなるのを感じた。
冷静に状況を考えれば、彼女が不審がるのも頷ける。僕と花野はクラスメイトだけれど、仲がいいわけではない。それになにより、彼女は、僕が心の声を聞くことができることを知らないのだから。
花野がカバンを漁り出す。もしかして、帰るつもりなのだろうか。僕のせいで、居心地が悪くなってしまったのかもしれない。
申し訳ないことをした、としょげていると、花野はカバンから一冊、文庫本を取り出す。そしてそれを、すっと僕に差し出した。
「え?」
戸惑いがちに花野を見ると、彼女は無言のまま、ずいっと本を差し出してくる。
「貸してくれるの?」
花野はこくりと頷いた。
「……ありがとう」
本を受け取り、表紙を見る。読んだことのない、青春小説だった。ぱらぱらとページをめくっていると、とある一文が目に入った。
「……これって」
『だれか、私を殺して』
孤独なヒロインの独白……のようだ。
そういえば、この声を聞いたとき彼女はこの本を読んでいたような気がする。
なるほど、あの心の声は、この本を心の中で朗読していた彼女の声だったのだ。
「……なんだ、そういうことか」
彼女自身が死を願っていたのではないと知り、ホッとする一方、彼女の心を動かしたこの本に興味を抱いた。
最初から読み始めると、花野がちらりと僕を見る気配があった。花野はひとりごとを呟いた僕を不思議そうに見つめながらも、すぐにまた本に視線を落とした。
僕も、花野に渡された本を読み始める。
花野が貸してくれた本はいわゆる現代の高校生が主役のSF恋愛もので、ヒロインの
ありきたりではあるが、健太郎の不器用ながらもまっすぐな想いに寿々が救われるという内容だった。
ただ、最初の印象はこうだった。
「えっ、なにコイツめっちゃ性格悪!」
そのあと、
「なんだよ、健太郎……ただのツンデレかよ」
からの、
「コイツ……え、なに。めっちゃ良い奴じゃん。ヒロインのこと大好き過ぎだろ」
健太郎は、現実にいるわけないと思うほど良い奴で、寿々や登場人物のセリフにいちいちツッコミを入れていると、ふと微かな声が聞こえた気がした。
「ふっ……」
顔を上げると、花野が肩を揺らして笑っていた。
「あっ……ごめん、うるさかった?」
慌てて本を閉じて謝ると、花野は僕を見て、くすくすとさらに笑いながらも首を横に振った。
柔らかな笑みにホッとしつつ、僕は花野に話しかける。
「これ、面白いね。読み終わるまで借りててもいい?」
寿々がちゃんと現代に帰れるのか気になってしまった。あと、健太郎との恋の行方も。
そう言うと、花野は微笑みながら頷いた。
それから、僕たちは公園で一緒に読書をするようになった。花野は相変わらず本に夢中で、僕が東屋に顔を出しても、気にする素振りはない。
……ちょっと寂し……くはない。
だって、べつに約束してるわけじゃないし。僕が勝手に東屋に来てるだけ。分かってるから。
でも、ずっと読書だけしているのもなんだし……と思って話しかけてみる。
「ねぇ、花野って放課後はいつもここに来るの?」
花野は僕の問いかけにこくりと頷く。
「そうなんだ。ここ、僕もよく暇つぶしに来るんだけど、気持ちいいね」
花野はもう一度こくりと頷いて、再び視線を本に落とした。
「えっと……」
……どうしよう。ぜんぜん会話が広がらない。
いや、読書をしているのだから、会話は必要ないのかもしれないけれど。
「あの……」
もう一度声をかけようとしたとき、花野がすくっと立ち上がった。そのまま、東屋を出ていく。
「えっ、どこ行くの?」
不安になって訊ねると、花野は一度振り向き、手招きをした。
ついて行っていいっていうことなのかな……?
僕は急いでカバンを手に取り、彼女のあとに続いた。
花野の艶やかな黒髪を眺めながら、なんで彼女の心はこんなにも凪いでいるのだろう、と思った。
聞きたくもない声なら、毎日いくらでも聞けるのに……。
この日、僕は初めて彼女の心の声が分かればいいのに、と思った。
花野は、ゆったりと池の周りを歩いていく。一方僕は、数歩下がって花野の背中を追いかけた。
歩いては立ち止まり、立ち止まってはまた歩く。優しい陽だまりの中、のんびりとした時間が流れた。
花野がおもむろに足元に落ちていた椛の葉を拾って、太陽に透かせた。
隣に並ぶと、花野の嬉しそうな横顔が見えた。花野は真っ赤に染まった椛を見つめていた。……かと思えば、くるりと僕を見て、花野は椛の葉を僕に差し出す。
「えっ」
ぐいっと、差し出してくる。
「……くれるの?」
花野はほんのりと微笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
「……ありがとう」
顔を上げると、鮮やかに変身した椛が風に揺れている。
風が騒ぐ音。木の葉の音。葉についた露が池に落ちる音……。
どれも、ちょっとした音にかき消されてしまいそうなほどに儚い。
まるで、彼女のようだと思った。
「僕、ここにはよく来てたのに……この公園って、こんなにきれいだったんだ……」
花野は相変わらず声を発することはない。
でも、言葉がなくてもいいのだ。彼女と一緒にいる時間は、花や空、風、小鳥のさえずり……自然の鮮やかな色彩と音で彩られているから。
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