視える男の厭世的日常茶飯事

やしろ

第0話 視える男、死にかける

 真昼だというのに部屋が暗い。

 まるで大きな石を背負わされているかのように、酷く身体が重かった。


 意志に反して腕がぎしぎしと軋みながら動いて、干してあったバスタオルを物干し竿からもぎ取る。

 それから足を引き摺ってのろのろと玄関へと。


 そんな事はしたくない。そっちに行きたくない。

 そう思うのに、身体はいう事を聞いてはくれないのだ。


 生臭い、魚が腐ったような匂いが部屋に充満して、それだけでも息ができない。

 耳元でしゃがれてひび割れたような、気持ちの悪い声が囁く。


≪死んで惜しまれるほどのものか?≫

≪お前みたいなクズのひとり、いなくなっても誰も気にしない≫

≪生きていてもしかたなかろう?≫

≪寧ろ死んだ方が喜ばれるかもしれないぞ?≫

≪なあ、死ねよ?≫

≪死んでしまえ≫

≪死ね≫

≪死ね≫

≪死ね!≫


 どんどん声が大きくなって、自分が飲み込まれてしまう。

 嫌なのに、首にバスタオルが巻き付く。


 嫌だ! 止めてくれ! 死にたくない!

 そう心から叫ぶのに声が出ない。


 巻き付いたタオルがゆるゆると己の手でもって絞られていく。

 苦しい。


 気道が緩やかに締まっていくのを感じて、どうにか逃れようとするのに、どう足掻いてもバスタオルを絞る手の力が抜けないのだ。

 ケケケ、と。

 不気味で怖気の立つ笑い声が耳を通って脳を犯す。


 昔からこうだった。

 他人の目には映らない世界が見える。それだけじゃなく、声を聞くことも出来た。


 例えば四辻、公園のブランコ、電柱の影……。

 深淵を覗く時、深淵もまたこちらを見ているという言葉通り、そこかしこにいるナニかを見ては、見つめられる。他者に見えぬものを見るのは恐怖でしかない。


 助けを求めて他人に話せば、不気味な子と指差され、嘘つきと囃される。

 そのお蔭で人の輪から爪弾きにされているのに、だからと言ってこの目に映る世界の住人達も優しくはなく。


 それどころかこうやって、事あるごとに死に誘おうとする。

 嫌いだ、どちらも。


 知らず、目が潤む。

 二十年とちょっと、このよく解らないモノたちに狙われながら生きて来た。けれどもそれももう終わるらしい。


 そう思えば苦しいながらも、もう良いかと諦めがついて来た。

 黒い靄に包まれた何かが、ケタケタと嬉しそうに笑い声をいっそ大きくする。


 その刹那、玄関ドアをドンドンと強く叩く音がした。だけじゃなく一拍遅れて、ドアノブが回る。そして真っ暗な部屋に光が洪水のように流れ込んだ。


≪ぎゃっ!?≫


 耳元に響いていた気持ちの悪い声が悲鳴を上げて、すっと全身が軽くなった。塞がれていた気道も解放されて、一気に空気が流れ込む。それもある意味では苦しくて、大きくせき込む。

 すると玄関から騒がしい声が聞こえた。


「まいどおおきに、ご機嫌さん! お邪魔すんでぇ?」


 色素の薄い茶色の髪に同じ色の明るい目。

 玄関で白いスニーカーを行儀悪く脱ぎ散らして、少年の快活さを持ったまま大人になった幼馴染がやって来た。


 肩から大きな往診用鞄を引っ提げて。

 じゅうじゅうと生臭い匂いをさせて、僕の背後にいたモノが燃える。


 奪われていた感覚が急に戻って来たせいで、僕は身体のコントロールが利かず、どっと床に倒れ込んだ。

 そこに幼馴染が近づく。


「首にバスタオル巻いてなにしよんの?」

「……」

「あれか? 俺が教えたタオル体操?」


 なにも答えられない僕に幼馴染は明るく笑う。

 そして床に這う僕に手を伸べて立たせると、勝手知ったる何とかで、家の中をずんずん進んだ。辿り着いた先は寝室。彼はベッドの上を指差す。


「さ、上脱いで、寝(ね)り」

「あ、や、でも……」

「デモもストもあらへん。さっさと寝る!」


 そう強く言われると、僕はもう逆らえない。いや、経験上言うとおりにしないと、有無を言わせずひん剥かれる。

 なのでノロノロとベッドに腰かけて上半身裸になると、そのままベッドにうつ伏せになった。


「よしよし」と幼馴染の機嫌の好さそうな声が聞こえる。

 かと思うと、子ども並みに温かい手が僕の肩甲骨や背骨の付近に触れた。


 幼馴染が「相変わらず羨ましいくらい縦に長いなぁ」なんてぼやくのを、ぼんやり聞いていると、肩甲骨の間を親指の腹で力を込めて圧される。

 僅かに呻けば、背中にいる男が呆れたような声をだす。


「おーおー、めっちゃ凝ってる。もう、なんでこうなる前に俺んとここぉへんかなぁ?」

「……仕事で」

「ほうか。せやけどこんなに凝っとると仕事にも支障が出るはずやで?」


「俺がここに往診で来たんは、たしか三日前の筈なんやけど?」という呟きが耳に触れる。

 凝った場所を揉み解される心地よさを感じながら、僕は申し訳なさに呻いた。


「昨日、お化け屋敷に取材って連れて行かれてからだから……」


 その時に妙な物を憑けてしまったんだろう。

 そうとは言わないけれど、彼は僕の事情を知っているからかそれ以上は聞かない。


「……解った。俺が治したろ」

「いや、もう、しぃちゃんのお蔭で消し飛んだ」

「マジか。でも凝りは取れてへんさかい、やんで?」

「うん。お願いします」


 素直に頼んだ僕に「任せろ」と返すしぃちゃん──瀬織津(せおりつ)思慧(しえ)がどんな顔をしているかは解らない。

 けれどごそごそと彼が、自分の持ってきた往診鞄から消毒液や鍼や灸を取り出したのは解る。


「ほな、施術の間に昨日何があったか聞かせてんか? なあ、晴?」


 穏やかな声に促され、僕──未那識(まなしき)晴人(はると)は昨日の事を話しだすのだった。

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