親の顔

月ノみんと@成長革命2巻発売

第1話


 親の顔より見た、親の顔が見てみたい、などとヒトは言う。

 しかし、私はあまり親の顔というものに覚えがない。

 幼いころから、いわゆる鍵っ子というやつで、よく一人で留守番をさせられた。

 母子家庭であったため、母は夜遅くまで働き詰めで、帰ってくるのは私が就寝をした後だった。

 そして母は朝も早くから家を出て、私は起きて冷めたコーヒーを飲んでパンを食べた。

 最後に母とまともに顔を突き合わせて話したのは、いったいいつのことだろうか。

 あれはまだ私が幼稚園に上がる前だったかな。

 そう思うと、もうずいぶんと母の顔を見ていないような気がした。

 小学生のころ、私はちょっとしたことでクラスメイトと揉めて、喧嘩になったことがある。

 私は相手の顔面を文鎮で殴りつけ、出血させ数針縫わせる目に合わせた。

 我ながら、よくやったと当時は思ったものだが、教師や母は私のことをひどく叱った。

 トラブルの原因になったのは、相手の無神経な発言のせいだし、なんで叱られているのかわからなかった。

 そのときばかりは、母は珍しく仕事を途中で抜けて、昼間なのに学校に来た。

 学校に呼び出された母はひどく動揺していた。

 ふだん大人しい私がそんなことをしたというのが信じられなかったのだろう。

 昼間に明るいところで母の顔を見るのは本当に久しぶりだった。

 母は私の肩をつかんで、涙を流しながら言った。

「ほんとうにタンちゃんがやったの?」

「うん」

「お友達を殴っちゃいけないって、知ってるよね?」

「友達じゃないもん、あんなやつ」

「でも、殴ったらだめだよね」

「うん」

「じゃあ、おかあさんといっしょに謝りにいこっか」

「うん」

 母は私の目をじっくりと見て、そう言った。

 私は普段みない真剣な母の表情に、どう対応していいか戸惑った。

 このときほど、母の顔をまじまじと見つめたことはなかった。

 私は怒られているのにもかかわらず、母の顔を見つめて、こんなことを思っていた――この人はいったい、誰なんだろう?――と。

 あまりにも長い間、母の顔をみなかったもので、それが本当に自分の母なのか、自分でもよくわからなくなっていた。

 たしかにこの人物が母であるという記憶はあるのだが、こんな顔だったかしら。本当に自分の母であるという確証がない。もしよく似た他人だと言われたら、それを信じただろう。

 私には、このようなことがたびたびあった。

 人の顔が、よく覚えられないのだ。

 正確に言えば、覚えていることはできる。

 ただ、どうしても、それが前に会った人物と同一人物であるという確証を持てないことがある。

 もし、よく似ただけの人物だったらどうしようと、不安になるのだ。

 ただの考えすぎなのかもしれないが、私はこのせいで、他人の名前をなかなか呼ぶことができない。

 例えば、初対面の人に田中ですと自己紹介されたとしよう。

 そうすれば、そのときは相手のことを田中さんと呼ぶことができる。

 だけど、次にその人とあったときに、その人を田中さんと呼ぶことができない。

 もしかしたら、私の記憶が間違っているだけで、この人は田中さんではないかもしれない。あるいは、そもそもこの人と知り合いであるという私の記憶は間違っているのでは?

 などと思ってしまって、どうにも相手が知り合いであるという確証を持てない。

 それか、よく似た別の人の可能性もある。私はあらゆる可能性を考慮してしまう癖があるのだ。

 だから、相手から挨拶されるまで、なかなか挨拶をすることができない。よって、私はいつもいろんなところで孤立した。

 2回目以降に会ったときは、その場の他の誰かが、彼を田中さんと呼んでいるのを目撃した場合のみ、「ああ、この人は確かに田中さんで合っているな」と納得できる。

 これが、会って数回の人にだけ起こる現象ならいいだろう。だけど、私の場合、これは長年付き合いのある友人に対しても起こる。

 ふと、友人と食事しているときなんかに、あれ?この人と私は元から知り合いだったかしら?と不安になるのだ。

 この人を友人だと思ってる記憶は、私の勘違いである可能性も捨てきれないよな。とか。

 自分の記憶に絶対の信頼をどうやっておけばいいのだろう。

 世の中の人はみんな、それほど自分の記憶に自信があるのかな?

 私は、なにも記憶力のことを言っているのではない。

 そもそも、その記憶自体が間違っているのではないかという話だ。

 仮に私がどこかいかれていて、間違った記憶を認識しているのではないか。私はなにか幻覚をみていて、間違った記憶を仕入れているのではないか。

 記憶になんの根拠があるのだろう。

 これは相貌失認とも少し違う。たしかに私の中には人物の顔と名前のデータが存在し、それらは一致するのだが、はたしてそれが正確なものである保証がどこにもないという話だ。

 つまり、私が四六時中正気であるという保証はどこにもない。

 私はすでに狂っていて、私の記憶なんかなにも当てにならないのかもしれない。というかそもそも、こんなわけのわからないことを考えている時点で、どこか私はおかしいのかもしれない。

 人の名前と一緒で、歴史や、社会に関する記録なんかにも確証がもてない。

 たとえば、今から80年前に戦争があったのは歴史的な事実として、私の中に存在する。

 だけど、それは私だけの記憶かもしれないのだ。

 もしその場にいる他の全員が、「そんな歴史はありませんけど?」といえば、じゃあ私がなにか幻をみていたのかな、と思ってしまう。

 だって、この目で実際に戦争を見たわけでもないし、それが本当に存在したことかどうかはもはや確かめる術がない。

 歴史というのは、簡単に作り替えることができたんじゃないかと思う。それこそ、ジョージオーウェルの小説の世界みたいに。

 今ある書物をすべて書き換えて、過半数の人に「AはBだ」と言わせてしまえば、簡単に「AはB」に切り替わる。

 そういう意味では、私はピダハン族なのかもしれない。

 私はイビピーオなものしか信じない。

 イビピーオっていうのは、ピダハン語の本質だ――直接体験、目の前にあることを重視する文化。つまりイビピーオとは、仮定とか創作とか伝聞でなく、未来とか過去とかではない、今、目の前でここで起きている出来事のこと。

 私は、あらゆることを疑って、あらゆることを可能性に含めてしまう。

 世界3分前仮説もあんがい間違ってないんじゃないかと思う。

 世界は3分前に出来たって言われても、誰にもそれを否定する術がない。

 だから、私の記憶も3分前に誰かによって捏造されたものかもしれない。そしてその記憶は間違っているかもしれない。他の人の記憶と齟齬があるかもしれない。他の人と同じ歴史を見てきたってどうして言えるの?

 私の記憶は3分前に捏造されたものかもしれないし、だから私は他人の名前をなかなか呼べない。

 同じように、小学生の私は目の前にいる母が、ほんとうに私の母だったかどうかわからなくなったのだ。

 その日から、なんだか母が他人のように思えて、母を避けるようになった。

 私はろくに母と目も合わせず、それでもすくすく大人になった。

 私は大人になって、実家を出て、それからずっと家に帰ってない。

 思えば、もう10年以上母の顔を見ていないな。どんな顔だったか、思い出せない。それに、どうでもいい。母はずっと私に無関心だったし、私も無関心だった。どうせいつも仕事で家にいないんだから、仲良くなる必要もないと思っていた。

 今思えば本当に母なんてものがいたのかも怪しい。存在があやふやな、まるで幽霊みたいだ。

 母は写真を嫌う人だったから、写真も持ってないし、実家にもろくに残ってないだろう。

 母は私の記憶の中にだけいる。だけど、私にとってはその記憶さえも不確かであいまいだ。

 私が母の顔を次に見るのはいつなんだろうか。

 その時は割と早くやってきた。

 年末に、兄から母が鬼籍に入ったと連絡があった。

 正直、あまり関心がなかった。葬式とか、あったらめんどうだな、くらいなものだった。

 もうすでに家を出て、親とは縁を切ったと思っていたし、私にとって母はもう記憶の中にだけ存在する過去のものだったからだ。

 葬式は勝手にやっといてと、返事を出した。親の死に目に会えなかったんだし、今更どうってことないでしょ。

 兄が火葬も葬式もやってくれたらしく、お礼の連絡をしておいた。

「ありがとうね、いろいろ」

「まあ別にいいけどよ。そっちは元気でやってんのかよ」

「うん、まあね」

「お前、親不孝ものだぞ。全然顔も見せないし、葬式にも出ないし、母さん、あの世で悲しむだろうな」

「そんなことないでしょ。あの人、私に全然興味なかったもん」

「あのなぁ……お前……ほんと……」

「?」

「まあいいから。手紙出したから、届いたら読めよ。いろいろ入れておいたから」

「いろいろって?」

「まあ、いいから。じゃあな」

「うん、じゃあ」

 兄から届いた手紙には、母がずっと私のために貯めていたというお金のことについて書いてあった。遺産を相続すれば、かなりの額になるらしい。

 母はずっと独り身だったし、働いていたといっても、ずっと安い給料のパートだ。どこにこんなお金があったのだろうか。

 母一人で暮らしていくだけでも、それなりにお金はかかっていたはずだが。

 もしこれをずっと貯めていてくれていたのだとすれば、それはどれほどの思いだったか。

 なんだか、自分はずいぶんな親不孝ものだったなと、ようやく思った。

 母が私に無関心だったのではない、私が母に無関心だったのかもしれない。

 胸がきゅーっとなった。

 ありがたいお金、頂戴しよう。

 私はなんだかこみあげてきて、泣きそうになる。

 んで、母の顔でも思い浮かべようと思うけど、――思い出せない。

 私は母の顔すら思い出せない。

 こんな親不孝なことがあっていいんだろうか。

 手紙の裏には、写真があった。

「これ……なんだろう……?」

 写真は、若いころの母が、まだ赤子の私を抱いている姿だった。

 母はろくに写真なんかとらなかったから、こんなものが残っているとは驚きだ。

「そっか……こんな顔だったんだ……お母さん……」

 私はようやく、母の顔を思い出した。

 そしてようやく、確信をもって、この人が私の母だと思った。

 写真の裏には、母の文字でこう書かれていた。

「ありがとう、私の天使。私のもとに生まれてきてくれて。ずっと大好きだよ」

 私はそれを読んで、思わず泣いてしまう。

「お母さん……会いたいよ……」

 大切な人は、会いたいと思ったときにはすでに会えなくなっていた。

 だけど、私の記憶の中に、今はちゃんと母の記憶が存在する。




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