六月二日


「まぁまぁかい摘んでいます。太らせることも可能ですよ」


「ふーん。……クラクションを六回鳴らす意味は?」


「はい、その場にいる人数分鳴らすそうです。そうやって女を呼び、エンジンを切っている事が会いに来たという合図になるとか」


相当な年季の入ったパーテーションの向こうで電話が鳴った。

しかし向こうにいる人間からは取る気配が感じられない。

応接間に置くにしてはあまりに家庭的なソファから背中を起こして、尾川啓児編集長が声を張り上げる。


「おい、いい加減誰か取れよ」


しばらくしてコール音が止む。

すいませぇん切れましたぁ、という間抜けな声が返ってきた。

尾川が頭を抱える。


「今な、うち八割バイト。社員抱える余裕ない」


大学時代の二つ上の先輩だった尾川は所属していたサークルの仲間でもあった兄貴分で、新卒で入った文朝社を退社した後、数年前に編集プロダクションを立ち上げた起業家だ。

尾川のプロダクションから発行する怪談や都市伝説を扱うオカルト専門誌

「アヤカシ」は、パイプのあった出版社へ何度も企画を売り込み、隔月誌ながらようやく発売に漕ぎつけた尾川の第一子である。

自身が幼少の頃より夢中になっていたオカルトブームは必ず再来すると勇んでいた当初に比べ、尾川の頭には白いものが増え、少しばかり頬はこけている。


「創刊から大分経つけど、アヤカシは思ったより伸びないし。稟議書りんぎしょを前にいつも震えるよ」


俺は反応に困り、恐らくバイトの子が持ってきてくれたインスタントコーヒーを啜った。随分と薄い。


「それで、どうでしょう? 怨霊トンネルの怪。俺はベタ記事でも結構ですが」


尾川が原稿にもう一度目を落とし、上目遣いで俺を見る。


「その周辺の山で女性の焼死体が発見された事実はあるの?」


「色々過去の記事を漁ったのですが、殺害されたのがいつ頃かという明確な情報がないもので……」


「焼き殺されたなんて残忍な大事件だろ。場所もある程度特定できていて情報が一切ないなんてことがあるかよ」


「うーん、周辺に聞き込みしますか?」


尾川が緩慢な動作で目頭を揉む。人件費削減のため自らも取材を行い記事も書いているらしい。


「怨霊トンネルねぇ。出るって話は昔からよく聞くけどかなりマイナーな心霊スポットだろ? この実体験もなぁ、心霊現象なのか違うのか曖昧なんだよなぁ」


「しかしですね、このA氏なんですけど、話を提供する見返りに腕のいい霊能者を紹介してくれって言うんです。案徳先生を教えたんですが本当に相談に来たらしいですよ。信憑性はあります」


尾川が原稿をテーブルに優しく置き、哀れむような眼差しをこちらに向けた。

居心地の悪さからつい顎ヒゲをいじってしまう。


「雨宮、フリーになってどれくらいになる?」


「えぇと、三年です」


「そうか。お前ももう三十八か。お互い歳くったな」


「いやぁ本当です。記者時代と同じような取材をやっていると最近はどうもスタミナが切れちゃって」


尾川と同じ都内の大学を卒業後、社会部志望で明陽新聞に入社したものの支社の上司との折り合いが悪く二年で地方新聞社へ移り八年新聞記者を経験した。

その後、知人からの勧誘を受けて総合週刊誌の編集部へ身を寄せたが組織に属する事に嫌気が差し、三年で退職後フリーライターへと鞍替えした。

自分の体一つで勝負をするフリーランスは性に合っているようで、頻繁に家賃は滞納するが後悔はしていない。


「うちは俺が声をかけているとして、他の仕事はどうやって取っているんだ?」


「同じく殆どツテです。あ、でもこの前あるメディアに売り込んだら一つ取れましたよ。なんと地方のソープランドの体験記事。俺はストリートコラムって聞いていたんですけどね」


和ませるため誘い笑いをするも尾川の口角は全く上がらず、俺の乾いた笑い声だけが埃っぽく場に流れた。


「雨宮は大学時代からジャーナリストに憧れていたよな」


苦笑いで頷いた。脳裏に浮かんだ使命感に燃える在りし日の自分が眩しすぎてつい眉間に力が入ってしまう。


「食うためだから仕事を選べとは言わないけど、ルポ記事のパイプをそろそろ作った方がいいんじゃないか?」


「待ってください。確かに俺の最終目標はそこですけど、オカルトだって好きで打っているんですよ。食うためだとか以前に、尾川先輩と一緒で俺も好きなんです」


やっと尾川が笑う。目尻のシワが去年より深く感じる。


「別にお前を切るとは言ってねぇよ。雨宮にはまだまだ書いてもらいたいと思っているよ。ただ、本当にお前が世に向けて書きたい部分に足を突っ込んでみてもいい頃合じゃねぇかな」


「精進します」


そう頭を下げたと同時に背後で「失礼します」と声が上がる。

振り向くと分厚い前髪を生え際から右に分けたベリーショートの女が尾川に対して会釈をしていた。

一応は客分のはずの俺には一瞥もくれない。

わかりやすいな。桐瀬伊織きりせいおりは俺を嫌っているのだ。


「カメラマンの藤橋さんが到着しました」


尾川が腕時計を確認しオーバーに両手を上げた。


「もう四時か。悪りぃ雨宮、次の予約の時間だ。まぁ怨霊トンネルもいいけど、とりあえず違うネタも拾ってみてくれ」


慌しく席を立つ尾川に釣られ急いで立ち上がりバッグを抱えた。


「注文はありますか?」


「ん? じゃ新しい怪談。ネットには上がってないけど今の若い奴等の間で有名な話を集めてくれ」


返事をする間もなく尾川が、パーテーションで区分しただけの安易な応接間を出て行く。

俺は背中に一礼し、残っていたコーヒーを一気に飲んだ。

横を見ると桐瀬と目が合う。


「何でしょうか?」


五つ歳下の桐瀬は尾川プロダクション唯一の専属ライターで企画の指揮から文章校正にも携わる尾川の右腕的存在の女だ。

大学卒業後、ライター志望でありながら出版社へ就職せず、在学中からアルバイトをしていた書店で何故か社員の道を選んだ変わり者だ。

しかし一年後、インターンシップで見知ったという大手出版社の編集者からイラストの能力を買われ、その出版社から分社化したプロダクションへ転職。

以降は数社のプロダクションを渡り歩いた後に文朝社時代の尾川から独立の際にスカウトされライターとして尾川プロダクションにやってきたという。

収入にあまり感心がないと思いきや文科系の専門学校で非常勤講師を請け負っていたりする中々思考の読めない人間である。


「いや別に。ところで桐瀬さん今なに書いてるの?」


白いブラウスに黒のスーツパンツというあまり色気のない恰好が、腕を組む姿の可愛げのなさに拍車をかける。


「雨宮さんが前に持ってきた記事ですけど、あれは以前ネット掲示板で流行った創作怪談を少しいじっただけのデタラメ話だっていう苦情がいっぱい来ました。発解禁実話怪談特集の記事であれでは読者の反感を買って当然です。編集長の知人だからといってやっつけ仕事では困ります」


冷徹な目を書類で飽和状態にあるオフィスに向けながらこちらの胸をグサリと刺す。その件については周りから散々文句を言われたことを知っているくせに、自分がまだ何も言っていなかったとなると構わず蒸し返してくる。

このプロダクションの窓口の役もかっているためストレスは他と桁違いだろうが、こういう蒸し返しを何度も受けると素直に謝れなくなってしまう。

苦言を毎回もらう仕事ぶりの俺も俺なのだが。


「怪談っていうのは多数の人間が語り継いでいくから怪談になるの。誰も聞いたことないものなら作るしかないじゃんか」


「あなた記者出身ですよね? 根気よく取材をしてどこかの誰かが持っている記事になりそうな話を掘り起こすことが、あの特集を成立させる方法だってことに気付きませんでしたか? ベースそのままで表面だけを変えた盗作話なんて誰が好んで読みますか?」


桐瀬の声には一切の感情が含まれておらず非常に事務的な印象ではあるが、その言葉のチョイスには俺へ対する嫌悪の片鱗が隠れることなくへばりついている。

鼻をつままれるのは慣れてはいるものの、そこに怒の感情の味がしないと何だか癇に障る。

人間として見られていない気がしてくるのだ。


「あのね、だったら自分も怪談を書いてみろよ。簡単に言うけどな、取材がどれだけ大変かわかってから言ってくれないかな」


「取材ならここに来ていくらか経験しましたよ。顔に唾を吐かれたり車を蹴られたりもしましたけど、自分で選んだ道なので心は折れません」


「違う違う、その大変さじゃない。探し出すことの大変さだよ」


桐瀬の顔にやっと感情らしきものが浮かぶ。

平らな眉がただ少しばかり動いた程度の変化だが。


「リサーチのことですか? それは基本では?」


バイトらしき若い女がコピーを取りながら噴出す。

容赦のない援護射撃だ。途端に気恥ずかしくなった。

よく考えれば、尾川がいなければここは俺のアウェイだった。


「もうすぐ夏なので来月号のアヤカシは特に力を入れます。怨霊トンネルがお気に入りなら現地取材で詳しい色づけをするなり憑依されたというBさんにもコンタクトを取るなりして下さいね。そのトンネルで起こった他の話を集めてみるのもお忘れなく」


押し黙っていると桐瀬がまたも無表情でとどめを刺した。

聞いていやがったな、チクショー。


「そんなことは言われなくてもわかっているんだよ」


桐瀬にはギリギリ聞こえず、オフィスの若い連中には聞こえる微妙な距離まで歩いてからそう言い捨てオフィスを出る。

しかしエレベーターを待ちながら、Bさんにも会わなきゃな、と無心で考えている自分に気付き、頭を掻き毟った。


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