凛那ルート 7-13

 いろんな服装の凛那を拝めたデートだったが、楽しい時間は矢のごとく早く過ぎるもので、名残惜しいのを我慢して帰りのバスに乗り春浜まで帰ってきた。

 夜の帳が落ちてバス停屋根の頼りない照明だけの暗い道に降り立つ。

 凛那はバス停屋根の照明で照らされている発着時刻表を前かがみに眺める。


「さっきのが今日の最終便よね。一九時二十一分」

「帰りが早くて不満か?」


 十九時帰りなどもはや学生である。三〇少し手前の男女二人がせっかくのデートを切り上げる時間ではない。

 仕方ないわよ、と言ってから凛那は姿勢を戻して時刻表からこちらへ振り向く。


「この時間で最終便だもの。互いにあっちで泊る予定もなかったでしょうしね」

「ディナーぐらい予約していれば、もっと雰囲気良かったんだろうけどな」


 申し訳なさを言葉にしながら、頭の中は住民の方々が待っている送別会のことでいっぱいだった。

 ここで凛那の機嫌を悪くさせてしまえば、送別会の会場まで連れて行くことはままならなくなる。

 ディナーねぇ、と凛那は呟き慰めるような目をする。


「そういうデートもお洒落でいいけど、あんたとなら早めに家に帰って簡単な料理を二人で摘まむ方がいいわね。ディナーとかって格式張ってて気が楽じゃないもの」

「なんというか、家庭的だな」

「誉め言葉よ、それ。今のあたしは奈能りんじゃなくて佐野……」


 言いかけてから慣れない言葉を口にするように声を止めた。

 若干に頬を赤く染めて恥ずかしそうに言い直す。


「違うわね。戸籍上はこれから小園凛那なのね」

「大丈夫だ。俺だって慣れてないから」


 婚姻が成立して以降、凛那の姓は俺と同じになった。

 お互いに夫婦であることをたまに忘れそうになる。


「そのうちに慣れるわよね、きっと。帰りましょうか」


 場を繋ぐように言ってから凛那はバス停の屋根から夜道へ出る。

 凛那の隣に追いついてから俺は切り出す。


「帰る前に職場に寄っていいか。凛那に見せたいものがあるんだ」

「……あたしに見せたいもの?」


 俺の誘いに何の予想も立たないらしく疑問符を浮かべているような顔になる。

 実際は見せたいものではなく、職場こそが送別会の会場なのだ。

 オーナーの許可で劇場を貸し切り、乙山親子や商店街の食料品店の主人がオードブル料理の用意をしてくれ、まいかさんの配達に着いて行ったときに訪れた赤い家の佐藤さんが実はピアノ教室を開いており、生徒を誘ってピアノ鑑賞の時間を作ってくれ、レンタルショップの山田さんは凛那のための餞別品を揃えてくれて、春浜の色々な人々が凛那の送別会に協力してくれている。


「春浜から離れる前に一度見せた方がいいと思って」

「その見せたいものって何?」


 もどかし気に訊いてくるが答えられない。


「こんな言い方ダサいかもしれないけど、着いてからのお楽しみ」

「まあ、いいわ、職場ってことはあそこの劇場でしょ。行くの初めてじゃないし、警戒するような場所でもないもの」

「ははは、行ったことない場所だったら警戒するんだな」

「送り狼みたいなこと、されるかもしれないじゃない。夫婦だからって強引なのは引くわよ」

「家が近くなのにそんなことするかよ」

「それもそうね」


 俺の言葉にあっさりと納得して肩の力を抜く。警戒心が働くのは夜道のせいもあるのかもしれないし、凛那ほどの美人なら過去に送り狼に類する危機に逢っていてもおかしくはない。

 安堵のような空気が流れたのを機に二人並んで歩き出した。ほどなくして職場である劇場まで辿り着く。

 劇場の近くまで来ると、劇場の入り口を照らす光が目に入る。


「こんな時間まで何かやってるの?」


 凛那は劇場から洩れる灯りに不思議そうな顔をする。

 住民の大勢が劇場内で待っている、なんて想像はできないよな。


「時々オーナーが一人舞台機器の点検とかしてるらしいからな。たぶんオーナーだろ」

「それで、見せたいものって何よ?」


 無駄話は一切受け付けない声音で訊いてくる。

 俺は断れるかもしれない申し出をするために笑い掛けた。


「凛那、目瞑ってもらっていいか?」

「急にどうしたのよ?」

「強引なの嫌いだろうと思って。俺が開けていいって言うまで目を閉じていてくれないか?」


 俺は頼みながら凛那の斜め後ろに位置取りする。

 両手を顔の前で翳すと、凛那は抵抗せずに目を瞑ってくれた。

 ごめんな、と凛那は目を閉じたのを確認してから手を離す。


「おかげで何も見えないわよ」

「歩きづらいだろうけど、少し我慢してくれ」

「じれったいわね。早く見せてよ」

「そう急かすな。中に入ればすぐだから。ほら着いてきてくれ」


 俺は焦れる凛那を宥め、彼女の細腕を掴んで受付を通り過ぎる。


「ほんとに何があるのよ」

「目、開けるなよ」


 釘を刺しながら劇場前の観音開きまで来て開扉した。

 会場内の煌々とした灯りが外に飛び出す中、凛那を劇場へ連れ込む。


「ちょっ、なに。明るい場所に出たみたいだけど」

「あと少しだ」

「なにがあと少しよ」


 住民の皆が待つ舞台前まで凛那を連れて客席通路を進む。


「これ段差ね。もしかして劇場内歩いてる?」

「そうだな」


 凛那の推測は正しいが、まさか住民の大勢が集まっているとは思っていないだろう。

 存在に気づかれないよう私語を慎んでいる住人の皆が、凛那を目の前まで連れてくると揃って表情を緩めた。


「凛那、ゆっくり開けてくれ」

「ほんと、もったいぶるわね」


 仕方なさそうに言いながらもそっと瞼を開いた。

 囲うように並ぶ春浜の住人達を視界に入れると、ぱちくりと目を丸くする。


「なに、これ?」

「凛那のために集まってくれたんだよ」


 送別会という言葉なしで俺は疑問に答えた。

 凛那は自分を囲う住人達の顔を一人一人確かめるように見回す。


「春浜の人たちが集まってるのはわかったけど、それがどうしてあたしのためなの?」

「この町を離れる凛那のために送別会を開こうって提案したら、これだけの人が来たんだよ」

「送別会……あたしの?」

「余計なお世話って言わないでくれよ」

「言わないわよ」


 否定しながらも感情の整理がつかない様子で俯いてしまった。

 凛那さん、と呼び掛けながら住人の中から、なみこさんとまいかさんが前に出てきた。

 乙山親子の手には切り分けられた厚焼き玉子と割りばしを載せた紙皿があった。


「凛那さんからよく褒めていただいた厚焼き玉子です。いっぱい作ったのでよかったらどうぞ」

「佐野さん。食べてくださいです」

「……ビール」


 なみこさんの紙皿にある厚焼き玉子を見た凛那がふいに呟いた。

 声に気が付いたまいかさんが引き返し、オードブルを載せたテーブルの傍に置かれたクーラーボックスから缶ビールを持ってくる。


「いつものやつです。佐野さん」

「ありがと、まいか」


 まいかから缶ビールを受けとると、すぐさま慣れた手つきでプルを開けた。

次の瞬間にはなみこさんの紙皿から割り箸だけを取り厚焼き玉子を摘み上げて口の中へ運ぶ。

 三回ほど噛んで凛那は泣き笑いのような恍惚の表情になった。


「ほんと。おかしいぐらい美味しい」


 凛那の反応になみこさんは満足そうに微笑んだ。


「たくさん作りましたからね。遠慮せずに食べてください」

「食べる」


 ただ一言凛那が答えると、その言葉をきっかけに他の人達もテーブルに足を向けて送別会が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る