凛那ルート 6-9
公演終了後、俺はオーナーに体調不良を訴えて仕事を早退した。
心に暗雲のように不安感が立ち込め、家路に就く足が自分の物でないような感覚だった。
頭の中で奈能りんの遠い笑顔がちらついたまま自宅にたどり着いたが、家の中から凛那の息吹が感じられなかった。
「あいつ、帰り遅いかな?」
劇団の一人として舞台に上がっていたから、もしかすると劇団員の方々と親交を深めているのかもしれない。
玄関を潜る気が起きず、無意識に足は帰ってきた道へ引き返していた。
行く当てはなかったが夕暮れの春浜を商店街の方へ歩く。
商店街に来ても立ち寄りたい店がなく、ぼんやりと買い物客の笑声の間を進む。
なんとなく空を見上げると、春浜に来て一番かもしれない純一な橙に染まった空が商店の軒の上に広がっていた。
「あれ、小園さん?」
ふと聞き覚えのある声がして空から視線を下ろす。
斜め前に茶と深緑のボーダー柄でしつらえたセーター姿で買い物カバンを提げた理宇ちゃんが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
俺の表情を目にするなり理宇ちゃんの顔が驚きに染まる。
「どうしたんですか。凄い顔してますよ?」
「ああ。ちょっとね」
苦笑いをしようと思ったが出来ずに顔が引きつってしまった。
理宇ちゃんは痛ましげに俺を見る。
「何か大変なことがあったんですか。今の小園さん物凄く辛そうな顔してます」
「……そんなに辛そうに見える?」
「はい。いつもの小園さんだったら笑いながら言うのに、今笑えてません」
「そうだね」
理宇ちゃんの観察眼に敬服しながら肯定した。
明らかに異常な俺に理宇ちゃんは心配そうに目を細める。
「話ぐらいなら聞きますよ。私なんかに話しても解決にはならないとは思いますけど、一応お父さん警察官ですから」
「……あんまりこの場で話すことじゃないかな」
「私の家、来ます?」
真面目な顔をして自宅へ誘われた。
理宇ちゃんのことだから本当に心配して誘ってくれているのかもしれない。
帰る気にはなれないが他人様の家に上がり込むのは違うよな。
「これから夕飯でしょ、俺なんかが居たら悪いよ」
「今の小園さんを放っておくことはできません。とても傷ついているように見えますから」
傷ついている、という理宇ちゃんの表現がやけに腑に落ちた。
自分の感情を理解できなかったが、傷心しているのは間違いないな。
この際、頭のいい理宇ちゃんに話せば少しは傷が癒えるだろうか?
「本当に邪魔じゃない?」
「はい。お父さんと二人だけですし、お父さんも今の小園さんを見たら私と同じことを考えると思いますから」
「それじゃあ御呼ばれしようかな」
理宇ちゃんの親切に甘えることにした。
俺が応じると理宇ちゃんは安心したように口元に笑みを浮かべる。
「そうしてください。住民の悩みを聞くのも駐在の仕事の一つですから」
照れ隠しなのか義務的な言い方をすると、買い物済ましてきますと告げて小走りに斜向かいの店舗に駆け寄っていった。
買い物が終わるのを待ってから理宇ちゃんと楠木家へ向かった。
楠木家まで来ると、俺が招待されたのを理宇ちゃんから聞かされていたのかドアを開けて晋也さんが出迎えてくれた。
「こんばんは小園さん。うちに来るのは春以来ですかね?」
「確かそうですね。あの時は凛那の正体が云々で来たんでしたよね?」
思い出して言ってから胸が痛んだ。
声のトーンを落とした俺に晋也さんは気掛かりそうな眼差しをくれる。
「大丈夫ですか。困りごとなら聞きますが?」
「大丈夫です……たぶん」
自分でも言い切れない。
一緒に夕食っていう雰囲気じゃないですね、と晋也さんは深刻な顔をして言った。
「何かがあったんですね。聞かせてもらえませんか?」
「……聞いても笑わないでくださいよ」
「笑いわけはありません」
明言して頷いてくれる。
仕事で話を聞くことが多いからか、晋也さんは訊く側に徹する姿勢を取っており、こちらとしても話しやすい。
「凛那のことなんですけど……」
名前呼びしていることなど気にせず傍に居る理宇ちゃんにも聞こえるように打ち明けた。
自分の複雑な心情まで話すと、晋也さんは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「警察官の自分が解決できる事案ではありませんね。すみません」
「いや、いいんですよ。解決しようと思って話したわけじゃないですから」
凛那が公演で舞台に上がったこと、その凛那を見て距離感を感じてしまったことまで楠木親子に打ち明けると、少しだけ心が楽になったのか微苦笑できていることに気づいた。
ねえお父さん、と理宇ちゃんが眉根を寄せて考え込んでいる顔つきで父親に尋ねる。
「佐野さんが誰かに脅されてる、なんてことはないかな?」
「もしも実際にそういう事実があれば問題だけど、自分は何も聞いていないよ」
娘の不安そうな問いかけに晋也さんは優しく微笑み返した。
弱みを握られて舞台に上がることになったのなら、弱みを握った奴をとっちめてやりたいが一色劇団が凛那の出演を認可していることを考えれば、脅されての結果ではないだろう。
可能性としてなら一色さんが凛那に頼んだ場合の方があり得る。
「凛那の正体を知っている二人だから話すけど、一色劇団の劇団長の一色さんは凛那の俳優時代の知り合いらしい。一色さんが復帰を望んで、凛那がそれに応じたかもしれない」
「でも舞台に出たら正体がバレるのはわかりきってるはずですよね。それなのにどうして望みに応じたんですか?」
理宇ちゃんが首を傾げて俺に訊いてくる。
たしかに凛那も復帰の誘いがあっても断る、と意思表示してくれた。
この数か月で凛那の中で考えが変わったのだろうか?
「頼まれただけで舞台に出るとは自分は思えませんね」
凛那の変心に疑問を抱いていると、晋也さんが冷静な口調で言った。
「佐野さん側にもメリットがあるから復帰の頼みに応じたのだと考えられませんか?」
「メリット。例えばどんな?」
「自分にはわかりませんよ。それこそ佐野さんが抱えている悩みなどは小園さんの方が知っているはずです」
晋也さんに質問を返されて近頃の凛那の身辺事情を思い返してみる。
俺と交際するようになったこと。
慕う祖母が亡くなったこと。
祖母の遺志を継いで民宿を営業したこと。
ビーチホテル開発に反対していること。
この中で凛那が最も頭を悩ませていた事柄は……
「なるみやホテルって知ってますか?」
理宇ちゃんと晋也さんに尋ねた。
楠木親子が頷くのを見てから話を整理して告げる。
「民宿の客が減ってしまうという理由で凛那は新しいホテルの開発に反対しています」
「なるほど。そこまで考えが至りませんでした」
晋也さんが力不足を感じたように肩を落とした。
理宇ちゃんは愕然と何か思いついた顔で俺を見る。
「小園さん。まさかホテルの開発と佐野さんの女優復帰に関係があるんですか?」
「あるのかもしれないね。俺は何も聞かされていないけど」
理宇ちゃんに答えてから、凛那に裏切られたような気持ちが湧いてきたことを自覚した。
仮に女優復帰とホテル開発の反対が関係しているのだとしたら、どうして真っ先に俺に相談してくれなかったのだろうか。
まだ憶測の域は出ないが凛那本人へ事実を問い質したい。
今まで自宅に帰る気がなくなっていたのが嘘のように、凛那に会うために帰りたくなった。
出会ったばかりの頃みたいに内偵して確信を得る必要はないはずだ。甘い見込みだと言われたらそうなのだが、正直に話してくれると信じている。
「理宇ちゃん、晋也さん。急用を思い出したので夕食は辞退させてもらいます。せっかく誘っていただいたのに申し訳ありません」
楠木親子に詫びて了解してもらうと、楠木家を出て自宅への道を急いだ。
商店街の上に広がる夕空は、すでに宵闇を混ぜた紫に変わっていた。
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