一章 居候の女
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四国の某県の海沿いに位置するここ春浜町はやはり東京よりも温暖なのか、歩いているうちに服の中が少し汗ばむようになった。
海へと直接下る坂道を外れて、記憶にある立木の連なる川沿いの道を進むことにして、のんびりと目的地の民宿まで歩いている。
他にも表通りの商店街から民宿へ向かう道もあった気がしたが、子供ながらに涼しさを感じて記憶に鮮明に残っている川沿いの道を選んだのだ。
記憶が正しければ、この先にある四つ辻に出ると海へと下る坂道に合流できるはずだ。
小川からの涼風と海からの潮風が混ざり合った空気の中、まだら模様が揺れる爽やかな木陰の道を歩き進む。
十分ほど歩くと川が途切れ、ブロック塀が続く住宅街に入った。
あと少し歩けば坂道に出る。
ついにブロック塀も途切れて坂道に合流できるところで、坂道を下ってくる方向から人のような気配を背後に感じた。
振り向くと、若い女性が急接近していた。
知らない顔だと認識した瞬間、相手の若い女性の顔が驚きに引き攣った。
「どいてくだっ、うぎゃ!」
出会い頭に俺とぶつかり、蛙の潰されたような声を発して若い女性の身体が後ろへ傾いていく。
瞬発的に俺は動いていた。
頭部を守ってあげようと若い女性の身体に手を回す。
庇う行動に出てすぐに感じた女性らしい柔らかい手触りに、移り住んでいきなり俺は何をしているんだろうという思いが胸に去来した。
しかしもう遅い。
俺は若い女性を庇って一緒の方向に倒れていた。
「うぇ、背中が痛いです」
若い女性の呻き声が聞こえて俺ははっとし、庇っていない方の手を地面につけて上半身を起こした。
俺の目と鼻の先で、若い女性が二の腕ぐらいまではありそうなソバージュの髪を下敷きにして倒れている。
頭や腰を強くぶつけてはいないか、と案じて若い女性を見ると、豊かに実った双丘にバッグのショルダーが食い込んでいた。
しかし目立つ胸を見ている場合ではないと思い直し、若い女性の顔に視線を移す。
「怪我はなかった?」
案じながら若い女性は両腕を頭上へ上げているのが気になり、その細腕を目で辿る。
何か意味があるのか、地面から遠ざけるようにショルダー付きの保温バッグを両手で宙に掲げていた。
「ごめんね」
謝りながら女性の上から完全に退く。
それでも女性はショルダーを胸に食い込ませたまま仰向けの状態で保温バッグを掲げ続けている。
立ち上がれるのだろうか?
どこか打ったのかと心配になり声を掛けようとして、俺は動きを止めた。
女性のスカートが盛大にめくれ上がっている。下着の色は水……などと色まで認識している場合ではない。
何も見なかったことにして女性の顔の方へ意識を向ける。
スカートが捲れていることに気が付いてすぐに直してくれるなら謝罪という手段に出られるのだが、女性は保温バッグに目を注いで気付く様子はない。
その時、ふと女性がほっとして口元を緩めた。
「お弁当、守れました」
弁当を守れてもスカートの中が天日干しぐらいに晒し状態なのだが。
俺はさすがに見かねて声を掛ける。
「大丈夫? 本当に怪我はなかった?」
女性の目がようやくこちらを向く。
途端に大きな目に謝罪の色を浮かべた。
「ぶつかってごめんなさい、です。怪我はないです」
「一人で立ち上がれそう?」
「うぇ、無理です。お弁当を落とすわけにはいきません」
無理ではないだろう。スカートの中よりも弁当の方が大事なのか。
いい加減スカートが捲れているのに気付いて欲しいが、自分から言うのはちょっと気が引ける。
「すみません。立ち上がれないです」
「それ持っててあげようか?」
保温バッグを指さして訊くと、女性は首だけで頷いた。
俺は保温バッグを女性が掲げる位置のまま支えてあげる。
すみません、と繰り返しになる謝罪を口にしながら女性が地面に手をついて上体を起こした。
申し訳ない顔をして俺の手から保温バッグを取ると、特に怪我などはない様子で立ち上がった。
「もう大丈夫です。ありがとうございます」
「ごめんね。ぶつかっちゃって」
「いえ、こちらこそ。ごめんなさい」
「その中のお弁当は大丈夫かな?」
俺は保温バッグを指差して尋ねた。
女性は不安そうな目になって保温バッグを開けて中を覗く。
弁当の無事が確認できたのか、ほっと肩の力を抜いた。
「問題なし、でした」
「なら良かった。君も怪我してないみたいだし、何もなくて安心したよ」
「私は大丈夫ですけど、ええと、あなたは大丈夫なんですか?」
ぶつかった相手を気遣う余裕が出てきたらしく女性が訊いてくる。
大丈夫だよ、と俺は顔の前で手を振って返答した。
「そうですか。大丈夫でしたか」
「でも曲がり角は気を付けないとね。はは」
自分にも言い聞かせるつもりでそう言った。
女性は伺うような目で見てくる。
「仕事があるので、もう行ってもいいですか?」
「いいよ。ごめんね仕事中にトラブルを起こしちゃって」
「いいんです。では失礼します」
ソバージュの若い女性は保温バッグを大事そうに抱えて会釈すると、商店街へ続く路地へ入っていった。
都会と違って人が少ないとはいえ、曲がり角は注意した方がいいな。
先ほどよりも周囲に気を配りながら俺は民宿へ向かって坂道を下った。
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