九月(キスリム)
奇奇怪怪
「……え?」
エナは自宅の薄い暗闇の中、絶望の淵にいた。疲れていたのだろうか。フローリングで突っ伏して、いつ眠ったかは覚えていない。が、違和感から眼を覚ますと、掌が何かで濡れていたのだ。少し乾いていたが、臭いを嗅いでみるとそれは血液だった。
しかし己の体を見ても探っても、どこも怪我をしている感じではない。そもそも痛みはない。家事用のエプロンをしているのでもしや肉でも切っていて昏倒したのだろうか。もちろんそれは誰かに傷害を与えたわけではなく、きちんとスーパーで売られている精肉という意味だ。
ふと横を見れば包丁も落ちている。どうしてかは分からないが、やはり料理中に意識を失ってしまったのだろう。
とぼんやり考えていたけれど、その予想は大きく外れていたことが分かった。
「ヒッ、きゃああああああ!!!」
エナの傍に、見知らぬ男が横たわっている。腹からは大量に出血していると見え、思わず悲鳴を上げれば、それは長閑な住宅街にすぐに響き渡った。何も考えずに助けを求めたものだから、面倒なことになってしまう未来は憶測できなかったのだ。
「あの、刑事さん……! あたし本当に知らないんです! 信じてください!」
「そうは言ってもねえ、証拠が残ってるんだから。まずは話を聞かないと、ね?」
林 エナはおどおどしながら警視庁で取り調べを受けている。すぐに警察が駆け付けたはいいが、どこを調べても外部の侵入は見当たらなかった。ゆえに、一番怪しいのはこのエナだけである。
彼女は十年ほど前に結婚して、夫と二人暮らしを送っている。夫の
「夫は定時後も、集中するためひとりで仕事をしたいからと……どこかの個室を借りていて」
なので、証明してくれる者は誰もいない。電気も点けずカーテンを閉め切って、外からは見えないようにしていたらしい。
らしい、というのもエナにとっては本当に記憶にないことで、男を刺した感覚すらも知らない事柄だった。
「それで、不倫?」
疑うのが仕事とは良く聞くが、その道筋はエナの耳を打つ。犯罪を突き止めるためならでっち上げもするというのか。
「ち、違います!」
「だけど、あんたら教師と元教え子で結婚したんだろ? 相手は七つも年上だし、遊びも知らないんでしょうが。夫婦生活マンネリ化して、つい外にいる若い男に行っちゃったんじゃないの? 別れ話や、もしくは弱みでも持ち出したか持ち出されたか。それでカッとなって、とか」
被害者の男性は二十五歳で職業はホスト。エナの住む宅地にはそぐわない人物だ。男女の密会に結びつければ薄暗い自宅も、ホストがこの場所にいることにも都合がつく。弁明しようにも何も覚えていないの一点張りでは、自信もなくなってきてしまった。
「ち、ちが……本当に、何も知らないんです」
「はぁ、いい加減白を切るのも疲れて来ないですか? 凶器にはあんたの指紋、荒らされた形跡もなし、ガイシャの前から刺せるなんて親しい者じゃないとできないよ」
「そ、そんな……」
相手は亡くなってはいないものの、腹部を深く刺されたショックからか意識不明だった。それが唯一の救いではあるのだが、そもそも罪を犯していないので喜んでいいのか複雑な気分だった。もちろん命があることに越したことはない。露骨に嬉しそうにしてしまえば、さらに疑われてしまうのではないかと妙に緊張してしまう。
「吐かないとこっちもそっちも帰れないよ? 旦那さん、心配してるんじゃない? 変な噂も立てられちゃったりして。いま楽になったら、不倫のことは黙って物取りをつい、の傷害事件で済ませてあげるから」
「…………」
どうあっても帰してくれない気なのだろう。冤罪を許してしまってはいけないのに、朋喜のことが気になってしまう。はっきり否定できないことで不安が増し、まさか本当に何かしでかしてしまったのでは、と疑念が浮かぶ。
自分に悪い噂が立てば主人さえもこの土地にいられなくなってしまう。朋喜を愛しているからこそ、こちらが迷惑にならないように配慮も必要なのだ。
「あたしが……刺して、しまった、のかもしれません」
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