泉の女神の婚活道中〜人外魔境の大森林には木樵どころか勇者も来ない!〜
ベニサンゴ
第1話「待ちくたびれた女神様」
昔々、そのまた昔。広大無辺な荒地のまんなかに一滴の雫が落ちました。
神獣と魔獣が互いを喰らい、天地を引き裂く激戦を繰り広げる千年間。
その雫はゆっくりと乾いた大地に染み込んでいきました。
女神と魔神が各々の使徒と共に激突し、世界を歪めるほどの鏖戦を繰り広げる千年間。
その雫はゆっくりと広がっていきました。
やがて雫は小さな水溜りとなり、その周囲に緑が芽生えました。
水溜りは泉となり、そこに小さな精霊が宿ります。精霊は豊かな自然を育むため、懸命に働きました。木々に生力を与え、大地を潤していきます。やがて花が咲き、実が実り、種が落ち、新たな芽が萌出しました。
泉の精は来る日も来る日も働きました。木々はどんどん大きくなり、やがて森へと至りました。
森には動物たちが集まり、数多の命が産声をあげ、育まれ、戦い、交わり、子をなし、育て、死にました。
雄大な自然の循環がぐるぐると回ります。ぐるぐると。ぐるぐると回ります。
水は万物を巡り、森羅万象に影響を与えます。水の精は徐々に力をつけていきました。
そして、水の精が女神へとなった頃――。
「話が、違ぁぁあああう!」
彼女は天に向かって吠えました。
◇
泉の女神ヘルミオネはぜいぜいと肩で息をする。数百年ぶりの絶叫に森中がどよめいていた。鳥たちが勢いよく飛び立ち、眠っていた獣たちが飛び起きて走り出す。ざわざわと木々まで枝葉を揺らして驚いていた。
「ぜんっっっぜん来ないんだけど!? いつになった来るのよ、正直な木こり君はぁ!」
しかしヘルミオネの怒りは収まらない。こめかみに血管を浮き立たせて怒声を上げる。近くに生えていた木に拳をぶつけると、轟音を立てて砕け散った。
彼女は憤っていた。これまでワンオペでゼロからコツコツ真面目に働いてきたのだ。生命の息吹が皆無の荒野に落ちてからこれまでずっと、泣き言も言わずに務めを果たしてきた。――いや、ちょっとは文句とか言ったかもしれないが。それでも吹けば飛ぶような水の精だったころから根気強く水を巡らせ続けたのだ。
その甲斐あって今や森は栄華の極みを誇っている。中心にある泉には日々膨大な生命力が集まり、それは周囲に振り分けてもなお彼女の神聖性を底上げし続けている。
だが――。
「泉の女神には正直な木こり君が来るんじゃないの!? そんで普通のショボい斧とか落としてさぁ! 私がキラキラァンって出てきてさぁ! 金の斧と銀の斧を結納品にして入籍するんじゃないのぉ!?」
深い森林の中心で独り愛を叫ぶ女神がいた。
彼女がこれまで真面目に仕事を果たし、自然を司り続けた理由。それはお伽話に語られる正直な木こりとの出会いを待っていたからだ。
だというのに待てどくらせど、それこそ天地開闢の時から主要な文明が何度か生まれて滅ぶまで、彼女は待ち続けたのにそれっぽい奴は来なかった。なんか森の淵のほうでゴチャゴチャしていたこともあったが、最奥の泉まで辿り着いたものは皆無、いや絶無であった。
トゥルー前人未到の地である。純潔もいいところである。
話が違うのである。
「せぇええいっ!」
ヘルミオネが拳を突き込む。樹齢数千年の巨木に深いクレーターが穿たれ、轟音を立てて倒れる。やがて苔むして朽ち果て、新たな生命の苗床となるので問題はない。
問題なのはいつまで経ってもやって来ない正直でイケメンな木こり君であった。
「花嫁修行もしてるんですけど! 収入も申し分ないと思うんですけど!」
ヘルミオネは自然司り業のかたわら、己を鍛え続けていた。花嫁修行である。どんなにか弱い木こり君であってもしっかりと支えられるように鍛錬してきたのだ。
今や彼女の身長は2メートルに迫り、若い頃にアラクネたちに仕立ててもらった綺麗なドレスも胸筋や上腕二頭筋や僧帽筋でパッチパチだった。
長い金髪は毎日欠かさず泉で清めているため、光を帯びたように美しかった。その顔立ちは流石女神と讃えられるほどに精緻で、目を奪われるほどに整っている。
ただ、身長が2メートルあり横幅と厚みがとんでもないことになっていた。
ちなみに収入としているのは泉に集まる生命力である。毎日上位の精霊がポコポコ生まれる程度には集まっている。
「――しかたない。こっちから探しに行くか」
ヘルミオネは決意する。根を切らしたとも言える。
向こうが来ないなら、こっちから行くのだ。正直でイケメンで優しい木こり君を探して婿に迎えるのだ。我こそが花嫁であると売り込みに行くのだ。
そうと決まれば動くのは早い。行動力だけは自信がある。
「ちょっとそこの君。そうそう、君よ。ちょっと出かけてくるから留守番よろしく」
「えっ!? ちょっ、ええっ!?」
たまたま近くを通りがかった水の精霊に役目と多少の権能を押し付けて、泉の底に沈めて用意していた結納品を背中に担ぐ。
「女神様!? ちょっと、女神様どこに行くんですか!? いつ帰ってくるんですか!?」
ぶくぶくと泡立つほど元気な水の精霊なら、後を任せても安泰だろう。ヘルミオネは大きく手を振って、数百年ぶりに泉から離れた。
「んー、しばらく散歩してなかったけど、森も深くなったわねぇ」
周囲を見渡せば天を衝くような巨木が押し合うように立ち上がっている。互いに退くことなく枝葉を伸ばし、少しでも陽光を浴びようと躍起になっている。そのせいで足元は薄暗く、女神の真珠のようにシミひとつない肌にも優しい環境だった。無論、陽光ごときで焼けるほど柔な肌はしていないが。
森に息付くのは植物だけではない。その実を食べる鳥や獣、それらを狩る肉食獣や猛禽の類も多い。ここは女神のお膝元、大地に深く根差した霊脈から莫大な生命力が集められ、湧き出す秘境だ。当然、そこに棲む生命も力強く雄大なものとなる。
ヘルミオネの前を横切った10メートル越えの巨大イノシシが、影から飛び出してきた大蛇に丸呑みにされる。サンダーバードの翼から広がった稲妻が、精霊樹の枝にあったフェニックスの巣に火を付ける。
いつもと同じ、美しき森の生命の輝きだ。
「……あれ?」
しかし、ヘルミオネは異変に気付く。自分が管理している森に異物が紛れ込んでいるようだ。来るもの拒まず去るもの追わずがデフォの彼女だったが、その存在は妙に引っかかる。
「なんか厄介そうな奴が来たわね。ある意味懐かしい感じもするけど」
その生臭い匂いを辿って木々の隙間を駆け抜ける。彼女に道を譲るように木々の方が左右へ退くようだった。
長い金髪が風にたなびき、筋の通った鼻梁が先を向く。
邪悪な気配は近付くほどに濃く強くなり、やがて黒い靄として周囲を汚しはじめた。その中心にてうずくまるのは、灰銀の毛並みを血で汚した巨大な魔狼だ。
「こいつ……」
ヘルミオネが青い瞳を揺らし、咄嗟に背中に背負った斧に手を伸ばす。そのへんの上級神が雑魚に見えるほどの神聖性を身につけた彼女が無意識に身構えるほど、その魔狼は強大な力を宿していた。
鋭利な牙の並ぶ口からは、これまで喰らってきた神族の無念が漏れ出している。神殺しの魔狼。はるか太古にこの地を蹂躙した混沌の血脈。
「グルルルル……」
魔狼も目の前に現れた女の宿す神聖性に気付く。それを喰らえば、身に受けた傷の治りも早まるだろうとほくそ笑む。厄介な敵から逃げ、魔力の溢れる森へと飛び込んだが、思わぬ産物があった。それが四つ足で立ち上がると、全身に巻き付いた太い鎖がジャラリと擦れた。
ヘルミオネは斧を構える。背中にあった二本のうち、重厚な刃を輝かせる巨大な金の戦斧だ。
神喰らいの魔狼は瞠目する。その斧は神代の聖遺物に匹敵する莫大な神聖性を宿しているように見えた。そんな馬鹿なことがあろうか。千年の時を生きる中でも、それほどの宝具を見たのはただの一度だけしかないというのに。こんな辺境の森の女神程度が。
「とりあえず駆除しないといけないよね。流石にあの代役ちゃんだと手に負えないだろうし」
混乱に固まる魔狼の前で、ヘルミオネはかったるそうに肩を回す。
そして斧を構え――。
「ふっ」
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