2. 病の方がまだ可愛い
吸血鬼は、ミハイ
腹に響くリズムに合わせ、わかめよろしく人間が踊りくねって進みづらい。人混みをかき分ける際にぶつかった男女集団が、千鳥足でステップを踏みながら、下手くそなジョイントを吸い回す様子が視界に入る。煙草とは別の甘ったるい煙の不快さに、エリカは思わず顔を歪ませた。
「あまり睨まない方がいい、こっちへおいで」
それとほぼ同時に、高月がエリカの肩を抱き寄せた。不思議なことに、すいすいと人混みを進めるようになる。
人の少ない上階へと上がり、二人は立ち並ぶ個室の一つへ入った。
「私はここのオーナーだ。好きなものを飲んでくれ」
「いらない。それより説明して」
エリカは苦々しく告げた。対する高月は、一見すると爽やかな笑顔を湛えて、
「では適当にあつらえよう。まあ座ってくれ」
部屋の電話から注文を始めた。エリカは男と距離を置いて、扉に一番近いソファに腰掛ける。窓からはダンスフロアが一望できて、多様に切り替わる照明が蠢く群集を不気味に彩っていた。やがて店員がワインボトルとグラス二つを運んでくると、高月は上機嫌にワインをグラスに注いだ。
「襲わないさ。人間以外の血はとても飲めたものではない」
「どうだか。ていうかアンタ」
「ミハイと呼んでくれ、エリカ」
「……アタシ、名乗ってないんだけど」
男の
「噂に聞いている。このご時世、搾取できる男との出会いなんていくらでも作れるだろうに、いまだに誰も
その噂を流したやつを絶対に引き摺り出してやると心に誓いつつ、エリカは無言で高月を睨む。男は歯牙にもかけず、それが一層エリカの癇に障った。
「怖い顔をしないでくれ。せっかく愛らしい美人なのに」
「その褒め言葉は聞き飽きてるの」
「相当こじらせているなあ。どれ、いくらか聴かせてくれないか、君の歌を」
「ハァ?」
思わず間抜けな声を上げたエリカであったが、対する高月は澄ましてワインを味わった。
「こう見えて私は三百歳を超えていてね」
「じゃあその外見若作りなの? キッショ」
「
どうだい、と眉を上げて見せる高月。エリカは苦々しく眉根を寄せ、膝の上で拳を握りしめた。
「……嫌よ」
「何故」
「馬鹿にされて笑われるのは、人間相手で間に合ってるの。同じ化物にわざわざ披露したくないのよ」
口籠もり打ち明け、高月から目を逸らす。視線の外で、かたんとグラスを置く音がした。静かに名前を呼ばれて彼を見る。彼の口元に刻まれているのは、冷笑ではなかった。
「私が笑うとしたら、それは君の歌に聞き惚れた時だ。嘲笑うことはないと誓おう」
存外、悪い奴ではないかもしれないと、思考が勝手に絆されていく。先程助けてもらった礼と思えば、不死の怪物の退屈凌ぎに付き合ってやってもいいのかもしれない。
「そ、それなら、じゃあ昔から練習してる歌と、えっと、流行りのバラードと……あと、お気に入りの——」
人にねだられて歌ったことがなく、知らず高揚し饒舌になるエリカであった。高月はそれを微笑ましげに眺めている。
エリカは歌った。母から教わった聖母を称える曲、大ヒットアニメ映画の主題歌、そして最もお気に入り、愛の雨が降り注ぐような人生讃歌の歌謡曲。音痴だとばれているためか、気負いせず肩の力を抜いて歌えた気がした。
三曲も人前で歌ったのは初めてである。エリカは蒸気した頬を輝かせ、高月を見た。
「ど、どう?」
男は首を傾け、甘やかに笑った。
「酷いな。本当にセイレーンかい?」
エリカは空のグラスをぶん投げた。高月はそれを、顔の前で器用に受け止めた。
「笑わないって言ったじゃない!」
「笑ってないよ、率直な感想だ」
ほら落ち着いてと宥められ、投げつけたグラスにワインを入れて返される。エリカは腹立たしさに任せてそれを煽ると、裂けたスカートから下着が見えるのも憚らず、ソファにふんぞり返って足を組んだ。
「で、聴かせてあげたんだから、上達する方法教えなさいよ」
すると高月は、すらりと伸びた白く艶かしい足など目もくれず、「ふむ」と顎を撫でて思案した。
「致命的、かつ稀な症状だ」
「病気みたいに言わないで」
「病の方がまだ可愛い。治療ができる」
「アタシの音痴だって治るわ!」
啖呵を切ると、ふいに高月の眼差しが鋭い三日月を象った。琥珀の瞳に、フロアの明かりの極彩色が映えて妖しい輝きを帯びている。
「その美貌なら、男を誑かすのに十分だろう。百年進歩しない歌なんて諦めて、今あるカードで——」
「余計なお世話よっ」
エリカだってセイレーンの娘だ。美しい歌声で、誰からも持て囃され愛される、そんな同胞たちが羨ましい。自分もいつか絶対に——そんな野心が胸にずっと渦巻いている。
「無いならカードを作るんだから!」
エリカは音を立ててグラスを置き、睨み下ろすように顎を上げて宣言した。
「————良い言葉だ」
そう言う高月があまりにも優しく微笑むので、エリカは面食らった。彼はこちらに構わずご機嫌で、自分とエリカのグラスにとろりと酒を注いだ。
「一朝一夕では無理だが、練習に付き合わせてくれ」
男が胡散臭い身振りで指を鳴らし、我に返ったエリカは眉を顰める。
「何企んでるのよ吸血鬼」
「暇つぶしが尽きて、生に刺激がないんだ。長生きのしすぎも健康に良くないな」
ちぐはぐなことを嘯きながら、高月は愉快げに声を上げるのだった。
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