同じ穴のムジカ

ニル

1. 血なまぐさいのよ

 まさか、パパが香港マフィアだなんて思わなかった。 


 握りしめたパンプスに散るラインストーンが、歓楽街の明かりに煌めく。新調したてのマーメイドスカートを腿まで裂き、名波ななみエリカは摩天楼まてんろうの合間を全力疾走していた。

 パパと言えど実父ではない。継父でもない。財と自尊心と孤独を持て余す中高年のことだ。そういう男は、エリカたちセイレーンの格好の餌食となる。もっとも、エリカがその餌食にありつけたことは一度もないが。


「二ヶ月練習したのにぃ……!」

 悔し過ぎて、凍てつく虚空に白い吐息と負け惜しみが漏れ消える。食事をしてホテルに誘われ、「歌手を目指している」だとか、歌を聴かせる常套句じょうとうくを垂れていざ歌う。ここまで計画通り。練習の成果を披露するも男に鼻で笑われたのだから、手近なベッドランプで相手を殴ったのは不可抗力だ。

 繁華街とはいえ、賑わいはすでに落ち着きつつあった。終電の時間も過ぎて、道ゆくタクシーは押し並べて予約済みだ。


「うううう……」

 呻いたって頭を掻きむしったって、状況は同じ。通り過ぎ様にスマホを向けられていたことに気づくも、それに突っかかる余裕はない。


「おっと、捕まえた」

 刹那、走るエリカの背に前触れなく気配が現れた。

 ぎょっとして足をもつれさせるのも束の間、両肩を掴まれ、あっという間に高層ビルの柱の影に引き摺り込まれる。

「ちょっと何——!」

 かろうじて声を上げようとするも、冷たく大きな手に口を塞がれた。走っていたせいで息が苦しく、エリカの呼吸が乾いた掌を湿らせる。見上げると、黒いチェースターコートの男が物陰から通りを観察していた。エリカからは彼の人相が窺い知れない。


「捕まるとまずいんだろう」

 月明かりのように静かで柔らかい声である。

 ほんの数十秒足らずで、粗野な声たちと喧しい足音が通り過ぎていった。それからさらに数分、男はようやくエリカの拘束を解いた。

「追われているようだから手を貸してみたけど、お節介かな」

「あ、あなた一体——」

 電光掲示板とネオンに街灯、きらびやかな通りへと手を引かれたエリカは、チェスターコートの男を見上げて言葉を飲んだ。


「ああ、スカートがこんなになって可哀想に。このコートを着るといい。さあ足を出して、私でよければ靴を履かせよう」

 いっそ不気味なほど親切に世話を焼き始める男に、たじろいだわけではない。こう見えてエリカは百三十年生きている。自分に害さえなければ、大抵の人間の挙動には動じない。

「うん。これでよし、と」

 まばらな衆目も気にせず白い足にパンプスを滑らせると、彼は甘く微笑した。暗いブロンド、琥珀アンバーの虹彩、長身の割に幼く見えるのは、口が大きく目が垂れ気味だからか。

 何はともあれ、好みの顔である。


「——どうもありがとうございます」

 エリカは艶やかな髪を片側に流して、コートを前に寄せる……フリをして、豊満な身体を強調した。つい数分前まで、香港マフィアに追われていたことなど思考の外だ。

「お礼ができたらいいのですが」

 声を掠れさせて、瞳を潤ませてみる。彼はあくまで飄々と、それでも少し声を弾ませた。手応えありだ。


「いいねえ。なら今から付き合えるかな。一人で飲もうと思っていたんだ」

「わあ、是非!」

 口の前で両手を合わせて破顔すると、男もまた優しい笑みを深くした。内心ほくそ笑んだエリカは、ビルの谷間を吹き抜ける風に肩を竦ませ、コートの襟を立てる。爽やかで品のある芳香。羽振りも良さそうだと直感して、エリカはコートに移った香りをもう一度吸い込み、


「……ちょっと待って」

 思わず低い声が出た。


 足を止めたエリカを、男はきょとんと振り返った。エリカは男の腕を引き寄せ、しかし周囲の視線を気にしてその場からそそくさと離れる。

「どうかしたかな。君を追っていた彼らは——」

「黙って」

 ネクタイを引っ張り顔を近づけさせると、「おっと」と流石に驚いた琥珀の双眸が丸くなった。エリカは構わず、男の首筋に鼻を寄せ匂いを確める。

「いやはや、積極的なのは嫌いじゃないが」

「黙ってって言ったでしょ」

 なおもへらへらする男を突き放し、エリカの灰色の目が冷たく光った。

「血なまぐさいのよアンタ。一発吸血しキメた後は大人しくしてるのが、吸血鬼界隈のマナーじゃないの」

 男は屈託なく、それでいて意地悪く目を細めた。

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