第139話 双極の特異点
ヴァーゲの宣戦があった翌日から、桜ちゃんを含めた戦える人達は訓練のために集められた。
その訓練はメポルが主導で行っており、内容は教えてくれなかった。多分、メポルなりの気遣いなのだろうけれど、言外の戦力外通告である事に気付けない訳が無かった。
今まで何かあるたびに戦えたのに、今は戦えない。それが、悲しくて悔しい。
俺は特に目立った外傷が無いとの事で、家に帰された。
家に帰っても一人だから、直ぐに深紅に会いに行ける病院に居たかったけれど、今も深紅は目覚めない。深紅に対しても何も出来ない、訓練にも参加できない。
無力感に苛まれた俺は、大人しく自宅に戻る事を決めた。
「ただいま……」
俺のただいまの声は無人の自宅に虚しく広がる。
当たり前だけれど、誰も居ない。
とぼとぼと、力無い足取りで二階に上がり、自室の扉を開ける。
「お帰り、お兄ちゃん」
誰も居ない。そう思っていたから、その言葉を聞いて心臓が痛いくらいに跳ね上がった。
驚いて声の方を見れば、そこには見慣れた少女の姿があった。
黒く艶やかな長い髪に、きりっとした切れ長の綺麗な目。すっと通った鼻筋に、潤いを含んだ瑞々しい唇は嬉しそうに微笑をたたえている。
「花蓮……?」
「うん、私だよ、お兄ちゃん」
俺が名前を呼べば花蓮は嬉しそうに笑みを深める。
俺が生み出した幻覚、では無いだろう。それにしてはあまりにも現実味を帯びている。
本当に花蓮なのか。そう問いかけようとしたその時、はたと気付く。
「……いや、違う。君は花蓮じゃない。君は、誰?」
警戒を滲ませ、俺は問う。
見た目、声音は花蓮そのものだ。恐らく、どこからどう見たって、見た目に違いは無いだろう。
けれど、俺には分かる。万人を騙せたとしても、花蓮とずっと一緒に居た俺は騙せない。
目の前の少女は花蓮じゃない。花蓮と同じ姿をしているけれど、俺の知っている花蓮ではない。
「やだなぁ、私だよ。如月花蓮だよ、お兄ちゃん」
本当に嬉しそうに笑みを浮かべ、謎の少女は俺に歩み寄る。
「まぁでも、お兄ちゃんが警戒するのも分かるよ。ヴァーゲに攫われたはずの
にこにこ。
その事に、自然と安堵してしまう。
例え花蓮じゃ無いとしても、花蓮と同じ見た目の少女に何かをされた時、俺は多分ろくな抵抗が出来ない。もし本当に花蓮だったら。そう思うと、乱暴な手段を取れない。
「座って座って! 私、ずっとお兄ちゃんと話したかったんだぁ」
「……君は、誰なの?」
「座ってくれたら話してあげる」
俺の質問に、少女は笑みを浮かべながら選択を
見たところ、俺に危害を加えるつもりは無いのだろう。そのつもりなら、一番初めに俺に声をかけたりしない。
「……分かった」
俺は少女の言葉に従い、その場に座り込んだ。
俺が座ったのを見た少女は、満足そうに頷いた。
「じゃあ、お兄ちゃんの質問に答えて上げる。私の名前は如月花蓮。花蓮でも、蓮ちゃんでも好きなように呼んでね!」
「嘘は止めて。さっきも言ったけど、君は花蓮じゃない。他の誰が見間違えたとしても、俺が花蓮を見間違えることは無いから」
自分でも驚くほどに冷めた声が出た。花蓮への愛情を奪われたとは言え、花蓮を
「嘘じゃ無いよ? 確かにお兄ちゃんの知ってる花蓮じゃ無いのは認めるけど、私もれっきとした如月花蓮なんだよ、お兄ちゃん」
けれど、俺の冷たい声にもめげた様子も無く、少女はにこにこと楽しそうに笑みを浮かべて答える。
真意の読めない笑みを浮かべているけれど、目の前の少女は嘘を吐いている様子が無い。根拠は無いけれど、なんとなく分かる。
「じゃあ、君は何? たまたま見た目が似てて、たまたま名前が同じって事?」
「そうじゃないよ。私と花蓮は同一存在。要するに、私は如月花蓮で、お兄ちゃんが今まで一緒だった子も如月花蓮って事!」
「ふざけないで! そんな事ある訳無いじゃないか! 同じ人間が二人もいるなんて普通に考えて有り得ないよ!!」
少女のふざけた物言いに、俺は思わず声を荒げてしまう。
俺がこの世界に一人しか居ないように、花蓮だってこの世界に一人しか居ない。それは、当たり前の事だ。
「……そっか。お兄ちゃん、知らないんだっけ?」
声を荒げた俺に対して、少女はきょとんとした顔をした後に納得したように一つ頷いた。
「メポル、教えてないんだ。へぇ……」
瞬間、少女の顔から笑みが消え、冷やかさを称える無表情が表に出る。
ぞくりと背筋が凍る。
俺の顔が引きつったのが分かったのだろう。少女は直ぐに先程の笑みを浮かべなおして明るい口調で言う。
「ああ、ごめんごめん! おほんっ。メポルから何も教えられてないみたいだから、私がお兄ちゃんに良い事を教えてあげるね」
「……良い事?」
「うん、良い事! お兄ちゃんは特異点って知ってる?」
「特異点……?」
聞いた事の無い言葉に、俺は思わず疑問形で返してしまう。
「ああ、それも知らないんだね。うん、分かった。じゃあ最初から説明するね」
そう言うと、少女は人差し指を立てて得意げな表情で説明を始める。
「特異点とは、魔力的に異常に優れた者、または何か特別な魔力を持った存在を差す呼称の事で、お兄ちゃんと私がその特異点っていうわけ。ちなみに、発生する確率は千年に一人! すっごい珍しい存在なんだよ!」
「その特異点が、俺と君……?」
「そ! まぁ、明確には私ともう一人の花蓮だけどね」
特異点。ヴァーゲも、同じような事を言っていた気がする。
「ともあれ、私達は特異点! お兄ちゃんは可能性の特異点で、如月花蓮は双極の特異点。陰と陽の双極の力を併せ持つ存在なの。でもね、いつだか憶えてないけど、私達は陰と陽に別れちゃったの。陽の花蓮がお兄ちゃんと今まで過ごしてた方で、陰の花蓮が私だね」
「別れたって……そんな事……」
「有り得ない? ううん、有り得るよ、お兄ちゃん。私達の存在がその証拠。一つの存在が別たれた結果が私達、二人の如月花蓮。お兄ちゃんも分かってるでしょ? 私が今まで居た花蓮と違う存在だって」
「それは……」
分かってる。何せ、最初に会ったその時から確信しているのだから。
「私は如月花蓮。あの子も如月花蓮。お兄ちゃんと一緒に居た時間は違うけど、お兄ちゃんの妹って事に変わりはない。って言っても、血は繋がってないけどね」
「…………え?」
さらりと少女から放たれた言葉に、俺は思わず呆けた声を上げて少女を見てしまう。
そうすれば、少女も驚いたような顔をして俺を見る。
「え、知らなかったの? 私とお兄ちゃんに血の繋がりは無いんだよ?」
「し、知らない……何それ、聞いてない……」
「あれぇ? メポル、これも話してなかったんだ。秘密主義は相変わらずか」
すっと、少女は俺に顔を近付ける。
「私とお兄ちゃんは血が繋がってないんだよ。カップルにもなれるし、結婚する事だって出来るよ?」
にこりと、艶やかに笑う花蓮。けれど、その艶やかさの中には言い知れぬ冷たさがあった。
「でも、多分お兄ちゃんはそれを望んでないよね? お兄ちゃんにとって花蓮は可愛い妹なんでしょ? 今も、昔も、これからも。でもね、お兄ちゃん」
すっと少女は俺の手に自身の指を絡める。
「お兄ちゃん、もう妹は愛せないでしょ?」
「――っ」
少女の空いた方の手が俺の胸元に添えられる。それはまるで、俺のぽっかりと空いてしまった穴を塞ぐように。
「でも、恋人だったらどう? 妹じゃなくて、恋人として私を愛すの。それなら、今のお兄ちゃんにも出来るんじゃない?」
ジッと、少女は俺の目を見据える。
その目に冗談や悪戯の色は無く、真剣な色しかない。
「私はこの機会をずっと待ってた。如月花蓮が一つに戻る時を、偽物の如月花蓮を消し去る時を」
「偽物……?」
「そう。私が本物で、あっちが偽物。別たれる前の人格は私が担ってた。あっちの花蓮は、別たれる時に出来た後出しの人格なの。つまり、本来なら存在する事の無い如月花蓮なの」
「存在、しない花蓮……」
「そう。だってそうでしょう? 別たれる前の人格は私なんだから。別たれる事が無かったら、存在できるはずもないでしょ?」
この少女の言う事も分かる。けれど、直ぐには飲み込めない。
今まで一緒だった花蓮が存在しないはずだった? 作られた、偽物の人格? それに、血の繋がりが無いだなんて……。
頭が重い。一気に色々な情報が押し寄せてきて、考えをまとめることが出来ない。
「……ごめんね。ちょっと、色々詰め込み過ぎちゃったね」
申し訳なさそうに微笑む少女。
「今日のところは帰るね。お兄ちゃんと久しぶりに話せて、嬉しかった!」
言って、少女は立ち上がる。
「待っててね、お兄ちゃん。三つの世界を一つにしてから、また会いに来る。そしたら、昔みたいにまた一緒に暮らそうね」
嬉しそうに、待ち望むように、少女は微笑みを向けてから俺の部屋を後にした。
追いかける気にはなれなかった。追いかけたところで、何を言って良いのか、何を聞けば良いのかが分からなかった。
「なにが、どうなってるんだ……」
力尽きたようにベッドに倒れ込む。
少しだけ、考えを整理する時間が欲しかった。
彼女は自分の妹であり、恐らくは今回の件に関わっている人物である。ヴァーゲの名前とヴァーゲの目的、そして、ヴァーゲに攫われた花蓮の事を知っていたのだから間違い無いだろう。
妹が二人? しかも、今まで一緒だった花蓮は後から生まれた人格で、本物の人格は先程まで一緒だった少女の方。そして、また一つに戻る算段が着いている。
「あ……」
そこまで考えて気付く。
花蓮の事を知っている少女に、花蓮が無事かどうかを問わなかった。本当なら、一も二も無く問いただすべきなのに。
「……本当に、情けないな、俺……」
悔しさに奥歯を噛みしめる。
様々な事情が分かってきてなお、俺に出来る事は無くて、俺の熱も冷めてしまっていて……俺だけが、この状況から置いて行かれてしまっていた。その事が、たまらなく悔しかった。
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