黒衣(くろご)②

 かさり、と視界の端で何かが動いた気がして、冬璃は目の前の友人達に悟られぬよう教室内に視線を巡らせる。


(…メッセージを見たから過敏になってるのかな)


 冬璃の手にあるスマホの画面にあるメッセージ。「残骸デブリは普段どこにいるのか」という直人からの質問への答えを考えている最中だった。


(なんて答えればいいのか…)


 考えながら、冬璃は教室の外、廊下側を見た。まだ休み時間中であるので、廊下には談笑に花を咲かせる生徒がまばらにいる。

 廊下を歩きながら友人と笑い合う男子生徒達が目に留まり、冬璃は



 【―――ギギッ】

 【―――――ギチギチギチッ】



 黒く細長い影。

 細い触手のような足を何本も生やした節足動物のような残骸デブリが、男子生徒達の足にまとわりつくように、長い体を引きずっているのが見える。

 誰にもばれないように小さくため息をついて、冬璃は目を閉じた。


(ここは人目が多いけど、仕方ない)

 

 閉じた瞼に力を入れ、冬璃は頭の中で球体状の水が膨らんでいくイメージを構築した。何度か念じるようにそれを思い描いていくと、冬璃の耳にざぁ、と水が流れる音が聞こえてくる。勿論、どこにも水など流れていない。全て冬璃にしか感じ取れていないものだ。水音が聞こえたあたりで冬璃は体の力を抜き、最後にもう一度、球体の水が膨らむ様を頭に思い描いた。

 すると、冬璃を中心に、誰にも見えない力の奔流が広がる。


【――ギ――――】


 薄い膜のような冬璃の力の流れに触れた残骸デブリは、波に押し流される波打ち際の蟹のように、壁に追いやられ、外に追いやられ、最終的には冬璃の力と自身のカラダに起こる摩擦に耐えられず、抵抗できぬまま消滅した。

「…ふう」

 残骸デブリ消滅を確認し、一息ついた冬璃はあたりを見回す。

 先ほどの「簡易結界」で、おそらく微量に存在していた極小の残骸デブリもあらかた消滅したのだろう。少し淀んでいた気がした空気が清涼なそれに変わった気がする。

 しかし、

(結界を張るまで、いつもより時間がかかったな………なんだか能力の出力が遅いような)

 冬璃は、手を開いたり閉じたりしながら、違和感に首を傾げた。

 今朝、直人の傷を塞ぐため、能力を使ったからだろうか。

 自身の身体にある能力を使うためのリソース、とでもいうべきもの。今朝方に多く消費したそれが溜まるまで、能力の発動を控えていたが、いつもと比べるとリソースが溜まるのが遅い気がした。


(疲れてるのかな。……しっかりしなきゃ。『向こう』で戦えない私が、唯一できることなんだから)


 自分の目の届くところにいる残骸デブリを「簡易結界」によって一掃する――――これが、『向こうの世界で戦うこと』以外に、原川冬璃が日常生活で行っていることだった。戦うことはローゼに任せ、冬璃は、現実の世界で残骸デブリを、見える範囲でだが掃討していた。


 残骸デブリ達は、現実こちらの世界のあちこちに跋扈している。

 残骸デブリという存在がいつからいるのか、と聞かれると、冬璃には答えられない。冬璃がこの世に生を受けた時には、もう既に冬璃の知覚する世界に残骸彼らは存在していた。

 巨大なものから、極小のもの。じっと動かないものや、素早い動きでこちらに襲い掛かってくるもの。

 うごめく恐ろしいそれらの影が、自分にしか見えないと知った時、冬璃は深く絶望したものだ。…とはいえ、それが16年も続けば、『恐怖』よりも『慣れ』が出てきて、今ではすっかり目に入った残骸デブリをローゼと二人がかりで掃討する日々に適応してしまっている。

 

(そう。それだけは変わってないよね、私たち……お互いに喋らなくなっても)


 赤ん坊の時から、冬璃には残骸デブリの姿が見えていた。

 非力で何もできない赤子が、残骸デブリ達の中にいてどうして生き延びられたのかといえば、それはひとえにローゼの存在があったからだ。

 自分の側にさも当然のようにいた彼女ローゼを、幼い冬璃は『実際にそこにいる人間』だと思い込んでいたので、両親に長らく「娘にはイマジナリーフレンドがいる」と思われていたことを随分後になってから知った。



 ――――あの黒いのはなに?どうしてこっちにくるの?

『あれは残りかす…残骸のようなものだ。お前のところに来ても関係ない。全て私が切って倒すから』


 ――――どうしてだれにも見えないの?

『見える人間はごくわずかだ。その資格を持つ者には見える。お前だけではない』


 ――――あなたはだれ?

『……私はローゼ。お前の中にいる、もう一人のお前だ』



 幼い冬璃にとって、残骸デブリが見え、それと闘ってくれるローゼの存在は大きく、頼もしかった。ローゼは冬璃に襲い掛かろうとする残骸デブリを切って捨てては、冬璃の身を守り続け、誰とも共有できない恐怖を抱える冬璃の側に寄り添ってくれた。

 幼い頃の冬璃はローゼのことが相応に好きで、懐いていたのを覚えている。

 冬璃とローゼの関係は、とても良好なものだったのだ。

 冬璃が10歳の時、初めて『向こうの世界』に足を踏み入れる、その時までは。

 (ねえ、ローゼ)

 冬璃は半身に呼び掛ける。

 返答はかえってこない。


「はぁ…」

「フユ、どした?大丈夫そ?」

「えっ?な、なに?」


 横の席にいた千佳子が、ため息をついた冬璃の様子を見て、声をかけてきた。

「いや、大丈夫かなって、貧血。眩暈とかした?目閉じてたけど」

「あ…うん、大丈夫だよ」

 少し考え事にふけりすぎたかと冬璃は反省し、顔を上げた。一瞬動揺しつつもすぐに平静を装った冬璃は笑顔で千佳子に答える。「それならいいんだけど」と千佳子は先程より声のトーンを落として続けた。


「……それか、光井のこと気になってる?」

「ああ、そうだね…大丈夫かな。もう気が付いたみたいなんだけど」


 スマホに視線を落としてそう言いながら、冬璃は直人の質問の返答を手早く書き込んだ。

 『デブリは見えてないだけで、そこらじゅうにいる』

 正直、相当ショッキングな事実であるので、もう少し言葉選びを考えた方が良いかとも思ったが、事実が事実なだけにオブラートに包むのも難しい。それに今のうちに返答しておかなければ、答えられるのは4限後になる。


(光井君は聞きたいことが山ほどあるだろうし、すぐに知りたいだろうからあまり間を空けるのは得策じゃないよね)


 そう判断して冬璃はメッセージの返信を送った。

 メッセージを送ってふと顔を上げると、千佳子と彩が眼を見開いて冬璃を見つめている。二人は顔を見合わせたあと、冬璃に問いかけた。


「『気が付いた』って言った…?」

「…アンタもしかして今、光井と連絡とってる?」

「ん?うん、とってるけど。さっき目が覚めたみたい」


 そう言って冬璃が手の中のスマホをゆらゆらと揺らすのを見て、千佳子と彩はあっけにとられた顔を再び見合わせた。


「……よくあいつと連絡先交換できたわね…あっ、ていうか呼び出されたのって連絡先交換のため!?」

「呼び出しはまた別の話だよ。倒れた時のことで」

「ああ、そう…」


 自分たちが体験した非日常の出来事について話している、などとは間違っても言えないが、下手に護摩化しても友人達の好奇心をくすぐるだけだろうと思い、冬璃は表向きの事実だけを述べた。

 のだが、彩と千佳子が思っていた以上に反応を示した様子に「そんなに反応する内容かな」と冬璃は首を傾げる。

 動揺した様子の二人をなだめるように、冬璃は冷静に話を続けた。

「というか、連絡先なら皆知ってるでしょ?クラスチャットのグループにいるんだから」

「いやまあ、そうだけどさあ」

「個別で話せる度胸よ。何話すの?光井と」

「普通に今日あったこととか…」

「コミュ強かよー」

「私そのネタで話続けらんないわ」

 いっそ感心したかのように話す彩と千佳子に、冬璃はいつになく二人との温度差を感じ取った。

 放っておくと疎外感に繋がりそうなそれをそのままにしておきたくなくて、冬璃は今まで気になっていたことを尋ねることにした。


「皆『よく近寄れるよね』言うけど、光井君って、そんなに怖いこと…というか、噂になるようなことをした人なの?…私、今まで話してきて、そんな印象持ったことないんだけど」


 冬璃もクラスの輪に馴染むよう努力しているつもりだ。クラスメイトの話に耳を傾け、その中で出た話題は聞き逃さないようにしている。なので、直人の噂を聞いた機会がゼロだったわけではない。触りだけだが、直人の噂は聞いたことは何度もあった。

 だが、「実際に話す直人の姿」と「噂の内容」に、冬璃はどうにも結びつきを見出だせない。

 周囲で「直人に関する話題」が出る度に、自分が見た直人の実態との乖離を感じて、首を傾げるのが常だ。


 冬璃が直人とはじめて会話をしたのは、入学してから2週間ほどの頃。クラスのグループチャットに投下された重要な連絡事項のコメント、その隣の既読数が足りていなかったので、冬璃は「これ見た?」とクラスで喋れる相手に確認をとっていた。

 その時のひとりが直人であった。

 その頃は出席番号順の席順だったので、直人と席が近く、冬璃にとって彼に声をかけるのはごく自然なことだった。

 …声をかけた時、直人は酷く驚いているような、何とも言えない表情をしていたような気もするが。


(でも特に怒ったりとかなかったし、普通に話してくれたけどなぁ)


 冬璃には直人が周りが言うような『近寄りがたい人物』には思えなかった。

 確かに直人は、普段から仏頂面というか、眉間に皺を寄せた不機嫌そうな表情をしているから一見話しかけづらいと印象を抱くのもわからなくはないが、それと噂だけでここまでざわつかれるものだろうか。

「あー、それねえ…」

「…?」

 冬璃の問いに対してなんともいえない表情で言葉を濁す彩と、何かを考えるように黙った千佳子に、冬璃はまずいことを聞いたかと不安になる。

 すると突然、千佳子が別の方向を向いたかと思うと「ねえちょっといい?」と近くにいるペットボトル飲料を飲んでいた男子に声をかけた。

「んぐ…え、何?俺?」

「そう俺。光井のこと話してほしいんだけど」

「光井の…?なんで急に?」

「光井とおんなじ中学って聞いたわよ」

「そうなの?」

 千佳子と男子の会話で思ってもみない情報を知り、思わず冬璃は声を上げた。

「そうだけど、それが…?」

「いいからこっち来て喋って」

 男子は怪訝そうな顔をしながらも、手招きする千佳子に逆らえず「全然光井と喋ったことはないけど」と前置きをしてから、冬璃達の近くで話を始めた。

「中学の頃の話すればいい?」

「そうね。今と変わらなかったって聞いたけど、どうなの」

「どうって言われても……周りは光井を避けてたし、光井もいつも機嫌悪いかキレてるかのどっちかだし…変わってるとこは、ないと思う」

 そこまで話すと男子は「あ、でも原川さんとはたまに喋ってるか」と思い出したように言った。

「なんていうか、大丈夫そ?光井怖くない?」

「特にそういったことは思わないけど…」

「そーなんだ。すげぇわ。俺、実は今朝、学校来る途中で光井に肩ぶつけちまってさ〜…キレられたりとかはしなかったけど、めっちゃ睨まれたんだわ……あいつと普通に話せるってだけで、なんかすげえよ」

 男子の話を聞いて、そこまで言う?と今度は冬璃が怪訝な表情をする。やはり再び周りと自分との「直人に対しての認識の差異」を感じて、相槌も曖昧なものになった。

 すると冬璃の微妙そうな反応を見た彩と千佳子が、男子の話に注釈を入れるように会話を繋いだ。


「些細なことで喧嘩沙汰とか、警察呼ばれるとかしょっちゅうだったってマジなの?」

「傷害もあったって聞いたんだけど」

「あー、それはマジ」

「…傷害?」


 冬璃の呟きに、「そうなんだ」と男子は先ほどより神妙な様子で冬璃に答えた。


「中学3年になったばっかの時に、があったんだよ。うちの中学の生徒で。光井もそれに少なからず関わってたんだってさ」

「そんなことが…」


 冬璃の相槌に「だからなおのこと、光井は避けられてるっていうか…」と男子は続けていたが、冬璃はもうあまり聞いていないようだった。

「そう…光井君…」

 誰にも聞こえないような声量で、そう冬璃は呟いていた。







 ***







 何かが倒れた音を聞いた直後。

 バッとカーテンを一気に取りさらった直人は、目の前の光景に目を見開いた。

 直人の目の前には、床に倒れ伏している篠原リョウと、その近くで不審な動きをしている養護教諭の姿がある。


「………か、…ォご……ィいイ……――――」


 がくんッ、がくんッと、養護教諭の身体が、立ち上がろうとして、まだ崩れ落ちる動きを繰り返しながら、声にならない声を漏らしていた。がくんッ、と身体が頽れるたびに、養護教諭の首から提げた教員証や髪がのたうつ。髪のすき間から見える顔から、だらだらと涎が垂れていた。

 明らかに正気ではない。


「し………イィ……ギ…ギイッ!」


 常識的にあり得ない光景。常人が見れば、異様さに慄くだろう。

 しかし、直人にはしっかり見えていた。

 養護教諭の頭部をすっぽり覆い隠すように、幾本も枝分かれした触角を持った人間大サイズの残骸デブリが、そこにかじりついている。


「なんだよコイツ…!?こんなのもいるのか!?」


 キキキギキギギギキリキリキリ、と残骸《デブリ》が触角を曲げ伸ばすたびに、養護教諭の手足や体が人形劇の操り人形のように歪に動いた。

 ごつッ、べちっ、と床に膝やら腕やらが当たる音がしばらく響いたかと思うと、養護教諭の身体はゆらゆらと左右に揺れ――――ぴたりと止まる。


「シャァァァッッッ!」


 次の瞬間、蛇の威嚇にも似た奇声を上げて、残骸デブリを張り付けた女の身体が直人がいたベッドに向かって踊りかかってきた。

 いつでも動けるよう態勢を整えていた直人は、相手が飛びかかってきた瞬間に、難なく脇へと避ける。

「リョウ!」

 避けた先の床で、倒れ伏したままのリョウに呼びかけた。返事はない。身体を思い切りゆするが、リョウは唸るだけで気を失ったままだ。

「しっかりしろ!」

 どうにか抱き起こそうと奮闘する直人の背後から、バタバタバタと養護教諭の身体が暴れる音がする。

 抵抗するにも対処するにもあまりにも場所が悪い。

 そう考えどうにか移動する方法を模索する直人だったが、倒れたままの昔馴染みを放っては行けない。よく知った顔見知りを見捨てるほど、直人は冷徹にも冷静にもなれなかった。

「キシャァッッ!」

 奇声を上げ、残骸デブリに操られた体が再び襲い掛かってくる。

 直人は咄嗟に、近くにあったパイプ椅子を掴む。保健室に備え付けてある机にあった、来客用のパイプ椅子だ。

 突進しようとしてくる相手の体をパイプ椅子で防ぎながら受け流すようにして、直人は下から椅子ごと思い切り相手を蹴り上げる。

 蹴り上げられた相手は壁に見事に激突するが、それでも動きを止める様子はない。

 残骸デブリは触角を蠢かし、再び養護教諭の体を立ち上がらせようとしている。


(あの時みてえに炎を出せれば……クソッどうやって出すんだよ能力ってのは…!?)


 火を出して操る能力を獲得したと冬璃は言っていた。しかし、肝心の能力を使う方法が直人には分からない。

 冬璃が屋上で「攻撃はじく能力」を見せたように、直人も任意で能力が使えるのではと思い、先ほどから念じたり炎が出るイメージをしたり、炎を出した時の感覚を思い出そうとしているが、炎が出る気配が全くといって無い。

「なんか条件があったりすんのか…?原川に聞きゃよかった…ッ!」


 そうこうしているうちに、残骸デブリがまた突っこんでくる。

 直人は、今度は机を利用して距離をとった。

 残骸デブリと直人の間に机がある状態となり、必然的に倒れたリョウと残骸デブリの距離が近くなる。

 ギチギチと触角が動き、養護教諭の身体が立ったまま前屈姿勢になった。体を曲げ、そのまま両腕をリョウに向かって伸ばすのが見え、直人の頭に血が上る。


「てめぇ!」


 リョウを人質にする気か、と察知した直人が机を乗り越え、再び残骸デブリへと蹴りを見舞う。

 直人の足が養護教諭の前腕あたりに直撃するが――――直撃と同時に、養護教諭の腕が直人の足に絡みついた。


「な、」

 ギチギチギチギチギチギチギギギギギギッッ!

「ッッッ!」


 厭な音を立てて、養護教諭の腕を伝い、残骸デブリが直人の足を、体を、ものすごい速度で這い上がってきた。

 触れた箇所から、どんな言葉にも形状しがたい怖気を感じる。

 言い知れぬ感覚から逃れたくて、叫び声を発しようとした時には、残骸デブリがもう直人の頭部に辿り着いていた。

 触角が直人の頬をかすめる。

「ぎ、ぃ」

 直人の頭の中になにかがじんわりとしみつく感覚をかんじたせいかくにはねつだったかもしれないがいやよくわからないわからない分からないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわかるわかるわかるわかるわかるわかるのはひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつわかるかるあわかるかるかりつくすわかるわかるわかるわかるわかるなになにかなにかがなにかがあなにかなにかがきこえる聞こえる聴こえるキコエルきこえるきこうきこえるきこえるきこえるきこうきこうきこうきこうきこうきこうきおうおいおいしほしおしいほいしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしい欲しい欲しい欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。なにがほしい何が欲しい何が欲しいなにがなにがなにかなにがなにかなにかなにかなにがほしいかごがほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほっするよくするかつぼうするかつぼうするかつぼうする。欲す「うるっっっ…せえ!!!」


 だんッッ!!!!と直人は自分の頭部に居座る残骸デブリごと潰そうと、自らの体を壁にたたきつけた。

 自分の中に侵食してくるは、それによって一瞬途切れる。

 それの一瞬を見計らい、直人は拳を振るった。

 ごっ!がっ!と振るった拳が残骸デブリに連続で直撃し、鈍い音を立てたそこから、ぶちゃっと何かがつぶれた様な音がする。直人は拳に、粘着質のある液体が付着するのを感じた。

 すると、ギギギチ…と小さく唸る残骸デブリの触角が、一瞬直人から離れ、直人の身体に巻き付いていた重みがなくなる。


「クソッ…気色悪ぃ!」


 舌打ちして、直人は己の拳についた残骸デブリの体液を払う。頭にまだ熱がこもっている感覚が残っており、直人はさらに苛ついた。頭を抑えると、髪の毛にもいくらか体液がついているのが指で触れて分かり、直人はさらに不快な気分になる。

 眉間に深く皺を寄せて、この状況を作った元凶を睨むと、身体を損傷した残骸デブリは直人から離れた場所で、その身をうねらせていた。

 まるで痛みに悶えているようなその動きに、このまま素手で潰してやる、と直人は追撃で拳をさらに振りかぶった。

 その時だった。

 体をうねらせていた残骸デブリの動きが止まる。


「うおッ!?」


 次の瞬間、ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッッッッ!と物理法則を無視した動きで、残骸デブリ、外へと飛び出していった。粘着質のある体液が残骸デブリの激しい動きによって飛び散り、床などについたそれはまもなく霧散する。

 一瞬、呆然と瞬きした直人だったが、残骸デブリが逃げたのだと分かるとはっとして保健室の窓に駆け寄った。

 保健室の窓は、残骸デブリが通った痕跡など何も残っていない。いつも通りの窓がそこにある。

 まだ近くに残骸デブリがいるかもしれないと直人は窓の鍵を開けた。


「…!!」


 しかし、数十センチほど開けてみたそこに広がるのは、灰色と闇のマーブル空間。


「は?これ…」


 向こうの世界への入口が、開けた窓の隙間に広がっていた。

 直人の脳裏に、冬璃からのメッセージの内容が蘇る。


 『向こうの世界は、本当は色んな所に入口みたいなところがあるそうなの。誰も目を向けてない場所とか、絶対にここを通ろうとする人はいないだろうって所とかに』。


 もそうなのだ、と直人は窓を見つめた。

 おそらくは、先ほどの残骸デブリはここに逃げ込んだのだろう。

 「逃げ足の早えヤツだ」と再び直人は舌打ちした。頭にとり憑かれた時の得も言われぬ感覚、それらがまだ直人に拭いきれていない不快さを残している。

 そんな気分を味わわせてきたツケを払わせるためにも、まだ殴り足りなかったのに、と八つ当たりも込めて、直人はマーブル空間をドン、と一度叩いた。

「はぁぁ…」

 直人の腹の虫は収まっていない。が、収めるために、大きくため息をつく。

 あの残骸デブリを追いかけたいところだが、直人は向こうの世界からこちらの世界に帰還する方法を知らない。単独で行くのは無謀だと判断した。


「一応、原川に連絡しとくか…、……あ?」


 そう言ってスマホを取り出した、その時。

 目の前のマーブル空間が歪んだ。

 存在を主張するかのように、マーブル空間が波打っていた。

 波打って、波打って、波打って、波打って――――波打つたびに、直人が触れてもいないのに、窓が、


「なんだ、なんで、勝手に…」


 嫌な予感がし、直人は窓から離れた。その間も、ひとりでに窓は開いて、空間は波打っている。

 直人はとにかく冬璃へ連絡をとろうとCALLIN'の画面を開き、文章を打ち込むが、果たして全ての文章を打ち終える前に、窓は全開になるだろう。

 窓はどんどん開いていき、既に直人が半身を入れられるくらいの幅まで窓は開いていた。


 そして、大きく空間が波打つ。

 同時に、直人は体のバランスを崩した。

 マーブルの空間が、、直人の腕を捕らえたのだ。


「待、ちょ、やべえっ!」

 

 思い切り体を窓へと引っ張られ、直人の意思と関係なく、どんどん空間に肩が、腕が、体が沈んでいく。

 これはまずいと、直人はどうにかフリック操作を続け、顔が全て空間に吸われるギリギリで、どうにか送信ボタンを押した。


「うお、おお…!」


 窓が開いているのは数十センチ。直人はそこに全身を綺麗さっぱり吸い込まれ、保健室から忽然と姿を消すこととなった。

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