紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど

犬上義彦

第1章 経営危機?

 ラウンジの窓の外には都心とは思えないほど緑豊かな日本庭園が広がっていた。

 かつて大名屋敷だった頃からあるという広い池の向こうでは、白無垢姿の花嫁が写真撮影をしている。

 顔を上げると、木々の間から六月の晴れ間に映える東京タワーが見下ろしていた。

 このあたりは大使館が多いせいか様々な国籍の人たちが散歩を楽しんでいる。

 窓のすぐそばの遊歩道沿いにはラベンダーの株が並び、鮮やかな紫色が背景の緑と鮮やかなコントラストを際立たせていた。

 真宮ホテルといえばこの庭園と言われるだけのことはある。

 西の本館から背の高いビジネスマンが大きな歩幅でこちらのコンベンションホールへ向かってきた。

 ミディアムグレーのストライプスーツが嫌味なく似合う人なのに、ちょうど私の目の前を通り過ぎる時、その男性の取った行動は思いがけないものだった。

 まるで少年がスキップしているかのような足取りで、ラベンダーの穂を軽く撫でていったのだ。

 プライバシーガラスで外からは見えにくいせいで、中から私が見ていることに気がつかなかったのかもしれない。

 ほんの一瞬の出来事で、過ぎ去った男性の表情はよく覚えていないけど、ラベンダーの穂が微笑むようにまだ揺れていた。

 三十前後ぐらいだろうか、私よりも少し年上といったところなんだろうけど、なぜか三年前に亡くなった祖父の面影を重ねてしまった。

 あんなふうに花をかわいがるのが好きな人だったな。

 私のこともかわいがってくれたっけ。

 ふと、そんなことを考えていると、名前を呼ばれて現実に引き戻された。

「紗弥花お嬢様、皆様がお待ちです」

 振り向くとコンシェルジュの宮村さんがドアを押さえて立っていた。

 大学ラグビー部出身という宮村さんはドアと横幅が変わらない。

「はい、今行きます」

 父と母に呼ばれて来たものの、何の話かは聞いていない。

 明治時代に創業されたこの真宮ホテルは私の母が祖父から受け継いだもので、今は入り婿の父が社長を務めている。

 家ではなく、わざわざここで話をするということは、身内だけの案件ではないのだろう。

 会社関係のことは何も分からないし、今さら私なんか呼ばなくてもいいのに。

 大事なことはいつも私に関係なく決められていく。

 どうせもう答えは決まっていて、私が何か言おうとすれば、口答えをするなと叱られるだけだ。

 親が決めたとおりの女子校へ行き、親が選んだ友人とだけ交際し、大学卒業後も真宮グループの関連団体に形式的に籍を置いただけで、二十五になるまで何もせずに生きてきた。

 運転手付きの車、避暑地の別荘、シーズンごとにホテルのブティックでオーダーするファッション。

 何不自由ない暮らしと人はうらやましがるけど、私に自由などない。

 かといって、一人で生きていく力をもぎ取られた自分にできることもまた何もない。

「どうぞこちらです」

 体型の割に物腰柔らかなコンシェルジュの宮村さんに導かれるまま、私は両親の待つ会議室へ向かった。

「ああ、紗弥花さん、久しぶりですね」

 会議室前の廊下で声を掛けられた。

 真宮ホテルの格式を外さない程度にカジュアルなジャケットにリラックスしたチノパンを合わせた男性は、昔からの知り合いの和樹さんだった。

 私より五歳年上で、一橋財閥グループの御曹司。

 十代の頃の私が唯一会話を交わすことを許された男性だ。

「お久しぶりです」

 挨拶を返したものの、私はすでに和樹さんの隣に立っている頭一つ背の高い男性に目を奪われていた。

 ミディアムグレーのストライプスーツ。

 ――さっきのラベンダーの人だ。

 くっきりとした目鼻立ちに、意志の強さを象徴するような眉、つるりとした肌の頬には完璧な社交辞令を体現したかのような微笑が浮かんでいる。

 私がじっと見上げていたせいか、視線をそらすように相手が軽く頭を下げた。

「初めまして、久利生玲哉です」

「あ、は、初めまして。ま、真宮紗弥花です」

 こちらはさっき見かけていたからなのか、なんだか初めましてって感じでもなくて、おまけに見た目とさっきの仕草にギャップがありすぎて、なんだかぎこちない挨拶になってしまった。

 和樹さんが紹介してくださる。

「久利生さんは経営コンサルタントでね。企業法務を扱う弁護士でもあるんだ」

「そ、そうなんですか。すごいですね」

 私の当たり障りのない返事のせいで会話が続かず、廊下で三人が顔を見合わせた状態になってしまった。

 久利生さんが、ドアを開けて待っている宮村さんの方へ手を差し出して私たちをうながした。

「皆さんを待たせています。入りましょう」

「あ、すみません」

 初対面の人にまで何もできない人間だと思われてしまった。

 そのとおりだから仕方がないのだけど、そう見抜かれるのはやっぱり嫌だ。

 会議室にはすでにうちの会社の重役たちが席に着いていた。

 その真ん中に父と母がいる。

 父は社長には見えない地味なスーツで重役たちの間に埋もれているけど、筆頭株主である母は桜色のスーツでこの場を支配している。

「紗弥花さんはこちらへ」

 私は久利生さんから会社の人たちとは反対側に、和樹さんと並んで座るように指示された。

 和樹さんの隣に久利生さんが立ち、経営コンサルタントとしての自己紹介の後、すぐに会議が始められた。

「本日は重役の皆様方にお集まりいただきまして、ありがとうございます。では、さっそくですが、真宮ホテルの再建策について、こちらでまとめたプランをご説明いたします」

 ――どういうこと?

 再建策って……。

「ご承知のように真宮ホテルの持ち株会社である真宮ホールディングスは五期連続の赤字となり、すでに債務超過の状態となっております。つまりこのままでは倒産は避けられません」

 え、嘘でしょ?

 倒産って、そんなまさか。

 なのに、驚いているのは私だけのようだった。

 居並ぶ重役たちは口を固く結んで何も言わないし、父も母もただうなずいているだけだ。

 五期連続ということは、もうすでに前社長の祖父が亡くなる前から赤字だったのだ。

 経営陣にとっては今さらの事実なのだろう。

「そこで再建策ですが、増資による財務基盤の強化が急務と言えます」

 久利生さんがプロジェクターのスイッチを入れた。

「中核事業の真宮ホテルですが、歴史的ブランド価値が高く評価されており、外資系ファンドが興味を示しています」

「だが、経営権は?」と、父が机に手を置いた。

「外資系ファンドが四十パーセント出資し、筆頭株主となります」

「それでは乗っ取りじゃないか」

 父の難色に対し、久利生さんは胸を張って答えた。

「ですから、ここで一橋グループとの提携を挟むわけです。真宮家の保有割合は三十パーセントに低下しますが、一橋グループへの第三者割当増資を行い二十五パーセントを保有してもらいます。これにより、両者を合わせて過半数を抑えることができます。残りは取引先との持ち合いで安定株主ですから、経営権の維持に問題はありません」

「なるほど、それなら納得だ」

 父は背もたれに体を預けると、こちらにまで聞こえるほど細く長い息をはいた。

 和樹さんが私に顔を向けて微笑んでいる。

 私は曖昧に目を合わせてすぐに久利生さんに視線をもどした。

「ただし、このスキームには条件があります」と、久利生さんが皆を見回す。「まずはリストラです。赤字部門を切り離し、資金の流出を抑えます」

「それは当然でしょうね」

 母がうなずく。

 筆頭株主である女帝の意見に誰からも異論は出ないようだ。

 久利生さんはリストアップした赤字部門をプロジェクターに提示した。

「こちらをご覧ください。真宮グループの赤字部門は現在十二の関連事業に及びます」

「そんなにあるのか」

 父が他人事のようにつぶやく。

 久利生さんは苦笑を浮かべながら赤字部門の名称を読み上げていった。

 ホテル事業の足を引っ張っているのはほとんど何もかもと言っていいくらいだった。

 私が在籍している文化事業財団はもちろん、SNSで最も話題になったスイーツショップとして表彰されたばかりのパティスリー部門まで赤字だったなんて。

 正直、私もうちの会社がこんなことになっていたなんて知らなかった。

 重苦しい空気の中で話を聞いていると、久利生さんの口から信じられない言葉が飛び出した。

「最後に、真宮薔薇園を閉鎖し精算します」

 ――え?

 嘘でしょ。

 千葉にある薔薇園は、若くして亡くなった私の祖母を偲ぶために祖父が設立した思い出の場所だ。

 私は肩まで右手を挙げた。

「ちょっと待ってください。閉鎖って」

「文字通りですが、何か?」

 まるで日本語が分からないのかと馬鹿にしているような目で私を見ている。

「あの薔薇園は祖父が大切にしていたもので」

「ずっと赤字が続いているのですから、閉鎖もやむを得ないでしょう」

 言葉は抑え気味だが、口調は厳しかった。

 ふと視線を感じて目をやると、母が私をにらんでいた。

 ――そうだ。

 今はこの人にお任せするしかないんだ。

 私に口を挟む権利などない。

「房総半島の奥地で土地そのものの価値はほとんどありませんが、すでに産業廃棄物処理場としていくつかの企業と売却交渉を進めています」

「さすが、話が早いですね」

 母のつぶやきに父もうなずいている。

 ――どうして?

 誰もなんとも思わないの?

 せっかくの薔薇園が産業廃棄物に埋もれてしまうなんて。

「あの、譲渡することは仕方がないにしても、薔薇園として存続させることはできないんでしょうか」

「それができるのであれば、そもそも赤字になどならないでしょう」

 正論をぶつけられてしまっては、言い返せない。

「こちらをご覧ください」

 久利生さんはいかにも面倒だという手つきでタブレットを操作した。

「これは旅行サイトに掲載された真宮薔薇園の口コミです。五段階評価で星2.3と低評価です」

 書き込みもひどいものだった。

『高速を降りてからの道がわかりにくかった』

『薔薇園なのに薔薇が咲いていない』

『食事をしたくてもレストランのメニューがショボくてガッカリ。昔のサービスエリアよりひどい』

『山奥でガラガラなのに駐車料金を取られた。二度と行かない』

 あまりの苦情のオンパレードに、会社の重役たちからも失笑が漏れた。

 久利生さんはそんなゆるんだ空気を振り払うようにはっきりと告げた。

「このような状況で今さら再建など無理でしょう。儲けの出ない事業を切り捨てるのは当然のことです」

 確かにそうだけど。

 でも、でも……。

「なんとかなりませんか。なんとかしたいんです」

 無駄な抵抗だということは分かっていた。

 でも、このまま終わらせていいはずがない。

 だって、あれは大切な、かけがえのない思い出の場所……。

 なのに、そんな私の思いに関係なく久利生さんの声が冷たく降ってくる。

「では、どうやって?」

「いえ、何も具体的なことは思いつきませんが」

 大きく唇をゆがめながら鼻で笑われてしまう。

「失礼ながら、紗弥花さん、そもそも最近薔薇園に行ったことはありましたか? 状況をご存じなかったようですが」

 祖父が亡くなってから一度も行ったことはない。

 私が黙っていると久利生さんは、短くため息をついて肩をすくめた。

「残念ながらお嬢さんの夢物語に付き合っている暇はありません。お花畑を散歩したかったら、そこらへんの公園でどうぞ」

 ――なっ……。

 冷徹な経営コンサルタントがクイッと顎を上げて私を見下していた。

「今この場にいる人間を説得できないのに、顧客である一般大衆に良さを分かってもらえるわけがありませんよ。つまり……」と、いったん言葉を切って彼は口をゆがめた。「それでは金にならない」

 そして、皆の視線を集めてからはっきりとした口調で続けた。

「金にならないものに価値などない。それが経営というものです」

 死刑宣告のようにこの場にいる全員が黙り込んだ。

 父も母も目を伏せて何も言わない。

 ――どうして。

 どうして、いつも、私の上を通り越してすべてが決まってしまうの?

 私はうつむいて涙をこらえるのが精一杯だった。

「紗弥花さん」と、私を呼ぶ声がした。

 顔を上げると和樹さんが机の上で手をもみ合わせながら私に視線を向けていた。

「薔薇園は残念ですが、うちが出資すれば真宮ホテルは残りますから。それに……」と、彼はゆるんだ笑みを浮かべた。「結婚したら、紗弥花さんには家庭に入ってもらって、何不自由のない暮らしをしてもらいますから、経営なんか心配しなくても大丈夫ですよ」

 ――え?

 結婚?

 聞き間違いかと両親の方を見ると、母は静かに笑みを浮かべているだけだった。

 ――どういうことなの?

 私の視線に気づいているはずなのに、こちらを向こうともしない。

「今お話のあった二つ目の条件について、ご説明申し上げます」

 久利生さんが私に体を向けた。

「和樹さんと紗弥花さんが夫婦となることで、両家の関係を揺るぎないものとし、それに基づいて増資を実行する。これがもう一つの契約事項となります」

 契約って……。

 私の気持ちは?

 私の人生は何なの?

 心が渦を巻くばかりで言葉にならない。

 いつもそうだ。

 いつもそうだった。

 言いたいことはいつも渦に飲み込まれていく。

 だけど、それは消えるわけではない。

 心の奥の深い海にゆらゆらと後悔が堆積して岩のように固まるのだ。

 忘れたことはない。

 あのときはああ言いたかった、こう言えばよかった。

 でも、何一つ言えたことはなかった。

 口答えをするな。

 私は常に親の言いなりになる良い子で居続けなければならなかったのだ。

「よろしいですか?」

 ――え?

 気がつくとコンサルタントの男が私を見下ろしていた。

「もう一度ご説明しましょうか」

「いえ、結構です」

「助かります。時間の無駄ですので」

 無駄って……、無駄って、どういうこと。

 私の気持ちに価値はないの?

 私の存在自体無駄だってこと?

「まあ、これで当分は安泰だな」

 父まで他人事のようにつぶやく。

「ええ、無事に話がまとまって何よりですわ」

 母も満足そうにうなずくと、冷めたであろうお茶を取り上げて口にふくんだ。

 結構ですとは言ったけど、同意じゃないのに。

 和樹さんが机の上に身を乗り出す。

「お父さん、お母さん、必ず紗弥花さんを幸せにしてみせますから」

 ――違う。

 私を幸せにするのはこんな人じゃない。

 そもそも、他人に幸せにしてもらいたいわけじゃない。

 私は自分として生きていたいだけ。

 ――いいの?

 本当にいいの?

 このまま何もかも決まってしまっていいの?

 私は今まで、今日この日のために生きてきたの?

 傷一つなく、つるりとまっさらな女として育てられたのはこのためだったの?

「では、契約成立ということで、こちらにご署名をお願いします」

 胸ポケットから万年筆を取り出した父は何のためらいもなくサラサラと署名を済ませた。

 和樹さんもにっこりと笑みを浮かべてペンを走らせる。

 結局何もできないまま、私はこの人の妻として一橋家に嫁入りすることが決まってしまった。

 ――そう。

 どうせ私なんかにできることなんて一つもないんだ。

 久利生さんが机の向こう側で立ち上がった父に手を差し出す。

「では、資本関係の手続き詳細についてはまた後日」

「ええ、どうかよろしくお願いいたします」

 ペコペコと頭を下げながら手を握り返す父の姿を見ると何も言えなくなってしまう。

 そんな私の気持ちを見透かしたのか、腰を上げた母が向こう側から身を乗り出して私にささやく。

「あなたは会社のおかげで生きてこられたのです。会社のために尽くすのが当然です。わがままなど言える立場ではありませんよ」

 お母さん……。

 これが当たり前だって言うの?

 言葉を発しようとした瞬間、体が震え出す。

 ああ、まただ。

 いつもそうだ。

 私は母に口答えなどできない。

 親の決めたとおりに操られるお人形さん。

 父も母も会議室を出て行ってしまった。

 和樹さんは悪い人ではない。

 でも、私にとって何でもない人だ。

 財閥の御曹司が集まる幼稚舎からのエスカレーター組で一流私大に進み、財産や地位に守られて自分の人生に何の疑問も持たないような人だ。

 それは私も同じかもしれない。

 みんながうらやましがるような何不自由のない生活を送ってきた人間同士だ。

 だけど、だからといって、お似合いの結婚だなんて、そんなふうに決めつけないでよ。

 ――ああ、もう嫌。

 これからもそうなんだ。

 結婚しても家のため、会社のために、自分を犠牲にして生きていかなければならない。

 子供が生まれたって、私と同じように何不自由のない生活を押しつけられるんだ。

 重役たちが退室し、静かになった会議室で私は立ちすくんでいた。

「紗弥花さん、僕はずっとあなたのことが好きでした」

 和樹さんが私の隣で何か言っている。

 その言葉は耳には聞こえるけれど、心には一言も入ってこない。

「紗弥花さん、急に話がまとまってびっくりしたでしょうけど、僕が必ず幸せにしますから」

 いきなり手を握られそうになって、思わず私が飛び退くと、不意に紫の香りが漂ってきた。

「失礼、お先に」

 経営コンサルタントの男が冷笑を浮かべながら私たちの脇をすり抜けて出て行く。

 その時だった。

 私の中で張り詰めていた糸がプツンと音を立ててちぎれ飛んだ。

 なんでこんな初対面の人にまで笑われなくちゃならないの。

 何にもできない操り人形のお嬢さん。

 あからさまに馬鹿にされて、大事な物をすべて取り上げられて。

 どうせ私なんか、産業廃棄物より価値がない人間なんだ。

 なら、全部捨ててやる。

 私の大切なものを全部ゴミ箱に捨ててやる。

 本当にゴミみたいな女になればいいんだ。

 私は婚約者を放り出して冷徹なコンサルタントの後を追いかけた。

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