第2章 屈辱の涙

 会議室を出たところで見回してみても、どこにもあの男の姿はなかった。

 あのラベンダーの遊歩道を戻っていったのかもしれない。

 私はパンプスでラウンジへ走った。

「お嬢様、どうかいたしましたか」

 コンシェルジュの宮村さんにはすれ違いざまに会釈だけして駆け抜ける。

 ラウンジ入り口から奥の窓を見ると、思ったとおり遊歩道にあの男がいた。

 相変わらず歩幅の大きい歩き方だ。

「待って」

 と、声を掛けようとしたところで、中から聞こえるはずもない。

 急がなくちゃ。

 私は廊下の端まで走り、庭園へ続く階段を駆け下りた。

 遊歩道を歩くお客さんをかき分けるようにしてあの男の姿を追う。

 おぼつかない足取りで駆け抜ける私を紫の香りが包み込む。

 ふわりとよみがえる淡い記憶を頭から振り払う。

 ――なによ、あんな人。

 お金のことしか考えないあんな冷徹な男にほんの一瞬でもときめいてしまったのが悔しい。

 ホント、お花畑のお嬢様。

 ラベンダーを撫でたからっていい人とは限らないのに。

 あの男は西本館地下の駐車場へ向かっていた。

 車で出られたら追いつけない。

 私は出口側へ回り込んで地下駐車場へ下りた。

 出庫してくる何台かの車の運転席には、あの男の顔はないようだった。

 とはいえ、広くて暗い駐車場のどこにいるのか分からない。

 と、まぶしい光に射貫かれて手をかざすと、白いセダンが近づいてきた。

 目がくらんで車内の様子は分からない。

 通り過ぎる瞬間、助手席の窓からかろうじて見えたのは、あのミディアムグレーのストライプスーツだった。

「待ってください!」

 呼びかけても、きしむタイヤの音にかき消されて届かない。

 ゲートまで走ったところでようやく追いついた。

「すみません」

 助手席の窓をノックしたのに、男は窓を開けようとしない。

 運転席の窓を開けて駐車券を機械に入れている。

「お願いです。開けてくれませんか」

 バーが上がって発進しようとする車の前に、私は飛び出した。

 急停止した車の中であの男が私をにらみつけていた。

 私は思いっきりボンネットに両手を叩きつけた。

「お願いです。話を聞いてくれませんか」

 男はうんざりしたような顔で運転席の窓を開けると半分顔を出しながらため息をついた。

「わざとぶつかって賠償請求でもしようっていうんですか。たいしたお金にはなりませんよ。ドラレコに記録されてますから」

 焦っているのは私だけ。

 落ち着き払った態度が憎たらしい。

 無理だと分かっていても、私は手で車を押し止めた。

「そんなつもりじゃありません。話を聞いてほしいんです」

「手垢をつけないでもらえますかねえ。コーティングしてあるとはいえ、洗車の手間が無駄なので」

「すみません」

「どいてもらえますか。後ろから来たら迷惑になるんで」

 まだ次の車は来ていない。

「私を乗せてください」

「これはタクシーじゃありませんよ」

「お願いです」

 と、そこへ駐車場の係員が様子を見に来た。

「あれ、紗弥花お嬢様ではありませんか。いったいどうなさったんですか。事故ですか?」

 私は車から一歩下がって胸の前で両手を振った。

「いえ、違います。何でもありません」

「トラブルでしたら、ビデオの映像で確認できますけども」

「いえ、本当に大丈夫なんです。ご心配をおかけしてすみません」

 面倒を避けるように、男が親指で助手席のドアを指す。

「乗って」

「はい、ありがとうございます」

 これ以上係員に怪しまれて上に報告されたら困るのは私も同じだった。

 なるべく友好的な雰囲気を醸しつつ、丁寧にお礼を述べて私は助手席に乗り込んだ。

 なぜか車は発進しない。

 前を向いたまま、わざとらしく丁寧な口調で彼がつぶやいた。

「シートベルトを締めてください。運転者の責任になるので。これでも法律には詳しいのでね、弁護士ですから」

「あ、はい、すみません」

 左肩のあたりに手をやっても金具が見つからない。

 もたもたしていると、久利生さんが私に上体をかぶせてベルトを引っ張ってくださった。

 なんと言ったら良いのか、初めての香りがした。

 たぶん、これが男の香りなんだろう。

「すみません。ありがとうございます」

 留め金具を渡されたのに、焦ってしまってうまくバックルにはまらない。

 久利生さんが親指で押してカチリとはめてくれた。

 こんなことすらできないんだ、私。

 あくまでもなめらかに車を発進させつつ、駆け出し俳優が演じる不良の口調みたいに彼がたずねた。

「で、どこにいくんですか?」

 吐き出すように私も言葉をぶつけた。

「帰れないところへ連れていってください」

 道路に出る手前で一時停止をしたところで、彼のため息が返ってきた。

「それは依頼主の関係者としての業務命令ですか?」

「できるなら、それでお願いします」

「分かりました」と、流れるように左へハンドルを切る。「コンサルタント業務の付帯サービスということで承りましょう」

 六月の午後はまだ日が高くまぶしい。

 東京タワーが正面に見える坂を上りながら彼がたずねた。

「具体的に、行きたいところはあるんですか?」

「どこでもいいです。久利生さんの都合のいいところで」

「私は事務所に戻るところなんですけれどもね」

「じゃあ、それでいいです」

「事務所は自宅です。個人事務所なので」

「それなら、その方が都合がいいです」

 赤信号でもないのに坂の途中で車が止まった。

「降りてもらえますか。業務ではないようなので」

 静かな声が車内を漂う。

 感情を見せない男。

 私も自分の感情を見せるのははしたないことだとしつけられて生きてきた。

 良家のお嬢様という仮面をかぶらされて、心は常に深い森の泉のように奥ゆかしく穏やかでなければならなかった。

 でも、私だって人間だ。

 好き嫌いはあるし、私の中には常に押さえ込まれた感情の嵐が渦を巻いている。

 だけど、それを他人に見せることは許されなかった。

 悲しみはもちろん、喜びですら苦い薬として飲み込まされてきたのだ。

 ただ、この男は私とは違う。

 相手を説得し、その場を支配するために感情を完璧にコントロールする術を身につけている。

 心は磨き上げた鏡みたいに滑らかで、そこに自分自身の感情を映しながら絶えず自分の状態を把握し、ノイズを打ち消すように常に修正しているのだ。

 駐車場で見せたうんざりしたような表情も、ぶっきらぼうな口調も、ただ単に私を追い払うためのわざとらしい演技だったんだろう。

 この男から感情を引き出さなくちゃ。

 何も始まらないうちに、私の人生が終わってしまう。

 どうしたらこの男を怒らせることができるんだろう。

 ギリシャ彫刻が吹き替えでしゃべっているように男が私に告げる。

「どうぞ。降りてください」

 だめ、まだだめ。

 ここで終わるわけにはいかないんだから。

 とっさに私の口から出任せがこぼれ出た。

「く、久利生さんは経営コンサルタントなんですから、ビジネスの話なら聞いてくれますよね」

「ですから、そのビジネスとは?」

「お金を出してください。薔薇園に投資してほしいんです。今の状態では無理なのは分かります。だけど、なんとか存続させる方法を考えてほしいんです」

 言えたのはそんなことだけだった。

 こんなのはさっき会議室で散々鼻で笑われたことの繰り返しでしかない。

 でも、久利生さんの返事は思いがけず肯定的なものだった。

「なるほど、話を聞きましょうか」

「いいんですか?」

「ビジネスでしょう?」と、彼はドアミラーを見ながら車を発進させた。「それが私の仕事ですから。ただ、この件は真宮家や一橋家に同意をもらっているんですか?」

「いいえ」

「あなた自身の案件ですね」

「はい」

「ならば、顧問料はあなたからもらいますよ」

「分かりました」

 と、答えたものの、私個人のお金などない。

 クレジットカードは父親名義の家族会員でどこでいくら使ったかは筒抜けだし、現金は一円も持っていない。

 私は一人で電車にすら乗れないのだ。

「あなたはさっき、お金を出してくれと言いましたよね」

 久利生さんはあくまでも冷静にビジネスとして会話を進める。

「はい」

 わたしはうなずいた。

「出資を募るのは難しいでしょうね。そうなると融資ですが、何か担保はあるんですか?」

 そんなもの、あるわけがない。

 彼もそうやって私の話を理詰めであしらおうというのだろう。

「あ、あの……」

「なんですか?」

 曖昧な返事に彼はいらだちを隠さない。

 ギリシャの大理石像のように冷徹だった男に隙が見えた。

 突破口が開いたような気がした。

「わ、私の体では?」

 馬鹿な女だと笑われるかと思ったら、返ってきたのはそれ以下の反応だった。

「そんなものに価値があると思ってるんですか」

 まるで古い指輪の鑑定結果を告げるかのように、何の感情もこもっていない。

「わ、私、し……処女です。キスどころか、男の人の手を握ったこともありません」

 最後の切り札のつもりだったのに、男がこちらまで聞こえるほどわざとらしく鼻で笑う。

「融資の審査で一番重要なのはこれまでの経営実績ですよ。つまり経験のないあなたに価値はない」

 また冷徹なコンサルタントの仮面に本性が隠れてしまった。

「それはビジネスの話ですよね。私の男性経験とは意味が違いませんか」

「ああ、そうだ。俺はビジネスの話だというからあんたの相手をしているんだ」

 これまで感情を露わにすることのなかった男が初めて声を荒げた。

 膝に置いた私の右手に男の左手が重なる。

 ひんやりとしたトカゲみたいな手から逃げようとすると思いっきりつかまれた。

「こんなことで震えてるようじゃ、俺の要求には応えられないだろうさ」

「す、すみません。な、なんでもします。なんでもできます。なんでもしてください。好きなようにめちゃめちゃにしてくれて構いません。どんな指示にも従います。ど、どんな恥ずかしいことでも……」

 彼からは何も返ってこない。

 でもここで引き下がったら終わりだ。

 私は思いついた言葉を言ってみた。

「脱げというなら、今すぐ脱ぎます」

「さっきから何を訳の分からないことを言ってるんだ。子供の遊びにつきあえって言うのか?」

「いえ、ビジネスです」

「薔薇園の再建のことだろう。だが、あんたにそんな覚悟があるのか。経営は遊びじゃない。失敗すれば従業員や取引先にも迷惑がかかる。気まぐれお嬢さんの遊びに付き合って人生を狂わされたら、たまったもんじゃない」

 受け入れられない指摘だけど、的確すぎて反論できない。

 ――だめだ。

 やっぱり私には何もできないんだ。

 こんな屑みたいな人にすら相手にされないなんて。

 私の方が屑以下だから。

 だけど……。

 守らなきゃ。

 おじいちゃんの大切な思い出を守らなくちゃ。

 そして何より、私を通り越して勝手に決められた婚約を破談にするために。

「ビ、ビジネスの話なら聞いてくれるんですよね」

「ああ、そうだ」

「薔薇園を再建して黒字化したらその収益をあなたに返します。だけど担保がありません」

「だからそれではビジネスにならない。何度も言わせないでくれ」

「ですから、お願いです。価値はないかも知れませんが、私の体を好きなようにもてあそんでください。言いなりになって好きでもない人と結婚するくらいなら、いっそのことあなたみたいな最低な人にひどく辱められた方がましです。そうすれば私は親からも和樹さんからも見捨てられる。でもそれでやっと自由になれる……」

 すると彼はにやりと笑みを浮かべた。

「自由がほしいのか」

 ――え?

「やっと本音をさらけ出したな」

 彼はつかんでいた私の手にもう一度力を込めた。

 話の間ずっとつかまれていたことを忘れていた。

 冷たい手だと思っていたのに、今はぬくもりを感じる。

「顧客のニーズに隠れた本質を探るのが俺の仕事だ」

 そうつぶやいた彼は私の手をはなしてステアリングを握り直した。

「受けてやるよ。あんたの望み通りにしてやる。男ってものを教えてやるよ」

「ありがとうございます」

 知らぬ間に体がこわばっていたらしい。

 ふうっと息を吐いてシートに体を預けたとたん、緊張がほぐれて意識が薄れていった。

 坂の多い町を駆け抜けるセダンの心地よい揺らぎに包まれた私はいつの間にか眠っていたらしい。

 おそらく、ほんの数分のことだったんだろう。

 なのに私は、紫の香りに頬を撫でられたような夢を見ていた。

 初めてのキスはそんな淡い夢の中だったような気がした。


   ◇


 ふわりと空を飛んでいるような心地から目覚めると、そこは狭い空間だった。

 ――ここはどこ?

「俺のマンションだ」

 えっ……、何?

 眉間にしわを寄せた男の顔がすぐ近くにある。

 退こうとしても無駄だった。

 私はエレベーターの中でお姫様のように抱きかかえられていたのだ。

 車から私を出してここまで連れてくるのは大変だっただろう。

 中身は子供だけど、さすがに体は子供じゃない。

「あの……」

「ここまで来て騒ぐなよ」

「いえ、あの、降ろしてください」

 逃がさんとばかりにしっかりと抱き直す。

「着いたぞ」

 エレベーターの扉が開く。

 しんと静まりかえった廊下に男の足音だけが規則正しく響く。

 まるでさっきのセダンでドライブの続きを楽しんでいるかのように軽やかに一番端のドアまで連れてこられた。

 立ち止まった男が顎をクイと振る。

「カードキーを出してくれ。スーツの右ポケットだ」

 え、あ……。

「違う、そっちは左だろ。右も左も分からないのか」

 だって、こっちから見たら右だし。

 だからもう、降ろしてくれればいいじゃないですか。

 なんとか手探りで鍵をつかんで渡そうとすると、顎でドアを指す。

「手が塞がってるんだ。タッチして開けてくれ」

 解錠してレバーハンドルを下げると、ドアの隙間に靴を差し入れて男が私を部屋へと招き入れた。

 入ってすぐのリビングは角部屋で、東側から北側まで連なるパノラマビューの窓には、鮮やかな順光の空にくっきりと映える東京タワーの展望台が真正面にあった。

 隣の寝室にはキングサイズベッドが置かれていて、男はその上に私を無造作に投げ出すと、翼を広げるようにスーツを脱いだ。

 ベッド脇の壁に近づくとクローゼットの扉が音もなく開き、そこに吊されているのはすべてスーツだった。

 私はベッドの上で体を起こしてたずねた。

「毎日スーツを選ぶのが趣味なんですか?」

「逆だ。服を選ぶ時間がもったいない。季節ごとに上から下までまるごとプロにコーディネートしてもらって、それを二十パターン用意して毎日順番に着るんだ」

「カジュアルウェアは別の部屋にあるんですか?」

「ない」

 え?

「俺はいつもスーツだ。休みの時は上を脱いでシャツになれば邪魔にはならないだろ。ふだん寝る時は下着だけで何も着ない。ここは二十四時間空調だから季節は関係ないからな」

 そういう問題じゃないと思うけど。

 でも、言われてみれば部屋の中はずいぶんとシンプルだ。

 大きなベッドの他は丸いコーヒーテーブル。

 その上にはデジタル時計だけ。

 リビングにもローテーブルとソファセットくらいで、観葉植物もテレビもなかった。

 寝室を見回している私に、男がネクタイを緩めながら聞かせるともなく話し始めた。

「時間の無駄になる物は置かない主義だ。時間を失う物はたいてい金の無駄だからな」

 徹底した合理主義者。

 こんな人からしたら、薔薇園なんか無駄そのものとしか思えないんだろうな。

「俺は大学在学中に司法試験に合格し、留学して二十五でMBAを取得した。そのための勉強時間はいくらあっても足りなかった。だが、その努力のおかげで今は金で時間を買えるようになった。金で解決できることは迷う必要がない今の生活は俺に合っている。億単位で稼げるようになったのはさすがにここ数年のことだが、大学以来、右肩上がりに実績を上げてきたことは事実だ」

 外したネクタイをハンガーに掛けようとしている男の背中に向けて私は何気なくつぶやいた。

「才能があっていいですね」

 褒めたつもりが、男はいきなり振り向いて私に迫ってきた。

「馬鹿にするな」

 え?

 ネクタイがするりと床に落ちた。

「才能のあるやつなんてこの世には星の数ほどいる。だが、成果を出している人間は一握りだ。その違いはなんだか分かるか」

 私は男の剣幕に押されて首を振るのが精一杯だった。

「あんたには分からないだろうな」

 あからさまに馬鹿にされてるのに何も答えられない自分も情けない。

「苦労ですか?」

 でまかせの答えに、男が口元をかすかにゆがめた。

 そして、私の額をつついて一歩下がる。

「努力と苦労は違う。俺は必要な努力はするが、無駄な苦労はしない。俺は成し遂げるために必要な努力なら何でもする。それを苦労と思ったことは一度もない」

 たしかに私は努力をしたことがない。

 しなくても困らなかった、というよりも、自己主張を許されていなかったから必要なかったのだ。

 私はこの歳までいったい何をしてきたんだろう。

 考え事をしていた私の手を男が引っ張り上げる。

「で、どうするんだ?」

 ――え?

「こんなつまらん自己啓発みたいな話を聞きに来たのか?」

「いえ」

 そう、ここに来たのはこんな話をしたかったからじゃない。

「今ならまだ帰れるぞ」

「いえ、帰りません。約束通り全部奪ってください」

 ようやく傾きかけた六月の日差しが東京タワーに反射して真横からこの部屋を照らし始めた。

 男が私のブラウスに手をかける。

「カーテンを閉めてくれませんか」

「怖じ気づいたのか」

「いえ、やっぱりいいです」

 それでも男は最後の情けのつもりか、私を突き放して背を向けると、軽やかにカーテンを閉めた。

 日差しは遮られたものの、暗くはならない。

 外からの視線を気にする必要はなくなっても、男の視線からは逃れられそうになかった。

 それも計算の内だったんだろう。

 あらためて向かい合うと、男が私の顎に手をかけた。

「なんだ、案山子の真似でもしてるのか。なんでもするんだろ」

「何をすればいいですか。教えてください。どんなことでもしますから」

「脱げよ」

 私は間近に男の視線を浴びながらブラウスのボタンを一つ一つすべて外した。

 まるで中学生みたいなブラジャーがあらわになる。

「これでいいですか」

「ずいぶん中途半端だな。だが、下着を剥ぎ取る楽しみを残すなんて、男の本能をかき立てる方法は知ってるようだな。ついでにスカートぐらい脱いだらどうだ」

 私は言われたとおり、腰に手をやり、片足を上げ、上半身をかがめながら脚を抜いた。

 男はにやけながら私の仕草をなめるように眺めている。

 脱いだスカートを畳もうとしたその時だった。

 いきなり手をつかまれ、腕を引っ張られた。

 息をする間もなく唇が重なり合う。

 歯がぶつかって血の味がした。

「下手なキスだな。レモンの味でも期待してたんだろ」

「馬鹿な女のファーストキスを奪って満足ですか」

「まだ自分に価値があると思ってるのか。つぼみばかりの薔薇園と同じくせに」

「確かに私は価値のない女です。だけど薔薇園を悪く言わないでください」

「俺に指図をするな」

 うっ……。

 思わず体がすくんでしまう。

 ――口答えをするな。

 母に怒鳴られた記憶に押しつぶされて、何も言えなくなる。

 口答えをするな。

 口答えをするな。

 いちいち口答えをするな……。

 こらえようとしても涙がにじんでくる。

 男がそんな私を見て鼻で笑う。

「いざとなれば涙を見せれば解決すると思ってるのか」

 ――そう。

 この男の言うとおりだ。

 私は泣けば許されると思ってる子供だ。

 いつまでも何にも知らないままでいる子供だ。

「絶対泣きません。あなたみたいな最低の男に涙なんか見せません」

「いいだろう」と、彼はボタンを引きちぎってシャツを脱ぎ捨てた。「契約成立だ」

 分厚い胸板が覆い被さってくる。

 私は広いベッドに押し倒された。

 体を隠そうとする私の腕が、細身の体からは想像がつかないほどがっしりとした男の腕で広げられ、麻酔で動けなくなった蝶を標本にするかのようにシーツの波に貼りつけられる。

 私はきつく目を閉じた。

 子供の頃親に叱られたときのように恐怖が通り過ぎるのを願っているんじゃない。

 私は自分からこの男に身を委ねたのだ。

 何もかもすべてを失うために。

 だから……。

 だから、泣いたらだめだ。

 体はどんなに辱められようと、心までこんな男に屈したらだめなんだ。

 獲物が羽をむしられるように下着が剥ぎ取られ、最低の男が花園を踏み荒らして顔を埋めてきた。

 まさか、そんな……。

 男の好奇心のおもむくままにもてあそばれた私の体が火照り出す。

 私の知らない行為が繰り広げられていく。

 いつのまにか私は声を上げていた。

 その声が男の欲望を呼び起こし、さらに辱めがエスカレートしていく。

 私は逆らえない。

 ほしがってなどいないのに求めてしまう。

 彼のなすがままに身を委ね、思うままに操られていく。

 男の指先が奏でる繊細な旋律に合わせて私の唇が震え、恥ずかしい吐息がこぼれ出る。

 隠そうとすればするほど快楽の扉が卑劣な舌でこじ開けられていく。

 悪魔に手を引かれて森の奥へと連れ去られた迷子のように、もはや自分がどんな姿勢なのかすら分からない。

 ――もう、帰れない……。

 いつの間にか私は自分の体からあふれ出た沼に溺れていた。

 不意に、紫の香りが意識を呼び戻す。

 ラベンダーの穂を軽く撫でていったあどけない男の顔が思い浮かぶ。

 紫の香りになぶられるように、私はその指先を求めていた。

 つぼみだらけだった薔薇が、一輪また一輪と花開いていく。

 しっかりと指を絡めて握り合った手がシーツの海に沈んだときだった。

 私の目から涙がこぼれ落ちた。

 ――泣いちゃだめ。

 泣いちゃだめなのに。

 刺し貫かれた痛みよりも、こんな男に涙を見せてしまったことが一番の屈辱だった。


   ◇


 目を開けると、そこは暗く沈んだベッドの上だった。

 どれくらい眠っていたんだろう。

 私は男の腕に頭を置き、もう片方の腕に包まれるように横たわっていた。

 ――ああ……、そうか。

 終わったんだ、私の人生、なにもかも。

 何不自由のない生活も、うらやましがられる地位や名誉も、私自身もすべてゴミ箱に捨てたんだった。

「終わらせちまえよ」

 ――え?

 カーテンからかすかに漏れる星明かりに照らされて、目を開けた男が私を見つめていた。

「終わらせちまって、新しい自分に生まれ変われよ」

 ……。

「嫌なんだろ、自分が」

 私はうなずいていた。

「謙遜は日本人の美徳だが、卑下は違う。自分を大事にするのは自分だ。自分が自分を信じてやれなくなったら、誰が信じるんだ」

 ――ごめんね、今までの私。

「もう生まれ変わってるんだよ。昨日まで見たことのなかった風景を見ている自分がここにいるんだ。たったそれだけのことでも、すでに昨日の自分とは違うんだ。生まれ変わるきっかけなんて何でもいいのさ。そう決めたその時から始まるんだ」

 涙がにじみ、一筋頬を伝って流れ落ちた。

 彼の骨張った指がそれをすくい上げる。

 紫の香りに何度頬を撫でられても涙が涸れることはなかった。

 涙を見られることはもう嫌ではなかった。

 むしろ、ずっと見ていてほしかった。

 こんな私から目をそらさずにいてほしかった。

「私、本当は美術大学へ行きたかったんです」

 彼が私の頭に手を回して、指を絡めて髪を撫でる。

「絵を描きたかった?」

「はい。自分で言うのもなんですけど、絵は得意なんです。子供の頃に真宮ホテルの庭園の絵を描いて祖父に見せてました。すごく褒めてくれて、私、親からは褒められたことがなかったから、絵を褒められたのがとても嬉しくて」

 そうか、と優しい吐息が耳をくすぐる。

「祖父が入院したときも、薔薇園の絵を描いて持っていったんです。枕元に飾ってくれてました。祖父は薔薇園のことを気にかけていて、もう一度見に行きたいものだと言っていたんですけど、かないませんでした。でも、亡くなる間際に、枕元の絵を見て、『今年もよく咲いたなあ』って笑って、そのまま息を引き取ったんだそうです」

 彼は何も言わず、ただ私の髪を撫でてくれていた。


   ◇


 祖父からその話を聞いたのは、亡くなる間際のことだった。

 お見舞いに行った病院のベッドに横になった祖父はもう骨と皮だけになっていた。

 そんな祖父の震える手を私はただしっかりと握りしめることしかできなかった。

 かすれた声でぽつりぽつりと祖父が聞かせてくれたのは、私の知らないおばあちゃんとの思い出話だった。

「律子はとにかく花が好きでね。新婚旅行で当時はまだ珍しかったヨーロッパ旅行に連れていってやったんだよ。オランダのチューリップ畑なんかは涙を流して喜んでいてね。ガーデニングの本場イギリスでは、ロンドン観光なんか興味ないからって、レンタカーを借りて田舎巡りをしたもんさ。そしたら、その車が故障しちまったんだな。まだ携帯電話なんてない時代だったから、通りすがりのお宅で電話を借りて修理屋を呼んだんだけど、電話が終わって庭に出てみたら、そこの奥さんにお茶をごちそうになっててね。愛する夫のことなんかすっかり忘れちまって、庭に咲いてる薔薇の話に夢中になってたんだよ」

 頬をゆるませた祖父の耳元に口を近づけて私はたずねた。

「おばあちゃん、英語が話せたの?」

「それが全然。ハローとサンキューくらいだよ。なのにちゃんと話ができてるんだから、薔薇好きの連中ってのは、何語でしゃべってたんだろうな、いったい」

 おじいちゃんは朗らかに声を上げて笑った後、しんみりとつぶやいた。

「癌が見つかったときには手遅れでなあ。律子は亡くなる間際まで何度も何度もイギリスでごちそうになったお茶の話をしていたもんだよ」

 それっきり黙り込んだ祖父は眠ってしまったようだった。

 私が手をさすると、目を閉じたまま、ため息のようにつぶやいた。

「若い時に連れていってやれて良かったよ。それだけが救いだな」

 それから数日後に亡くなったとき、私は病院に間に合わなかった。

 でも、おそらく、安らかな気持ちで旅立ったんだろうと思う。

 天国でまた愛する人のために薔薇を育てることができるんだから。


   ◇


 いつの間にかそんな思い出話をしてしまっていた。

 私の髪を撫でながら静かに聴いていた彼が手を止めた。

「なぜそれを黙っていた」

 なんだか怒られているみたいだった。

「ごめんなさい。仕事とは関係のない話だと思ってたから」

「とても重要なことじゃないか。大切な人との大事な思い出を守りたい」

「はい」

「それは立派な理由だろ」

 彼は私の目をまっすぐに見つめ、そして静かに唇を重ねてきた。

 血の通わない冷血漢かと思っていたけど、とても熱いキスだった。

 そして、彼は私の耳元でささやいた。

「ビジネスに一番大事なものを知っているか」

「お金……ですよね」

「本当に、何も分かってないお嬢さんだな」

「努力……ですか?」

「違う」

 男が鼻で笑う。

 ああ、もう、少しでも心を許した私が馬鹿だった。

「今度目が覚めたら俺が本物のビジネスってやつを教えてやるよ」

 男が私を抱き寄せた。

「おやすみ」

 私の返事を聞く前に、男は満腹のライオンみたいに寝息を立てていた。

 そんな野獣の胸に顔を埋めて、子守歌のようなその寝息に私は耳を傾けていた。

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