第6話 エピローグ~ずっと好きだった~

コンセンス王家の末っ子として生まれたコンセンス アスラは、三姉弟の中でも最も美しく、中身が空っぽと評判だ。

姉のアリアは、まだ立ち上がらないころから文字を理解し、言葉を操っていたといわれるほどの才覚を持ち、歩き回るころにはすでに時期女王の候補となっていた。

兄のシォドアはどんな動物でも瞬時に懐くほど懐が深く、また剣術では10歳のころには国で誰も太刀打ちできるものがいないという腕をもっていた。

アスラはまず言葉に興味を示さず、通常6歳には読めるように工夫されて作られたコンセンス王国共通言語がたどたどしく読めるようになったのは10歳のころだった。おそろしいほどの悪筆で、筆記もブロック体という子どもが書く一字ずつの文字を何とか読める程度にしかできない。

剣術は、手習いの一日目に何もないところで転んで木剣で額に傷をつくってしまった恐怖から、何もせずにやめてしまった。

臆病な性格が災いして、動物に触れる前から怯えてしまい、懐く動物などいない。当然、乗馬も出来ない。

ただ唯一の救いは、その完璧な美しさだ。

金色に透ける柔らかで豊かな髪、白く滑らかな肌に覆われた長い手足、神が完璧に設計した骨のバランス。桃色に染まった頬、赤く瑞々しい果物のような上向きの唇、大きすぎず小さすぎず真っすぐに顔の中心を走る鼻と、左右対称の顔。360度、頭のてっぺんからつま先まで抜かりなく美しい。

そしてアスラは、ダンスや所作の授業だけは好んだ。美しい体を、優雅に振舞えば、講師は皆ため息とともに賞賛した。

社交会の練習のために、12歳前後になると、貴族の子息や公女は有力な屋敷で行われる夜会に招かれることがある。アスラも身分を隠して参加し、始めはその美しさから、ダンスに次々と誘われた。華麗なステップと美しい所作で魅了するも、ダンスを終えると、その会話の薄っぺらさに呆れられ、友人は一人も出来なかった。

友人を求めて、参加していた夜会も1、2度行けば場違いだと通うこともなくなった。



青空をそっくりそのまま映したような青い瞳で、12歳のアスラは宮廷の秘密の庭の芝生の上で寝ころぶ。5歳上の姉アリアは、正式にコンセンス王国新女王として就任した年である。

3歳上の兄シォドアも、新女王となったアリアを支えるため、あちこちに出かけることが多くなっていた。

青い空にぷかぷかと意味のない白い雲が浮かんでいる。あの白い雲がまるで自分のようだとアスラは思う。12歳にもなって、文字も碌に掛けず嫌いな勉強を真面目に受けてこなかった自分はほとんど素養もない。歴史も算術も、国語も、ありとあらゆる学ぶことが苦手だ。かといって神への信仰心のような一つに拘る執着もない。剣を持つにも恐怖ばかりが先に出て振るうことすらかなわない。学問にも、剣術にもコンプレックスしかないアスラは一度も学校というものに通ったことがない。それゆえ友人の一人もいない。

王家に生まれてよかったのかもしれない。何もできなくても従者が何もかもをやってくれる。さげずまれることもなく、皆親切だ。切り取られた箱庭の外に出さえしなければ、何物にもならなくとも生きていける。

空を眺めていたら、いつの間にかうとうとと、眠ってしまったらしい。自分を覗きこむ影に驚いて、アスラは勢いよく起き上がった。

「った……」

「いたぃ……」

その影の持ち主と思いっきり額をぶつけ合って目の前に星が見える。ぶつかった方も同じくらい痛かっただろうに、黒髪の少年は慌ててこちらに駆け寄った。

「大丈夫ですか?すみません」

瞳の色も夜のように真っ黒だ。自分の昼間の空の瞳とは反対の夜の空の色。差し出された手は、ガサガサしていて、あちらこちら擦り傷で赤く切れていて、爪に泥が詰まっている。その手を何の傷もない真っ白な自分の手で握った。

「おでこが、赤くなってる……傷になったらどうしよう」

ブツブツ小さく呟きながら、痛みとは別の意味で泣き出しそうになっているその子に、何故だか優しくしなくてはと咄嗟に、精一杯の虚勢で

「だっ大丈夫だよ。こんなの放っておけばすぐ直るから」

慰めると、歪んだ表情をくるりと反転し驚きに変えてその子は

「ぶっはははは……」

と今度はそこら中に響くような大きな声で笑い出した。何なんだ。こんなにもコロコロと感情を変える人間を初めてアスラは見た。そして

「はははっははははは」

と、つられて自分も笑った。こんな風に声を出して笑ったのはもう何年もなかったことだった。ひとしきり、笑いあったあと

「本当にごめん。でも、君が女の子じゃなくって良かったよ。きれいな顔に傷でもつけらた一大事だから」

と彼はもう一度謝った。

「ところで、君は誰で、どうしてここにいるの?」

と聞くと

「あぁ。初めまして、私はグラス リオです。アスラ第三王子、大変な無礼を働いて申し訳ありません」

大層な言葉で謝罪をするが、リオはちっとも悪かったと思っていないように、敬礼もせず、笑い過ぎて目尻に溜まった涙を乱暴に拭き、腰に手を当てて笑って縮んだ腹筋を伸ばすように腰を反らした。

「なぜ、私の名前を?」

姉のアリアがコンセンス王国新女王として正式に就任した際に、その支援役として兄のコンセンス王国第二王子のシォドアも存在が国民に発表されたが、何の役割も持たない本当の意味での役立たずのアスラは、そもそも存在していることすら知られていない。

「聞いたからですよ。第二王子のシォドア先輩から。自分には弟がいるって。今日はシォドア先輩に稽古をつけてやるからって約束でここに来たんですけど、どこにいらっしゃるのですか?」

リオは身を乗り出すようにキョロキョロと庭を見ていたがここにはアスラ以外誰もいなかった。

シォドアは、ちょうど今の自分と同じ年齢のころから、第二王子と発表されるまでの間、身分を隠して社会勉強や同年代の交友関係を広げるために城下の学校に通っていた。リオはそのころ出会ったのだろう。

シォドアはアリアと共に、新女王の就任を知らせる各地の要人を訪ねる旅に出ていたのだが、おとついまでが最終の火の国への視察の予定だった。昨日には戻ってくる予定だったが、音沙汰はない。

「せっかく来てもらったのにすまないけれど、シォドアはまだ戻っていないんだ、いつ帰るかも私にはわからない」

答えを聞いて、リオはしばらく考えると、にっと悪戯な笑いをして

「それじゃあ、アスラ、一緒に遊ぼう」

と、アスラに向かって手を出した。差し出された手を握り返したその瞬間に、アスラの運命は決まったのではないかと今になって思う。




「本当にやるのかい?」

リオの厨房にある人参か、リンゴを持ってきてほしいという謎のお願いを、いつものごとく何も考えずに引き受けてアスラは心底後悔した。深く考えないということは、現状や未来に余計な不安を持たない自分の美徳でさえあると思っていたのに。

「だって、あれは君のなんだろう?」

ちらちらと、辺りを見回しながらリオは質問に質問で答えた。手にはアスラからもらったバケツ一杯のリンゴを持っている。

「そうだけど……」

「じゃあ、問題ないだろう?大丈夫、何度かここには遊びに…おっと、見学しに来ていて5時を過ぎるまで誰も来ないことは確認済みだ。それに、シォドア先輩がいないなんて絶好のチャンスじゃないか。危ないからって近づくことさえ許さないんだから」

「……」

ここまで言われてこの状況。何も起こらない日常を過ごすことが当たり前になっているアスラには当然、許容量をはるかに超えた事態だ。厩の見える木の陰から、そっと見守ることぐらいしかできない。そんなアスラを横に、リオはもう一度周囲を確認すると、堂々と厩に近づいた。そこには4頭のロハ・ドラフト種の馬が繋がれていた。アスラの不安をよそに、馬たちは落ち着いている。それどころか若い、黒混じりの毛を持つフィーガと茶色混じりの毛のトラスニークはリオを歓迎するように、大きく太い前足で軽くステップを踏んで早く来いと催促している。

「わかった。わかった。リンゴはみんなに平等にあるからな」

リオはさも、自分で用意したようにバケツの中のリンゴをいそいそと4頭に配った。バケツに山盛りにあったリンゴはあっと言う間に食い尽くされた。それはそうだ。ロハ・ドラフト種の馬は体高が2m半以上ある超大型種の馬なのだから。続いて、リオは勝手知ったるように、馬の後ろに置いてある脚立と、馬具を取り出して具合を確かめている。すべての準備が整えると、木陰に隠れていたアスラを呼びに来た。

「さぁ、行くよ」

思わず爪を噛み恐怖におののくアスラの気持ちなど一切考慮せず、リオは白く細いアスラの手首をむんずと掴み、厩に連行させる。

「本当に乗る気?」

リオは全く躊躇せず、黒混じりの毛を持つフィーガを繋いでいる太いロープを外していく。

「だって、君の馬なんだろう。君が乗るのに他に誰の許可がいるっていうんだい?」

いや……普通の馬にさえ乗れないんだけど……などという発言は、この場において何の意味もない気がする。それにしても、リオはあまりに手慣れているし、馬もあまりに懐いている。まるで何度もこの場に訪れ、その世話をしているところを観察していたかのように。

フィーガは、普段起こらないイベントに少し興奮気味だ。リオは馬の気持ちを察して、まず、その黒と白のまだらな体をゆっくりと撫でて落ち着かせた。

「きっと楽しいよ。冒険の始まりだ」

フィーガが静かになったところで脚立を横に置き、リオは優しい手つきでしっかりと鞍を掛けて、装着を確かめる。すると、フィーガは四肢を折り伏せをした。

「よろしくな」

フィーガに声を掛けると、ふわりと高くジャンプして鞍に乗ったリオが、アスラに手を伸ばした。自慢ではないが普段からほとんど運動をしないアスラは、まるで壁を這う尺取虫のように何とか馬の背に登る。

「さぁ、行くぞ」

ゆっくりと、四肢を伸ばすフィーガに、思わずアスラはぎゅっと固く目を瞑り、リオの背中に抱き着いた。

「見てごらんよ」

片手に手綱を握ったリオが、右手を大きく上げた。おそるおそる目を開けると、最初に見えたのはリオの薄い背中とうなじで、少し視線を上げると…

「わぁ」

青い空がぐーんと近くに見えた。ふわふわと浮かぶ雲が、絵描きが書いた繊細な線のようだ。

あの箱庭で見ているものと同じ空が、全く違った姿でアスラの目に映る。リオは振り返り、アスラを見て笑った。

「アスラの目と同じ色の空だ」

最初は遠慮がちに歩いていたフィーガは、リオの踊る心と同調するように足を速める。四肢に生える長い毛が波打ち、景色が流れていく。

「あははは」

リオはフィーガがスピードを上げるごとに楽しそうな笑い声を大きくした。しかし、アスラはそれどころではない。どうにか、振り落とされないようにリオの背中にしがみついた。

「どうどう」

手綱を引いて、着いたのはコンセンス城の北側にある森だった。

「ありがとう。フィーガ」

伏せをして下ろす体勢をとったフィーガの背から、リオは滑り台を降りるように地面に着くと、両手をアスラに差し出した。アスラは落ちるかもしれないと大きな馬の背中から降りるのを躊躇った。

だが、一人で馬の背にいるのも不安だ。意を決して後ろ手に鞍を掴んだままズルズルと滑っていくと、アスラの背が高く、手足が長いのが功を奏して、どうにかつま先が地面についた。しかしそこで安心したのがよくなかった。つま先立ちのバランスの悪い状態で、アスラは前につんのめった。気付いたリオが前から抱きかかえるようにして支えようとしたが、二人の体格差は身長で20cmほどあり、リオの体では転んだ勢いとアスラの体重を相殺しきれなかった。そのまま二人はもつれ合うように回転しながら

バッシャーーーン

と湖の中に転がり落ちた。幸い落ちたところは浅瀬で、リオの太ももの半ばぐらいの深さだったので、泳げないアスラでも溺れることはなかったが、見事にブーツやズボンがグショグショに濡れた。二人は、湖に浸かりながら目を合わせると

「わっははは」

「ははははは」

と体をくの字にするほど大笑いをした。そしてここまで濡れたならと、どちらともなく水かけっこが始まった。ひとしきり笑い転げて騒いだあと、湖から出ると初夏とはいえ、日差しのない北の森では肌寒い。

ブーツに溜まった水を捨て、ズボンの裾を握って水を取ると、徐にリオはシャツを脱ぎだした。痩せているせいか、まだ子供のような体つきのリオの上半身は、あちこちに傷があり、薄く骨が透けて中性的で艶めかしい。アスラはその姿に思わず見惚れ顔を赤くし俯いた。リオはシャツを雑巾のように固く絞ってもう一度着直す。

「ほら、風邪ひくよ」

と、ぼんやりと立ち尽くしているアスラの足からブーツを引っこ抜き、ズボンを絞り、シャツのボタンに手を掛けて……頬を熱くしながら、アスラはされるがままになっていたが、リオの異変に気が付いた。

「どうしたの?」

と聞くと、リオは唇に人差し指を当てて、静かにの合図をした。そして、その指を森の奥に向けた。アスラはその方向をじっと見つめると、何か赤く小さな光が二つ見えた。

「角うさぎだよ」

木の陰に隠れるようにして見ると、頭に角が生えた、赤い目をした耳の垂れたうさぎが一羽灰色のベルベッドのような毛を繕っていた。

「かわいいな」

「角うさぎ知らないの?」

小さく驚いてリオは聞く。アスラは首を振った。アスラは何も知らない。考えてみれば城外に従者も連れずに出てきたことさえ初めてなのだ。

「角ウサギは、あの額の大きな角で地面を掘って、地面の中で暮らす生き物なんだ。その住処は、ロハ・ドラフト種の馬ぐらいに大きいらしい」

「すごい」

角ウサギは片手に乗るほどの小さな体だ。首をかしげるように長い垂れた耳を毛繕いする愛らしい姿からは、とてもそんな大きな穴を掘るような重労働が出来るようには思えない。

「それにね。角うさぎの巣穴の入り口を見つけられた人には、高価な落とし物を拾うっていわれているんだよ」

「へぇ……」

リオはどんな落とし物が欲しいのだろう?もし綺麗なブローチが欲しいというのなら、自分の小遣いで買ってプレゼントしたら喜ぶだろうか?と、アスラはワクワクして聞いた。

「リオならどんなものを拾いたいんだい?」

と聞くと、リオはなぜか腹を擦りながら考えて

「リブロースステーキかな?七面鳥の丸焼きでもいい!」

と答えた。アスラは地面に落ちた砂だらけのステーキを思い浮かべて埴輪顔になった。

「あっ動き出した」

リオは小さく叫んで、角うさぎは森の奥に跳ねていく。足音を立てないようにと注意していても、足元の落ち葉がカサカサと鳴った。角うさぎに、その音は丸聞こえだ。小さな体で巧みに木々を抜け、暗い森と同化する毛色であっという間にその姿を見失ってしまう。

「あーー。私のステーキが!」

リオは嘆いた。アスラは追いかけるリオの背中を追いかけるのが精いっぱいで息も絶え絶え、汗が噴き出して、膝に手を置き呼吸を整えようと必死になっている。

「りっリオ……はぁはぁ。そっそんなに」

ステーキが食べたければ、皿に乗ったものをご馳走するよ。というアスラの言葉は、リオが口を封じた手で声にならなかった。

「何か、聞こえない?」

リオは、森の深くに走り出した。慌てて、アスラも追う。リオは耳に手を当ててしばらく森の奥を行ったり来たりすると、それを見つけた。

キゥキゥキゥ……

「何だろう。見たことのない鳥だ」

タコイーズブルーの尾長鳥。いつからそうしていたのかバタバタと羽を動かし、その下の地面に青い羽毛がたくさん落ちている。

「待って。暴れないで」

リオは、鳥が驚かないように小さな声を掛けながら、そっと近づいていく。

「大丈夫。今助けるからね」

リオの言葉が通じたのか、青い鳥は暴れるのを止めて小さく

キゥキゥキゥ

と助けを呼ぶような鳴き声を出した。よく見れば、長い尾が蔦に絡みついて動けなくなったらしい。

しかし、青い鳥が捕まった蔦のある木には手の届きそうなところに掴みやすそうな枝はなく、樹皮がつるりとしていて登るにもなかなか困難そうだ。リオは辺りを見回すと、登れそうなブナの木に手を掛けた。猿のようにしゅるしゅると器用に太い枝まで辿り着くと、そこで一旦体勢を整えた。

まさか、嘘だろ?リオの様子をじっと見ていたアスラがその考えに至る一瞬に、リオは屈伸をして膝のバネで空に飛び出した。斜めに落下する途中で、青い鳥の捕まっている木に抱きつくように飛び乗った。なんとか木まで辿り着いたが、つるつるとした樹皮にしがみつくのも容易ではないらしく、じりじりと落ちていく中、リオは脇に力を込めて体勢を保つと、木にまとわりつく蔦を掴んで引きはがす。蔦もつるつるとした樹皮に深くは絡んでいなかったらしく、ロープが外れる時のように円を描きながら木から剥がれ、青い鳥も緩んだ蔦から解放された。青い鳥が空へはばたいたのを横目に確認すると、リオの握力にも限界がきたらしくズズズ…ズズズっと下に落ちていく。アスラはどうにか支えようと木の下で右往左往していたが、結局リオは足でブレーキをしながら見事に着地した。

キゥキゥキゥ

さすがに疲れたのか地面にへたり込んだリオの周りを青い鳥がぐるぐるとまわってお礼を言う。パタパタとリオの肩や頭を行き来して甘える。

「もういいよ。わかったから。無事でよかった、さぁ、お行きよ」

リオは青い鳥を両手に乗せてふわりと空に向けた。最後に名残惜しそうに

ピイィィィー

と高い声で鳴くと青い鳥は空に消えていった。



「姉上、リオをどうなさるおつもりですか?」

演習場から姿を消したリオを探すアスラが、いつごろからか滅多に立ち寄らなくなったバラの温室に目星をつけたのは必然だった。

青い鳥を伝書として使役できるのは女王アリアと第二王子シォドアしかいない。だが、伝書を受け取った際のリオの表情や異常気象によって各地の視察に忙しいシォドアが送ったとは考えづらい。まず、伝書を寄与越したのは女王アリアだ。

そして伝書の内容。女王として命令ならばわざわざ伝書など使わずとも人を寄越せばいい。人払いをする用件。

そこまで考えて、アスラは近衛騎士団の演習場から抜け出した。

女王の王宮の建物に隠れるように作られた裏庭には、女王と二人の王子の邸宅の裏口から出入りが可能な造りだ。そもそも王衛が立ちはだかる女王宮殿には弟とはいえ、許可なく立ち入ることは出来ない。そして子どもたちの住む宮殿で、女王が香を焚くことは考えづらい。女王宮は出入り口が一つしかなく、換気が難しいからだ。

どうか間に合ってくれという祈りにも似た焦りの気持ちで噴き出す汗を拭くことすら忘れてアスラは煙る温室の取っ手を掴んだ。ハンカチで口を押えながら人影の映るベッドの白い天蓋を躊躇なく開けた。

「どうとは?大体リオはあなたのものでもないでしょう」

ベッドに横たわったリオのシャツのボタンに手を掛けようとしていた女王は、突然現れた弟のアスラに全く驚くこともなく平然と答えた。

アリアの着るエメラルドグリーンのドレスは重要な式典や会議などの時に姉が好んで着る色だ。瞳の色と相まって自らの美しさをこの上なく引き立てる色と姉もまた自負しているのだろう。

アリアは自分には何も非難されることなどないというように、ゆっくりとボタンに掛けた手を引き、腰掛けたベッドの上から立ち上がった。

この姉にまだ何かいえるほどのものは持ち合わせていないアスラは黙ってベッドに横たわったリオの膝の裏と背中に腕を回して持ち上げた。

「失礼します」

横を通り過ぎるアスラをちらりと見て、アリアは楽しそうに笑った。



リオを抱きかかえたまま、自分の邸宅に戻ったアスラはすぐに従者に金木犀の花びらの浮かんだ風呂の準備をさせた。あの匂い……ルキウス プルケルの発する深い森林のような白檀の匂いは人を惑わす。幼い頃は何度も瘴気に当てられて兄のシォドアに助けられた。

「ルキウスに不用意に近づくな、気持ちを乗っ取られてしまうぞ」

シォドアは、宮殿の屋根裏に住んでいたルキウス プルケルにシォドアは警戒心を解くことはなかった。

アスラはルキウスがどのような経緯で王宮に住まうことになったのか知らない。しかし、それは知ってはならぬことだと直感的にわかっていた。奴はそういうものなのだ。

ソファーに寝かしつけたリオは、眉を寄せ、頬を上気させている。体が疼くのだろう時折シャツの胸の辺りを握りしめるようにして吐息を漏らす。自分も邪な思いを抱きそうになってアスラは唇を噛んだ。そんなことをしたら、一緒じゃないか。

「湯の準備ができました」

従者が伝えるのを聞いてアスラは少し胸をなでおろし、人払いをする。リオを金木犀の花の浮かんだ湯舟に寝かせる。金木犀の濃い香りが次第に白檀の匂いを薄れさせていく。少しシャツを緩めたほうが良いのかとも思うが、アスラにはリオのシャツのボタン一つ手に掛けることなどできない。ベルトを緩めることなんてもってのほかだ。浴室が金木犀の香りに充満していくのと同時に、リオの火照りが少しずつ収まっていく。誰にも汚させたくはない。例え自分の手でも、リオの望まぬことはしない。アスラはほっとして、そしてリオが愛おしすぎて空色の瞳に涙を浮かべた。


(了)

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