誰が為に春を恋う

香山なつみ

プロローグ―間の子―

 じりじりと照りつける日差しに目を細める。

 陽の光に煌めく銀髪はどこにいても人の目を集め、口さがない声が耳に入ってくるのは日常茶飯事だった。

 道行くブルネットの髪の人々からレティスに向けられる嘲りの声や憐れみの視線。それらを雑音だと気にしない振りをして家路へと急ぐ途中、視界の隅に小さな女の子が転ぶ様が映り込んだ。

 ぱしゃりとあたりに広がる水音にわっと驚いたような女の子の声が重なる。

 年の頃は七つか八つか、レティスよりわずかに年下と思われる女の子はへたりとその場にうずくまって泣き出してしまった。


 ここスーティラでは水は貴重だ。

 裕福な家であれば専用の井戸があるが、そうでない家が大半を占める。共用の井戸から日々必要な水を運ぶのは小さな子どもの仕事でもあった。学校が終わった今の時間帯は特に子ども達――小さな身体に対して大きな水瓶を持った子の姿が目立っていた。

 子どもの泣き声を聞きつけて往来に大人達が顔を出すも、転がった水瓶を見て何があったかを察するとすぐさま興味を失い、元の場所へ戻っていく。


「泣いてないで頑張んなよ」

「転んじゃったなら仕方ないだろ、もう一回だ」


 そんな風に励ます声も聞こえるが女の子が泣き止む様子はなく、その間も乾いた砂っぽい地面に水はぐんぐん吸い取られていった。


「だ、大丈夫……?」


 おそるおそるレティスは女の子に声をかける。


「っ、……ひっく、……お、お水こぼしちゃった……」

「みたいだね。立てる?」

「……っ、足痛いよぅ……」


 うつむく女の子の視線の先、足首あたりが不自然に腫れていた。転んだ拍子にひねったのだろうか。


「お水、……っ、お水汲みにいかないと……」

「その足じゃ水汲みは無理だよ。家まで送るから、少しだけ頑張れる?」


 しゃがみこんで手を差し出すとようやく女の子と視線が合った。途端、涙に濡れた瞳がまん丸に見開かれる。


「……っ、あ、……えっ」

「肩貸すから。ほら、立って」


 女の子の視線はレティスの銀髪に注がれていて、まるで怖いものでも見たかのようにぱくぱくと口が動いていた。

 銀の髪を持つのはこの村では二人だけ。驚いたということはこの子はそれを知っているのだろう。

 片手に水瓶を持ち、反対側の肩に乗せるように女の子を立ち上がらせる。

 驚きのあまり涙が引っ込んだのか、じろじろと見つめてくる女の子にレティスはにこりと微笑んでみせた。


「大丈夫、怒られるとかないよ。さ、家はどっちの方?」


 女の子を怖がらせないよう、極力優しく話しかける。

 そう、仮に怒られるとしてもそれはレティスだけだ。家のためでなく、他者のために力を使うことを責められることはあれど、ほめられることはない。


「……あ、あっち」


 おずおずと女の子が示す方向に歩みを進める。

 家までの道中、幾人もの人とすれ違い、その度にちらちらと横目で見られるも誰も話しかけてこようとはしなかった。


「ここだよ。お母さーん!」


 こぢんまりした家の前まで着くと女の子が大きな声で中に声をかける。

 ややあってから「遅かったねぇ」と家の中から人が出てきた。


「水ならそこに置いといてちょうだ――」

「こ、こんにちは」

「っ、えっ、な、」


 女の子の隣に立つレティスを見て女の子の母親はぎょっとしたように上擦った声をあげた。


「お母さん、あのね、わたし転んじゃって、それで……」

「足を痛めたみたいだったので連れてきました。水汲みは難しそうだなと」

「そ、そうなの。そう……」

「ごめんなさいお母さん、お水こぼしちゃった……っ」


 母親に抱きついた女の子の声が滲む。女の子を見下ろす母親の目は優しく、けれど水がないことには変わりないので困ったように眉が下がっていた。

 よくよく見れば母親のお腹は大きく、重いものは到底持てそうにない。

 片手に持った水瓶をぎゅっと握りしめてレティスはおもむろに口を開いた。


「あの、この家で一番大きな水瓶はどこですか?」

「え、あっちだけど……」


 母親が指し示す先にはずらりと大きな水瓶が並んでいた。これでも数日分にしかならず、これを満たすためにこの子は何往復も井戸まで足を運ぶはずだったのだろう。

 水瓶を覗くといくつかには水が入っていたが空のものも多い。足が治るまで到底もつ量ではなさそうだった。


「その、これからのことはオレが勝手にしたことです。あなた達は何も頼んでいない。というか、何も見ていない」

「え、えぇ……?」


 困惑する母子の前でレティスはすうと乾いた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 ――この国には精霊がいる。

 そして精霊は人に『魔法』という恩恵を与えた。

 地・水・火・風。それぞれの精霊はそれぞれの大地に宿り、スーティラは火精霊の恩恵を受ける地だ。

 魔力を持って生まれるものは皆、その土地の精霊の恩恵を受ける。

 スーティラで生まれたものならば、火精霊の恩恵を受けることになり火の魔法が使えた。

 生まれ持った系譜の魔法しか使えない――それが魔法の大前提。

 けれど異なる系譜を親に持つあいの子であれば、例外的に親の系譜の魔法が使えることがある。

 レティスはスーティラで生まれ育った。それは間違いない事実であるが、その身に火以外の魔力を宿していた。


「――水よ」


 レティスの声に呼応するようにかざした両てのひらの上に青い光が集まってくる。

 光は揺らぎ、数度のまばたきの後には透明な水へと姿を変えていた。手を振って促すと水は何の抵抗もなく水瓶に収まっていく。

 いくつもあった水瓶全てを水で満たし終えるとレティスはふうと息を吐き、そのまま母子の様子を伺うことなく踵を返した。


「じゃ、オレはこれで」


 足早に立ち去るレティスの耳に、小さく、けれどはっきりと女の子の声が届いた。


「っ、お兄ちゃん、ありがとう!」



***



 村の中央にあるひときわ大きな家の裏へまわりこむと小さな門があり、レティスは閂を外して中へ足を踏み入れた。

 門をくぐると世界が変わる。家の外は砂っぽい地面が広がっているのに、ここには青々と生い茂る草木が広がっていた。

 それが母の力の一端なのだと理解はしていても不思議なことに変わりはなかった。

 緑を踏みしめて庭を抜けると家というよりも小屋といった表現が正しい建物があり、そこに一人の女性が佇んでいた。


「――遅かったですね」


 そう声をかけてきたのは使用人の一人だ。

 レティスを見つめる表情は無そのものだが、眼差しにわずかだが侮蔑の色が滲んでいる。


「遅くなってすみません。母さんは……」

「今日も伏せっておいでです。戻られたのでしたら私はこれで失礼します。食事の用意くらいご自分でできますでしょう?」

「あ、うん……お疲れ様でした」


 ぺこりと礼をするレティスを顧みることなく使用人は去っていった。

 使用人とは言えどそれは形だけで、実際のところは母の監視役なのだとレティスは考える。

 レティスが学校で不在の間のみ、母屋からこの離れへ通ってくる使用人の雇い主はレティスの父方の叔父だ。この村を治める中心人物になりつつある、レティスを最も毛嫌いしているであろう存在。


『半端者であるお前が何故その髪を持っている』

『水魔法が使えるなんて一族の恥もいいところ。いいか、人前で決して使うんじゃないぞ』


 物心ついた時から会うたびに吐き出される呪詛のような言葉は抜けない棘となって胸の奥に刺さっている。


(今日のこと、知られたらまた怒られるんだろうな)


 恥知らずと罵られ、一つ下の従弟にすら馬鹿にされるのだろう。

 その髪色は見かけだけで、簡単な火の魔法しか使えない役立たずだと。


「……使う機会がないだけなんだけどな」


 外聞が悪いと学校に通わせてもらってはいる。読み書き算盤といった基本的なことは周囲を見ることで学べたが特別授業なる魔法を使う場でレティスに時間を与えられることはなかった。

 教師といっても所詮は村人の一人にすぎない。族長の息子から直々に半端者だと罵られる子どもに手を差し伸べられる者はいなかった。

 十にも満たない子どもの集団は時に残酷だ。大人達の態度をそのまま真似て、レティスはまるで空気のように扱われていた。

 少しずつ、だが確実に何かが擦り減っていく。それが何なのか考えることをやめてしまったのすら随分前のことだ。

 先祖返りだとされる銀の髪。父譲りのそれはレティスが一族の血を引いている証だった。二代続けて現れた先祖返りの姿に期待を膨らませる者もいたが、その子の母を見て期待は失望へ変わっていったという。

 入り口の扉に手をかけ、レティスはすうと呼吸を整える。


 ……大丈夫、なんてことない。いつものことだ。


 気にしたところでどうしようもないのだと自分に言い聞かせてゆっくりと扉を開け、中にいるであろう家人へ声をかける。


「ただいま、母さん」


 奥の部屋の扉を開けると薄暗い中、もぞもぞと動く何かがいた。


「……水の、匂い……」


 掠れたような細い声にレティスはぎくりとした。

 開けた扉から部屋の中に光が入り、部屋の住人の姿をあらわにしていく。

 陽の光を吸収しそうな濡れ羽色の髪に、青がわずかに混ざったような薄いグレーの瞳。焦点が合っているようで合っていない、うつろな目をした母がベッドの上からレティスをじっと見つめていた。


「魔法を使ったの?」

「あ、うん……水汲みで転んじゃった子がいたから、それで」

「水汲みで? なあに、それ? 水なんてそこらじゅうにあるじゃない」


 くすくすと笑う母。馬鹿にするわけではなく、心からそう思っているような口調だった。


「そう、だね。ノルテイスラではそうだったね」


 水精霊の恩恵を受ける、北諸島ノルテイスラ。母の故郷でもあるというそこではレバーをひねれば水が出るのだという。

 同じ国だというのに土地が変われば恩恵を受ける精霊も異なる。母の口から語られるそこはレティスにとってはまるで別世界のようだった。

 斜めがけのカバンを置き、部屋の奥のカーテンを開けると焼けつくような日差しが入り込み、室内を明るく照らしていった。


「母さん、今日は起きられそうなら散歩でもする?」

「そうね。その前に……おいで、こっち」


 手招きされるままに近寄ると母の手がレティスに伸びる。

 レティスの褐色の手に母の白く細い手が重なった瞬間、ぼう、と淡い青の光が灯った。


「っ、母さん、それはいいよ」

「どうして? わたしは巫子だもの、魔力移ししないと」


 ふふ、と微笑む母の手からあたたかな魔力が流れ込んでくる。

 レティスのように魔法を使える者は魔法使いと呼ばれ、母のように魔力を授受できる者を巫子と呼んだ。

 巫子の力の最たるものが、この『魔力移し』と称される魔力を他者へ与えること。

 減った魔力がみるみる補充されていく。ふわふわと浮き立つような、不思議な感覚に襲われるレティスの目の前で、母の左胸から首筋にかけて花のような痣が浮かび上がった。

 それは母が故郷から遠く離れた地でも水の巫子であり続ける、確固たる証だ。

 レティスの手を握る母の口角がゆっくりと上がり、ふ、とグレーの瞳が細められる。


「ねぇ、オスカー?」


 歌うような声、夢見るような眼差しで母はその場にいない父の名を呼んだ。


 夢とうつつの狭間に生きる母、滅多に帰ってくることのない父。

 衣食住の保証はされど、そこはまるで檻のようだった。

 逃げ出したいと思ったこともあるが母を置いていくことなどできず、自分には一人で生きていくだけの力がないことをレティスは幼いながらに理解していた。

 このまま一見穏やかに、自由がないままに時が過ぎていくのだとぼんやり思っていた。





 その日は昼から時期外れの雨が降っていた。

 スーティラで雨は珍しい。恵みの雨だと喜ぶ人の声を聞きながら家路へと急ぐ。


 ――なんとなく、嫌な予感がしていた。


 水精霊が騒いでいるような気配が感じられて、胸騒ぎが止まらなかった。

 息せき切って門の閂を外す。庭を抜けると家の前には常なら一人しかいない使用人が幾人もいて、皆が慌てふためいていた。使用人の横をすり抜けた先には、ベッドに横たわる母の姿があった。


「母さん……?」


 濡れた髪が頬に貼り付いている。服は着ているがいかにも着せましたという体でどこか不格好で。

 眠っているような穏やかな表情ですらあったが、青白い肌に、血色を失った唇がそこはかとない違和感を醸し出している。


「お、お風呂に入りたいと言われて。一人にしてと言われたので放っておいたのですが、い、いつまで経っても戻られなくて。それで……」


 震えた声が背中からかけられるも、レティスの耳には届いていなかった。


「母さん」


 ぺたりと母の頬に触れる。――その肌はひやりと冷たかった。


 日々の終わりはあっけないもので、そこから落ちていくのはあっという間だった。





「――あ、雪だ」


 そんな声に空を見上げる。

 視界の先には重く垂れこめた雪雲がどこまでも広がっていた。

 はらはらと、白い雪が舞い落ちる。


「……雪って、ほんとに冷たいんだな」


 降り始めた雪はやむことなく、深々と降り積もる。


 はぁ、と吐き出す息が白い。

 手先や足先の感覚はとうに失われ、立ち上がる気力すらなかった。


 目の端にちらちらと人の姿が映るも、皆一様に見て見ぬふりをして通り過ぎていく。

 そんな光景に動かされる感情もとうに消えてしまっていた。


 この北の地で――いや、遠く離れた故郷にいた頃から、そこにいないかのように扱われることには慣れていた。


(……故郷、か……)


 思い出すのはじりじりと照りつける太陽と、砂っぽい空気。

 あの小さな家の中だけが自分の居場所だった。


 ――居場所だと、思っていた。


(……少し、眠いな)


 段々と薄れていく意識の中、誰かの声が聞こえたような気がした。


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