第2話 ziguzagu Signal

消えてなくなるものはいつだって綺麗だ。

消毒薬のにおいの中の蒼い顔。消灯が過ぎて月明りに照らされている。いつ消えるのだろうか。そう遠くないはずの切れかけた容器がならんでいる。

大きく膨らんだ風船を広げて、縮めて地響きのような唸りを上げる容器。しわしわのちりめんのような模様がよく見ると小さく揺れている容器。

僕は窓際の白いベッドに潜り込む。シングルベッドなのに余裕がある。仰向けに並んで丸めたバスタオルを枕替わりに横になると、ジャージのポケットからスマホを取り出した。

夜なのにカーテンは全開だ。

月明りよりもまぶしいスマホ画面に少し目を細めて、お気に入りのサイトを開く。

イヤフォンをつけていないスマホからノイズが流れる。スマホのスピーカーだからか、ノイズのBGMがよりリアルに聞こえた。三人部屋の病室の四人目の僕は、消灯時間をすぎても、イヤフォンを付けずに音源を垂れ流しても自由だ。ここに並んでいるのは病人ではない。もう空っぽのただの容器だから。

ザーズザァー

波の音に似ている。海なんてみたことがないのに、いつも君の姿を人魚と重ねる。

ごぽぽ…ぷっぷっ…

深海の中で、息を潜めて画面を覗いている。黒い髪が闇のように君を包んで、表情が良く見えない。

「…る?」

お互いの存在がここにあるんだって、繋がる世界のこことそこにあることを、僕らは確信している。

「いるよ。」

「写真送ってよ。」

起き上がるのが面倒で、よく晴れた月に手をかざして写真をとった。

「……。もう寝てんの?」

「寝てはないよ。ベッドにはいるけど、今日は寒いんだ。」

写真の自撮りのために出した腕を僕はひっこめて布団の中に頭から沈んだ。ここはいつだって空調を低めに設定している。本来の住人たちは口がきけないから、居候の僕に文句は言えない。本当なら、こうして病棟に寝泊まりすることも禁止されているのに、僕がこうして時々ここに泊まることを見咎められない理由をヒロが知ったら怒るだろうか?呆れるだろうか?きっと笑うはずだ。

「今日は何していたの?」

ヒロが矢継ぎ早に質問をする。

「学校に行って、あとはマック食べた。」

大分端折って説明した。

「学校は授業なにしてたの?」

「今日はテストだったよ。期末テスト。ヒロが教えてくれた数学がよくできた…と思う。」

「よかった。ほかには?」

「社会と国語があったけど、こっちは惨敗だね。」

暗記科目は教えようがないよ。スマホの画面越しの教科書に、ヒロは困ったような声を混ぜて答えた。それでも、出やすいところだからとマーカーを指示してくれた。ヒロに出会って半年。それまで勉強なんてしてこなかった僕の脳には暗記という能力が不足しているらしい。でも、ヒロはいい先生だ。1しかなかった成績表のほとんどが3以上になって、その日暮らしだった僕は少しだけ、この先の未来を思うようになった。ヒロは何していた?そんな問いかけをいつの日からかしなくなった。ヒロは自分のことを話すのが好きじゃないんだ。ヒロが送ってくれた数少ない写真はほとんど髪の毛で隠れた右目だったり、滑らかに階段状になった足の指だったり…切り取られたヒロの体の一部分だった。

「ねぇ。もっと写真を送ってよ。」

仕方がない…僕はリノチウムの冷たい床につま先からゆっくりと降りてベッドから抜け出すと窓辺に立った。内側カメラに月明りの蒼白い自分の顔が映る。無表情のまま一枚写真を撮ると無造作に送った。

「ありがとう。ユキの顔が好きなんだ。」

「もうそろそろ寝るよ。おやすみヒロ。」

「おやすみ。ユキ。」

アプリを閉じると再び現実が夢のように襲ってくる。この部屋で生きているのは僕だけだ。

心臓が止まる瞬間だけを待つこの部屋で、僕は一体何を待っているのだろう。脳梗塞で意識を失ったおじさんのいびきが響いている。

何日も目を開けない母さんのベッドに戻る。

温かい。ここに微かに脈打ち、流れる母さんの血を想像した。波のように、目を覚まさなくてもいいからいつまでも打ち続けてくれればいい。そう思った。やせ細った母さんの体に流れる赤い海を閉じた瞼の下で想像しているうちに僕はいつもの浅い眠りにつく。


朝方、巡回の始まる前に目を覚ますと、僕はアパートに戻った。

「ユキちゃん、お帰り。」

隣の部屋に住んでいるキララちゃんがよたよたとアパートの錆だらけの手すりを頼りに上ってきた。この階段の手すりは所々穴が開いて朽ちている。僕は慌ててキララちゃんのところに駆け下りて右肩を担ぐように支えた。

「すまないねぇ。ははは。」

おどけて見せるキララちゃんの一言一言に吐き出される息がものすごい濃度のアルコール臭だ。ハンドバッグから鍵を取り出すとキララちゃんの部屋のドアを開いた。少し前から待ち構えたようなキララちゃんの家のロシアンブルーのコナが僕の足とキララちゃんの足をSの字にすり寄って通る。僕は足だけで自分の靴と、キララちゃんのヒールを脱がせてそのままキララちゃんのベッドにキララちゃんを運ぶ。ピンクの耳のウサギのキャラクターばかりの部屋は朝日で赤く染まっていた。ベッドの中にキララちゃんを沈めて、布団をかぶせ、テレビ台にいつも置いてあるメイク落としシートで適当にキララちゃんの化けの皮を剥がすと、すでにキララちゃんは軽い寝息を立てて眠っていた。

「眠りこけた女がいたらメイク落としシートを使うのは男の役目よ。」

小学生のころ同じように泥酔したキララちゃんを担いできた母さんは肩で息をしながら登校前の僕に教えてくれたのだった。コナの食器を見ると、お気に入りのクリームが入ったカリカリが残っていた。コナはいくらお気に入りのカリカリでも食べ残しをする。まるでいついなくなってもかまわないと言っているみたいだと僕は思っていた。給水機の水もたっぷり汲まれて、トイレの汚れもなかったので僕がコナにしてあげられることは耳の間を掻くことぐらいだった。

ひとしきり撫でられて満足したコナはキャットタワーの一番上のクッションに音もなく登って行った。鍵を閉めて郵便受けに落とすと自分の部屋の鍵を開けて靴を手で揃えた。母さんがこの部屋にいたころと同じように玄関扉に向けて靴を揃える。いつも2足揃った靴は今は僕の分だけだ。手を洗い、冷蔵庫から食パンと卵とマヨネーズを取り出す。食パンの真ん中を指で抑え、周りをマヨネーズで囲む凹んだ部分に卵を割り入れトースターに入れて温める。ドンキで買った母さんの趣味の金色ラインがついたジャージを脱いで、中学のジャージに着替える。教科書を整えると、トースターから焼き上がりの音がした。



「幸村ってホントもったいないよ。」

今週の掃除当番は運悪く美術室だった。同じ当番の班のやつが、箒でなくクロッキー帳と芯がやたらと長い鉛筆を持って僕を追いかけてくる。油絵具やら粘土やらがあちこちこびりついた美術室を真面目に掃除するのもばかばかしいと思ったのは僕だけではなかったようだ。掃除当番としてここにいるのが僕と、美術部部長の水谷だけだったから。

「水谷だって勿体ないよ。」

黒縁眼鏡に、セーラー服のスカートを極限まで長くしている。手にはよく事務職の人がやっているカバーをつけている。そんな水谷は、メガネがなければ目もアイドルみたいなぱっちり二重で鼻筋も通っている。隠れている手足が長いことも必死にクロッキーをするときに胡坐をかいて腕まくりをする癖があるので知っていた。こんな風に美術室のお化けをやっているのに、その美しさは隠しきれていなくって放課後に何人もの人が訪れて告白して玉砕していっていることも知っている。ただし、告白は必ずしもお断りで終わるわけじゃないと本人談。

美しいもの、きれいなものをこの手で閉じ込めたいんだよ。

そのためには多少の気持ちの悪さぐらい我慢するさ。

サッカー部のキャプテンの西岡がこの美術室の幽霊に捉われたことを知っている人は僕ぐらいだろう。

雨の日の放課後に、西岡の筋肉の付いた首筋に伸びた水谷の腕の白さを、閉じたまつ毛の深さを僕は知っている。あのクロッキー帳のどこかに今も西岡の長い脚や、腰の括れ、胸板の張りが閉じ込められている。

「もうちょっと顔上げて顎を上に向けてくれると」

「あのさ…誰もモデルの約束なんてしていないんだけど」

と一応の反論をしてみるが、意味をなさないことは知っている。通りすがりに僕の顔を見てイケメンだと騒ぐ女子高生や、体育祭や球技大会で勝手に写真を撮っていく名前も知らない生徒と何も変わらない。誰も僕の殻にしか興味がないんだ。あんな趣味の悪いクロッキー帳に閉じ込められるのはごめんだ。

適当に塵取りで埃を集めてごみ箱に捨てると、隣の美術準備室に行く。美術担当の教師は、美術室が綺麗になったのかどうか、というよりはもはや掃除をしたのかどうかさえ興味がないらしく、わざわざ美術室にいって掃除が出来ているかどうかの確認すらせずに、判子を押してくれた。こんなことならば、美術室などに寄らないで、ここに直行していたらよかったと思いながら、清掃委員に美術室の清掃カードを返却する。

振り返ると、水谷は後をついては来なかった。水谷は美術室のお化けなのだ。あの場所に取り憑かれてそれ以外の場所に出くわすほうがレアケース。

「ただいま」

病室に戻ると、朝までいたはずの脳梗塞のおじいさんがいなくなっていた。代わりに皮と骨がくっついた小さなおばあさんが眠っている。

「こんにちは」

挨拶は大事だ。たとえそれが返ってくるはずのないものでも。おばあさんのところに認知症末期の為意識レベル低下と書かれている。今度の同居人はいつまでだろう。

「母さん、お腹が減ったよ」

と意味のない質問をしてみるが、当然返事はない。バッグからメロンパンと焼きそばパンを取り出してテーブルに置いた。

「母さんも食べる?」

会話も大切だ。一緒に買った紙パック飲料で口を湿らせながら、ただ甘く、ただ塩辛いだけのカロリーを口にする。今の僕を動かしているのは、動いている母さんが伝えてくれた言葉たちだ。そして、どうか母さん、僕が中学を卒業する日までその体の波を止めないでください。もうこの状況に涙も出ない。怒りも湧かない。毎日ここに通うのはお見舞いでもなく祈りだ。



「ユキちゃん。今日は早かったんだね」

生の声をこの場所で聞くのがレアすぎて一瞬夢だと思った。振り返ればこの部屋の専属ナースだった。

「はい。終業式だったんです」

「じゃあ、明日から夏休み?」

「はい」

「そっか。お母さん喜ぶね」

ユキちゃんと一緒に居られて。最後まで言葉を言わずにナースは去っていく。

ユキ、会話は大事よ。ユキ、挨拶は大事よ。あぁユキと一緒に居るときが一番楽しいのよ。

母さんが言ってくれた言葉たちは、僕にこびりついて剥がれない。一生付きまとって僕を縛り続けたらいい。幸村ユキっていうヘンテコな僕の名前のように。

「ユキ、夏休みなの?」

「うん」

母さんの手を握りながら答える。母さんの僅かな温もりと薄い胸の上下を感じる。

「ユキに会いたいなぁ。いつか会えるかなぁ」

ヒロがそう呟くと、僕はヒロに会いたいんだろうかと疑問に思う。第一、僕にとってのヒロって何なんだろう。ただ思うのは遠く離れた存在のヒロが今の僕にとって最も近しい生きている人なのだということだ。

僕らはまだ出会えていないんだろうか。母さんみたいに、容器を抜け出してただの存在としてヒロと出会っている。

「ユキ…怒ったの?」

「いや、怒ってないよ」

ヒロと繋がっていると、伝わっているような気がして言葉にするのを忘れてしまう。



夏休みの三者面談に行くのに、キララちゃんに付いて来てもらった。

「お母さんの真似なんて出来るのかな」

キララちゃんは、一番肌が見えない服がいいよ。という僕のリクエストに応えて魔女のような手首に向かって布が広がった黒いシースルーの服と、足首まであるスカートを着ている。確かに一見すると肌が見えないけれど、深い切込みの入った胸元にはおっぱいのふくらみが揺れて、中心にかけて切り裂かれたような大きなスリットから艶めかしい白い脚が出たり入ったりしている。まぁ、関係ないかと思って教室に入ると、担任の千代田先生が、一瞬立って頭を下げた。

「本日はお忙しい中お時間をいただきありがとうございます。担任の千代田です」

「こちらこそ、いつもご迷惑をお掛けしています、幸村です」

この二人がロボットでプログラミングされた会話をお互いに繰り返す存在だと言われても僕はきっとそうなんだと思えるほど、二人の会話は形式的で意味がなかった。

それはそうだ。二人とも僕に何かを与えても何も利益がないのだから。ただ三者面談という時間を埋める必要だけがあった。一人は仕事として、一人は付添人として。

意味のない会話が続いた。

「ユキ君の成績ですが、二年の後半から三年次にかけて徐々に上がってきています」

と千代田先生がいうと

「それはよかった」

とキララちゃんが答える。

「ユキ君は、受験しますか」

「まだ考え中なんです」

何か質問がきたら、こう答えてねという回答をキララちゃんと決めていた。

「私立にしますか?公立でしょうか?」

「まだ考え中なんです」

壊れたおもちゃのように無意味に繰り返される質疑応答に、視線を外すと運動場に水谷の姿があった。学校のセーラー服のスカートをあんなに長くする生徒は他にいないのですぐにわかった。夏の日差しにぎょっとするほど白い肌は、美術室の幽霊しかありえない。両肩にすらりとした男女に挟まれて、今は幽霊というよりは発見された宇宙人みたいだ。

無駄な15分が過ぎて、

「では面談はここまでにしますが、何かご質問などありますか」

と質問の質問が来た。回答に困るのではないかと思ったが、

「いえ、特に。本日はありがとうございました」

と無難に締めくくると、二人で席を立った。



「緊張した?」

キララちゃんは黒い衣装を靡かせて、吹き出す汗をハンカチで抑えている。

「学校なんかにもう一生くることはないと思っていたから、楽しかったよ」

と、振り返り校舎を眺めた。

正門のところまで見送ると、

「これでしばらく酔いつぶれても大きな顔で介抱してもらえるわ」

と手を振る。折角夏休みに学校に訪れたので、そのまま帰ってしまうのも勿体なく校舎に戻ると、進路指導室に入った。さまざまな高校の学校情報のパンフレットが揃っている。

僕の学力でも入れる高校などあるのだろうか。壁一面に並んだパンフレットのどこに手を付けたらいいのかわからずに立ち尽くしていると、千代田先生がエナジードリンクを口にしたままこちらを眺めていた。

「志望校を探しているの?」

その声がいつもの機械じみた硬質音ではなく、どこか疲れた人間らしい声だったので凝視すると、いつもは第一ボタンまできっちりと留められているワイシャツが開けられていて中から鎖骨が浮き出ている。生きていたんだ…。あっけにとられて返事も出来ずにいると、千代田先生は棚からいくつかのパンフレットを取り出した。

「公立だったら、ここかな?私立ならいくつか選択肢があるけれど、学費も高いしね」

取り出したパンフレットをそのままコピー機に乗せ、書類を茶封筒に入れて寄与越す。

まだ印刷したての紙がほのかに温かい。

「どうして、助けてくれるんですか?」

千代田先生は、中二からの担任だ。素行が悪かったり、頭が悪かったりという生徒たちを寄せ集めたクラスの。サルは猿山に展示しておいた方が、ホモサピエンスに影響がないというのか。確かに朝のホームルームからして真面目に登校時間を守る生徒は、教室には少なくて、なんだかよくわからない奇声を上げる生徒や、大きなぬいぐるみを抱えたままいる生徒など個性的ではあるけれど。そんな生徒に目もくれず淡々とホームルームや授業を行う千代田先生は、始めのころは素行の悪い生徒のよいからかい相手だった。

「センセー。彼氏っているんですか」

の一般的な嫌がらせから

「センセー僕に大人の体操を教えてください」

といった度を過ぎたハラスメントまで、どんな因縁にも靡かず無表情を崩さない千代田先生に、次第に生徒は関心を失っていった。

僕の質問にたっぷりと時間をかけて

「幸村君がかわいそうだったから」

と千代田先生はふっと元の表情に戻って棚を見回す。

何がかわいそうなのだろう。

僕はいつもと変わらない…教室の隅で傍観していたいつもの僕と。

必要のないパズルのピースのような僕。

そしてふと思い立った。千代田先生は去年もはぐれ狼たちの担任だった。従順で素直、羊のように統率の取れた他のクラスの生徒とそりがあわない。一体何を考えているのか、大人と子供という柵を完全に無視して時に鋭い牙で襲い掛かるクラスの担任としてそこにいた。去年の夏の三者面談もいたはずだ。

「ユキの母です」

去年の夏は、母さんが三者面談に来てくれていた。首元のつまったブラウス、足首まで隠れるロングスカート。

小さな額、きれいな横顔。零れそうな大きな瞳、上向きの品の良い唇。小学校の参観会でも母さんが来た瞬間教室の温度が上がる。隣の子が耳打ちする。

「今来たのって、ユキくんのお母さんでしょ。すぐわかったよ。だって顔がそっくりだもん」



進路指導室をあとにすると、通りがかった美術室に水谷がいた。机を繋げて作った台に膝を曲げて座っている。視線はどこを見ているのか定まらず、ぼんやりと遠い窓の外を映している。夏の緩い風で彼女が髪の毛で隠していた頬を明らかにした。遠目でもわかるほどはっきりと、彼女の白い頬は赤く腫れている。

――白い皮膚に拡がった赤い花びらのような…。

僕は何かに取り憑かれたように、つかつかと美術室に入り水谷の腕を取った。

僕が美術室を見ていたことに気付かなかったのだろう。ぽかんとした表情を一瞬見せた後、にまりといつもの憎たらしい表情を作った。

「おやおや、やっと私のクロッキーに収まる気になったのかい?」

減らず口を叩く水谷を無視して、その手首を持って美術室を出た。とたんに、おどおどと居場所のないような表情に変わる。

「放して…私は…」

何か言いかけた言葉も無視して、ぐんぐんと長い廊下を歩く。扉を開けると夏休み中だからか中は無人だった。一番奥のベッドに連れて行き、仕切りのカーテンを引く。

冷凍庫にあったアイスノンを取り出し、棚からタオルを巻いた。腫れた頬に押し当てると意図を理解した水谷が、僕の手からアイスノンを奪って、黒縁眼鏡を外し、

「あぁ。気持ちいい」

と瞼の上に当てた。泣いたのかもしれない…。そんな気がして、保健室にあった扇風機をベッドの近くに持ってくると起動させる。しばらく扇風機の羽の周る音だけがあたりに響いた。美術室の幽霊だから、美術室まで送り届けなくてはいけないような気がしていたけれど、よくよく考えれば、さっき水谷を見かけたのが校門近くだったということに気が付いた。そして、多分、三者面談で教室にもいたはずだ。美術室の幽霊は本物の呪縛霊ではなく、中身はただの人見知りが過ぎる人間なのだ。

「じゃあ。そろそろ僕は行くよ」

ベッドサイドにあった丸椅子に掛けていた腰を上げようとして、意外なほど強く腕を掴まれ、勢いでどさりと半身が水谷のいるベッドに投げ出される。

水谷が上から覗くように僕の顔を凝視した。水谷の長い髪が頬に当たる。

「……本当にきれいな顔」

アイスノンを握っていた手で顎をなぞる様に水谷の指が僕の顔の上を這う。指が顎までたどり着くと、唇に鼻筋、おでこと僕の顔を侵食する。くしゃりと、猫っ毛を掴まれ、僕は意識を取り戻した。パーンと弾くように水谷の手を払うと起き上がり背を向けた。去ろうとする背中に水谷の声が追いかける。

「ねぇ。なんで私が人のあちこちをスケッチブックに収めるか分かる?」

そんなもの知るわけない。知りたくもないのだ。と思いながらも、足が金縛りにあったように縫い付けられた。

「私ね、欲しいんだ。その手で抱きしめてほしい。その胸にうずくまりたい…そんな部品を集めているんだよ」



アパートに戻ると、何だか汚れた気がしてシャワーの水が温かくなるのも待てずにごしごしと顔を擦った。いつも買っているシャンプーの香りに荒立った心が平静を取り戻す。母さんの好きなシャンプーだ。

タオルでざっと拭くと、Tシャツと短パンに着替えてサンダルをつっかける。自転車を飛ばすと母さんのいる病院に向かった。

「母さん、ただいま」

手を握ると、痩せてスカスカになった患者着の中から古い血がこびりついたような模様が浮かび上がった母さんの腕が見えた。模様は肩や首にまで広がっている。消毒液の匂いに混じって皮膚の爛れた肉の匂いがする。嗅ぎなれた匂いに安心して、温い眠りが訪れる。

――ユキ。私の宝物のユキ

中学生に入っても母さんはそんなことをいって僕をことあるごとに抱きしめた。毎日会っているのに大げさだと思いながらも、僕はその腕を一度も払ったことがない。

――ユキ。どうか幸せでいてね

遠くで母さんの口癖が聞こえる。

――おはようユキ、幸せ?

――おやすみユキ、幸せな夢を見てね

目が覚めると、燃えるような夏の夕日がぐるぐると回転していて、僕はなぜか涙を流していた。夕ご飯を買ってこないと…と瞬きを繰り返し、焦点を合わせた。そして座っていた丸椅子を蹴とばすように走り出した。全身が真冬に裸で外に放り出されたようにガタガタ震えて上手く足が運べない。どうにかナースステーションまで辿り着くと、声帯を震わせた。

「母さんが、息をしていないんです」

医師と一緒に、ナースが母さんのベッドに立ち会い

「ご臨終です」

と告げると、近寄って抱きしめようとした僕をナースが止めた。

「処置が終わったら呼ぶからそれまで待合室で待っていて」

という。どれくらいの時間がたったのか、もうこの世に母さんがいないのか、事実か夢か混乱したまま肩を叩かれ連れていかれた霊安室で現実を理解した。

線香の匂いで充満した室内に、人の形をした置物がベッドに安置されている。顔に付いた布を払うと、ビニールで覆われていた。

「死後は色んな箇所から出血があるから、直に触れないでね」

とナースは手を合わせ部屋を出ていく。もうここに、母さんはいないんだ。シーツの上から抱きしめると空の容器は僕の抱きしめる力のままゆらゆらと揺れていた。涙は出ない。感情も現れない。僕の心も空っぽのままだ。



翌日、業者が来ると母さんだった容器は燃やされた。釜を閉めるとき、係員が鳴らすチリーンという音鈴に同行してくれたキララちゃんがマスカラの黒い涙を流した。横で、僕はじっと扉が閉じる瞬間を見ていた。

黒い喪服の団体がいる待合室で、居所なくベンチに座っていると一時間もかからないうちに係員からの案内があった。

並んだお骨はスカスカだった。

「ご病気を長く患っている方は、骨がほとんど残らないこともあるんですよ」

かき集めても骨壺に半分も積まれなかった白くなった母さんの容器は、抱きしめると温かくて生きている時を思い出した。

「本当に大丈夫?」

段ボールに白い布をかけたご霊前に骨壺を安置すると、キララちゃんが買ってくれた花を供えた。

「大丈夫。二日連続でつき合わせちゃってごめんね」

という僕にキララちゃんは涙をぐっとこらえた。キララちゃんがいなくなった一人の部屋がいつもより温かく感じるのは母さんがいるからだろうか。母さんが残したアルバムを探すと中学の入学式の写真を取り出して飾る。淡いグリーンのスーツを着た母さんが美しいまま収められている。容器を失った魂はどこに行くのだろう。



5日ぶりにチャットに現れるとヒロは半泣きの声で怒りを隠さない。

「どうして…」

「ごめん」

僕は謝り理由を告げなかった。僕の悲しみはきっとヒロの痛みになる。

「まぁいいや。こうして戻ってきてくれたのだし…」

ヒロの機嫌は元に戻った。家に籠りっぱなしなので何も話題がない。それでも通信を切りがたく、何度も同じ話をループする。その時アパートの外でガタンガタンと大きな音がした。

「そろそろ切るね」

「ねぇ明日も来る?」

「あぁ。もちろん」

僕らは約束し、通信を切った。

アパートの階段の下で、キララちゃんが潰れている。よくここまで辿り着けたものだと感心するほどの泥酔状態だ。

「キララちゃん?大丈夫?」

ずり上がったタイトスカートから下着が見えている。階段の一段目を枕にするようにキララちゃんは仰向けになっていた。仕方がない。とりあえずタイトスカートをズラして下着を隠すと、転がっていたバッグを取り出して、キララちゃんの部屋の鍵を開けた。

ご主人の帰りを待っていたコナが暗い部屋の奥から目を光らせて駆け寄ってくる。

「ごめんね。コナ、今帰ってくるからね」

キララちゃんを階段の三段目ぐらいに座らせると、背中を向けてしゃがみ、腕を取っておんぶをする。意識を失った人間は重い。階段を一歩一歩、確かめながら二階にたどり着くと、ドアを開き最後の力でベッドまで運んだ。所々ぶつけたような気もするが、あの体制で朝まで迎えるよりはよほど有難いだろう。コナがにゃおんと小さく鳴いた。

「コナ、お腹減ったよね、今用意するから…」

といいながら、流し台に行ってコップに水道水を汲むと一気に飲み干す。尋常じゃない汗を掻いていた。中三の男子とはいえ、普段運動をほとんどしない僕が成人女性を背負って二階まで登ったのだ。もしかしたら、明日は筋肉痛かもしれない。Tシャツで顔の汗を拭うと後ろでゆらりと動く気配がして振り返った。

「コナ?」

そこにいたのはキララちゃんだった。

「キララちゃん。起きれるんだったら…」

起きて自分で階段を登ってよという言葉は、キララちゃんの怪しい光の入った目に吸い込まれた。

「キララちゃん?」

「ユキ…」

ゆらゆらと左右にブレながらキララちゃんは僕のところまで歩いてくると、僕の頭の後ろを掴むように動きを制し、キララちゃんは僕の顔に顔を近づけた。何だろう?ふいに自由を奪われて、僕の頭に一瞬のクエッションマークが浮かぶと、ぬめりとした感触が口の中に広がった。

「やめて」

と首を逸らすと、頭を押さえていた手がTシャツの中に回る。片方の腕は僕の背中を押さえまた逃げられない。

「やめてっていってるのに」

と僕が拘束している腕を外そうとすると、いやいやをする子どものように僕の胸に頭を擦りつけ

「どうして?あたしが、ユキの家族になってあげるよ」

背中を這いまわっていた手はズボンの方に下げられる。

「いやだ」

力任せにキララちゃんの肩を掴んで後ろに倒した。ばぁあんっと大きな音がしてキララちゃんは床に倒れた。ギャオンといってコナが逃げ隠れる。

唇を擦って我に返ると、キララちゃんは流しの間に大の字になって倒れていた。

わけがわからなくなって、キララちゃんの部屋を飛び出すと、自分の部屋に戻る。何度もうがいをして顔を洗う。汗があとからあとからとめどなく流れていく。

「どうしよう」

通学に使っているリュックを逆さにして荷物を取り出すと、タンスから下着や着替えを詰め込んだ。財布とスマホの充電器。タオル。引き出しを引っ掻き回して、母さんが使っていた金属製のピルケースに、骨壺の中から入りそうな欠片を探してしまい、それもリュックにつっこむ。

打ち付けられるようにして倒れたキララちゃんの体はピクリとも動かなかった。

頭の中は混乱しているのに、一方で体は冷静に荷物をまとめている。鍵をかけて玄関を出る。幸い地下鉄はまだ動いている時間帯だった。行く当てもなく東京駅まで辿り着くと、アプリを立ち上げた。

「どうしたの?」

「助けてヒロ」

「わかった」

短いSOSで状況を理解したヒロは、その場所までの行き方を教えてくれた。

新橋駅で竹芝まで辿り着くと、すでにフェリーは最終出港していて閉まっている。辺りをうろうろして、できるだけ目立たない、警備員のこない場所を見つけて柱の隅に寄りかかるようにして体を休めた。




母さんが、変わっていったのは僕が中学に入学したころだった。昼の仕事と夜の仕事を掛け持ちして働いている母さんが僕に会うのは通学の一瞬だったり、夜の出勤前のわずかな間だけだった。

「お帰りなさい。ユキ」

抱きしめる母さんの体が春先なのにやけに火照っている。いつもは薄く香るだけの香水が立ち上る様に濃く香る。母さんはとても器用で豪奢なドレスのための派手なメイクやゴージャスな髪型も自分でセットしてからママチャリで出勤するのだ。たっぷりの抱擁のあと、ばっちり決まったメイクとヘアなのに普段着を着ているちぐはぐさが母さんぽくって僕は好きだった。

「学校で友達はできた?」

「うん」

僕は優しい嘘をつく。本当は学校でやたらと浮いている。

「それはよかった。夕ご飯、今日はカレーなの」

母さんの作るカレーはナスのひき肉カレーだ。ケチャップやソースで甘辛くしてある僕の大好物だ。

「じゃあ、母さんも食べていくでしょ?」

カレーは母さんの好物でもあった。いつも食べ盛りの僕と同じくらい食べる。

「私は先食べちゃったからいいわ。時間がないからもう行くね」

母さんがヘアメイクを自分でするのは、節約もあるけれど、少しでも僕と一緒にいたいからと言っていた。流しには調理に使われたまな板や包丁があるだけで、カレー皿はなかった。




翌朝、うとうとしながら夜を明かし、乗り場が開かれる時間に合わせてチケット売り場に行くと運よく朝一のフェリーのチケットが買えた。出港時間を待っていると、同じフェリーに乗る客が集まってくる。待合いのソファーでは若いカップルが無計画な旅行を考えていたらしく予約で満席となったフェリーに乗れないことで口論をしていた。八丈島までのフェリーは一日に一往復しかなく、ほとんどの人がネットで事前予約している。乗船すれば10時間の船路となる。2等椅子席に座り、リクライニングを倒すと昨晩の疲れからか引き込まれるように眠りに落ちる。



珍しく、日中の仕事を休んだ母さんは、さっきまで寝ていたらしく布団が敷きっぱなしだった。

「ユキ、ごめんね。なんだかしつこい風邪みたいで」

と、慌てて化粧をする母さんの髪を巻く。

「夜も休めばいいのに」

母さんは、いつもよりも濃い目にチークを入れながらケホケホと咳をしている。

「そんなに甘えたら悪いもの。でもユキには甘えちゃうわ」

「大丈夫、料理ぐらいできるよ」

僕は精一杯の笑顔を作って母さんを見送った。母さんも同じような張り付けた笑顔で夜の闇に融けていく。

流しに立つと、冷蔵庫の残り物で野菜炒めや味噌汁を作る。キャベツの芯を捨てようと台所のゴミ箱を開けると大量の薬の殻が捨ててあった。



目が覚めてやけに足がしびれると思ったら、フェリーの中だった。客席は薄暗く時間がわからない。スマホを開けると昼過ぎだ。一日ぶりに館内でシャワーを浴びると、昨日の夜から何も口にしていないことに気付いた。倒れては元も子もない。レストランでラーメンセットを頼む。食欲などないと思っていたが、体は正直だ。目の前の湯気と、匂いを浴びせると腹が低く鳴って空腹を訴えた。結局ラーメンの汁一滴も残さずに平らげると、レストランから見えるデッキでは親子連れがはしゃぎ、カップルが仲睦まじく肩を寄せている。居場所がなくて席に戻る。さっきまでいなかった隣席に、無精ひげを生やした男が目を閉じている。起こさないように、スマホの画面を反対側に向けて開ける。

―ユキ大丈夫?

というメッセージが来ていた。

―うん。八丈島行きのフェリーに乗っている

―船酔いはしていない?

―何も、今もレストランでご飯を食べてきたぐらい元気だよ

アプリを閉じると、寝ていたと思っていた男がこちらを見ていた。

「島崎陽介っていうんだ」

と、差し出された手を、偽名を使おうか悩んでいたが、

「幸村ユキです」

と逆に怪しまれると思って素直に答えた。島崎さんは日本の各地を巡っているらしい旅人だ。

「やけにキレイな顔をしているって思ったんだよ。二等椅子席なんて貧乏旅行者か外国人観光客くらいしか使わないからさ」

「そうなんですか」

旅人の特徴なのだろうか、当たり障りがない会話で相手を懐柔する術を持っている。

「幸村君の目的地は?」

「えっと、青が島です。友達に会いに行くんです」

「本当?僕も実は青が島なんだよ。あんな離島に知り合いがいるなんてすごいな」

「あんな?」

「知らなかったのか?青ヶ島は伊豆諸島の中でも、というか全国でも人口の少ない島なんだ。行くのも大変で、こうして八丈島までフェリーで行ってそのあと、貨物船フェリーに乗り換えていくんだけど、断崖絶壁でね。波も荒くて、船が島に上陸する可能性は半々ってとこなんだ」

「そうなんですか、八丈島まで着けばあとは何とかなるものだと…」

「それなら、羽田からヘリで行った方がよかったかもね。僕も今回初めて挑戦するんだけど無謀な旅と思っているよ」


すっかり夜になると、フェリーはようやく八丈島に着いた。

「幸村君宿は?」

「いや…」

口ごもると、旅人は事情を察したのか

「良かったら、僕の予約してある宿に聞いてみようか。雑魚寝の民泊だけれど…」

という言葉に甘える。一人ぐらいならと受け入れてもらえたので、近くのスーパーで買い物をする。夕食の寿司や味噌汁、総菜、朝ごはんのためのパンを買い込み宿に向かう。

船場近くの民泊では、八丈島観光の旅人が集まっていた。みなリュック一つで日本各地、世界各地を回る根無し草が多く、同類の島崎さんは話が合うようで、酒をもらうと輪に入っていった。僕は一人、キッチンの隅で買ってきたパック寿司を食べと味噌汁を啜ると、外に出た。

―青ヶ島に行くのがそんなに大変なんて聞いてないけど

―聞かれてないからね

とヒロは笑った。目の前に満天の星空が広がる。

―もう近くにいるんだね

ヒロも見ているのだろうか。同じ空を。



母さんは冬支度だといって、夜の仕事を辞めてしまった。まだ秋の初めなのにタートルネックのケーブル編みのセーターを着こんだ母さんは、ひと回りも、ふた回りも小さくなっていく。分厚いジーンズで隠している足も折れそうなほど細い。

「ねぇ体が辛いんなら仕事を休めば」

というのを

「大丈夫よ。病院に行っているんだし」

と笑って誤魔化した。一日に茶碗一杯ほど飲む薬はもう一緒に住んでいる僕には隠しきれないと思ったのか、あっけらかんとしている。

「今日はもう学校行かない」

という僕を、

「ユキが学校行くの辛いんなら無理して行かなくてもいいよ」

と無理している母さんに言わせることはできなかった。朝ごはんのトーストを残さず食べていつも通りに登校する。

「いってらっしゃい」

それが、家で見た最後の母さんの笑顔だった。

帰ってくると、家の中は真っ暗だった。暗闇にいつもならまだ帰っていないのかと思うぐらいだが、止めようもない不安が襲ってきて玄関の照明のスイッチを震えながら探した。

「母さん!」

母さんは床に倒れていた。いつからそうしていたのか…倒れた半身は色が変わって冷たい。急いで救急車を呼ぼうとして、いつも母さんが触っていた引き出しから病院名の付いた薬袋を取り出して電話した。この辺りで大きな大学病院だ。

「そちらで診察してもらっている幸村ミワが自宅で倒れて意識がなくて、救急車呼ぼうと思うんですが」

「幸村ミワさんですね。わかりました。こちらから救急車要請をしますのでそのままお待ちください。住所は東京都…」

枕や布団を持ってきて横向けで倒れていたのを仰向けにして枕を差し込むと、ズレたタートルネックの首元から赤いインクのようなものが見えた。腕を捲ると同じような模様が浮かんでいる。



救急外来につくとすでに事情を知っているのか、母さんは処置室に運ばれた。周りが慌ただしく動き回る中で、何も聞けずに呆然と立っていた僕を、担当ナースがここで待っていてねと、温かいコーヒーと待合室に案内した。今朝が最後の会話になるのだろうか。やはり出掛けなければ良かった。あの斑点はなに。一体母さんは何の病気なのか。思考は忙しく、答えは出ない。待っている間が永遠のように思えた。

「幸村ユキ君よね?」

担当ナースが肩を叩いて、僕はようやく思考の迷路から抜け出せた。

「はい」

「お母さんの状態は安定したわ。きっと明日は目を覚ますだろうから、また明日来てね。お母さんが、ユキ君に状態を話すときは一緒にいたいっていっていたから、今はまだお母さんの体の状態について何も話せないの」

「わかりました」

長い夜を一人で過ごした。夜を一人で過ごすことは慣れていたのに、初めて夜の留守番を任された小学生の時よりも怖くて、煌々と電気をつけ見もしないテレビを付けて暗闇と静寂から自分を守った。

朝になり、いてもたってもいられず病院の前まで行き、面会時間が始まると受付に走った。意外なことに母さんは大部屋にいた。

「ユキ、おはよう。きのうはびっくりさせ…」

患者着を纏った母さんをぐっと抱きしめた。僕の厚みの半分もなくなってしまった母さんは、ポンポンと背中を叩いた。にこにこと笑っていた母さんはもうタートルネックで体を隠してはいなかった。



「何でも包み隠さず教えてあげてください」

というと、車椅子の上の母さんは隣に座った僕の手をしっかりと握った。

「お母さんのご病気ですが…ユキ君は中学二年生だから聞いたことがあるかな?エイズという病気だ。エイズは基本的に血液感染や性的接触などでうつるウイルスで、本来ならば抑制する薬などで感染していても発症するリスクが低く抑えられるはずだった…でも、お母さんは何年も放置してきてしまって、エイズの発症となってしまったんだ…つまり、お母さんはもう治らないということだ。状態としては末期といっていいだろう。これから全身の細胞が癌に侵されて、脳にまで到達して意識を失い、命を失うことになる。お母さんの命はもういつ消えてもおかしくない状態だよ」

言葉は簡単で、僕にも理解が出来た。あの皮膚に現れた斑点には事態の深刻さを思わさせる不気味さがあった。手を握っている母さんに恐怖を伝えたくはなかった。一番恐ろしい目に遭っているのは母さんなのだから。

「何かわからなかったことや、質問はあるかな?」

「いいえ」

病室に戻る前に二人で話したいと、そのまま相談室にのこると母さんは僕の目を真っすぐ見て

「母さん、こんなんなっちゃったけど、出来るだけ生きるからね。一日でも長く息をしてユキのこと見守るからね」

お前は一人じゃないよ。ずっと一緒だよ

そんなことを伝えて春が来て、母さんはもうほとんど意識を保つことがなくなった。



フェリーは港を大きく廻船し、見事に着岸する。

「まるで導かれているみたいだ」

島崎さんはいった。甲板から見下ろすと大人たちに混じって一人線の細い子どもがいた。

「ユキ!」

目が見えないほどに伸びた前髪、肩口で斬バラに切った髪型。Tシャツや短パンから出た腕や足は褐色に焼けていて、肉付きが薄い。僕の肩に手を回しぐるぐるとその場を回るヒロは、ネットの中よりも随分子どもに思えた。

「驚いたな。本当にこんなに離島に友達がいるんだ」

僕の後ろから現れた島崎さんに、ヒロは驚き慌てて僕を盾にして隠れた。

「ヒロ、こちらは島崎さんだよ。フェリーで一緒になってここまで色々とお世話になったんだ」

「そっそれは、ユキがお世話になりました」

しどろもどろに頭を下げると、ユキは僕の手を引いてずんずんと歩いていく。軽トラの前で待っていた男の人にヒロが声をかける。

「おぉ、ヒロ。その子がユキくんか?」

「うん。そうだよ」

「こんにちは」

僕が頭を下げると、男の人は浅黒い顔からにかっと白い歯を見せる。

「やっぱり都会の子はキレイな顔をしているな。ユキくんは夏休みこっちにいるんだろう?」

「えっ。はい。帰る日は決めてません」

「よかったら、うちにも来るといい。俺は近藤っていうんだ」

「わかったよ。コンちゃんちにもユキと遊びに行くから」

コンちゃんの運転する車で集落まで送ってもらう。集落の中心地で降ろしてもらうと、コンちゃんはすぐに折り返し港に戻った。

さっきは、ヒロが人見知りなのかと思ったが、そうではないらしい。

「おーヒロ!ヒロもこっちで遊ぼうよ」

と公園から小さな子どもに声を掛けられ

「あなたが、ユキくんね。ヒロが自慢していたのよ。都会にきれいな顔をした友達ができたんだって」

通りがかりのお姉さんにも話しかけられる。僕の手を掴んだまま集落を進むヒロは通りすがりに色々な人に声を掛けられる。しかも、みんなヒロから僕のことをいつも聞かされているような口ぶり。どうやら、僕が半年以上抱いてきたヒロの印象は全く違うようだ。

「遠いところよく来たね」

畑で農作業をしていたお婆さんにヒロが話しかけると、

「僕のおばぁちゃんだよ。二人でこの家に暮らしているんだ」

と畑の後ろの平屋を指した。

「しばらく、お世話になります」

と頭を下げると、おばぁちゃんは僕の手を取り手のひらと手のひらの中で温めるように包み込んだ。

「ゆっくりしていきなさい」

不思議なことにおばぁちゃんが包んだ手だけがじんじんと熱を持った。ヒロが先に家の中に入ってしまうので勝手に入らざるを得なくなり、

「おじゃまします」

と一応声を掛けて土間にサンダルを並べ上がる。

「ユキの荷物は、僕の部屋に置いたよ。そこに座ってて」

という、座敷は昔の映画に出てくるそのままだ。ちゃぶ台の前に用意されていた座布団に座ると、あまり他人の家をきょろきょろ見るのも良くないと思いながらも見回してしまう。茶箪笥に木の引き出し。仏壇。麦茶を注いだお盆に、漆の菓子入れ。

「そんなに珍しいものがあるかな?お菓子っておばぁちゃんしか食べないから何かユキが食べたいものじゃないかもしれないけど」

「ありがとう。実際に会ってみたらヒロが全然印象と違ってびっくりしたよ」

「そうかな?僕の印象って?」

「なんとなく人見知りっていうか、自分の事を語りたがらなくって静かな子だろうなって思ってた」

「ユキは思っていたユキのままだったよ」

ふいにヒロが僕に近づいて、前髪を上げた。僕の顔を観察するように見つめる。

額に当たっているヒロの手は夏なのに乾いていて熱がない。不思議だ。ヒロはずっと昔から飼っている犬みたいだ。


夜はおばぁちゃんが作ってくれた天ぷらとそうめんだった。

「おばぁちゃんの作ったトウモロコシのかき揚げは絶品なんだ」

と嬉々として語るヒロは一番小さく揚がった天かすのようなかき揚げをちょびちょびと食べ、そうめんを何本か啜ると、お腹いっぱいだといって食事を終えて部屋に籠ってしまう。

「好きなだけ食べたらいい」

食事の途中で席を立ってしまったことも、何でもないこととおばぁちゃんが気にしていない風に、薄く衣のかかったキスの天ぷらを齧る。シャリシャリという心地いい歯音を聞きながら、僕は箸を持ち直し紫の花のように広がった茄子の天ぷらを取って口に運ぶ。瑞々しい取れたてのナスは、ごま油で揚げた薄い衣と一緒に口の中に夏を運んできた。

「おいしいです」

出汁から丁寧に取ってあるそうめんの汁が少しだけしょっぱくなる。

最後に僕のために作ってくれた料理を食べたのは、いつだっただろう。誰かが一緒にご飯を食べてくれたのはいつぶりだっただろう。

ぼたぼたと落ちる涙をおばぁちゃんは当たり前のように受け入れてくれた。

「今夜はきっとよく眠れるよ」

おばぁちゃんは茶箪笥から手拭いを取り出して僕に寄与越すと、そのままズルズルと小気味の良い音を立てて素麺を啜った。



6畳ほどのヒロの部屋に並んだ布団に横になると、ヒロは僕の方を見つめるような体勢で寝ころんだ。僕はカーテンも引いていない窓から聞こえる虫の音と眩しいくらいの月明りを眺めている。しばらくすると、すうすうという寝息が虫の合唱に混じった。

大きな犬みたいだ。こちらを向いたまま丸くなったヒロの髪の毛を撫でてみる。いつの間にか眠っていた。久しぶりに夢がない深い深い眠りだった。



「折角遊びに来てくれたっていうのに、いいのかい?」

「むしろ、自分から参加したいっていうんだよ」

「見たことないんで、お墓参りって一度やってみたかったんです」

「墓参りしたことないのか?さすが都会っ子だな」

コンちゃんの運転する軽トラックにはエアコンがついていなくて全開の窓から、生温かい夏の風が車内を行き来する。おばぁちゃんに借りたというヒロの麦わら帽子がパタパタ揺れる。

「まずはここだな」

墓帰り。住民の数よりも墓の数が多いという青ヶ島で年に一度行われる墓の草刈りだ。もう誰なのか、いつなくなったのかわからない魂の拠り所が島のあちこちに点在している。ブイーンブイーンと草刈り機をコンちゃんが操り、墓の近くを僕らが草刈り鎌で除草していく。背の高くなった夏の草を刈ると、直方体の石が出てくる。誰のものなのか、名前がもう風化して読めない。一基出てくるたびに手を合わせる。ここにある誰かの白い石。自分の短パンのポケットに忍ばせた母さんだった白い石の入ったケースの角をなぞる。器を失った母さんはここにいるのだろうか?

もうないだろうと、立ち上がって腰を叩くと木の下に何か吸い寄せられるように意識が飛ぶ。背の高い雑草を大股で踏みつけるようにその木に向かうと、ザクザクと草を刈り取る。初めに出てきたのは小さな雪だるまのような石だった。そのまま刈ると隣からその三倍ほどの大きさの地蔵が出てきた。

「親子だろうな」

隣にコンちゃんがやってきて膝を折り手を合わせた。こんなに小さな子どもを抱えた親子が命を失った理由は何だろう。胸がざわざわする。

「さぁ、刈った草を集めて、次に行こう」

と立ち上がり、振り返ると、ヒロがまだ墓の近くで何やら懸命に手を動かしている。

「お…」

そろそろ、ここは終わりにしようとコンちゃんが声を掛けようとして大きな声で笑っている。何だろう。僕も近づくと、ヒロは麦わら帽子のつばに黄色コスモスの花冠で飾り付けていた。

「かわいくない?」

というので、

「あぁ。かわいいね」

と麦わら帽子を手から取り、ヒロの小さな頭に被せた。ヒロは満足そうに笑う。



そのあといくつかの墓場を周り、軽トラの荷物台に山盛りの雑草を積み上げて、集会場に行く。すでに作業を終えた住民たちが、火を焚きだしている。魚の焼ける匂い、大きな寸胴で煮え立つ豚汁、ザルに一杯の青々とした枝豆、いろんな人が握った色んな大きさのお握り。

「今から、仏様の法要があるんだが、一緒に行くかい?」

小さくごちそうを並べたお盆を持ってコンちゃんが声を掛ける。

「行ってみたいです」

と僕が答えると、

「ユキが行くなら僕も行くよ」

とまだ黄色コスモスの輪っかがついた麦わら帽子を被った、何とも場違いなユキが付いてきた。

寺に唯一あるという清受寺には、八丈島からの坊さんが経を唱えるためにやってきていた。狭いお堂に敷き詰められた座布団には喪服姿の年寄りがすでに集まって話をしている。中にはヒロのおばぁちゃんもいた。

「この島の墓守たちだよ。若いもんはみんな島を出てってしまうからな、もう年寄りしか残っていない」

コンちゃんが耳打ちしてから、座布団の間を抜け祭壇にお供えを奉る。

鐘が鳴らされると、お経が始まる。

僕はポケットで中の母さんを手の中に包んだ。

母さんは、直火葬だったのでお経は聞かせられなかった。この唱に何の意味が込められているのだろうかわからない。

僕は目を瞑り、祈った。

壊れかけた容器に閉じ込められていた母さんは僕にはいつも笑いかけてくれた。でもきっと体中が悲鳴を上げて、母さんの魂を縛り上げていたのだろう。

意識のはっきりしていた間に母さんが「苦しい」とか「痛い」とかを僕に訴えることはなかった。僕に向けられる言葉はいつも優しくて温かかった。「ありがとう」「あなたがいてくれて幸せよ」「大好きよ」「お腹減っていない?」閉じた瞼の裏に、涙が溜まる。この島に来てからすっかり枯れたと思った涙が、自分の意志では止められないほど溢れてくる。

容器がなくなった今の母さんの魂が安らかであるように。僕は祈った。

寺を出ると、空は赤く染まっていた。ぼんやりと夕日が沈む様を眺めていると、突然の強風が吹いた。

「あっ」

隣で小さな声が響き、ヒロの麦わら帽子が天高く飛ばされた。黄色の花びらがハラハラと舞い降りる。まるで夕日の中に混じった光のように。金色の光の雨が僕を包んだ。

――大丈夫よ。ユキ。母さんはいまとても幸せだから。心配しないでね



集会場に戻ると、もうすでに宴が始まっていた。大人たちは手に手に酒を交わし大声で笑い合う。子どもたちは花火を持って歓声を上げている。

「ちょっと、待ってて」

と、ヒロが輪の中に入っていく。あちこちの大人や子どもから声を掛けられて立ち止まるヒロを目で追いながら、集会場のある場所から一段高い場所でしゃがんだ。

「ユキ。私は先に戻っているから、ヒロと夕飯を済ましてくれるかね」

と通りがかりのヒロのおばぁさんが言う。なぜだか、おばぁさんにあの金色の雨のことを聞いてみたくなってやめた。あの時に起きたことはもう僕の中に届いている気がした。ヒロがたくさんのビニール袋を手に下げて戻ってきた。おにぎりに豚汁、焼きそば、焼き鳥、焼きトウモロコシ、スイカにラムネ。こんなにたくさん食べられるのかと思う量をどさりと僕に預けて、自分はスイカを手に取った。これを全部食べなよ。ということなのだろう。ヒロはカブトムシのように音もなくスイカを食べ始めた。温くなった豚汁と誰かが握った歪なお握りを食べ始める。

いつの間にか日は沈み、集会場の中央でマイクを持った男が歌い始めると、住民たちは誰ともいわず円を作り、踊りが始まった。

今日は食べ終わるまで側にいるようだ。焼きそばに焼き鳥を食べ終えて喉を詰まらせた僕にヒロはラムネのビー玉を落として渡した。飲み方がわからずに、瓶の口にビー玉をつっかえてしまう僕がまどろっこしかったのか

「こうだよ」

と僕が瓶を口にしたままヒロが瓶の方向転換をしたので、口の中に溢れたラムネを処理しきれずに僕は吹き出した。

「わぁ」

「ごめん」

僕が吹き出したラムネで顔を濡らしたヒロが一瞬ビックリした顔をしてそのあとすぐに笑い出した。僕も可笑しくなって声を上げて笑う。



「台風が近づいています。各自準備をしておいてください」

島内放送で呼びかけられる。昨日まで青かった空が黒く汚れていた。

「何か手伝いますか?」

熟れたトマトやPマンを慌てて収穫して、きゅうりの支柱を増やすおばぁちゃんに聞くと

「じゃあ、子守りでも頼めるかね」

と庭先で呑気にi padを操作しているヒロを指さした。

「おーい。ユキ、コンちゃんがサウナ行こうって」

「あぁ、じゃあ貯蔵庫のサツマイモ持っていきな」

と代わりにおばぁさんが答えた。台風なのに大丈夫だろうかと考えているのはよそ者だからか、台風の通過ルートになっている青ヶ島の住人たちは冷静だった。



コンちゃんの家は小さな工場のついた住居で、今は一人で住んでいるらしい。

「おーきたか。ちょうど良かった。鶏舎から卵を出して、ついでに板止めしといてくれ」

工場の窓にブルーシートを貼りながらコンちゃんはいった。

「こんなことだと思ったよ」

ヒロは僕の手を取り、コンちゃんの家の裏に回ると、鶏小屋に連れて行く。

「僕は道具を持ってくるから、ユキ、卵拾っておいて」

と鶏小屋の前に置き去りにして小屋に行ってしまう。茶色の羽毛を持った鶏の目は瞬きをすると裏にぐるんと回って恐ろしい。

「何をやっているの?」

鶏小屋についた鍵を外そうとして、ビクビクしている僕に訝し気にヒロは尋ねた。

「こっ怖くて」

バサバサと羽をはばたかせ、心なしか鶏の目が血走っているように見えた。

「はははは…」

腰を折るぐらいヒロは大笑いをしたあと、苦し気に呼吸を整え

「大丈夫。鶏を取って食うことはあっても、鶏に取って食われることはないよ」

と、すんなりと鍵を開けて中をあさった。藁の中からいくつか卵を見つけると、僕の手に置いた。鶏たちは僕の怪しげな行動に怒ったのか、ヒロの物騒な発言に怒ったのか侵入するヒロの手を鋭い口ばしで突き、爪を広げてキックをして猛抗議していた。

ヒロはそんな攻撃を意に介さず、ブルーシートで鶏小屋を囲みロープでぐるぐると固定した。

「あと、小屋も補強しておこう」

と側にある納屋に行くと、中には子牛がいた。こちらもブルーシートで囲うと板を何枚か打ち付けて補強する。

結局作業を終えると、昼近くになってしまう。竹籠に切った野菜やウインナー、魚の干物に卵を入れるとコンちゃんの軽トラはやっと走り出した。グロロロと怪しいエンジン音を響かせながら車は山道を登る。

釜戸のようなものの前に立つと、ヒロはふたを開け持ってきた竹籠を中に入れてしまう。青ヶ島の地熱を利用した調理法だ。

「僕が見てるから二人ともごゆっくり」

と、ヒロはサウナに付いてこなかった。



更衣室で衣類を脱ぐと、腰にタオルを巻いて僕とコンちゃんはサウナ室に入る。

初めてサウナに入ったけれど、テレビやインターネットのように「熱いっ」という感じがなかった。

「このサウナも地熱を使っているからな、初めてのサウナにはちょうどいいだろう?」

「なんだか、温まるって感じですね」

「あぁ。ところで、ユキはなんでヒロが付いてこなかったのかって思っているんじゃないのか?」

ここの土地の人は人の心を読む力でもあるんじゃないかと思った。それすら、見透かしたようにニマリとコンちゃんは笑った。

「性同一性障害って知っているか?」

「はい。心と体の性別が違うってやつですよね」

そこまで答えてはっとした。ヒロが一緒に来なかった理由。

「その顔だと、知らなかったようだな…。まぁ、ヒロが何か言わない限りユキもその辺りにはそっとしておいてやればいいよ」

閉じられた逃げ場のない島暮らしで、住人たちが仲良くやっていくには近づきすぎないというのが大切なのかもしれない。同時に離れすぎないということも。すべてをありのままに受け入れることが自然に身に付いているのだ。

「ひょっとして、ヒロは拒食症ですか?」

僕の質問に、コンちゃんは深く考え込むように壁を見つめた。温度計は45度を指している。

「例えば、ユキはすごくきれいな顔をしているだろう。でも、世の中にはそうじゃない人もいる。それと同じで人はみんな自分の欲しいような自分じゃない部分を抱えて生きているんじゃないか。でも、自分の代わりは誰も出来ないから嫌な自分を受け入れていくしかないんだ。ヒロは多分まだ戦っているんだ。なりたくない自分になっていく自分と」

男になっていく体を、受け入れたくなくて食べられなくなった。

今度は僕が壁を睨むことになった。でも、どうしてあげたらいいんだろう。何とかできるのか。

「おっと、そろそろ上がった方がいい。上せたんじゃないか。水風呂に入ってもう出るとしよう」

促されるまま、シャワーを浴びて外に出る。

地熱調理で、すっかり蒸しあがった食材と、待ち飽きたヒロがむくれていた。

「ちょっと、遅すぎない?」

といいながら、ちびちびとサツマイモを齧り、その横で僕とコンちゃんは卵やソーセージを次々と平らげていった。コンちゃんはヒロが食べられないことに何も言わない。

「今度の台風は大きそうだ。しばらく引きこもるしかないかな」

などと、ときどきどんよりした雲を見上げてため息をつく。

「コンちゃんは何の仕事をしているんですか?」

と聞くと

「漁業と、釣れた魚を干物にして売っている。あとは青が島牛を育てたり」

「青が島牛?」

「ユキもこの島で黒い牛が放牧されているのを見ただろう?あれは青が島牛っていってこの島で生まれた肉牛だ。幼牛の間は島で育てて東京に卸すんだ。産業がない青ヶ島では色んなことを少しづつやって稼ぎにしている島民が多い。まぁ自然相手の仕事も多いから自分では何ともならんしな」

薄暗い空からポツリポツリと雨が降り出した。自然には逆らえない。あるがままを受け入れるしかない。

残った卵と、ホッケの干物、ソーセージをヒロは地熱窯の屋根の下で横になっている地域猫に撒く。穏やかな顔で痩せた猫の背中を撫でる。

そうであるものをそのまま受け入れる。ヒロの様子を見守るコンちゃんの目も穏やかだ。



台風の夜は何だか不安に駆られる。かたかたと風で揺れる雨戸と、養成テープの貼られた窓に写る不気味な影。寝つきの良いヒロは、スースーと規則正しい寝息を立てながら深い眠りに入っている。



「あぁ、ユキ君。お母さん今日からお部屋変わったのよ」

と、エレベーターから歩き出した僕に担当ナースは声を掛けた。

リネン室や用具入れ、資料室などの患者や見舞客の立ち入らないゾーンにその部屋はある。3つのベッドが置かれている。一番窓際に母さんのベッドはあった。

「お邪魔します」と声を掛けて部屋に入っていても返答はない。

ベッドにはそれぞれカーテンで目隠しがされていて中の人がどういう状態なのかはわからない。昏々と眠り続けている母さんの顔は穏やかでいつもよりも顔色がいい気がする。窓のカーテンを開けると柔らかな春の光が差し込んだ。

グガーッゴグガーッゴという地響きのような音で目が覚めた。カーテンの向こうはすっかり日が暮れている。何だろう。胸の中がざわざわして僕は母さんのベッドに忍び込んだ。

ビーーーン

警笛のような機械音が鳴ると、地響きは収まった。しばらくすると、病室の扉が開く音がして

「七時28分ご臨終です」

と無感情な医者の声が聞こえる。やがてガタゴトとストレッチャーが運ばれていく音や、シーツや寝具を取り換える衣擦れの音が続いた後、病室に静寂が戻る。誰も僕の存在には気付かなかったようだ。そして僕はそのまま母さんの隣で小さく丸まった。この部屋の意味を知って、僕はもうここを離れたくなかった。生霊のように静かに息を殺していると本当に僕も生きているのかわからなくなる。巡回の警備員が去ったのを確認してポケットにしまっていたスマホを取り出す。

生存確認と検索を掛けると、いくつかの見守りアプリのあとにziguzagu Signalというアプリが出てきた。生きるのがむずかしいと思ったときにここでSOSを出しましょう。あなたの波動にあった誰かとつながることができます。

アプリをダウンロードして開くと、ザーザーという無線の音をBGMにリサーチがかかる。

―そこにいますか?

向こうから呼びかけがある。

―ここにいます

僕は応えた。

―こんばんは、僕はヒロ



ぐっしょりと、背中にシミが出来るほどの汗をかいて目が覚めた。スマホを開くと夜中の2時だった。汗の染みたシャツを取りかえて、そっと寝床を出る。

座敷に近づくと、嗅いだことのない香りが漂う。ろうそくの火だろうか、影が不規則に揺らめいている。

「起きたのかい?気にせず入っておいで」

中からおばぁさんの声が聞こえる。ちゃぶ台に置かれたいくつかのローソクだけの明かりの座敷はほとんど形しか負えないほど暗い。

「足元に気を付けるんだよ」

といいながら、自分は昼間の時と変わらぬ動きで流しに行きお茶を淹れる。僕は進めた足で探りながらどうにか座布団を探り座る。

「暗闇は怖いかね」

僕は首を振る。暗闇はむしろ僕の近しい存在だ。

「きれいですね」

青、白、ピンク、黄色の石で押さえた広げられた布の上に、小さな石を紡いだブレスレットが置かれている。おばぁさんは石と一緒に敷いていた布にくるんでテーブルを空け、ハーブティと、クッキーの乗ったお盆を乗せた。

「パワーストーンだよ。浄化の作業をしていてね」

立ち上がると、座敷の照明と繋がっている紐を引く。人工的な光が一気に目の中に入って眩しさに目を覆う。

「おばぁさんは、祈祷師なんですか」

明るさに慣れた目を開くと、おばぁちゃんはニマリと笑った。

「祈祷師なんて大げさなもんじゃないけれど、ヒーリングをしているよ。迷っている人が居たら呪いで進むべき道や未来を視たり、こうして癒しの力を分けている」

青ヶ島には時々巫女のような霊能力をつけた人間が生まれるらしい。

「手のひらを出してごらん」

チリーン

鉄の棒をおばぁさんが鳴らすと、ざわざわした感情が静かに闇に還る。おばぁちゃんが翳した手はなんだかポカポカしてきた。僕の驚きの表情を見て

「嵐は人の心も波立たせるものさ、手製のカモミールティと、ラベンダークッキーだ。どちらも快眠効果のあるハーブだから、これを食べてまた横になればよく眠れるよ。朝まではまだ長い」

「ありがとうございます」



心配された台風は青ヶ島への軌道を大きくずらし、青ヶ島に8月の暑さといつもの日常が戻る。

「おはようございます」

朝から家を訪ねてきたのは、イラストレーターで東京から移住したというシズさんだ。

居間でおばぁちゃんはシズさんの受注し東京から届けられた特製のオラクルカードと、サインカードを検品する。それから僕らは荷物がつまったリュックと重箱が入った風呂敷をシズさんの乗ってきた軽自動車に乗せた。そして荷運びを一切手伝わなかったヒロが一番先に乗り込み、先陣を切って

「レッツゴー」

と指をさす。

池之沢につくと、原生林を草分けひたすら歩く。巨大なシダの群生がまるで物語の世界ようだ。霧がかる森を抜け、大杉は突如現れた。

苔むした木の表面に、大人が三人いないと手が回らないほどの太さがある。

近くにシートを広げると、僕とシズさん、おばぁちゃんの三人のリュックに分けて持ち込んだカードや、お清めの塩、パワーストーンを並べおばぁちゃんが大杉からのパワーを込める。

江戸時代に島を襲ったという大きな噴火を免れ生き続けたという大杉には近くにいるだけでどこかエネルギーが満ちていくような不思議な感覚が纏う。僕はそっとポケットに手を差し入れて金属製のピルケースを撫でた。

今でこそ雨水を利用していた浄水施設が整っている青ヶ島だが、それまでは湧き水などを主な水源として頼ってきた。大橋水源もその一つだ。

ツタが生い茂った山肌にロープが一本垂れ下がっている。

おばぁちゃんはロープを握り、急斜面を登り始める。両脇には大きなシダ植物、響く虫の音。苔むした岩と濡れた落ち葉でこれ以上ないほどに足元は不安定だ。

パラパラと頭上から小石が降ってくる。ロープは一人づつしか渡れない。二本目のロープの先端まで辿り着き階段状になっているスペースで少し休憩をとる。少しだけ顔がほてっている。先はまだ長そうだ。意外なことに女性二人の体力が思春期男子よりも格上だった。おばぁちゃんは、するすると腕や足のバランスを取ってロープを登り、シズさんは待ち時間の間には、素材にするのかあちこちにカメラを向けてシャッターをきっている。最後にロープを登ってきたヒロの手を取って段差に持ち上げると、疲労の溜まった手が細かく震えている。

「辛いなら、ここで待っていたら?」

と聞くと

「いや、行く」

と強くヒロは意思を示した。急斜面を登り切り、現れた岩壁面にはちろちろと水が流れ出している。おばぁさんは、リュックからパワーストーンを取り出すと、湧き水で洗う。

「恋が奥。昔はこの水源が男女の出会いの場だったんだって」

だから、あのパワーストーンはピンク色なのかと納得しているとヒロは嵌めていた軍手を外し、僕の右手の軍手も外した。そして手を繋ぎ細い水流の下に持っていく。

「冷たっ」

僕が小さく漏らすと、隣のヒロは固く目を閉じている。



地熱窯の東屋で休憩する。おばあさんの手製の肉まんを地熱調理している間に、我慢しきれずに重箱のお弁当に群がる。

アジフライ、おにぎり、オクラの和え物、卵焼き…ぎっしり詰め込まれていた重箱が、空になったころ蒸しあがった肉まんを頬張る。皮の甘さと、肉汁がたっぷり詰められた熱々の肉まんは、お重の中身を食べつくした満杯状態の胃の容量をぐぐっと広げた。

ヒロは相変わらず、食事の最中にスルリといなくなってて、きょろきょろと見回せば、また釜の上で昼寝をしている猫にかまっていた。特に何かを考えていたわけではない。自然な発想だった。僕はツカツカとヒロのいる場所まで歩くと、

「おばぁちゃんの肉まんおいしいよ」

といって、一口千切って与えた。ヒロは反射的に口を開け飲み込んだあと驚いたような顔をした。

「そんなにビックリするほど美味かったか?」

僕は東屋に戻ってまだホカホカした肉まんを食べようとすると、後ろから追いかけてきたヒロが

「僕も食べる」

といったので、食べかけた肉まんを分けた。もうそれほど熱くもない肉まんを僕の隣でふぅふぅしながら、満面の笑みでヒロは食べた。

最終目的地は大凸部だ。車移動中、体力のないヒロは午前中の散策ですっかり疲れてしまったようで、僕の肩に頭を預けながら寝息を立てる。

「パワースポット巡りにヒロはいつも参加しないんですか?」

と聞くと

「幼稚園の遠足で大杉には行くけど、ヒロは小学校5年生頃から青ヶ島にきたから、初めてじゃないのかしら。今日はヒロの珍しいところばかり見れて楽しいわ」

助手席でおばぁちゃんが答える。車で大凸部の山道の入り口まで来るとヒロを車中に残し、三人で頂上を目指す。

「足は大丈夫?」

「はい」

本当はガタガタだ。でも、ここまで来たのなら最後まで付き合いたいという意地が足を動かす。登山と行っても、こちらは石造りの山道が整備されている。苔むした石段をひたすら登ればやがてトンネルの出口のように空が開けた。二重カルデラの美しい島の形状が眼下に広がる。上陸率が悪いといわれる要塞のような岸壁が島を守っている。かなたまで広がる水平線の青。こんなに美しい場所に今僕はいる。

吸い込まれるように景色に見惚れていた僕に

「青ヶ島には還住という言葉がある。江戸時代、噴火によって一度住民はこの島から出て行かざるを得なくなった。どんなに地が荒れていても住民はこの島をあきらめることはできなくて戻ってきたときの喜びと、この島に住める有難みがこの言葉を作ったのだと思うわ」

島に住む人は、島を愛する人。僕にもいつか還りたいと思う場所が出来るのだろうか。




変化は突然やってきた。

「篤弘!」

居間での梱包作業を手伝っていると、挨拶もせずに住居に入ってきた女の人に、ヒロは青白い顔をして自室に駆け込んだ。僕はわけがわからず呆然とし、おばぁちゃんは、小さなため息をついて梱包途中だった荷物を片付け始める。

「どなたでしょうか?」

そのまま居間に僕らがいることなど目もくれずヒロの部屋に向かった女の人を視線で追いながら聞く。

「ヒロの母親だよ」

奥で、ドンドンと襖を叩く音や開かない襖に無理やり力を加えるギシッギシッという音が響く。

「僕はどうしたらいいでしょうか?」

時折ヒステリックに「篤弘っ開けなさい!」と怒鳴る声が聞こえる。

「どうもしなくていい。ここは私の家で、ユキも私が招いた客なのだから」

それに…と耳打ちをしたので、庭からヒロの部屋を見てみると、窓が全開になっていてもぬけの殻、襖は木の棒でつっかえてあった。放っておけばいい…とおばぁちゃんはいったが、かなりの力と声量で訴えるお母さんが、不憫に思えてヒロの出て行った窓から、部屋の中に入り、つっかえ棒を外していった。

「ヒロはいません」

お母さんの顔は青ざめ、またドタドタと家中を歩き回る。

「お母さん、篤弘はどこ?」

「篤弘と呼ぶのはおやめ、あの子はヒロだよ」

こんな親子喧嘩の場に他人が介入していいのかと、席を外そうとしたら

「ユキが出ていくことはないよ。ヒロを探したいのなら自分で探しに行けばいいだろう」

とおばぁちゃんは引き留めた。このセリフのどこに地雷があったのか、お母さんはドタドタと廊下を抜けて、ヒロの部屋に籠城してしまう。

小さなため息をついて、おばぁちゃんは台所に立った。

「作業の続きをしましょうか?」

と聞くと、

「いや、こんな気持ちで扱うものじゃないからね。ユキも驚いたろう。何かしてないといられないのなら、今から差し入れを作るから手伝っておくれ」

家庭菜園といっているおばぁちゃんの庭には、家庭というよりはもはや畑というくらいにたくさんの種類の野菜とハーブが植えられている。

「茄子と、大葉、人参にネギ、じゃがいもも一つ、あと枝豆も頃合いだ」

ポツポツとおばぁちゃんが話し始めたのは、ヒロが来た頃のことだ。生まれたことくらいしか知らされず、どんな子なのか、どんな顔なのかも見たことのないヒロから電話があったときには、どんなにも追い詰められた状態なのかということがすぐにわかった。



「そんな悲しまなくてもいいんだよ。親子でも別々の魂をもった人間だってことはありうる。反発し合うような魂は離れた方が賢明だ」



いてもたっても居られず、おばぁちゃんはヒロのいる東京に駆け付けた。何年もそれこそ、10年以上会っていない娘が果たして初めて会う孫と合わせてくれるのだろうかと不安で訪れたが、意外なほどあっさりとヒロとの面会は叶った。

――勝手にしたらいい。霊感だか何だか知らないけれどそんなもので人が治るなら医者なんていらないわ

ヒロの実家は医院を経営していて、優秀な看護師だった娘を見初められ嫁いだ。久しぶりに見た娘は、勝気で聡明なあのころと変わらない。まるでそれを崩してしまったら倒れてしまうというように頑なにそのままだった。

部屋の隅で石のように固まった子どもを見つけた。ヒロだった。何日も食事をしていないという体は極限に乾いて、唇がひび割れていた。何があって何でこんなに小さな子どもが怯えて息を潜めて存在を消そうとしているのだろう。


「人間の魂は心に宿る。たとえどんなに若く立派な器を持っていても魂が朽ちてなくなってしまえば終わってしまう」


やせ細ったヒロは島に連れて来てもしばらくは口もきけず笑いもしない。村の人たちはそんなヒロをただ受け入れた。

ゆっくりとした時間と、たくさんの人の温もりがヒロの心を溶かしていく。



茄子のはさみ揚げや枝豆お握り、肉じゃがやキャロットロペが詰められた小さな竹籠の弁当箱にを3つ持つとコンちゃんの家に向かう。干物を台から剥がしていたコンちゃんは、

「ヒロなら茶の間で、泣き疲れて寝てる。ヒロのお母さんが来たんだろう?うちに来ることはないから安心するといい」

と答えた。

カラカラに乾いた鯵の干物は、真空パックをする機械の中で空気を失い、生きていた頃の面影すらないミイラみたいだ。

「青ヶ島で生まれた子供は中学校を卒業すると、内地に行くことになる。俺とヒロのお母さんは同じ年だったんだ。中学では俺が生徒会長をして、お母さんは副会長をしていた。ヒロのお母さんは頭がすごくよくてね。でも少し言い方がきついところがあってそれが少し嫌煙されていた。高校は同じ寮付の進学校に行ったんだ。お母さんは島での暮らしが窮屈に感じていたみたいだったから、高校では楽しそうにしていたよ。でも、逆に俺は島での生活が性に合っていて都会での生活が合わなかったんだ。一学期と持たずに辞めて島に戻ってしまった。夏休みにお母さんは島に帰ってきて、今思えばそういう情けない俺を何とかしてくれようとしたんだと思うけれど、学校を辞めたことをなじられて俺は心を壊してしまったんだ。それ以来、お母さんはこの島に帰って来れなくなってしまった。東京で医者と結婚したっていうお母さんの子どもが、この島に来たってときはまたあのときみたいに心を壊してしまうんじゃないかって思ってヒロを避けていたんだけど、ヒロがああいうやつで、俺はヒロの理解者になれるんじゃないかって足しげくかよったもんだよ」

コンちゃんは、ラベルをした商品を冷凍庫にしまう。

「ヒロのお母さんのこと…まだ怖いですか?」

冷凍庫の蓋を閉じ一息つきながらコンちゃんは応える。

「いや…、あれはきっかけだっただけで、あのときの俺の心はすでに限界だったんだと思うよ。結局、認められなかったのは自分自身だ。この小さな島でしか生きられないっていう器の自分を認めたくなかった。でも、今は違う。俺はただ最初からここで生き、この島と共に在るべき者だっただけなんだって認めているからな」

コンちゃんの家は作業場の上の部分が、居住スペースになっている。畳の茶の間に、座布団を枕にしたヒロは、物音に気付かないほどに熟睡していた。

黒い髪を撫でながら、なぜか僕の心が安らいでいく。もし僕が犬を飼ったらこんな気持ちになるんだろうか。しばらくたつとヒロがゆっくりと目を開けた。

「ユキ…」

起き上がったヒロはポロポロと涙を溢した。僕はヒロの薄い体を抱きしめて背中を叩いた。薄っぺらでテッシュのように濡れたら溶けてしまいそうな背中だ。ヒロの悲しみは僕に沁みる。

持ち込んだ弁当を食べて、僕らはまたコンちゃんの茶の間で横になった。

朝になると、すでにコンちゃんは仕事に出たらしい。ヒロは腫れた瞼の顔をドライアイスで冷やしながら鶏や牛の世話をしている。

「おはよう。ヒロ」

すっかり寝過ごした寝ぐせの付いたままの頭を掻く。

「ユキ、昨日はごめん」

腫れた顔を見られたくないのか、ヒロは子牛の方を見ながら謝る。

「ヒロ僕は一旦おばぁちゃんのとこに戻るね」

というと、明らかにヒロは動揺した。

「大丈夫。ヒロはここにいればいいよ。僕は荷物を持ってくるだけだから」

不安そうにコンちゃんの家からヒロがいつまでも僕を見送った。僕は時折振り返り、ヒロに手を振る。



おばぁちゃんの家に着くと、ヒロのお母さんは縁側で足を伸ばして空を仰いでいる。

「おはようございます…」

何も言わずに通り過ぎることもできずに声を掛けると、お母さんはぼんやりとした表情から引き戻されたように

「篤…ヒロは?」

と僕に訪ねる。

「元気そうでしたよ」

と簡潔に答えた。

「そう…なら、よかったわ」

と、視線をあちこちに動かした。何かもっと、詰め寄られるのかと身構えていたのでこちらも拍子抜けしてしまう。

「ただいま」

と玄関で挨拶をすると、おばぁちゃんが

「おかえり」

と、返事をする。居間に入ると台所でいつものようにおばぁちゃんは、料理を作っている。

「汗搔いただろう。まだ用意に時間がかかるからシャワーを浴びてくるといい」

おばぁちゃんは、包丁のリズムを保ったままいった。

シャワーを浴びて着替えを取りにヒロの部屋に入ると、お母さんの荷物の横にパンパンになった紙袋が置いてある。中身はたくさんの付箋が付けられた高校の入学案内のパンフレットだった。

居間には三人いるのに、響いているのは皿をスプーンで擦るカチャカチャという音や、きゅうりの漬物を齧るポリポリという音だけ。干物を細かくほぐしたものに、ネギと卵が入ったチャーハンはお気に入りの料理だ。

「ごちそうさまでした」

「おそまつさま」

お母さんと、おばぁちゃんは感謝と返事をした。口も利かないという仲ではないらしい。とはいえ、一緒に居たいというわけでもないらしく、お母さんはまたフイっと居間から出て行ってしまう。一緒に食器を洗っていると、おばぁちゃんが、

「今日もコンちゃんの家に泊まっていくんだろう?悪いけどヒロの着替えを持って行ってやってくれるかい?」

というので、

「ヒロは、大丈夫そうですから、今日はこちらに泊まりましょうか?」

と聞くと、おばぁちゃんは、ふふっと笑う。

「大丈夫さ。大人同士だからね。ヒロはまだ不安定だから側にいてくれたら助かる」

夕食代わりのお弁当も持って行ってというので、その間冷えたスイカを切って縁側に行く。そこには朝と変わらない状態でぼんやりとしているお母さんがいた。

「食べますか?」

お盆の上に冷えた麦茶と、スイカを乗せて運んできたのは、実は期待していたからだ。二人分乗ったお盆をちらりと眺めたお母さんは、ふぅっとため息をついて

「いただくわ」

といった。話さなければと思っていたが、いざとなると何を?と考え込んでしまう。

シャリシャリ、サクサクというスイカを削る音だけが響く。お母さんは、きっと街中をうろうろすることが出来ないのだ。それほど気が重いのにこの島に戻ってきた理由など一つしかない。あの読み込まれた高校のパンフレットに込もった思いを僕は知りたかった。きっとそれは、ヒロのためじゃない。最後のスイカの種をペッと庭に吐くと、麦茶を飲み干してお母さんは呟いた。

「明日、帰るわ」

その声は乾ききっていて、ヒロの肌みたいだった。確かにこの人とヒロには同じ流れの血が通っている。

「いいんですか?」

僕の声は少しひっくり返っていた。立ち入ったことを、誰かの気持ちに変化を与えるようなことを口にする緊張が喉を震わせた。

「いいのよ。もともと一目でも会えたなら…と思ってきたのだもの。あの子が生きていて、元気に暮らしていることを確かめられたのだから、もう十分だわ」

無感情だけれども、どこかに血の通った声で応えた。

夕方、お弁当を持ってコンちゃんの家に向かう時もまだ僕は迷っていた。コンちゃんの家につくと、ヒロは作業場で獲れた魚を捌いていた。

鯵はまるまると太っていて、切り込みから鮮やかな血が流れている。内臓をとって空っぽにすると、塩漬けのためのバケツに沈められていく。

「ねぇ…」

「お帰り、ユキ」

「ただいま」

うれしそうに細められたその目を見たらもう何も言えなくなってしまった。

おばぁちゃんの作ったお弁当の夕食を少しつつくと、眠いといってヒロは茶の間で座布団を枕に眠ってしまった。

満天の星空が東京よりも明るく感じてしまうのは気のせいでもあるだろう。

この島の暗闇は明るい。曇りがない。空は広くてどこまでも続いていた。僕が飽きることもなく星空を眺めているとコンちゃんが隣に座っていた。

「ユキ、何かいいたいことがあったんじゃないか」

コンちゃんも夜空を眺めたまま、見透かしたようにいう。

「ヒロのお母さん、明日戻るそうだよ」

「そうか」

僕らは長いこと夜空を眺めていた。


翌朝、朝から鶏の世話と子牛の世話や、昨日漬けていた干物を乾かす作業をせわしく命じられてこなしているとコンちゃんは愛車のエンジンをかけて僕らを詰め込んだ。

「どこに行くの?」

最後まで乗車を拒否していたヒロは怯えている。

「いいから、黙って乗っていればいい」

そういった車は、港やヘリポートに向かうことなく見覚えのある山道を登っていく。

「ほら、降りて行くぞ」

山道の入り口で停車したその場所は

「なんで朝からこんなとこ登るんだよ」

大凸部の入り口だ。着の身着のまま家から飛び出したヒロの足元は、クロックスだった。苔むした岩の山道を滑って半泣きのヒロの腕を引いて、慣れた様子で登っていくコンちゃんの背中を追い掛ける。やがて頂上が現れる。澄んだ青い空が広がる。

展望場につくと、コンちゃんがどこかに電話をし始める。

―もしもし?

スピーカーから聞こえる女の人の声に隣でしゃがみ込んで息を整えていたヒロがヒィっと小さく悲鳴を上げて、静まりかけていた呼吸が荒くなる。

「久しぶりだな…近藤だよ。わかるか?」

―っ!

今度はスピーカーの向こうから女の人が息を呑む音が聞こえた。

「そんなに驚くなよ。悪いな勝手に電話番号を聞いたりして」

コンちゃんの顔は笑っている。張り付けた顔じゃない。心から楽しそうだ。

―近藤君、私…

「うん」

―あのときは本当にごめんなさい

「あぁ」

謝らせないという選択はなかったというように、コンちゃんは清々しい表情で謝罪を受け入れた。謝らせないというのは酷だ。悪かったというわだかまりがいつまでも残るのだから。

―わっ私は、近藤君に立ち直ってほしかった。でも、それが余計なことだなんて考えもしなかったの…本当に自分勝手な願いを押し付けたわ。

「あぁ。もう、いいよ。俺はとっくに許しているから…もうあの時のことを気に病むな。ここにはヒロもいるんだ」

コンちゃんはスマホを持っていない手でヒロの小さな頭をポンポンと撫でた。

―……

青い空の遠くに小さな影が近づいた。

―……ヒロ。あなたにも心からあやまるわ。本当にごめんなさい

パタパタというヘリコプターの音が大きくなる。

「ぼっ僕は、まだ許せない!」

糾弾する声は、島に響くほど大きかった。握り締めたヒロの拳が大きく震えている。

―……

「だって、僕は…僕は、お母さんの思い通りになんかなれなくても…」

ヒロの目から大きな涙が零れて、ヒロの瞳には強い火が灯った。

「僕は僕のままでいたいんだ!」

僕の存在を否定するな。僕の生き方を捻じ曲げるな。

轟音がスピーカーを占拠する。ヘリがヘリポートに着陸した。

―わかってる。ヒロの生きたいように生きて!

轟音に負けないくらいの叫びが届く。

「僕はまだ許せない」

その声は届いただろうか。やがて通話は切られヘリコプターは島を出る。

わぁぁぁ。ヒロの大きな叫びが、空の影がなくなってもいつまでも残っていた。



「月見祭り?」

「うん」

夏の暑さは続いても夏休みが終わろうとしている。ヒロはここのところよく食べる。ほっそりしていた顎が丸くなってきている。

「村役場でやるんだ。ユキも行くでしょ?」

「うん。そうだね」

見ないようにしていたカレンダーの日付が9月に近づいていた。

月見祭りは、大々的に島を上げてやる予定だったが、また大きな台風が近づいて結局流れてしまった。販売予定だった食べ物は大量に余ってしまい、廃棄するのが勿体ないと、村役場で格安で売りに出され、台風の備蓄用の食料だと、おばぁちゃんは焼きそばやらフランクフルトなどの屋台料理を大量に買ってきた。テーブル一杯に並べられた料理に、家の中でも割りばしを使って気分を上げる。

「お祭り行きたかった」

といいながら、ヒロは口元に青のりを付けている。閉じられた雨戸がガタガタと鳴る。結局、パックのまま手を付けられない屋台料理をおばぁちゃんと片付けていると、満腹になったヒロは、畳の上で寝てしまっていた。おばぁちゃんは、ヒロにタオルケットを掛けながら唐突に聞く。

「何か、言いたいことがあったんだろう?」

隠そうとしても、見透かされている。

「はい。言えなくて…」

寝ているヒロの頭の下に枕代わりの折った座布団を挟み込む。

「帰る決意が出来たんだね」

答えなくても、おばぁちゃんは代わりに言葉を言ってくれる。

「はい」

現実に向かい合わなければいけない。雲隠れは終わりだ。



嵐は島の周辺の海を空をごちゃごちゃに混ぜて、船は結局5日も欠航が続いた。お祭りのために備蓄された食べ物は、少しづつ消費されなくなったころ、ようやく波が落ち着く。あの嵐の日からずっと、ヒロは口数が少ない。きっとあの時の会話を聞いていたのだろう。満月が見られなかった空に掛けた月が浮かぶ。

「なぁ。夜釣りに行くか」

コンちゃんは、僕たちの間に漂う不穏な空気を察してか声を掛けてくれた。

同じように糸を垂らしているのに、コンちゃんの釣り針には魔法のように魚が食いつき、僕らの竿は全く動かないのはなぜだろう。

そんなことは本当はもうどうでもいいのかもしれない。夕日が赤く燃え尽きる前にヒロは竿を投げ出してしまう。少し離れたところで膝を抱えて黙っている。

伝えなければいけない。僕も竿を置くとヒロに近づいた。

「ねぇ。ヒロ。話があるんだ」

ヒロはじっと沈む太陽を睨んでこちらをみない。

「ねぇ」

「嫌だ」

ヒロは耳を押さえ、膝に頭を付けた。

「ヒロ…聞いてよ」

「嫌だいやだ…だったら…僕の話を先に聞いてよ」

首を振っていたヒロがこちらを睨んだ。ヒロの目に夕日が映っている。ドキリとした。

「僕は、ユキが好きなんだ。友達としてじゃないよ。僕はユキに恋をしている!」

ヒロは聞こえなかったなんて言い訳を許さないほどはっきりと断言した。

「ねぇ、ユキ。僕のことをどう思ってる?僕たちが大人になったら僕はユキに抱かれたい…」

ほとんど叫びながらヒロは一気に僕を捲し立てた。

僕は…僕は…

僕は走り出した。堤防を越えて海に飛び出す。海は静かに凪いでいる。海が僕を抱きしめる。僕の肺にあった酸素が溶けていく。少しづつ海と同化して沈む。

僕は穢れているんだ。僕の中に流れる血は大事な君を汚してしまう。そんなことになったら僕はもう…。君を傷つけるような僕ならもう…。

波が僕を纏って静かに底に引き込む…。

そのとき、力強く肩が持ち上げられた。

「暴れないで!」

ヒロだった。堤防に引き上げられると、二人とも肩で息をする。

「…はぁ…はぁ…なんで?」

「…はぁ…はぁ…僕はもうずっと前から消えたい気分だったのに…はぁ…どうしてヒロは僕を助けようとするの?」

「…はぁ…はぁ…好きだからだよ」

海水でベタベタになった僕を、ヒロは包み込んだ。僕は抱かれるがまま泣いていた。



釣りに行くと言っていたのに、びちゃびちゃになって帰ってきた僕らをわかっていたようにおばぁちゃんは、バスタオルを持って出迎えてくれた。

シャワーを浴びて温まると、ヒロの部屋に二人で並んで横になった。ヘビが脱皮した直後みたいに体が重たくでも何か新しいものに包まれていた。

「ねぇ、ヒロ」

ヒロも眠たいようだ。返事が遅い。

「…ん?」

「来年は僕ら高校生だろ?」

「ん…」

「僕も一生懸命勉強するから…来年は一緒に東京で高校に通おうよ」

「それって…」

言葉の続きを言うかわりに、ヒロは僕を抱きしめた。大きな犬が駆け寄るみたいに。


深夜、目が覚めた。いつか嗅いだお香の匂いがする。

「ユキ、目が覚めたかね」

おばぁちゃんは、居間でパワーストーンのブレスレットを作っていた手を止めた。いつもしまってある引き出しに道具を入れると、代わりにカードを何セットか取り出した。

「旅立ちの祝いに、視てあげよう。何か知りたいことはあるかね?」

虹色のカードを蛇のようにテーブルの上で混ぜながら聞く。僕が知りたいこと?

「それって、僕の知らないことでもわかりますか?」

「うーん。どうだろうか?私が見るのは運命だから。動いている命なのだよ」

先回りしておばあちゃんが答えた。

「じゃあ…」

間接的にでもわかること…。

「僕の生まれた意味を教えてください」

「あぁ。いいだろう」

おばあちゃんがシャッフルしたカードのセットを並べ僕が引くことを繰り返し、目の前にカードが選ばれていく。

「これでわかるよ。さぁ、開いてみよう。まずはユキの生まれたその時からだ」

カードを開くと、マジシャン、ライオン、太陽、慈愛が現れる。おばぁちゃんは、机の上に手を組むとカードを一瞥したあと、僕を見て問う。

「ユキは、魂が容器を選ぶときにどんなことを考えているかわかるかい?」

「魂は、容器を選んでくるんですか?」

「あぁ。魂はその器に強く惹かれ導かれるようにして収まる。この世界で生まれ旅をし魂を磨きより良い存在となれるように。ユキの魂は、明るく力強い愛の元に生まれたようだ。その誕生を心から待ち望み、喜びがここに溢れている」

強く母さんを思い出した。ポケットの中の白い石になってしまった母さん。常に僕に愛を降り注いでくれた。

「次にユキがどのように生きてきたのかその歩みを見てみよう」

逆位置のソード、月、闇の使い、溺れた人魚。提示されたカードにおばぁさんは眉を顰める。

「ユキは、人生がなぜ楽しいだけでできていないのか、悲しみや怒り、苛立ちや寂しさ人間の感情は陽よりも陰の部分が多いのか考えてみたことはあるかね」

「巡り合わせではないのでしょうか。あるいは、思惑、運。幸せに絶対数が決められているとしたら、一人に与えられる幸せの量は限られている。人が幸せになりたいと思うことは当然なのですから、反対に零れてしまう人間の方が多いでしょう」

「あぁ。そうだね。確かに生きていて平和で幸せだと思う瞬間は稀だ。病気になってしまうことや、他人からの思いがけない中傷にあって、予期せぬ戦いを求められ、心を歪めてしまうこともあるだろう」

現れた4枚のカードを最初のカードの下に隠すようにおばぁちゃんは、配置する。

「辛いことが多いというのは反対に、困難に打ち勝つような心の強さや広さも持ち合わせているという意味でもあると私は思っている」

苦しみに耐え、悲しみに打ち勝つ心などいらないから、弱いままの自分でもいいから。僕は温かな日の下で穏やかに昼寝をするような猫のような存在でありたかった。

「魂は傷がついたときにこそ、その真の姿を見せるものだ。次の運命を見てみよう」

ラッパを吹く天使、動物たちに囲まれる女神、双子と二羽のフクロウ、森の動物たちに囲まれて眠るペガサス。カードをめくる度、おばあちゃんの目が大きく見開かれていく、全て開き終わると小さく拍手をした。

「高次元の存在というのはわかるかね。守護霊といわれているものだ」

「はい」

「ユキの傷ついた魂は、懸命に守られている。ユキの傷が深ければ深いほど、強く激しくその意思を保とうとする守護なる存在にね」

天使と、女神のカードが最初のカードの横に置かれる。

「そしてツインレイ」

双子のカードの角を慈しむようにおばぁちゃんは撫でた。

「ツインレイ?」

「あぁ。魂の片割れのことさ。魂は元々二つで一つの存在だといわれている。半分の不安定な状態でこの世界に顕現したがために、傷つきやすく弱い。未熟で間違いを犯す。

だが、魂は完全なる状態では生まれてこれない」

「なぜですか?」

「魂は旅をして傷つき、休み、強くなりそこから気付きを得てより高位の存在になるために生まれ変わるからだ。だから魂は完全な状態を嫌う。でも、普通は天と地を行き来しているこの魂の片割れが、同時に地上に降りることがある」

「ツインレイが、共にいればもう傷つくことも、迷うこともないということですか?」

「いや、魂の本質が常に高位の存在を目指すのだから、生きることに苦しみや痛みから逃げることはできないよ」

「じゃあ、ツインレイとして出会う意味は?」

「癒しだよ。例えば初めて会ったのにどこかに懐かしさを覚えたり、その人と一緒にいるとなぜか落ち着くような人間と出会えたらその人は自分の魂の片割れツインレイという可能性が高い」

ツインレイ…。魂の片割れ。傷が癒される。傷を塞ぐことで強くなる。言葉としての認識は難しく、理解は追いつかない。でも、体のどこかがその体験を知っていた。

「では、最後にこれからのユキを見て行こう。ユキの魂はどこに向かうのか」

方位磁石、外に当て放たれた窓、逆位置の老人、そして大きなイエスの文字。

「今まで知らなかった世界に向けて運命は巡り始める。向かおうとする意志は正しいと強く後押しされているな。そして、悩みは杞憂に終わるとも出ている」

開いたカードをこちらに向けておいたまま、おばぁちゃんは茶箪笥から小さな包みを出した。布にくるまれた中身は、黄色と緑のパワーストーンのブレスレットだった。

「水と癒しの女神アフローディーテの力を込めたブレスレットだよ。持っていくいい。

魂の旅も、癒しも、見えないものだ。別に信じなくてもかまわない。ただ、何かの困難に立ち向かわなければならないとき、ただの現実だと、たった一人だと、意味なんてないと受け入れるのはあまりに厳しい時、与えられた試練なのだと受け止められれば、憎むことや妬み、孤独感に苛まれることもなくなるかもしれない」

手のひらに置かれたパワーストーンは、ほんのり温かい。



八丈島までのヘリは9人乗りなので、席を取ることは難しい。チケットに空きがあって、運行可能なのは旅立ちの時だとのお告げ、まさに運命だったといえる。帰らなければいけない。僕のやり残したことに蹴りを付ける必要がある。

「そんなに慌てて帰らなくても」

見送りに来てくれたヒロは不満げだ。おばぁちゃんもコンちゃんも揃って

「いつでも戻っておいで」

と僕の背中を押す。

「帰ったら、連絡するから。また春にこの島に来ます」

ヒロが僕と同じ東京の高校に進学したいといったときには、まだ受かってもいないのにケーキを取り寄せようとするコンちゃんを宥めた。口に出してしまったからには後には引けない。

ヘリで青ヶ島から八丈島まではたった20分、八丈島空港でお土産のクッキーを買って八丈島から東京まで約1時間。電車に揺られアパートに着くと、相変わらずのボロだった。



一か月も放置した部屋は、酸っぱいような埃っぽいような匂いが立ち篭めていた。窓を全開に開け、腐った食べ物や、枯れた花をまとめると、ポケットのなかの白い石をツボに戻し、クッキーを備えて手を合わせた。

一か月放置されたらどうなるのだろう。

腐った肉塊と猫の毛皮がふと目の前をよぎり、慌てて首を振ってチャイムを鳴らす。

「はーい」

と間延びした返事で、キャミソールに短パン顔だけは以上に濃いメイクでキララちゃんはドアを開けた。

「ユキ?久しぶりじゃん。何度かノックしたんだけど出なくてさ。心配したよ。戻ってこないかと思ってた」

「友達のところに遊びに行っていたんだ。はい、お土産」

「わーい。クッキー」

と、跳ねた足元から、にゃーんと間延びした鳴き声でコナがすり寄った。

「元気にしてたか?」

持ち上げて喉を擦るとゴロゴロと甘えた声を出す。

「最後に会った日さ。私記憶がなくって。起きたら寝ゲロしてコナがゲロを踏んで部屋中を走り回ってたみたいで部屋ん中トンデモナイ状態になっているし、何があったのか聞きたくても、ユキはどこかにいっちゃうし…本当にどうしようかって思ってた」

「何も連絡しなくてごめんね」

「何かユキ、変わったね」

最後のキララちゃんの台詞にうなずくように僕はコナを部屋の中に入れた。魂はどこに行くのだろう。この旅はどこまで続くのだろう。



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