神様の入れ間違い~button/ziguzaguSignal

ねりを

第1話 button


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下の支えを上に崇め 地を這い武を持ち 下に下に称えよ

是近の家に生まれた者は必ず武道を身に仕え慕う人々を神のように拝み武の力で支えなければならない。

是近音羽はそんな昔話のような訓戒を頭の中のBGMにしながら閉じていた目を開いた。

遠く、観客席の中に同じ顔をした妹の彩羽がいる。全国大会への参加は道場の中でも学年で一人づつと決められている。同じ道場に通っている双子なのだから勿論男女であってもどちらかしか参加ができない。もう一つ手習いに行っている剣道場では、先に市の大会が開かれこちらは彩羽が選手として選ばれすでに県大会への出場が決まっていた。

彩羽とは男女の差があれど、まだ成長期を迎えておらず背格好や体格までそっくりでまさに双子だ。

音羽は彩羽のことを色んな意味で鏡越しの自分だと思っている。

鏡に対して張り合うこともないし、けなし合うことも馴れ合うこともない。ただ自分が他人から見てどんな姿なのか、認識するための鏡だ。

ブザーが鳴り音羽の演目が始まる。

「はい」

声変わりしていない澄んだ返事から始まった演舞は水のように切れ目がない。柔らかい足首と軽やかな足裏に浮いているような錯覚すらある足運び。繰り出す掌底は風のようだ。道着の衣擦れだけが音羽の動きが辛うじて現実のことだと知らせるほど演技は完璧なものだった。蹴り出した足に炎を纏ったような残影。空なる敵を華麗な舞でひらりと躱す。連続の突きが矢のように打ち込まれる。無数の攻撃を受け止める肘は逆さに生えた鍾乳洞のように鋭く幻想的。最後の雷のような一撃に舞台にいた見えない敵はちりぢりに空へ還った。



襖を隔てて両隣にある音羽と彩羽の部屋には、時より大広間から大人たちの笑い声が響くだけで静まり返る。

襖を開けて布団を並べて敷くと二人の生まれてこの方鋏を入れたことのない黒い髪が、夜の闇に紛れて交差する。

「明日だね」

音羽は、ベッドライトの代わりに点けっぱなしにしている電気スタンドが付いている学習机の上にある今日手に入れた金色の杯に視点を合わせて呟いた。

「うん」

彩羽の視点は天井の何かに見える正体不明の模様を捉えながら脳内で今日の音羽の演舞を再生していた。鋭いが決して興奮などの朱が混ざらない澄んだ蒼の音羽の目。この世界に二酸化炭素なんて吐きださないだろうという植物のような深い深い静かな呼吸。自分には決して真似できない美しいだけの舞。

「ねぇ…」

音羽の声にならなかった思いを彩羽は聞き取った。

「うん」

「どうしてだろう」

音羽は自分の顔の近くにあった、長く漆黒の髪の束を掬い上げて光に翳した。その髪は傷みがなく絹糸のような繊細で真っすぐだ。髪を大切に育ててきた音羽の思いを彩羽は聞き取った。そして彩羽は布団の中で、竹刀を握り締めて固くなった手のひらを自分の爪で強く押した。あぁ…どうして僕たちは…。それから何代も受け継がれているという桜の木で染められた淡い小袖の着物が掛かっている壁を睨んだ。桜の花びらがちらりと舞うように、その言葉は口の中から舞い落ちた…現実に。

「変ろうか」

いいの…?っという声の変わりに音羽は髪を握り締めながら蚕の繭ように丸くなった。糸のようなか細い泣き声が布団の隙間から漏れる。


彩羽が長い髪を結いあげたところに挿したちらちらと光に反射する銀細工のついた簪は現在の本家の祖父からもらった誕生祝いだ。

先に袴姿になった音羽は、パタパタと同じく祖父からもらった扇子で首の後ろに風を送っている。

「音羽、こっちに来て。結い直してあげるよ。おくれ毛が出てるし、頭の上に浮き毛も」

と、鏡台の前で小さな唇に色付きリップを塗っていた彩羽が手招きをした。

「いいよ。別に、今日でお別れの髪なんて丁寧に結わなくても」

「まぁまぁ、そんなこといわないで。最後なんだから」

と、鏡台の前に座らせる。音羽が乱暴にまとめたゴムを丁寧に外すと、百貨店で買ってもらって以来、何年も油を染み込ませた和櫛で髪を梳かす。彩羽の髪と少し手触りの違う音羽の髪。

木の櫛が尻の下位にまである髪を滑る心地よさを感じながら音羽は目を閉じた。成人になるまで是近家の男子は、女子のような身なりで育てる。そんな古いしきたりに、双子で生まれた音羽もずっと髪を伸ばし続けた。お陰で同じく髪を切ったことのない彩羽と見分けがつかない。だが似ているのは見た目だけで、中身は真逆だと思う。音羽にとってこの長い髪の毛はただただうっとおしいだけの存在で、彩羽にとってその長い髪の毛は美しく誇りである象徴。

彩羽と母親が百貨店に行くと山のように購入するヘアケア用品を黙って山分けして運ぶのが音羽の役割だった。

「家にもうドライヤー何個あると…」

などと余計な口を挟んだら最後、永遠と聞かされるヘアケア講義にうんざりするだけ。

「ほらね、このドライヤーを使うとこんなに早く乾くんだから」

と、自分の長い髪を乾かした後、さらに飽きもせず音羽の髪の毛まで乾かしてくれるのだけは有難い。剣道のしごきを受けて、長い髪を洗うことがうっとおしく、剣道の頭巾と面の中で蒸れた匂う髪のまま布団に潜り込もうとする音羽を風呂場に連れ出し、シャンプーしてきたのはいつも彩羽だ。毎日愛玩動物の如く手入れされてきた彩羽の髪ではなく、音羽の髪がここまで無事に育ってきたのはそのお陰だとしかいえない。彩羽が音羽の髪を名残惜しむのもこうした思いからなのだろう。目を開けると、艶で光を放っているかのように整えられた音羽の髪は、後ろで一つにくくられて、和紙と糸で包まれている。

「音羽、彩羽、準備はできた?広間はもう整っているのだけど」

という母親の声にふたりは

「今行く」

と答えた。


金屏風の前に、盃の入った御膳が一つ。そして屏風を挟むように並んだ座布団には是近の親類がずらりと並ぶ。

音羽の座布団に近い列の先頭に、淡いピンクの子振袖を着た彩羽が座る。現在の是近家当主、音羽と彩羽の祖父が屏風の前のもう一つの席に座っている。盆正月に訪れる是近家親類縁者の面々は、代替わりの度に少しずつ人数を減らしていっているとはいえ、まだこの大広間に隙間なく座布団を敷くぐらいの人数がいる。

ごくりと音羽の喉がつばを飲み込む。目の端に彩羽の姿を捉える。彩羽は、背中をピンと立て小袖から出た白い手を重ねて淡い桜の着物をまとった膝の上に組んでいる。深い息。ふせた瞼。揺らめかない真っすぐさ。音羽は肺にある溜まった空気を一気にふぅぅっと抜くと、祖父の隣の座布団まで大股で歩み寄り、ばさっばさっと乱暴な音を立てながら袴を捌くと座った。

「では、始めよう。いいか音羽」

まだ、現役の社長業をやっている祖父の声は地を這うように低く響く。音羽は祖父とは反対側の額にたらりと汗が流れるのを感じながら

「はい」

と答えた。

「下の支えを上に崇め…」

頭を下げた音羽の顔に祖父がお神酒で濡らした榊の葉を振る。

「地を這い武を持ち…」

祖父は榊の葉が浮かんだ盃を口にし飲み込むと

「下に下に称えよ」

受け継がれてきた刀で音羽の長い髪を断ち切った。

「おめでとう。音羽」

断ち切った髪を客に披露するように掲げると、祖父は晴れやかな顔で盃を飲み干した。

「ありがとうございます」

音羽は軽くなった頭が余計に重たくなったように思えて、返事をする自分の声が震えていないかただただそればかり考える。



♧~♧~♧



「彩羽って、中等部上がらないって本当?」

私と音羽は、小学校から大学まで一貫校として地元の企業の経営者などを沢山輩出している学校に小学校受験して入学した。エリート専門のこの学校では、小学校から中学校、中学校から高校とステップアップする時に、外部受験者と一緒に試験を受け定員人数以内の順位に入らないといけない。この中学入学への選抜試験に私は出なかったのだから、試験会場にいた同級生たちはその事実を試験当日には知っていたはずだ。一つ下の学年の八重が知らなかったのは、学年差によるタイムラグだろう。

「そーだよ」

隠すまでもない事実なのだから。今日は道場の新入生募集の団体演武に選抜された八重との練習だった。

「女子で団体やれるような子がたらなくって」

と幼稚園の時からお世話になっている師範に手を擦り合わせながら頼まれたら、さすがに断り切れない。去年、県大会に出場した兄弟の音羽は一回戦で簡単に負けてしまうと、あっさり空手道場を辞めてしまったし、私は私で

「今後は大会とか出たくない。でも空手は続けたい…」

とわけのわからない主張をしながらもこの道場に通っている。進級問題について深堀りされたら面倒だとしばらく道場をサボろうとしていた矢先の話だった。

同じ是近の血を遠く継いでいる八重は妙に勘がいいところがある。

「ねぇ、どうして?付属辞めちゃうの?」

ストレッチをしながら、頭の中もこねくり回し適当な答えを探す。

「地元の友達が欲しいから」

といった私の説明は同級生にはすんなり受け入れられた。当然だ。私たちは少ない椅子取りゲームをしている最中で、ライバルは一人でも少ない方が都合が良いのだから。

「違う…景色を見て見たくなったの」

床に顔を伏せながら、嘘ではないけれど全てではない答えを聞いて八重は妙に納得したような声で

「そう…」

と答えた。


団体での演舞の経験がないわけではないけれど、やはり個人の空手とは全然違う。

三人のチームで三角に組んだその底辺左のポジションに位置した私が気にしているのは周囲の呼吸だ。目の前の三角の頂点にいる八重の規則正しい呼吸。右の展開の位置にいる呼吸は浅く緊張感を帯びている。耳を澄ませて、八重の呼吸に合わせた。突きのスピード、跳ね返す肘の強さ、足運び。蹴り出す角度。二時間ほどの全体練習は全て基本動作だけで終えてしまった。



「音羽先輩は、付属中学に上がるんだよね」

私は、道着の上からウィンドーブレーカーを着込んだ姿で、学校から直接この他の店舗の道場まで来た八重は、付属小の制服に着替えていた。

「そりゃそうでしょ。音羽が学校を辞めるわけないよ」

まぁ…試験に受からなければわからないけど…っていう余計な一言を私は出さずにいた。八重は何かに怯えるように肩に下げたスポーツバッグの紐をきつく握りしめていた。

「そう…だよね」

音羽は小等部の生徒会長を務めている。11月の文化研究会のあとは徐々に現在の5年生の生徒会メンバーに引き継ぎが行われていく。小等部の生徒会メンバーは選挙制で選ばれるが、役割は学年主任や各クラス担当などの教員、現生徒会主軸メンバーの推薦で決まる。来年は八重が生徒会委員長になることは内々で決められていた。是近八重。是近の氏のある生徒がいる年に、付属の学校で是近以外が会長を務めることはない…というのは親戚の集まりでよく言われる付属学校の逸話だ。

「おなか、減った」

乗り換えの地下鉄駅での待ち時間に、構内のコンビニでスナック菓子とペットボトル飲料を買って八重の待つベンチに戻るとあからさまに八重の眉が上がって口をしかめる。

「学校の行き帰りでは買い食い禁止だよ」

と、冷たい一瞥を私に向けると、すぐさま視線は手元の本に向かう。

「だって、一回帰ったし、着替えてるし」

と言い訳をしながら、ペットボトルの蓋を開けごくごくとのどを潤す。スマホの時間を見ると、もうすぐ8時だった。この時間帯に是近家のある住宅街に向かう人たちは、スーツを着た大人だったり、メイクや流行の服をまとった大学生ばかりで、白いセーラーカラーのシャツに、濃紺のウエストベルトのジャンバースカートという時代を逆行したスタイルの付属の制服を着た子どもは八重だけだった。

「しかも、よくその道着で街中の道場に行けたし、地下鉄にも乗れるし…」

通っている道場は、私の地元にある小さな支店と、駅ビルの中に入っている大きな道場がある。演舞の選抜メンバーはには本部の道場から選ばれた子もいた。だが、派手なアクションがある技は私と八重が担当することになり、今日の団体練習では本部のメンバーとは、演目に関わる以外の話はしなかった。道場の広さと、付属小から家までの途中にあるという利便性から練習は本部で行われることになったが、練習中はこちらが全く空気のような扱いだった。本部の道場に通っている子からしたら、なぜ部外者が…という思いなのだと思う。

そんな空気を微塵にも感じていないように更衣室を堂々と使い、八重は愛想笑いの一つも残さず本部を出て行った。

いや、なかなかに付属の制服のセンスもヤバイでしょ?と会話をしようと思って、やっぱり止めた。黙々と人間観察を続けながらスナック菓子を開けて、ペットボトルも空にするとようやく次の列車のアナウンスが鳴った。


八重の迎えの車を待っていると、周辺に何もない最寄り駅は静かで薄暗かった。昔は大きな商店街だったという駅前のアーケードはすっかりシャッター通りになってしまっている。

「乗っていきますか」

と聞く八重の家のお手伝いさんに

「明日、学校行けなくなっちゃいますから」

と断りを入れて見送ると、自転車に跨った。ラインで音羽に

―今から帰るんだけど

―わかった。もう家にいるからご飯温めておく。15分後でOK?

―お願い

とやりとりをしてから走り出す。

最寄り駅から自転車で15分。大きな塀に囲まれたお屋敷。是近家は中に建っている建築物は軽く100年を越す日本家屋だけれど、外回りのセキュリティーは防犯カメラがあちこちに仕込まれた認証セキュリティー付の最先端の堅牢な門だ。

―着いたよ

とラインをもう一度送ると、門が重々しく開閉し

「お帰り」

っというと、少し長めのショートカットに切り揃えられた顔の同じ音羽が軽く手を振った。

「先に食べてなかったの?」

食卓には、二人分の夕飯が用意されていた。

「うん。お腹がいっぱいになると勉強したり、素振りもできないし」

6人以上は座れるダイニングテーブルにはハンバーグとサラダ、スープにご飯という二人分の食事が用意されている。もともと、父や祖父は食事の時間には家にいなかったが、学年が上がると母もあまり食事に現れることがなくなりこうして二人か、長年、是近家の本家でお手伝いさんとして働いてくれている城崎さんと三人ということが当たり前になってきた。門はカードキーがあれば、外からでも開錠できるのだが、せめて小学生の間は鍵を持たせることのないようにという祖父の言いつけで、城崎さんが帰ってしまう時間には必ずどっちかが家にいなくてはならないという本来の趣旨から逸れた現状があった。

いつもは、部活も入っていない生徒会活動もしていない彩羽が音羽を待っていることが多かったが、今日に限ってはそうもいかない。

「今日さ、やっぱり、八重が心配してたよ…付属中に行かないって」

「そうか…何とか誤魔化した?」


内部進学をしない…そう言い出すのを音羽はすでに言葉にする前から共有しているようだった。問題は、周囲への説得だった。

「お母さんはいいとして、お父さんやお爺様は何ていうだろうか?」

食後の城崎さん特製のプリンを口にしながら音羽にはこの問題がすでに彩羽一人のものではないことを悟っているような苦い顔をする。

「そうなんだ。二人とも付属信者だから…」

そう濁しながら、私はどこかで他人事だった。一方で音羽の頭の中は、展開がどのように広がっているのか追うようにしばらく考え込んだ。

「かといって、僕らの年齢では勝手に試験をボイコットしてしまうと問題が大きくなるだけだ。どのみち話すしかない」

付属の進学のための試験に毎年何人か受けることさえしない生徒がいることは、学生たちの暗黙の了解だった。エリートを作るための教育は厳しく、一日の始まりはテストから始まる。テストの点をクリアしない生徒は7時限目のあとにさらに補習を受ける必要があり周囲にはそれぞれの能力が筒抜けだった。日々迫る実力テストへのストレスのはけ口にそうした生徒がからかいの対象となる。プレッシャーにノルマに負けていった生徒たちが何人も脱落し姿を見せなくなる。勿論、試験で手を抜くことは簡単だった。

「結局手抜きでは解決しないだろうね」

日々の実力テストの結果は勿論両親に伝えられている。最低限のやるべきことはする。そうすることで周囲からの自分への関心は薄くなる。



「どうして?彩羽!理由を言いなさい。成績を見ていればあなたが付属の勉強についていけていないわけじゃないことぐらいわかるんだから!」

大切な話があるから、集まってほしいという食事会は一変してお通夜状態に変わった。あぁ。城崎さん手製の里芋の煮っころがしが…。予想外だったのは、金切り声を上げたのがお母さんだったということだ。

「はっきりいってしまうと…付属にいれば、どうしたって音羽と比べられちゃうから」

この解答は、音羽のシナリオに合ったセリフだ。確かに生徒会活動や、スピーチ大会、体育祭、さまざまな学校の活動で舞台上に立つのは音羽だった。そして多くの生徒の中で壇上の一人を見上げているのが私だ。

「……」

こうした舞台を直接見てきたお母さんは息を呑んだ。

「まぁ…彩羽がそういう思いを抱えていたなら、仕方ないじゃないか」

転がった里芋を布巾に包んで流しに持っていくお父さんの表情は冷静だ。

「そうだな。環境を変えることで成長するチャンスもあるんじゃないか?」

お母さんの取り乱したさっきの状況を、なかったように振舞う祖父は、折角だからと城崎さんが用意してくれたマグロの刺身に手を伸ばした。

「付属を辞めた後、彩羽はどこに行くつもりなの?」

「地元の公立中学に通おうと思ってる」

当たり前のことをいうように装うと、聞いた途端また母親ががちゃりと持っていた箸を落とした。

「公立中学って、あなた、この辺りの友達なんていないじゃない。どんな風に思われるのか考えているの?」

我慢がならないというように、立ち上がってこちらをにらみつける。ここまで来たら、あまりに他人事の対応は、逆に怪しまれるのだろう。私も箸を置いて、お母さんと目を合わせた。

「付属での六年間色んな人を見てきました。お爺様やお父さんが、付属での人脈を築くことが将来の役に立つからといっていたけれど、私の世界は変わらなかった。だからきっと、わたしの居るべき世界はこの外にあるんだと思う。」

「別の場所に行きたいっていうなら、お母さんが卒業した金星女子学園にしたらどうかしら。カトリックで落ち着いているし、華道や茶道などの所作も学べるのよ」

「悪いんだけど、私は行きたい高校があるし、もし学習面で不足してきたら進学塾で補おうって思っているし」

「ここまで来たら彩羽の意見を尊重するしかないだろう。私たちは彩羽の人生を操るために育てているわけじゃないんだ。彩羽がやりたい人生を叶えられるような応援をするためにいるのだから」

祖父の鶴の一声で家族会議というにはあまりに寒々しい夕餉は終わった。残った食材をラップやタッパーなどに移して、最近お爺様が気に入っている低農薬の緑茶を入れる。

「折角の家族での食事だったのに、こんな風になってしまってすみませんでした」

リビングテーブルの上に、印を押した選抜試験への不参加届を置くと、静かにティーカップを手に取り、香りをかいだ。

「いや、いいんだ。彩羽や音羽が少しづつ、立派に成長していることがわかって安心したよ」

食洗器に食器を入れていた音羽がガチャリと何かを落とした。こちらの会話に聞き耳を立てていたのだろう。

「二人で考えていたんだろう?お母さんは昔から感情に任せて考えるからな……彩羽のように感覚で生きる人間には扱いが難しいだろう」

「全てお見通しでしたか」

と、城崎さんが食後のお茶にと用意してくれたチョコレートケーキを持ちながら、音羽もソファーに腰掛けた。地元の公立中学校に進むといったら、きっとお母さんは大反対して別の私立にでも編入させようとするだろう。音羽は予め想定していた。感情的になったお母さんを止めるためにもあえてお爺様に同席してもらうようにとも。

「彩羽は彩羽の、音羽は音羽の、進むべきと思った道をいけばいい。例えそれが間違ったとしても、間違ったことから得られる経験もあるんだから。」



文化研究会は、毎年付属小学校の新入生募集と兼ねたお披露目の機会でもある。それゆえ、部活に所属しておらず、来年からはここにいないような宙ぶらりんな人間は、できるだけ日の目を見ないように静かに生息していなければいけない。料理クラブの主催する休憩室は、いわゆる喫茶店というやつで、調理室からの食材の往復に駆り出されているのが宙ぶらりんの人間たちだ。トレーにワッフルやどら焼きやみたらし団子を詰め込む。宙ぶらりん人間のお仲間、同じクラスの朝倉七海と料理クラブの面々に急かされながら茶葉の出しきったやかんやら、ポッドやら両手いっぱいに抱えてを言われるがままに調理室と、休憩室になっている教室を何往復しただろうか。

「ヒエラルキー下層はつらいよ」

七海は、階段を上るのもしんどそうなので、持っていたポッドを取り上げて

「まぁまぁ、これも今年までですから」

と、まだ余裕のある私は何段か階段を飛ばした。運動場からは、チアリーディングのショーの最中の派手な音楽と時折ざわめく観客の声が遠く聞こえる。時計を見ると、もう三時を過ぎている。開場が11時だったので一時間休憩を挟んだとしてかれこれ4時間はこうして行ったり来たりをしているのだから小6女子の体が悲鳴を上げても仕方がない。

「それにしても、私みたいに勉強についてけない、運動もやっていけないってのは別にして、彩羽まで付属を離れなくっても」

と、限界を迎えたのか七海は階段の手すりにつかまりながらよろよろと後を付いてくる。

「七海は来年から金星女子だっけ?」

「うん。もう、合格してる」

同学年でも七海は小柄な体つきだ。付属では毎年スポーツテストの際に学年相当の平均以下のスコアだと、平均がとれるまで補講があったり、学年ごとに過酷になっていく持久走があったりと体力的にもなかなかハードだ。むしろ離れられてすっきりしているという子も案外多い。

「体育館の演目の最後は、生徒会なんだ。音羽を見に行きたいんだけど…」

というと、

「わかった。調理部の方には上手く誤魔化しとくから、行ってきなよ」




「最終演目は、生徒会主催の剣道の模擬試合です。付属小学校には学内に部活が存在していなくても、バレーや体操、そして剣道などその道に優れた生徒のために学外の活動を応援しています。小学校でやりたい部活がないなという場合にはぜひこの活動を利用してみてください。では、試合は生徒会長の是近音羽、副会長の下柳厚保です。」

滑り込むように体育館の暗転のカーテンをくぐると、最後のアナウンスが流れ、館内の照明が消える。スポットライトの下で、二人の剣士が向かい合っていた。どちらが音羽なのか、遠目でもはっきりとわかる。ブレない剣先と、隙のない張り詰めた間合い。相手の出方を伺いながらも、隠しきれない殺気。フルフルと剣先を遊ばせ、焦れた相手が音羽の間合いに入り込む、打ち込まれた小手は既に読んでいる。深く差し込まれた一撃に相手は完全に決まったと思っただろう、ぐるりと腕を回転させ音羽の剣がばちんと大きな音を立てて面を割った。

―意表を突くんじゃないよ。真意を突くんだ。相手が必ず決まったと思う決まり手をあえて受ける。ひっくり返して奪うには相手の思いまで利用することが大切なんだ。

会場の誰もが確信した勝利はひっくり返って音羽に転がった。音羽は勝ち誇ることもなく、流れるままに剣を引き、お辞儀をした。私が一つ目の拍手を打つと、ようやく会場が勝者が逆転したことを理解し拍手を送った。




12月、驚くほどに日は早い。音羽の選抜試験の結果は勿論合格で伝えられた。短い稽古時間を使ってどうにか作り上げた空手の演舞も仕上がった。特に幼稚園での演舞は好評を得たようだ。八重が私の体を駆け上がって真空蹴りを決める大技や、徒手空拳でなぎ倒された二人がぐるりと空中で回転しながら投げ飛ばされるといったダイナミックな技は、園児にとってはヒーローショーのそれだったようだ。演舞が終わって八重が園児に取り囲まれて次々とサインや握手を求められているのをなかなかいい気分で見た。

冬休み、プレ中学の説明会があった。量販店で売られているセットアップのスーツや、普段着の保護者が多い中で、ブランドバッグを下げ、セミオーダースーツを着込んだお母さんはだいぶ浮いた存在で、居所なさそうだったので体育館の説明会場に一人残すのは多少心苦しいものがあったが、それはこちらも同じ話だった。シンプルな量販店で買ってきた私服を着ているのに、ちらちらとした視線を感じる。

「ここが、音楽室です。うちの中学には合唱部と、吹奏楽部があります」

グループに分かれて校内案内をしてもらう。この辺りの小学校では、人数が減っていてこの中学では4つの小学校から集まってきた生徒たちで構成されているらしい。4つの小学校とはいえ、学年で60人に満たない。30人で5クラス、学年で150人いた付属にいたので、どんな感じなのかもわからない。周りの子は、メモをとっていたり、同じ小学校からなのだろうひそひそと話しながら後をついていく。

「最後にグラウンドです。部活は陸上部、男子サッカー部、女子バレー部があります。部活動は個人の自由参加ですが、入ってみると仲のいい先輩もできますし、運動や特技も増えます。では、ここで体育館にもどってそれぞれ、親御さんと帰ってください」

体育館に戻ると、お母さんが心配そうに耳打ちをする。

「本当にやっていけそうなの?」

「大丈夫。保護者会とかは城崎さんも手伝ってくれるっていうから、音羽を優先してくれていいから。今日は来てくれてありがとう」

「そう。彩羽が決めたことだから、お母さんはもう何も言わないわ。このあと用事があるからあとは一人で帰れそう?」

「わかった」

というと、待っている間に呼んだのか校門前のタクシーに乗った母親を見送り、家への道を辿ると、後ろから一人の男子生徒が付いて来た。着古したジャージに、父親のを借りたのか、サイズの合っていないペラペラのダウンコート。撒いてもいいが、結局同じ中学に入学する同級生。角に入ると素早く反転し息を潜める。しばらくして一定距離にいた男子生徒が目の前を歩いていた私を見失ったことに気付き少し歩調を早めて近づいた。

「ねぇ」

急に顔を出した私に驚いたのか、

「うわぁ」

と男の子はその場に尻もちをついた。

「ごめん」

と、堪えきれずに笑い出した私の手を取ることなく、立ち上がると

「いっとくけど、付いてきたわけじゃないから…たまたま帰り道が同じだっただけだし」

と赤くなった顔を背けた。

「お前、是近のとこの子どもだろ?なんで公立なんて来てんだ?」

「よく、わかったね。」

「俺の家、雨よけ横丁の商店街なんだ。あの辺に住んでて是近の双子のことを知らねぇヤツはいねぇよ。長い髪で双子で自転車漕いでたら目立つし」

「確かに」

今日はポニーテールで括っている長い髪を揺らした。

加藤正大君は幼い頃、トラック運転手の父親が、離婚して商店街の母親の所に親子そろって身を寄せたという。

「今日は、ばぁちゃん一人なんだ。ばぁちゃん、足が悪くって、中学まで遠いし、悪いと思って今日は一人で行ったんだ」

確かに、学区の中でも駅に近い地域は外側にあたる。個人情報を聞いてもいないのにどんどん晒していくのは周りにいないタイプの人間だった。『外部の人に家柄や連絡先、名前などを安易に知られないようにしましょう』これは常識ではなかったようだ。

「ふぅん」

「あのさ。学生服買うんならイオンじゃなくって、商店街の沢田学生服がいいよ。ちょっとだけ安くしてもらえるし」

商店街と、是近家の別れ道で恥ずかしそうに加藤君は言っていた。



「どうでしたか?学校説明会は?」

カバンの中から、お母さんから預かってきた封筒を取り出して開いていると、城崎さんと音羽が興味深そうに中身を見ている。

「おもしろそうだったよ。学生服とかは商店街で買うと安いんだって」

「そうなんですか。早速今週にでも買いに行きましょうか?制服とか寸法のあるものだと早めがいいでしょうし…運動着…で登校してもいいみたいですね。洗濯用に何枚か用意しましょう。彩羽さんは何か部活動をされるおつもりなら、セットで買った方がいいかしら?」

「部活は入るつもりないかな…中学に慣れたら塾に行くつもりだし、体は鈍らないように道場に通えばいいし」

「全然違う環境だね。授業数も少ないし…年間行事も少ない」

「生徒も少ないみたい…。一学年で60人だって」

「じゃあ、附属の2クラス分の人数か。中学校全体で一学年くらいかな?」

「うん」

「何だか、やっぱり違う世界って感じがする」





翌日、雨よけ商店街に城崎さんと訪れる。商店街は昼間なのに、ほとんどがシャッターを下ろしたままだ。アーケードに架かっている屋根も所々破けていて、うら寂しい雰囲気。商店街の入り口にわざとらしく置かれたクリスマスツリーがよけいに寂しい。

「この商店街に来たのは15年くらいたつ気がします」

「それより前は、よく来ていたの?」

「はい、愛羽様…お母さまが小さい頃は時々ここの駄菓子屋さんだとかおもちゃ屋さんに来ていたものですよ。それが、お母さまがご結婚なされてくらいか、住宅街の方に大型のスーパーができて、駐車場も広くて停めやすいし、ドラッグストアやら雑貨屋やらいろいろ揃いますからどうしてもそちらばかり足を運ぶようになって」

確かに、欲しいものがあればほとんどネットで手に入るし、地域展示などでどうしても入用なものや、高級品は中核地の百貨店に行って手に入れると自分も振り返って思う。

「あらっここのお肉屋さん!」

ひと際大きな声を上げて視線を上げると、軒先にショーケースを置いた精肉店に城崎さんは目を奪われたようだった。銀トレイに並べられたのは、コロッケ、串カツ、メンチカツ、ポテトサラダに、焼き鳥と茶色く、炭水化物が多めの総菜が並ぶ。

「あっ」

違う意味で私は軒先の古びた丸椅子に腰かけた背中に思わず声を上げた。どちらの声に反応したのか店の奥から、丸々と太り揚げ物でつやつやと顔が光った店主と、軒先の人影が振り返った。

「お久しぶりです」

「こんにちは」

と、それぞれべつの台詞で声が合う城崎さんと、私の声に、二人は声を合わせて

「是近の!」

と答えた。加藤君は、小腹を空かせるとよくこの肉屋の総菜を軒先でおやつ代わりに食べているんだといった。精肉店の店主は、是近家の家政婦だった城崎さんの顔を覚えていたらしい。よかったら特製のメンチカツをという息の合った二人の誘いを、今から制服寸法に行くので後で寄りますと答えると、二人して沢田学生服の場所を丁寧に教えくれた。

沢田学生服で、ジャージや学生服をセットで何枚も買おうとする城崎さんを止めるのに一苦労すると、それでも普通の学生よりは枚数が多かったのだろう店主は喜びを隠しきれないといった様子で、『すべて揃いましたら是近家までお持ちしますね』と特別サービスまでしてくれた。城崎さんは、帰りに約束した精肉店で、ショーケースの半分くらいの大量の総菜を買い込むと、こちらの店主もよかったらご自宅までというのを断って商店街を散策しながら買ってきた総菜を二人でもって歩く。総菜の時々立ち上る匂いかと思っていたが、そうではなく懐かしいにおいが商店街の中を漂っていた。通過することはあっても来たこともないのに懐かしいと思うのは不思議な感覚だった。

是近家に着いて総菜を仕分けていると、珍しく昼間なのにお母さんがキッチンに入ってくる。

「奥様、よかったら食べていきますか?まだ温かいんですよ」

と城崎さんが勧める総菜を一瞥すると

「いいわ。今からまた出かけるところなの。子どもたちのことをよろしくね」

と、ミネラルウォーターを一つ冷蔵庫から取り出すと、立ち去ってしまう。代わりに、ジャージ姿の音羽が

「何だか懐かしい匂いがする」

と誰かと同じ感想を口にしながら入ってきて、三人でコロッケを頬張った。




冬休みを終えると、季節は春に向かって、新しい季節に向かって目まぐるしく動き出す。新年度の生徒会長は是近八重が務めることになった。私が小学校に入学して以来初めての女子の生徒会長だ。校舎に続く中庭の桜並木は付属学校の象徴だ。入学式、卒業式、在校生はここに集まってそれぞれの門出を見送る。エントランスから、大きくなった桜のつぼみを眺めていると、珍しく音羽が校内で声を掛けてきた。

「名残惜しい?」

熱が似ているからだろう。音羽が近づいてくるのがわかるのは。

「卒業生代表の音羽君はもう文言は決まったのかい?」

「卒業制作に戻らなくっていいの?さっき廊下をバタバタ朝倉さんが探していたよ。僕のことを一瞬彩羽と思ったらしくって」

あぁ。背中に広がる長い黒髪を感じながら、私たちはまだ同じに見えるのかとしみじみ思う。いつか変わってしまう。私たちの性。



「答辞  卒業生代表 是近音羽  うららかな春の日に」

壇上に立つ最後の音羽のいつもと変わらぬ隙を見せない姿を視界の端に入れながら、体育館ホールの窓に映る暖冬で早く目覚めた桜色の雨を眺めた。春が…来る。




入学式の日は、音羽と重なってしまったからと、お爺様と城崎さんが門出を祝ってくれる。長い髪は左右に結って垂らすとセパレートに分かれた制服が着なれない。デジタルカメラと、スマホと、カメラを首に吊り下げて、一体どれほど撮影したいのかという城崎さんに苦笑しながら校門の前での記念撮影を終える。

「本当は式の最後までいたかったんだが…」

と頭を掻くお爺様に

「忙しいのに来てももらえただけでも嬉しかったです」

と答えると、式場に入る。気のせいだろうか、何人もの人の視線を感じて流した。城崎さんは

「私は後ろの保護者席の方にいますね」

下がったのを

「城崎さんにも来てもらってすみません」

と答えて、前の新入生の席に向かう。

「おーい。是近!」

と、手をぶんぶん振りながら

「お前の席ここだぞ」

と加藤君が周りの空気など一切気にせず隣の椅子を指した。ニクラスしかないので可能性は高かったが、加藤君とは同じクラスになった。

「マサくんっていつの間に是近さんと仲良くなったの?」

後ろの席の女子が興味深そうに尋ねる。

「説明会の日に帰りが一緒になってさ」

「えぇっ。でもあの日マサ君確かに一人で先に帰っちゃったもんね」

「私も是近さんと仲良くなりたい!」

「えっと、よろしくお願いします。是近彩羽です」

「うちらの小学校から来たのって8人しかいないんだ。1組は、俺と…」

「田沢杏です」

「私は中州理恵、あと一番後ろの席に浜田匠って男子も一緒の小学校だったよ」

「私たちも説明会の日同じグループで学校案内してたんだよ。話しかけようと思ったんだけど、なんか怖くって」

と、田沢杏さんがいうと

「杏、怖いは失礼だよ。それをいうなら恐れ多いじゃない?」

恐れ多いもそんなに変わらないけどという言葉は伏せて

「気軽に話しかけてもらえるとうれしいな。私、友達いなくって」

と笑って手を差し出した。二人ともよろしくっといって手を取ってくれた。



「では、挨拶も済んだところで今日は係を決めて解散したいと思います」

担任の教師がスラスラと黒板に板書を書いていく。学級委員長一名、副委員長一名、スポーツ委員三名、美化委員三名、保健委員二名……

「センセー。学級委員長はどーやって決めるの?」

手を上げて発言し始めたのは、合併の小学校でも人数の多い住宅街に近い方の学区から来た生徒だ。

「そうだな。立候補か推薦が妥当だろう。まずやりたい人がやった方がいいと思うが、誰か学級委員長になりたい人はいるか?」

と教師が声を張るが、誰も手を上げない。もちろん私も嫌だ。学級委員なんて結局、成績表にいくらかの加点をするためのメリットでしかなく、行事ごとに責任を押し付けられ、日々雑務に時間を取られるだけの損な役割だからだ。

「じゃあ。私、是近さんを推薦します」

同じ住宅街の生徒が答えた。

「えっ無理です」

と答える前に、住宅街の方から声が上がった。

「だって、是近さん元々付属小にいたんでしょ?あったまいいし、適任じゃん」

という声に押されて多数決が始まろうとしていた。もうこれは観念するしかないのではないか、という深いため息が前の席の加藤君に聞かれたのだろう。

「是近、本当はやりたくないんだろう?」

「まぁ…出来れば…」

と素直に答えると、加藤君は声のトーンを上げて手を上げた。

「先生、多数決っていうのは、やりたくないヤツに押し付けるための体のいい建前じゃないですか?そもそもこの中学に入学してきた小学校で、人数の割合が違うのに、多数決なんて多勢に無勢じゃないですか?」

加藤君が立ち上がると、教師は顎を擦った。

「では、どうやって決めるのが公平だと思う?」

多数決では平等ではないという加藤君の考えは筋が通っていて、誰も反対できず、それぞれの小学校での代表による阿弥陀くじという方法に落ち着いた。

「是近は、一人しかいないからうちらの小学校のメンバーということでいいよな」

と、商店街の学区に入れてもらえる。

「学級委員になることは別にデメリットばかりじゃないから…」

と浜田匠が立候補に上がってくれる。

「さっすが、浜ちゃん。浜ちゃんは雨小でも生徒会長だったんだよ」

「へぇ。すごいね」

「全校生徒50人規模の学校で代表やっていたからって偉くもすごくもないだろう」

というと、教壇の上のアミダに名前を書きに行く。



♧~♧~♧

中等部に入ると、おおよそ1/4のメンバーが変わったことがわかった。僕らはまだ弱肉強食の只中だ。弱いものは去れ、強いものは来い。

「では、賛成票の多かった一年A組の学級委員は是近音羽君ということになりました。副委員長は佐野梓さんですね。二人とも前に出て板書と進行をお願いします」

「はい。」

委員会が始まると、下柳がD組の委員長に選ばれたらしい。

「是近君も中学からは剣道部に入るだろう?」

と唐突の声掛けに、うんざりしながら

「いいや。剣道は今までいた道場で続けるよ。学校では勉強をしなきゃいけないし…」

「勉強なんて言い訳だろう?文化発表会でやった模擬試合、僕は本当の勝負が決まったとは思っていない」

勝ち負けなんて大したことのないことだ。一回かっただけで強さなんて測れない。そんなに勝ちがほしいならば君にあげるよ。にやついた表情に浴びせかけたい衝動を、深呼吸で抑えた。あぁ、喧嘩は乗ったら負けだ。

「ともかく、僕は部活に入る気はないんだ。剣道は続けるから、またいつか勝負することがあるのかもしれないね」

と、答えをグレーゾーンに収めると、資料を持って教室に戻った。喧嘩は始まらなければ勝ち負けは存在しない。

「先に、ページ毎に机に並べて置いたわ。」

明日行われる部活勧誘会の資料作りだ。付属の中等部は、全体の人数が増えるためか、部活動の種類も増える。週に一度のクラブ活動と兼任している部活もあるし、高等部と連携して練習を行う部活も多い。

「是近君は、部活動に入るの?」

「いや、今のところはクラブ活動の範囲でできるものを選ぼうと思っているよ。プライベートの時間を取りたいからね。歴史研究クラブとか?」

「私も小学校から入っていた調理クラブかな。放課後に時間も欲しいし、相当な実力者か、勉強ができる人じゃないと、この学校で部活動に打ち込むことは難しいよね」

と笑いながら、佐野さんは笑った。

「じゃあ。早く資料を作って帰らないと」

明日は早速実力テストが始まる。


♧~♧~♧

「おーい。是近!」

帰宅部の集団に紛れて下校していると、後ろから大きな声で呼び止められた。周囲の同じ中学の生徒が振り返った。

「是近呼び辞めてよ」

「じゃあ、何て呼べばいいんだ?」

「彩羽でいいよ」

「でも、俺だけ加藤君じゃおかしいだろ?」

「なら、マサ君?は呼びづらいから、マサって呼んでもいい?」

「えーじゃあ、私も杏って呼んでいいから彩羽ちゃん呼びにする!」

「あたしも理恵呼びでいいよ。彩羽ちゃん」

学校内でもこの三人は集団行動をすることが多い。雨よけ商店街の出身なのだという。

「うちはね。雨よけ商店街でうなぎ屋やってんだよ。うなぎ中州って。杏ちゃん家は、喫茶店やってるよ」

「へー。浜田君の家も?」

「浜田ん家は、元々酒屋だったんだけど、お父さんの代からコンビニに改装してやってる。だから、いつも帰りが早いんだ。内緒でバイトしてる。俺の家は、ばーちゃんがお茶屋をやってたんだけど、俺が生まれる前にやめたんだっていまはシャッター」

「私も時々店に出るよ。商店街の隅にあったの気付かなかった?桃ノ木喫茶店ってとこ。彩羽ちゃんは、なんか家の事したりしないの?」

「うちはないかな?お爺様が一応社長だけど、もう家族経営ってわけでもないし」

「そうなのか。お前の双子が跡継ぎとかじゃないのか?」

「どうなんだろうね。期待しているわけじゃないと思う。社内に入っても、役職につけるってわけじゃないだろうし」

実際に、是近家に経理事務として入っていたお母さんは寿退社してしまったし、婿入りした営業部のお父さんもここ何年も役職が上がったというわけではない…という家庭事情は濁しておいた。

家に帰ると既に音羽は帰宅していて、勉強机に噛り付いていた。

「ただいま」

と声を掛けると、集中していたのか、びくりとして肩を上げ

「おかえり」

と一瞬顔を見ると、意識はすぐに机に戻った。



「彩羽さん、お帰りなさい。お夕飯もう少しかかるんですけど」

キッチンに顔を出すと、城崎さんが答える。

「いや、ゆっくりでいいですよ。音羽が勉強していたから頃合いを見て後で食事に誘うので置いてもらえますか?ちょっと稽古に出てきます」

と声を掛けてから、カードキーを持ってタオルを首に掛けると自転車に跨った。



夕方の道場は賑やかだ。幼稚園や小学校の子どもたちがぎこちない動きで突きを出し、蹴りを入れ、回り損ねて尻もちをついて涙目になっている。保護者が後ろで歓談している。

「彩羽、ちょうどよかった。ちょっと手ぇ貸してくれ」

違う意味で汗だくになっている兄弟子に、

「わかりました」

と答えて道場の中に入っていく。

道着を正し、立姿勢と呼吸を整える。

「ただぼーっと立っているだけじゃなく、ここにいるんだという気持ちで存在感を表す。

お腹から息をして胸にいっぱいの空気を溜めて吐きだす。一つ一つの動作に意味を持たすんだよ。見ててね」

一息。深い呼吸をエネルギーにして、一歩目を踏み出し、空虚の中の敵を素早く撃ち落とす。

「かぁっこいい」

女の子がキラキラとした目で小さな手を叩き賞賛をする。

「でしょ?さぁみんなもやってみよう」



「ありがとうございました」

すっかり揃った礼を覚えたところで、今日の稽古は終わった。

「彩羽は教えるのも上手いんだな。これからは、稽古をつけてもらう側に代わるか?」

床を磨きながら、兄弟子の軽口を

「いや、まだまだ学びたいことばかりですから」

ひらりと躱す。道具の確認と、ロッカーの忘れ物のチェックを終えると、兄弟子はにやりと笑ってこちらを見た。

「久しぶりにやるか」



ドンドンドン床を弾くように力強く踏み上げる兄弟子のステップに耳を澄ませながら、肩や太ももの付け根の些細な動きを見る。力の源を見切れば、攻撃は何とか凌げる。最小限のステップワークと上半身の反りを繰り返す。しかし、避けるばかりでは勝てないのが組み手という種目だ。自分よりもリーチが長く、力があり、胆力のある兄弟子に逃げてばかりの戦法は通用しない。その時、右の股関節が大きく動く音がした。素早く左にステップを踏み、下からの肘を突き上げようとした瞬間を、兄弟子の左の岩のような拳が捉えた。

「負けました」

「型では時々唸らされるが、組手ではまだまだ負ける気がしないな」

道場の鍵を締め切ると、兄弟子の白い歯が月光に照らされて光った。



家に着くと、点けっぱなしの玄関や廊下の電気を別にして、家の中は暗く静かだ。案の定勉強机のライトを頼りに、日が暮れたことも気が付かず音羽はペンを走らせている。部屋の照明を付けてやっと顔を上げると、音羽は今気づいたという呆けた顔をこちらに見せた。

「城崎さんは?」

「とっくに、帰ったよ。もう9時だから。夕食を温めるから、先にお風呂に入っておいでよ」

冷蔵庫にあったラップのかかったいくつかのおかずと、コンロの上のスープをあたため、テーブルに乗せると、いつも烏の行水のように風呂の短い音羽が、髪の毛をガシガシとタオルで拭きながら現れた。

「明日もうテストがあるの?」

「うん」

手を合わせ、小さくいただきますと呟いた音羽は、食欲がわかないらしくスープで口を潤すと、おかずをつつくばかりで口に入れない。

「数学と英語は、レベル別にクラス分けをするんだって、範囲も示されていないから手あたり次第見て回ってる」

「そう…」

一向に減らない皿をしばらく見つめていると、我に返ったように音羽は立ち上がり

「やっぱり、不安だからもう少し勉強してくるよ」

「後片付けはやっておくから」

「悪い」

とすたすたと部屋に引きこもってしまった。一人残されたリビングで黙々と食事を終え、食洗機に皿を詰めて、テーブルを拭き上げると、音羽はシャワーだけで済ましてしまったので一番風呂にゆったりと浸かる。髪の毛にオイルを染み込ませ、長い艶のある黒髪を乾かす。満足して部屋に戻ると、襖の向こうでまだ、紙に何かを書き込む音や、ページをめくる音が聞こえた。音を立てないように、素早く着替えて自転車に跨る。



ファミリーマート雨よけ商店街店。そこにあることは知っていたが、寄るのは初めてかもしれない。アーケードの隅に自転車を止めると、店灯りに見知った顔があった。

「彩羽?何やってんだよ。こんな夜中に」

と、アイスの棒を咥え

「おぉ」

と、何やら銀紙に包まれたカードをめくりながら、悦に入っていたのはマサと浜ちゃんだった。

「双子の音羽が明日テストだって、ご飯食べずに勉強してるから夜食買いに来たんだ」

「そっかー。新学期早々やっぱ附属は大変なんだな」

と、なぜか二人も店内に入り、買い物を済ますと、マサが付いてくる。

「マサの家って商店街じゃなかったっけ?」

仕方なく自転車を降りて一緒に商店街を歩くと

「あぁ。ここだよ」

と、加藤茶店とどこかユーモラスなネーミングセンスの看板が剥げかけて架かっている商店の一角を指さした。

「んじゃ、また明日」

と私が去ろうとすると、マサは隣の商店との隙間に置いてあった、年代物の自転車を引き出して

「送ってく。危ねぇだろが」

と漕ぐたびにきぃきぃと悲鳴を上げるその自転車で並んで走り出した。

いや、多分私を危ない目に遭わそうとする奴がいたら危ない目に遭うのはそいつだろうとか冷めたことは言わずに春の夜道を並んで走る。メンテナンスのされている私の自転車はうっかりするとマサの自転車を置いていこうとするので私はいつもよりもゆっくりとペダルをこいだ。

「ありがとう」

是近家の前でお礼を言うと、遠くから車のヘッドライトの明かりが近づいた。

「お爺様、お帰りなさい」

車用の大きな門がゆっくり開く間に、窓を開けて祖父が顔を出した。

「彩羽、こんな時間にこんなところで…」

という言葉に、自転車のカゴにあったコンビニの袋を指さして

「音羽が明日試験だといってご飯も食べずに勉強していたから差し入れを買っていたんです。友人が帰りを送ってくれました」

「そうか。それはすまなかった」

と、祖父はマサに頭を下げて、目を緩めた。

「いっいえ、おっ僕はこれで失礼します」

お爺様は、車から降りると、人用の小さなドアを一緒にくぐる。

「もう、友人ができたのか」

「はい、雨よけ商店街の子たちが良くしてくれています」

車庫の父用の外車と、母の赤いミニクーパーの駐車スペースは空のままだった。祖父は空のスペースを一瞥して、私は自転車を軒下に停める。

「今日もご苦労だった。明日も頼むよ」

と運転手兼秘書に声を掛けると、家の鍵を開けた。

「お爺様、夕食は?」

「あぁ。外で食べてきたから、彩羽はもう休みなさい。音羽にもあまり無理をしないように伝えてくれ」

と声を掛ける。

「おやすみなさい」

と答えると、部屋に戻る。案の定、音羽の部屋は電気を点けたままだ。

「音羽、少し休んだら?倒れちゃうよ」

コンビニの袋から、栄養ドリンクの瓶を出し机に置いた。

「うん。ありがとう。もう少ししたら寝るよ」

音羽は力なく笑うと、栄養ドリンクを飲みこんだ。



授業が少しづつ増えてきて、やはり必要性を感じている。

「県立高校の合格実積率の高い塾ですよね。場所はどうしますか?」

「うーん、あまり遠くない方がいいかな。でも学区内だとよくないのかも?最寄駅から乗り換えなしで何とかならないかな」



こんなことがあった。

いつものように授業を終えて、ジャージのまま帰宅しようとカバンに教科書を詰めていると、

「ちょっと話があるんだけど…一緒に付いて来てくんない」

と話しかけてきたのは、いつかの学級委員選びで私に絡んできた女子たちだった。嫌な予感しかしないので、出来れば避けたいところだが

「えっと、何かな?」

すっとぼけ作戦は失敗に終わった。こんな場所があったんだと呼び出されたのは体育倉庫裏の空き地だった。教師や他の生徒には気付かれず、通行人もいない絶好の場所だなと感心しながらついていくと、随分前から待たされたというような、肉付きのよい男子生徒と、それを取り囲む何人かの男子生徒。いかにも素行が悪そうで、テカテカと光る無駄にセットした髪に相対して、学生服はヨレヨレでだらしなく着崩していた。

「謝ってほしいんだけど」

後ろに控える男子生徒と、女子生徒に挟まれるような形で威勢を張った女子生徒が、腕を組み顎をしゃくりいう。

「えっと。三輪さんだよね。同じクラスの…あと花岡さん?」

「花井だよ。是近さん。いっくら金持ってるからって、人の名前間違えていいと思ってんの?」

「ごめんごめん。私があなたたちの名前を知らないから怒ってるってこと?」

さらに血の気を引き出すような台詞をいってみると、みるみる目の前の女子生徒の顔が赤くなった。

「お嬢様に言葉は通じないみたいだね」

にやりとして、中央の巨漢の男子に視線を送ると、男子生徒が指を鳴らしながらこちらに近寄ってくる。こんな、漫画のような展開があるのだろうか…と半ば感心しつつ、姿勢を女子から、その男子に移した時…

「何やってんだ!」

と影からマサが飛び出した。キャッとかやばぃという小さな悲鳴を上げて女子二人組は下がっていく。

「何って、附属から来たやつは礼儀を知らないっていうから、親切にも教えてあげようとしただけだ」

代わりに前に出た男子生徒が答える。

「彩羽!下がってろ!」

といいながら、マサは私と男子生徒の間に入った。この場合人の親切は素直に受け取った方がいいというやつなのか…若しくは何かマサに策があるのだろうか…と、躊躇していると男子生徒がマサのジャージの胸当たりを掴み、一本背負いで地面に打ち付けた。

「まっマサ?」

慌てて駆け寄ると、マサは大の字になって伸びている。鼻に指を充てると呼吸は正常で打ち付けた背中にも異常はなさそうだ。

「こうなるってこと。お前もそうなりたくなければ、不用意に目立つような…」

とべらべらと喋り出した男子生徒の右足の膝裏を狙って薙ぎ払い倒す。どすんといって大きな土埃が舞った。後ろに構えていた男子四人を、次々と突きと肘打ちで倒すと最後に振り返り上段蹴りをゆっくりと倒れていた男子生徒の頭に打ち込む。

「うわぁ」

と情けない声で必死に頭を庇うのを捉えて、蹴りを寸止めで引いた。

「ほかに何か、忠告したいことがありますか?」

土を払うと、上から見下ろす格好で質問する。

「すっすみませんでした」

とバタバタと私の横をすり抜けて去っていく。覚えてろよという捨て台詞がなかったので、刺客は以上終了のようだ。

もう一度、マサの様子を見に行くと、やはり軽い脳震盪のようだ。手足に硬直がないので少ししたら意識を取り戻すだろう。バイタルチェックをしていると、計ったようなタイミングで浜ちゃんがスマホのカメラを向けながらこちらに近づいてきた。

「一連の経緯はばっちり撮影してあるから、もう二度と起きないと思うよ」

「それは、有難い。で、ちょっと肩借りれない?」

「何で?」

「女子生徒が男子生徒を担いでいたら違和感があるでしょ」

「あぁ。確かに」

と、浜ちゃんはスマホをジャージのポケットにしまうと、その場にしゃがみ込んだ。浜ちゃんの背中にマサを組むように置くと、マサの背中を支えながら

「立てそう?」

「あぁ。大丈夫。いつも家でペット飲料の段ボール運んでるからな」

といちにーさんっで持ち上げた。


保健室のベッドに運ぶと、放課後なので先生はいないようだった。

「まぁ、30分もしない間に目覚めるでしょ?」

「そーだね。でも、いつからいたの?」

「彩羽が花井達に連れられて体育倉庫の方に行くのをマサが見かけて、慌てて追いかけるのを追いかけたところかな?体育倉庫の裏側で、その手のことが行われるってことは地元の奴らなら大体知ってるし…」

「そーなんだ。でも、助けには来なかったね…」

よく見れば、マサの打ち付けた手の側面は擦り切れて血がにじんでいた。薬棚を適当に漁ると消毒液と、絆創膏を取り出す。

「知ってたからな。是近家って武道を小さい頃から習うんだろ。助けはいらないって思って、でもまーいじめって嫌じゃん。証拠押さえておけばまたやることもないだろうって」

「マサって何かやってたの?」

「んーいや、あいつは多分喧嘩なんかしたことねぇんじゃないか?俺たちの小学校も、商店街の奴らも家族みたいなもんだし」

「じゃあ…なんで」

滲んだ血を拭きながら、消毒をし絆創膏を張る。

「いっただろ。家族みてぇってやつに、マサん中では彩羽ももう入ってんだよ。小学校上がるときにさ、男は強い方がいいってお前の通っている道場に見学しに行ったことがあるんだよ。演舞っていうの?道場のパフォーマンスで、彩羽と双子が組手を披露してくれてさ、目の前で同じ年の子どもが、目で追うのも大変なくらいスゲー速さで拳を打ち合ってさ、テレビのアクションヒーローみたいな空中蹴りを、床ぐるぐる回りながら避けたりして……あーちげーんだなって思った。住んでる世界がさ。他の子はどうだかわかんないけど、俺はお前らみたいにはなれねーってすげー子ども心に悟っちゃって、天は二物を与えずとかっていうじゃん。でも、それって嘘じゃんな。神様ってのはさ才能のあるやつに二物も三物もつっこむわけだよ。そんで俺たちみたいのはさ、草原のシマウマみたいなもんで、自分たちのテリトリー守るために必死になって身を寄せ合って仲良くやってかなきゃ生きていくことさえ難しいって」

「マサは…」

次の言葉を継ぐ前に、マサがゆっくりと目を開けた。左右に私と浜ちゃんがいることを確認して頭を掻く。

「あー。すげーかっこ悪い。結局浜ちゃんが何とかしてくれたわけか」

というので、浜ちゃんが録画した画像を見せた。三輪さんたちが私を罵るところから、マサが大柄の男子生徒に投げ飛ばされるところまでを、きっちり再生して

「この画像を教師に見せたら、いじめだと思われて大変なことになるっていったら尻尾撒いて帰ってった」

と、私が暴れまわるところは再生しなかった。

「やっぱな…何も考えずに動いちゃうんだ。本当こーゆーとこ直したい」

「でも頭でごちゃごちゃ考えないから、マサなんだと思うよ」

と、浜ちゃんは笑って答えて、家の仕事があるからと帰っていった。

「役に立たなくってごめんな」

「ううん。マサが来てくれてうれしかった」

「そっか」

マサは鼻を擦りながら笑顔を返す。

「帰ろっか」




入塾テストを終えると、希望していた難関高校受験コースに振り分けられた。

「今週は、体験期間ですのでいいのですが、来週から塾で行った授業を元に毎週末テストを行います。テストの結果次第ではクラス替えもしていますので、その覚悟で取り組んでください」

分厚いテキストと、タブレットを持ってクラスに入ると、丁度休憩時間だったらしい。

「わー彩羽じゃん。何?この塾入るの?」

朝倉七海だった。茶色襟の付いたチェックのネクタイのブラウスに、同じチェックのプリーツスカートという、最近デザインを変えたばかりのオシャレな金星女子の制服を着た七海は、数か月会っていないのに随分垢ぬけたようだった。

「こんにちは」

一緒にいた同じ制服を着た赤縁眼鏡の女子も肩下に伸びた髪をくるんと内巻きにセットしている。

「一緒に授業を受けようよ。いいでしょ?理央」

「うっうん」

理央と呼ばれた同級生が、多少引き気味だったのも止むかたない。自分は中学のダサいジャージに、リュック、運動靴という恰好だったからだ。街中にあるこの塾に通うには電車に乗る必要があり、帰宅後にあまり余裕がない。この数か月ですっかり中学ジャージのスタイルが日常化してしまったのもある。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな?私は是近彩羽だよ。七海とは小学校が一緒だったんだ」

というと、理央の顔が少し変わった。

「じゃあ、是近さんも附属出身だったんだね」

「んー。まぁそーだね。今は地元の公立中学行ってる。あっ名前呼びでいいよ。理央ちゃんって呼んでいいのかな」

「いいよ。私も彩羽ちゃんって呼ぶね」

「理央は、附属中の受験したんだって。彩羽も私と同じで進級試験棄権組なんだ」

「何で、受けなかったの?」

理央ちゃんは食い気味だ。付属中へのあこがれが強かったんだろう。

「私は双子でね。同じ学校内だとやっぱり比べられちゃってしんどいなって」

「そうなんだ」

妙に納得した顔で理央ちゃんは空を睨んだ。

「でも、この塾に入ったんなら、高校はまたレベル高いところ狙ってるんでしょ?私もさ。何か月か、女子校通ってやっぱ違うなとか思ったんだよね。親にあんだけもう勉強はしたくない、自分の通えるレベルでいいって言い張ったのに、何だか楽している自分が落ち着かないっていうか…、頑張ってない自分が」

と、七海の言葉はチャイムの音で途切れた。


♧~♧~♧

中間テストを終えると、教室の空気が少し濃くなった。一つでも多くの単語を、一つでも多くの問題を解いて一点でも多く獲得したいという休み時間の焦燥感はなくなり、わざわざ休み明けに返されるテストのスコアを気にすることもない。

「是近君は、ゴールデンウイークどこかに行くの?帰省とか?」

副委員長で行動を共にすることも多い佐野さんに声を掛けられる。

「いや、僕のうちはここが本家だから、帰省先はない」

「そうなんだ。私は、沖縄に親戚がいるからそっちに行く予定なんだ。じゃあ、ゴールデンウィークはどうするの?」

「彩羽と過ごすかな?長期休暇はいつもそんな感じ」

「あぁ。そうだね。彩羽ちゃんは元気?」

「うん」

多分…。

「じゃあ、ゴールデンウィーク楽しんでね」



ここのところ街中の塾に通い始めたという彩羽は、ほとんど家で顔を合わせない。朝は遠方の学校に通っている僕の方が早く出るし、夜はいつ帰っているのかよくわからない。たまにおやつの時間に、リビングで甘いものをかきこんでいる姿を見かけるくらいだ。

「塾は毎日あるの?」

と城崎さんに聞いてみると

「いいえ、塾は月水土の週3ですよ。他の曜日は道場に行っているみたいで私も彩羽さんをお見掛けするのは朝とおやつ時くらいですかね」

「おはよう」

パジャマ姿で、リビングに現れた彩羽に、城崎さんはレモンミント水を渡した。

「お弁当出来てますよ。夕食の差し入れは考えたんですけど、やっぱり熱々がよろしいでしょうから、夜休憩のときにお届けしますね」

「えっ。すみません」

「彩羽、ゴールデンウィークも塾行くの?」

「うん。長期休みは特別講習って朝から晩まであるんだ。夏休みとか冬休みとかは何週間も鉢巻付けてやるらしいよ。さすがに鉢巻は強制じゃないらしいけど」

「じゃあ、ゴールデンウィーク中も、ほとんど家にいないんだ?」

「うん。特別講習は5日だけだけど、そのあとは商店街の子たちと買い物行ったりして遊ぶ予定。あとは、合間に稽古行ったりとか?」

「そっか…」

慌ただしく準備をして出かける彩羽は、私服のキャミソールに短パン、穴の開いたカーディガンになぜか中学指定のごついリュックサックをしょって自転車に跨り、あっという間に出て行った。その背中を見送る姿が寂しそうに映ったのか、

「どこかにお連れしましょうか?」

と、城崎さんにいらない心配をかけてしまう。

「僕も、ちょっと出かけようかな?街中の本屋とか、見たい映画もあるし、昼食は適当に外で取ることにするよ」

といそいそと、朝食を取って、リビングをあとにする。



街中にいくと、大きな書店で、いくつかの参考書、読みたかった推理小説、ベストセラー本などを吟味し、購入すると、事前に取って置いたチケットの時間になり、映画館に入った。

幼いピアニストのコンクールへの過程を描いた話で、恋愛小説ではなかったが、本屋大賞に選ばれた経緯もあり話題性のある映画で時期柄なのか周囲はカップルばかりだった。

自分もこんな風にいつかだれかとそういった関係を結んで、出かけたり、思い出を共有することなどあるのだろうか。今は全く想像もつかなかった。

家に帰って、買った袋の片っ端から文字を追っているうちに日は暮れ、電気を点けようと立ち上がると暗闇のなかぼんやりと埃をかぶっている竹刀が目に入った。そういえば、中学に入ってから余裕がなくって道場も行かなくなったし、稽古もしていない。箪笥から布巾を取り出して、磨くと庭に出る。

何度か軽く振ってみるとイメージ通りに剣先が行かない。随分怠けていたせいで体も剣もそっぽを向いてしまったようだ。

―三千山に献納しに行こうと思っているんですけれど、忙しいですか?

八重ちゃんからのLINEが来たのは、城崎さん二人だけの夕食を取っているときだった。

「へぇ、あのピアノの映画見に行ったんですか?私も原作を読んで気に入ったんで見たいと思っていたんですよ」

「じゃあ、一緒に行けばよかったね。城崎さんは、ゴールデンウィーク休み取らなくていいの?」

「私にとっては、ここが自宅で、お二人が家族みたいなものですから…あら、そろそろ彩羽さんのところにお弁当を届けなきゃ」

「じゃあ、彩羽に届けてそのまま帰ってもいいよ。片づけは僕がやっておくから」

「えっ。じゃあ、すみませんが、お願いします」

城崎さんは残ったおかずをかきこむように食べると、いそいそとキッチンに入り、スープやおかずを温め直して、彩羽に夕食の差し入れを作って出ていく。誰もいなくなったリビングで、筍と山菜のおこわを噛み締めながら味わう。アユの塩焼きの身を小骨から丁寧に外す。

八重ちゃんと三千山に献納に行くようになったのは、丁度僕が成人の儀式を終えた翌年からだった。週間天気予報を確認すると、ゴールデンウィークの天気はおおよそ晴れだ。

―もちろん、お供するよ。いつにする?

―本当ですか。出来れば、明後日がいいかな?

―わかった。準備しておく。9時ぐらいにそっちに向かうよ。

―ありがとうございます。今年は二人で行こうと思うんですけど大丈夫ですかね?

今までは、案内に八重ちゃんの家の人が付き添ってくれていたが、二年も通えば道に迷うこともないだろう。

―わかった。お弁当は城崎さんに二人分頼んでおくよ

―じゃあ。よろしくお願いします

八重ちゃんとのLINEを閉じて、食事を終え食器を片付けていると珍しくお爺様がリビングに顔を出した。

「お帰りなさい。お爺様」

「あぁ。ただいま。音羽ひとりか?」

「はい。城崎さんは、さっき帰られて、彩羽は塾です」

テーブルを拭いて、椅子を引くとお爺様は腰掛ける。

「お夕飯は?今日は、城崎さん特製の山菜と筍のおこわですよ」

「それは、いいな。私も頂こう」

おこわは僕の好物で、僕とお爺様は好物が似ている。そして、城崎さんは僕の好物のときは必ず多めに作って置く。

『音羽さんは、食が細いですから好きなものぐらいたくさん召し上がってください』

というが、好物だからといってたくさん食べられるわけではないので、城崎さんの期待にはいつも応えられないのだ。それに比べて城崎さんの料理ならばなんでも好物だという彩羽は、僕の1.5倍は軽く平らげてしまう。残っていたつみれ汁と、山菜おこわを盛りつけるとお爺様の目が細くなる。お茶を入れて、お爺様の前に座る。

「学校はどうだ?」

「勉強に追われています。なかなか余裕がなくて」

「そうか、少しぐらい休んだ方がいい」

「はい。今回のお休みはゆっくりしようと思っていますよ。明後日も八重ちゃんと、三千山に行く予定です」

「あぁ。奉納の時期か。そうだ」

お爺様は、リビングの入り口に置いていた自分の鞄に近づくと、角が曲がった紙袋を寄与越した。よく見る店の羊羹だ。

「山に持っていくといい」

食べ終えると、お爺様はいそいそと自室に戻っていった。食器を片付けそのままシャワーを浴びると、布団に潜りながらベッドサイドの小さな灯りで昼間の読書の続きをする。たまにはこんな時間があってもいいのかもしれない。

うとうとと、文字を追うのが難しくなるころに、襖の向こうでドタバタと彩羽が何やら動いている。




三酉酒造に自転車で向かうと、大きなザックを背負った八重ちゃんが準備万端で待っていた。

「今日はよろしくお願いします」

見送りにいた八重ちゃんのお母さんに頼まれると

「はい」

と答えて八重ちゃんの自転車の後ろをゆっくりと追う。山に近づくにつれて八重ちゃんのペダルは重たくなっていく。

「大丈夫?」

後ろから声を掛けると、息を弾ませながら

「はい」

と八重ちゃんが答える。八重ちゃんの自転車は、シティサイクルだ。僕のは、通学用に毎日使うものだからと用意してもらったマウンテンバイクで、タイヤも太く多少の勾配も気にせず乗れる。わざと遅めにギアをチェンジして八重ちゃんに追いつかないように気を配る。

山道横の駐車スペースの隅に自転車を置くと、少しベンチに腰掛けて休憩を取る。

「情けない…」

すでに顔を赤くして汗を拭いている八重ちゃんが、ごきゅごきゅと喉を鳴らしながらお茶を飲むのをむせるのではと冷や冷やしながらちらちら見る。

「自転車の性能の差だから」

そういえば、去年まではこの駐車場までは車で送ってもらっていた。

「音羽先輩は、まだ剣道続けているんですか?」

「いや、正直に言うと中等部に入ってからは通えていないんだ。秋のスポーツテストとか体育祭とかあるし、持久走もあるから、慣れたらまた道場に手習いに行って体を鍛えないといけないね」

昨日、振るった剣の違和感を思い出した。手のひらを見ると、あれだけ固く豆だらけだったのにいまや白くつるんとしている。

「私も最近、生徒会とかかこつけて、全然通えていないんです。春に道場の演舞をして私が打ち手をしたんですけど、彩羽あのとき手を抜いていました。くやしいけど、もう空手では彩羽に勝てないのかも」

「はははっ。確かに彩羽の体力は化け物並だからね。僕ももう空手じゃ敵わないだろうな」

「……音羽先輩が…空手を辞めたのは、それが理由なんですか…」

俯いて表情は見えないが、八重ちゃんはかなり思い切った気持ちでこの質問をしたのだろう。下手なことは言えないと、瞬時に頭を巡らせた。あの時彩羽は八重ちゃんにどう答えたのだったっけ?

「いや。違うよ。単純に、僕には剣道の方が空手よりも性に合っていたというだけ。学校もそうだよ。彩羽には付属の規律した生活が性に合わなかったんじゃないかな。辞めてさっぱりしているようだよ」

付け足して応えたことで八重ちゃんは安心したようだった。勢いよくベンチから立ち上がると

「じゃあ、行きましょうか。早くしないと帰るまでに日が暮れちゃいます」

山道を上がってしばらくしたところに三千酉神社の分社が祀られている。手水で清めると、道中の安全を祈る。三千山は、頂上に着くまで三千の通り道があるように入り組んだ地形からそう呼ばれるようになったが、地元の登山客が多くなった今では山頂までゆっくり行っても往復三時間ほどのハイキングコースが用意されている。頂上までの道を辿りながら、生徒会運営についての日頃の愚痴を八重ちゃんは吐きだしていた。

「そうなんですよ。合唱大会で5年生のクラスが優勝して、ほとんどが合唱部のエースの立役者のお陰だって、合唱は一人の歌声ではなくってクラス全体のまとまりで評価すべきだろうってすごい揉めちゃって」

「まぁ、仕方がないね。審査員の音楽の先生は合唱部の顧問だし、その子を贔屓しているのもわかるしね。とはいえ、優勝のラストチャンスだった六年生もいるわけで、勝ち負けという前提があるからこそどちらの気持ちにも応えることはできないからね」

「もういっそ、両クラス優勝でいいと思いました。本当に宥めて納得してもらうのが大変でしたから」

「ははは。生徒会委員長っていっても、ほとんど自分の意見なんて聞かれていないからね。強い意見と相対する意見をどうやって仲裁するかって役なんじゃないかって僕も思っていたよ。対外的には生徒の代表として常に間違えたことをしないっていう緊張感もあるし」

「あぁ。それわかります。どんな些細なことでもこれやったらまずいんじゃないかって、すごい慎重になってますから」

八重ちゃんの溜まっていた思いを吐きだしたところで、山頂につく。三千山には山頂に展望台が付いている。昇って眺めると眼下に僕たちの生まれ育った町、遠くにビル群、さらに遠くにあるのが通っている附属校がある場所。視界には入りきらないほどこの地域も広いのに、僕らが毎日動いているのは特定の場所だけだ。付属校の教育方針は共に競い共に育つだ。誰が一番優れているのか、自分は置いていかれていないのだろうか、あの小さな学校で毎日毎日を怯えながら息をしている。ゴールデンウィークでハイキングに来ている人も多く、その人々の顔は自由で伸びやかなように思えた。自分が場違いな気がして

「混み合っているから、裏の方でお昼にしよう」

と八重ちゃんに声を掛けて早々に展望台を下りた。城崎さんに作ってもらった、おにぎりと唐揚げと卵焼きの簡単な昼食を終えると、帰り道の途中、目印の大岩でハイキングコースから外れて狭い獣道と、滑る岩の道を行く。

「わわっ」

ごろごろと、大きめの石が斜面を滑り落ちて八重ちゃんが小さな声を上げた。

「大丈夫?」

「はい、ちょっと足を滑らしてすみません」

整備された道ではないので、天候や野生動物などが通ることで崩れやすい。

「僕が通った後なら安全だから、足元見ながら歩いて。ゆっくりいくから」

20分ほど歩くと目的の石清水のある場所にたどり着いた。小さな祠の下に、穢れのない水が流れている。ここは、三千酉神社が管理している場所で、一般の人に知られていない場所だ。八重ちゃんは小さな声で祝詞を唱えたあと、背中のザックにあるペットボトルに清水を汲んでいる。深い森の薄暗い空は、少し太陽が傾いてき始めている。

昔、是近の祖先がこの地を与えられたときに開いたのが三千酉神社だ。是近の祖先は武将としてこの地を護りながら様々な事業を広げていった。鉄工、繊維、酒造り…真面目なこの地の人々は技術を磨き、やがて大きな財を成すようになる。そんな豊かな日々が続いたある年、何か月も雨が降らないという天災が起こった。稲穂は枯れ、作物も採れず人々が飢えを覚悟したとき、この細い清水が見つかった。酒屋は、残った米と見つかったわずかな清水で酒を造り神社に奉るとやがて雨が降り、地は元の豊かさを取り戻した。

そんな逸話があるように三千酉神社と三酉酒造は今でも深いつながりがあり、毎年この石清水で作られた貴重なお神酒を地の神に捧げる風習がある。

八重ちゃんのリュックにあった2Lペットボトル四本に清水を詰め終わると、僕の背中のザックと交換した。

「これぐらい持てますよ」

という八重ちゃんから半ば強引にリュックを交換すると、中から

「割れたら困るから」

と紙に包まれた瓶だけを取り出して自分のリュックに移す。もと来た道を戻り、山道の入り口にたどり着くと三千酉神社の分社の鍵を開けて去年の神酒を取り出し、今年の新酒の神酒を奉納する。八重ちゃんの祝詞が終わると、山道の自転車に跨って帰路に着く。

途中で八重ちゃんがLINEをしたのか、玄関にはまたお母さんが待っていた。

「お帰りなさい。ご苦労様でした。音羽くんもありがとう」

背中のザックを交換すると、夕食をご馳走するといった八重ちゃんのお母さんの申し出を、家に夕食が用意されているからと辞退して、帰宅すると城崎さんからのメモと、ラップにくるまれた夕食が待っていた。

―今日は彩羽さんに早めに届けてきます。お風呂に疲労回復の入浴剤を入れておきました。お疲れでしょうから必ずお湯につかってくださいね

夕食をもそもそと一人で摂り、指示通りにお湯につかると、時計を見ればまだ9時前だったがどうしようもないほどに瞼が重くなって横になった。


♧~♧~♧

中学校に入学して以来初めてのテストを終えると、テストの返却とともに成績表も初めて配布された。100点が並んだ答案用紙に10と◎が並んだ成績表を、クリアファイルにしまう。

「何か、やっぱちげーんだな」

こそこそと、答案用紙の点数部分を折り曲げているマサに、隠したいのならまるごとしまわないと丸の数で点数の予想ができるのでは?という本音はいわずに

「そうかな」

と、すっとぼけてみた。だが、この問題のレベルをお母さんに見せるのはある意味恐怖だ。そもそも、もうお母さんは私の成績に興味がないのかもしれないけれど。と、空白の保護者からのご意見という欄を横目に見る。



「夏休みだよ。海にプール!川でバーベキュー!」

「花火にお祭り!」

杏と理恵がはしゃいでいると、浜ちゃんが

「今貰った成績表とテストのことを一瞬でなかったことにするんだな」

と冷めた目で見ている。

「でもさ、俺たちが友達になれて初めての夏休みなんだから、色々どっかいきてぇよな」

とマサは二人のフォローに入る。

「そうそう。終わっちゃったことにくよくよしてても仕方ないもん」

と理恵がいう。そのセリフで、結果の予想が付くのだが…。

「浜ちゃんは夏休みも、家の仕事?でも、ちょっとぐらい手が空くでしょ?」

「あぁ、基本的には家でバイトするかな?まぁ、時間を作ることはできるよ」

浜ちゃんのテストも、成績表もまっすぐのままだ。

「私も家の手伝いしろっていわれるけど、友達との約束の方が優先できるよ。まぁ毎日遊び歩いていたら怒られるけど…」

杏は、テストをいそいそとしまい込む。一学期最後の下校は、みんな揃って中学の指定ジャージ姿。みんなジャージの裾をひざ丈ぐらいに織り込み、半袖の体操着の腕を捲る。

「彩羽は?夏休みどっか行ったりすんのか?」

「旅行とかはないけど、7月中と8月の頭は塾と習い事があって、8月のお盆過ぎからは塾の特別講座に行く予定かな」

「えぇっ。じゃあ、遊べないの?彩羽と海行ったら高校生とかにナンパされそうって思ってたのに!」

と、理恵の思わぬ発言に

「こんな田舎もんがナンパとか危ないから辞めとけよ」

と浜ちゃんがつっこむ。

「ならさ、三千酉のお祭りは?俺ら毎年行ってるんだ。花火も観れるし屋台も出るだろ?」

「三千酉神社かぁ…考えとくよ。それにいつも忙しいわけじゃないから、ちょっと街中に出るくらいは…とにかくLINEするよ」

と商店街との別れ道で手を振った。



「音羽、早かったね」

「ん。終業式だけだから」

Tシャツに短パン姿で、音羽は竹刀を振るっている。音羽は最近、また道場に習いに行っているらしい。

「二人とも暑かったでしょう」

城崎さんが、かき氷を持ってきてくれた。縁側に並んで座ると、掻きたてのかき氷がすぐに崩れて小さくなる。太陽に負けないように頭の痛みをこらえて、シャリシャリと急いで口に運ぶ。音羽はもう氷で食べるのをあきらめたらしく、溶けだした氷水を啜っている。

「最近、稽古がんばってるんだね」

「ん。まぁ鈍らないくらいは体動かしとかないと、それに…」

音羽はゴールデンウィークに、八重と山登りをして体力の衰えを顕著に感じたという話をした。

「八重は、今年も千酉の巫女をするの?」

「あぁ。すると思うよ。小等部と校舎違うから直接話したわけじゃないけど…何で?」

「実は…」

三千酉のお祭りに中学の友達から一緒に行こうと誘われた話をした。是近家では三千酉のお祭りは、花火や屋台を楽しむのではなく、境内の神楽殿で行われる三千酉の巫女と酒造りの唄に出てくる水の神や、土の神などの神話を元にした伝統行事を一族として見守る日だ。

「そうか。折角なら友達と一緒にお祭りを楽しめばいいんじゃない?是近の孫世代は僕が出れば十分だよ」

「そうかな?」

「うん。お爺様にも相談した方がいいとは思うけど…」

「じゃあ、相談してみようかな?」



「相談があると聞いて、早く帰ってきたつもりだったが、もうこんな時間になってしまったか」

お爺様は、テーブルの上にハーゲンダッツを3つ載せた。それを見た音羽が緑茶を淹れる。

「今年の三千酉祭りなんですが…友達と回りたいって思って」

「そうか…。いいんじゃないか。いつか、家まで送ってくれた商店街の子たちとか?」

「はい。それで…これも…」

と、テーブルの上に成績表とテストの入ったファイルを出す。一枚づつ問題も確認しながら、お爺様はにっこりと笑った。引き出しから、ペンと判子を取り出すと、さらさらと達筆な字で保護者確認欄に書き込む。

「全く違う環境でどうなることかと思っていたけれど、彩羽が柔軟に対応しているみたいで安心したよ。当日、舞を見に行かないのならば、事前に八重ちゃんの様子を見に行ってはどうかな。八重ちゃんは彩羽にとっても友達だろう」

「はい、ありがとうございます」


LINEで八重に陣中見舞いにいくと送ると

音羽先輩も一緒?

と聞くので

うん。二人で行く

と返した。

三酉酒造に着くと、すでに稽古が始まっていて笛や太鼓と共に酒造りの男たちの野太い声があたりに響き渡る。最後の火入れの唄に合わせて、赤の衣装を纏った火の神と、浴衣を着ている八重が中央の樽の周りをくるくる舞う。


火はちりぢりに 三千の山の淵に落ちる わしらの仕事は三千の山巡り 山に日を喰われたら焚火を燃やし 思い出す 遠き妻待つ家の 雛の口の中紅く染まる坊や 


唄が進み、舞は強く激しくなり、神と巫女は互いに距離を縮める。それに合わせて舞を囲むように笛や太鼓を持った酒造りの男たちの音が大きくなる。

後ろで稽古を見ていた観客たちに混じって手拍子を打つ。酒造りの唄は、米洗いの回数、米の炊き具合、微妙な時間のズレで味の洗練度が異なってくる酒造りにおいて職人たちの息を合わせるためのリズムとして生まれた。だが、この辺りの酒造りの唄に少し工程とは違った神話的な表現が混じっているのは、酒と土着の由来の深さからだろう。ひらりひらりと、舞を続ける八重の手足が、開けた浴衣からあらわになる。頬は上気し、首筋に細かな汗の玉が浮かび、激しい舞の動きで、球は空中に拡散して八重が発光しているかのような幻想的な空気が纏う。


三酉海の向こうから新たな火の上る 浜に打ち上げ御大社 舟は珠を入れて押せ舟頭 

待ちかねました これがお仕上げか おめでたい


火の神が樽の中に魂を入れて、巫女が封印をする。お神酒の完成だ。

ごくごくと、配られた水を飲みながら、観客の中に音羽がいることに気付いた八重が慌てて浴衣の乱れを直すとこちらに走り寄ってくる。

「音羽先輩、わざわざ、ありがとうございます」

「お疲れ様、これよかったら…」

とお土産に用意してもらった水まんじゅうを渡す。

「彩羽もありがとう」

挨拶を交わしていると、カタカタと小さな下駄を鳴らして女の子が寄ってきた。

「八重おねえちゃん!」

八重はぶつかるように走ってきた女の子の手を握り

「尚ちゃんもお疲れ」

としゃがんで目線を合わせる。尚ちゃんは、私たちの顔が似ているのが不思議なのか遠慮のない視線をこちらに向けていた。

「こんばんは。私たちは八重ちゃんのお友達なの」

「……こんばんは」

「尚ちゃんは、今年から巫女になったんだよ。小学校4年生。私に巫女の踊りを教えてくれたお姉さんが今年から卒業してしまったから、変わりに船頭のお孫さんが巫女をやってくれることになったの」

「へぇ。巫女は何歳までやっているものなの?」

私たちの会話に飽きてしまったのか、尚ちゃんはお母さんの所にカタカタと下駄を鳴らして行ってしまった。私たちが小学校4年生の時にあんなに幼かっただろうか。

「大体中学生ぐらいで引退する人が多いみたいです」

「じゃあ、八重の巫女姿もあと三年か」

私たちは一年間で随分変わっていく。八重の舞にも去年まではなかった何かに取り憑かれたような怪しいような美しさが垣間見られた。



「わぁ。彩羽、綺麗だね」

「私たちも浴衣にすればよかったかな」

南国風の花が描かれた揃いの作務衣にビーチサンダル姿の杏と理恵が、私の浴衣姿を見て声を上げた。去年まで来ていた子供用の浴衣は、寸足らずになっていた。お母さんが若い頃に着ていたという白地に藍色の夕顔が描かれた浴衣は何だか年相応でない気がしていた。

「双子コーデの方がかわいくっていいよ」

「どうせ、慣れない下駄で足を挫くだろうから、二人はその方がいいよ」

と、浜ちゃんが声を掛ける。

「まぁ、とにかく行こうぜ。それにしても去年より随分人が増えているから、祭りの最後までに神社にたどり着くか不安だ」

三千酉神社は、三千山の麓にある。元々は花火をするような祭りではなかったのだが、三酉の巫女の舞の奉納の際に有志が打ち上げ花火をする企画を立て年々盛り上がり、今年は300発もの花火が楽しめるらしい。もちろん花火は神社の境内が観覧スポットになっている。境内への道程に出店も増えて益々訪れる人数も増えている。

「あっサイダー飲みたい」

「私もその隣のかき氷食べたい」

理恵と杏が何か見つけるたびに、境内までの順路を外れて、なかなか進まない。マサは二人が買った食べ物が入ったポリ袋をいくつも腕に下げ、浜ちゃんは二人が迷子にならないようにさりげなく後ろにつく。

「足、痛くならないか?」

「大丈夫だよ。慣れているし、マサこそ手痛くならない?ちょっと持とうか?」

「なっ…子供扱いすんなよな」

とマサが強がるので、巾着からハンカチを取り出し、うなじを拭い、汗止めを塗る。人込みで湿気てまとめ髪からはらりと一束おくれ毛が出てくる。鏡で確認していると

「お姉さん、俺たちと一緒に行こうよ」

と、高校生らしい若者が三人目の前に現れた。きょろきょろと辺りを見回すがそれらしき人物は見当たらない。

「惚けないで、弟と花火なんか見に行っても面白くないでしょ」

と、一人の若者が手鏡を握っていた腕を掴んだ。

「ちょっと、俺弟じゃないですから」

その手をマサが払いのけた。そのまま自分の背中に私を隠すように移動させる。

「どうかしたか?」

そのとき、やっと買えたらしい浜ちゃんが二人を連れて戻ってきた。

「杏たちと一緒だと、花火までに神社につかなそうだから、俺たちは先行くわ」

と、マサが手にかかっていたレジ袋を浜ちゃんに押し付けて私の手を取った。

「行くぞ。彩羽」

「あっでも…」

と言おうとすると浜ちゃんが、ニヤニヤしながら手を払った。

「大分登ってきたね」

後ろを振り返ると、高さで境内までの階段の半分ほどまで来たことがわかる。左手はマサに取られたままだ。マサはほとんど話をせずにまっすぐ境内の鳥居を見ている。その時、ひゅるるるという花火が立ち上る音がした。目を向けると、大きな金色の火花が蒼い空に広がる。

「始まっちゃった」

花火は、神楽殿での舞の奉納の間行われる。尚ちゃんは緊張していないだろうか。一瞬見ただけの小さな巫女を想う。いや、八重の背中を見て舞うのだ。きっと堂々とした舞を披露しているに決まっている。

「止まらずに前に続いて歩いてください」

警備の人の声が、花火の音の合間にスピーカーから聞こえる。相変わらずマサは何も話さない。握られたままの手が汗ばんでいる。



境内にたどり着くと、すでに花火は終わり、神楽殿の前で三酉酒造の唄い手たちが樽酒の振舞をしている。松明の火で照らされた神楽殿の中で、巫女の二人が観客に手を振って愛想を振りまいている。暗がりで良く見えないがさらに奥に正座をしている何人かの見守り役に音羽もいるのだろう。

「ここまで来れば人込みに紛れることもないでしょ。手洗ってくるね」

と、握り締めているマサの手を外した。

「あぁ。ごめん」

人気の少ない手水で、手を洗い、口を湿らす。暑さのせいか、顔がほてって仕方がないので、湿らしたハンカチで首筋を冷やす。

「スマホやっと繋がったと思ったら、浜ちゃんたち境内まで来るの諦めて帰るんだって」

振舞いの樽酒もなくなったのか、神楽殿も閉じられ、松明も残り火がわずかにちりちりとしている。

「私たちも、花火見れたような見れなかったような…だし、結局何だったんだろうね」

あぁ。何なんだろう。ちりちりと胸の奥で残り火が燃えている。



♧~♧~♧

秋の怒涛のスポーツテストに体育大会、文化祭を終えると息つく間もなく、期末テストを終えて冬休みになる。

「彩羽、出かけるの?」

「うん。今日から冬期講習なんだ。年末まで毎日。」

ショートブーツに、ミニスカート、もこもこのコートという寒いんだか、暑いんだかよくわからない恰好で彩羽は入れ替わりに出かけてしまった。女子は色々と大変そうだ。道着に着替えて、何か軽く腹に入れてから道場に行こうかと思ってリビングに向かうと、珍しくお母さんの声がした。挨拶をしてから行こうと、扉に手を掛けて緊迫した声色にドアノブに掛けた手を下ろし、耳を澄ます。

―らないわ。知っていたとしてもどうしようもないじゃない!

―こんなことになるんだったら、この家に入らなかったのに

もう一人の低い声はお父さんだ。

―なんですって!あなたは私じゃなくってそれが目的だったってこと!

―そもそも、君もそうだったんじゃないか

これ以上聞くべき内容ではないと、頭の中で警告音が響いた時、いつの間にか現れた買い物帰りの段ボールを運んでいる城崎さんが声を掛けた。

「音羽さん、ちょうど良かった両手が塞がっていて、ドア開けてくれます?」

城崎さんの声はよく通る。リビングの会話がピタリと止まったのを確認して、ドアを開けた。僕の影から二人が見えたのだろう。

「あら、お二人とも…って音羽さん、どこ行くんですか?せっかく…」

「稽古の約束をしているから」

いたたまれず、道着のまま靴を履くと家を飛び出した。考えるな。考えるな。頭の中でさっきの会話がパズルのピースのようにぐるぐると回転して正解を導きだそうとしている。

偏っていく思考を振り切るように、無我夢中で手足をばたつかせ走る。何も聞いていない。冬の風がむき出しになった耳を襲う。何も聞いていない…はずだ。

「音羽先輩?」

耳鳴りのする耳が、幻を捉えたのかと思って振り返ると八重ちゃんがいた。

「どうしたんですか?そんなに慌てて」

ジャージ姿の八重ちゃんは、首にかけたフェイスタオルを取って近づいた。

「汗だくですよ。ふふふ」

いつもと変わらない現実がふいに戻ってきたような安心感が包んで、思わず近づいてきた八重ちゃんを抱きしめた。急に何をしているんだかと我に返ったが

「寒くって…ごめん」

しばらく八重ちゃんにもたれかかるようにその温かさを抱きしめ続けていた。一瞬、腕の中で八重ちゃんは少し驚いたような反応をしたが

「そりゃ、そうでしょうよ。道着で走りにくくはありませんでしたか?」

と僕が離れるまで背中をポンポンと叩いた。小さな子を宥めるように。

近くの自販機で、温かいカフェオレを買うと僕の手に握らせるように渡す。

「もうじき持久走大会だから、練習していたんです」

あえて、僕の話は聞かないようにしているのが八重ちゃんの賢さで優しさだ。

「僕もだよ」

靴下を履かずに素足で走り出したので踵がヒリヒリ痛い。靴擦れを起こしているのかもしれない。

八重ちゃんに買ってもらったカフェオレが、すっかり冷えて家に帰ると、両親はもう家にいなかった。部屋に入ると踵は擦り切れて血がにじんでいた。絆創膏を貼りながら、冷たいカフェオレを啜ると心に静寂が戻ってくる。変わらないものなんてない。変わろうとするものを止めることなんてできない。

年末にはいつもいることが少ない家族がみんな揃う。一同が揃う夕食にはこの間の揉め事などなかったかのように会話がない。お父さんや、お爺様は酒を啜り、僕やお母さんは箸が進まず、城崎さんが彩羽の取り皿に忙しく鍋の具をよそった。夕食を終えると、彩羽が今学期の成績とテスト結果を披露する。

「すごいな。今回も満点ばかりじゃないか」

と、お爺様が褒めると、お父さんが保護者欄に一般的な一文を書き添えて押印をする。誰もが席を立つタイミングを見計らっていると

「年越しに友達と神社に行きたいんですけどいいですか?」

完璧な後出しじゃんけんで彩羽がねだった。

「あの、商店街の子たちとか…」

「夜中に女の子がうろうろするなんて危ないわ」

とお母さんが懸念すると、お爺様が少し考えて

「折角だから行ってきなさい。思い出になるだろう。」

と彩羽の肩を持ったのでそれぞれの席をたった。


♧~♧~♧

毎年1月4日は、是近家の一族で初詣に三千酉神社での初詣にいくと、帰りに宴会を開くのが習わしになっている。


年末は初めて年跨ぎの初詣に、雨避け商店街の子たちと行った。

シャッターが下りている深夜の商店街に一つだけ煌々と明かりのついた商店がある。うなぎ屋中州だ。今は息子世代に厨房を譲ったという理恵のお爺さんが趣味で覚えたという、大晦日だけ営業している手打ちそば店に近所の人たちが集まって店内は満席状態だ。アーケードに丸椅子と簡易テーブルを出したテラス席に、浜ちゃんとマサが手を振った。

「彩羽!こっちこっち」

「大晦日の深夜によく外出させてもらえたな…。断られる前提で誘ってみたんだけど」

と、紙コップにそば茶を注ぎながら浜ちゃんが言う。

「うん。まぁ…。ところで、理恵と杏は?」

「ほら、あそこ。出発はもう少しあとかな?」

辺りを見回すと、赤いエプロンと三角巾を巻いた二人があちこちの席を忙しそうに給仕している。モコモコしたセーターと、黒いレザーのミニスカートはこの日にお揃いにしようと三人でネットショッピングで用意したものだ。理恵はニーハイで、杏はカラータイツを合わせている。

「私も手伝った方がいいかな?」

「いや、客の顔がわかんねぇだろ?俺たちも足手まといになるだけだから」

「確かに…」

いつもなら、この年の瀬は音羽と普段見ることのない音楽番組を見ながら、城崎さんが作ってくれる年越しそばを啜りながらたわいもない話を交わしている年の瀬に、こうして外で友達と共に過ごすのは何だか、不思議な感覚だ。


「お待たせ!」

深夜だというのに、コートも着ず杏と理恵の顔は赤く上気している。5人分の小さな年越しそばが入ったお椀をテーブルに乗せると、二人はすっかり冷めたそば茶をグビグビと飲み干した。

「理恵のおじいちゃん、もういっそ、そば屋に転身したほうがいいんじゃないかっていうぐらい大盛況だね」

「んーもう。足も手も今年一しびれてる…でも、お陰で」

じゃーん。っと懐からポチ袋を出してにやにやしている。

「ペビーカステラ食べたい」

と、そばをズルズル啜りながら、杏が言った。

「私はチョコバナナ!」

と理恵も負けずの吸引力を見せながら応えた。二人の食欲は年の暮れまで変わらぬようだ。


三千山の麓の駐輪場に、自転車を止めるとそこからすでに参拝客が神社に向かってそろりそろりと登っている。

「お祭りの時もそうだったけど、初詣はそれ以上だ」

先の見えない行列に早くもあきれ果てたような声で浜ちゃんがいう。

「去年は来なかったの?」

と聞くと

「去年、私たちは小学生だよ。さすがにこんなに夜中に出歩くことは許してもらえないって」

と、さっそく目星の屋台を探しながら、杏が答える。

「でも、何だか夜中に友達だけでうろうろしているっていうだけで、ちょっと大人になった気分!」

年越しそばでエネルギーをチャージ出来たのか、理恵もさっそく行列の最後尾について歩き始めた。その隣を杏と私が、後ろを浜ちゃんとマサが歩き始める。

十分に一メートルも進まない行列に、いつもかましいのが取り柄の杏と理恵もやがて会話の内容もなくなって静かになった。

空には無数の星と、足元を照らす大きな月が昇っている。そのとき同じように長い行列に沈黙した周りから、ざわざわと声が広まる。何だろう。とスマホの液晶画面を見て気が付いた。

「あと5分だ」

杏が気付いて叫んだ。時刻は11時55分。足が進まなくても時間は過ぎる。

「どうしよう」

「どうしようっても、何も起こらねぇだろう」

あきれたように、浜ちゃんが行列の先を見る。神社の鳥居はまだ遠い。

「そうだ!」

「HAPPY NEW YEAR!」

無数の星をバックに、5人のピースを重ねて五芒星を作る。それぞれのスマホに収めた。私たちは確かにここにいるのにそれは流れ星みたいに、儚い写真だと私は思った。



シュッシュッという微かに聞こえる懐かしい音で目が覚めると、重たい雨戸を開けて今年初めての日の光を見た。

「明けましておめでとう。彩羽」

朝日に照らされながら、剣を振るう音羽の姿があった。

「明けましておめでとう。音羽」

「昨夜は何時に帰ってきたの?」

寝間着姿のまま、目をごしごしと擦って目を覚ましていることを音羽はこちらをちらりとも見ないでもわかったようだ。

「三時くらいかな?音羽は朝ごはん食べた?」

「ううん。まだ」

是近家の三が日は好きな時間に起きて、好きなだけ呑み(ただし成人に限る)、好きなだけ寝ても良いという習わしだ。年末に、城崎さんがまとめて作って置いてくれたお節や、御雑煮の汁、箸休めの白菜漬けを並べていると、お爺様がリビングに下りてくる。

「彩羽、明けましておめでとう」

「お爺様、明けましておめでとうございます。お爺様も摘まみますか」

「あぁ。頼んでもいいかな」

という会話をしていると、庭から音羽も戻ってきた。

「音羽はお餅食べるでしょ?何個?」

「一個で十分だよ。あっお爺様、明けましておめでとうございます」

トースターの中に、餅を五つ入れると雑煮の汁を三杯分温める。音羽がお重からお節を分けているのをみて私は慌てる。

「あぁ音羽!」

「わかっているよ。栗きんとんと、黒豆と、伊達巻多めだろ?何年兄妹をやっていると思っているの?」

そんな私たちのやりとりを横目に、お爺様は白菜の漬物をあてにさっそく一杯始めている。三酉酒造の金箔入り祝い酒だ。

「そんなに少しで足りるの?」

お爺様と、音羽に盛ったお節は、一口づつで終わってしまうような量だ。

「この後、走りに行こうと思って。もうじき持久走大会もあるし」

テレビでもちょうど駅伝の放送をしている。

「えっ。なら。私も走りに行きたかった」

「そんなに食べてすぐに動くと、気持ち悪くなるよ」

確かに、お椀ではお餅が三個入らずにどんぶり鉢入った雑煮と、甘いものでごった返している取り皿のカロリーはえぐい。しょんぼりしていると

「わかったよ。ジョギングは夕方にするから」

と、ハムスターのように小さな口で、何度も千切りながら音羽は餅をようやく一つ平らげた。



夕方、ジョギングに出ると有名メーカーのスポーツウエアの上下に身を包んだ音羽は、訝し気に私の格好を見た。中学校のジャージを上下に着用している。グリーンに白を混ぜたいわゆる漂白剤の容器のような色のジャージは、この周囲でも飛び切りダサい色合いだということを、街中の塾に通っていて理解していた。でも、ここは地元だからそんなに浮かないだろう。私は是近と刺繍がされたジャージの中に体操服を仕込んで、柔軟をする。観念したかのように、隣で音羽もストレッチを始めた。

「ここから10キロだから、大体雨よけ商店街を抜けて駅の改札口で折り返して、三酉酒造まで行ったら戻ってくるとそのくらいかな」

グーグルマップを確認して音羽はスマートウォッチのストップウオッチを動かす。私もマップをもう一度確認すると

「じゃあ、いっくよ。よーい。ドーン」

と、呆気にとられた顔をした音羽を置いてスタートを切った。一年間、毎日着て洗濯を続けた中学のジャージはよれて体に馴染んでいる。ただ難点があった。防水や速乾などの機能性に全く特化していない。つまり、寒いのだ。布の編み方が粗雑で、隙間隙間から一月の冷たい風が直撃する。体にフィットするという利点を選んだ以上、この弱点は致し方ない。自家発電で補うほかない。つまりスタートダッシュからしばらく全力疾走で走り込み、体を温める。雨よけ商店街の破れたアーケードを抜け、何となく駅舎の柱にタッチして折り返すと、しばらくして音羽が見える。呼吸は乱れていない。長めの前髪は爽やかに風に揺れてそれほど汗もかいていないようだ。一方私の呼吸は早くなり、左右に垂らしたおくれ毛がピタリと両頬にくっつくほど汗だくになっている。タオルも持っていないので素早く汗を、ジャージの両袖で拭くと、乱れた呼吸を無理やり抑え、音羽と通り過ぎる瞬間、拳を合わせた。

何度か振り返り、音羽が遠くにいることを確認すると、ジャージの上を脱いで腰にきつく縛ると半袖の体操服になった。是近の家の横を通り過ぎ、八重の家を目指す。背中から流れた汗が腰を辿り、足に流れ着く。速乾でもないジャージが汗で纏わりついて不快極まりない。

スタートダッシュで無理した分が、一気に足に襲って太ももを引き上げる力が倍必要になる。一歩を小さくすると、ゴールが遠のく気がして自分の手足のフォームが乱れていくのを止められない。三酉酒造の門が見えてきたところで、背中をトンと押された。音羽だ。すいっと何でもないことのように追い抜くと、軽やかな足取りで三酉酒造をターンし再び私を抜き去っていく。

「お疲れ様」

是近の門ですっかり汗が引いて、分厚いスポーツ観戦用のコートを着込んだ音羽から、スポーツドリンクを受け取る。

「完敗だ」

と情けない声を上げた私に

「お風呂沸いてるよ。先に入っておいでよ」

とどこまでも音羽はさっぱりしていた。



風呂から上がり、スキンケアや髪の毛のドライヤーを掛けている間に、音羽も汗を流したようだ。飲み物を取りにリビングに行くとお母さんと、音羽が並んでキッチンに立っている。

「彩羽?飲み物取りに来たの?」

「あぁ。うん」

「冷たくて、甘いのでしょ?」

「あぁ。うん」

桃のシロップを炭酸で割った飲み物を音羽が用意して、私の目の前に出すと、音羽はまたキッチンに戻ってお母さんと作業を続けている。いい匂いがこちらまで漂ってくる。

「彩羽?お父さんとお爺様を呼んで来てくれる?夕食が出来たから」

食卓に大きな鍋が置かれ、ぐつぐつとすき焼きが煮えている。大きな牛肉が良い色に染まると、お母さんが一人一人に配っている。

「僕とお爺様は熱いのが苦手だから、先にお母さん食べなよ」

といって音羽が二回目の牛肉と一緒に白ネギを鍋に入れる。

「お父さん、あなた、二人ともワインでいい?彩羽はごはん食べるでしょう?」

「あぁ、頼む」

「なら、ワインは僕が開けますよ。愛羽はご飯よそってあげて」

とお父さんはワインセラーを見に行く。

締めのうどんまで誰一人欠けることなく食べ終えると、お母さんは蒼いリボンの付いた化粧箱を音羽に、ピンクのリボンの化粧箱を私に渡した。続いてお父さんが

「ラッピングしてもらえばよかったな」

と同じコードレスイヤフォンをくれた。

「これは儂から」

とお爺様が紙包みのプレゼントをそれぞれに渡す。

「ありがとうございます」

音羽と声を合わせて言うと、

「明けましておめでとう」

と三人から返ってくる。料理は音羽が手伝ったからと、片付けはお母さんと二人、キッチンに残ると食洗機を回しながら、

「そういえば、明日音羽は三千山でトレイルラン?山で走ってくるって言ってたわよ。彩羽も行くの?」

「えっそうなの。私も行こうかな?」

「じゃあ、二人に朝ごはん作って置くわ」

「本当?じゃあ、ますます頑張っていってくる」

「城崎さんみたいにすごいものを期待されても困るわ」

と釘を刺しながらお母さんは楽しそうに笑った。



「音羽、私も明日トレイルランに行くよ」

久しぶりに自分で布団を敷きながら、襖の向こうに声を掛けると返事はない。隙間から明かりが漏れているので眠ってはいないだろう。

「音羽?寝落ち?」

ともう一度声を掛けても返ってこないので、襖を開けると音羽はお父さんからもらったイヤフォンを早速かけていた。背中を指で押すとようやく気付いたようではっとした表情をこちらに見せた。

「トレイルラン?一緒に行くの?いいけど…」

「けどって…」

今日はたまたま、上手くペースが掴めなかったからと反論しようとして止めた。

「じゃあ、明日の朝、出発は6時で」

というと、またヘッドフォンを嵌めて本を読み始めた。

「わかった」

聞こえているのかわからない音羽に答えると、お母さんにLINEで明日の朝は6時出発で!とメッセージを送ると、了解のスタンプが押されて返る。

最近の音羽はこんな感じだ。昔から、何か発言する前に一度自分の中で言葉を吟味するようなところはあったけれど、今は言葉を隠している。音羽が何かを成し遂げようとするならば、もうそれは決まったようなものだった。音羽が隠そうとしている言葉をきっと私じゃ見つけられない。


小さく握られた俵型のお握りを見て懐かしいと思った。湯気の立つ細かな大根が浮いている味噌汁も。そういえば、幼稚園に通っていた頃は時折、お母さんがお弁当を作ってくれた。

大人に作るのと同じようなお弁当を作る城崎さんと違って、お母さんのお弁当はどれもこれも小さくかわいらしく作られていた。一口大の俵型のお握りに、ミニトマトのベーコン巻き、クマの顔になっている小さなハンバーグ。とことん細かく刻まれた野菜。ノーメイクでエプロンをつけたお母さんは、いつもより少し幼く見えた。

三千山への上り坂を力任せにぐいぐいと登る音羽の背中を必死で追う。これじゃあ、まるで昨日の私だ。全く違っていたのはその体力だった。駐輪場にマウンテンバイクを置くと、音羽はバックパックの固定を確かめ、シューズの靴ひもを確かめ、軍手をはめると無駄のない動きで走り出した。

「音羽っ」

小走りで一歩一歩を確実に捉える走りをする音羽を見失わないように付いていく。

「段差があるから喋りながら走ると口の中を切るよ。付いてこれなかったら自分のペースで登ってきて、一本道だから迷わないよ。展望台で待ってる」

音羽のペースに付いていくことを諦めて、山登りよりも少し早いぐらいのスピードで歩く。

やけに人が少ないと思っていたら、ポツリポツリと雨が降り出した。

頂上につくと、展望台には屋根が付いていて、その下で景色も眺めずぼんやりと屋根を眺めている音羽がいた。

「雨が降り出したよ」

「そうだね」

音羽のことだから、今日こんな風に雨が降り出すのを天気予報で知っていたのだろう。リュックから携帯食とペットボトルを取り出すと、音羽は何も言わずに寄与越した。

「帰りはぬかるんでいるから走れないよ」

「そうだね」

予定調和の会話。予定調和の未来。音羽の眼にはどれほど先の未来が映っているのだろう。


♧~♧~♧

そして、明けて4日。昨日までの天気の崩れが嘘のように快晴だ。朝から、家紋の付いた袴を着ると、襖の向こうで今年お母さんから譲ってもらったという牡丹の晴れ着に彩羽が悪戦苦闘している。「あぁ、もう」というため息交じりのつぶやきが聞こえてくる。丈が少し合わないようで、おはしょりを幾度も調整し直しているようだ。

縁側に出ると、剣を振るう。滑らかになってしまった手のひらは、いつの間にか元のゴワゴワした豆のつぶれた皮になって、竹刀の柄にしっくりと馴染んだ。

シュン。シュン。シュン。刃は空中を舞う。縦に横に斜めに。空間を割き、淀んだ空気が現れる。あぁ、そうだ。誰かを撃つために僕は刀を振るっていたわけじゃなかった。僕は僕の息をするために、生きるためにこうして剣を振るうのだった。


三千神社の駐車場に着くと、三酉酒造の人たちも到着時間が同じだったようで、八重ちゃんがいつも通学に使っている車から出てきた。

「音羽先輩!明けましておめでとうございます」

水色や赤、緑と艶やかな色彩に描かれているのは毬。真っすぐで清く、愛されて育った八重ちゃんにぴったりな晴れ着だ。

「八重ちゃん。明けましておめでとう。とってもかわいいね」

というと、

「ありがとうございます」

と答える。八重ちゃんの後ろをひょこひょこと慣れない下駄を鳴らして追いかけるのは確か船頭のお孫さんで巫女になった尚ちゃんだ。

「尚ちゃんも明けましておめでとう。お着物似合っているよ」

というと、八重ちゃんの背中に恥ずかしそうに隠れながら

「ありがとう」

と呟いた。



是近鉄鋼、三酉酒造、三江製紙、三江製糸、元々是近の一族から派生したそれぞれの会社にはまだ幾人かの是近姓の役員が残っている。事業内容ではほとんど縁がなくなってしまった今も毎年4日の仕事始めの前に集まって商売繁盛の祈祷を受けるのはそれだけ是近家が血や地のつながりを大切にしている証拠だろう。

総勢20名を超える地元企業の上役たち、さらに縁者や部下や系列会社の人々が集まり拝殿は隙間なく人で埋め尽くされる。僕や彩羽、八重ちゃんは後ろの方で微かに漏れ聞こえる祈祷を受けてぞろぞろと退出する人々に急いで道を開ける。

最後に拝殿から悠々と出てきたのが、創業者の一族たちだ。

「では、是近家で新年会をやりますので、お立ち寄りください」

お爺様がいうと、僕らは早々に退却する。すでに是近家では、城崎さんの指示で、親戚の女衆がいそいそと宴会の準備をしている。

たすき上げると、次々と到着する重鎮たちを大広間に案内し、彩羽はお茶を出す。お膳を配り終え客が揃うと、お爺様が大広間に現れる。その後ろに付いてきた人は、お父さんではなかった。

「皆さん、今日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。新年の門出の前に是近鉄鋼の現社長の私から大切な話があります。」

客人たちの注目が集まると、広間の空気が一瞬固まる。

「来春を持ちまして、私は現社長を退き、次期社長として是近鉄鋼製造部長の門田氏が就任し、現在是近鉄鋼と是近家で所有していますこの是近の邸宅を夏には三和地所に売却します」

固まった空気が一気にどよめきに変わる。瞬時に、座敷の中のお父さんの顔を見た。まるで罪人が宣告を受けているかのように、眉を顰め、唇を噛み締めている。傍らにいたお母さんは、反対にもうこの件については少しの期待もしていないというような他人面だ。

「売却金について、是近家所有の部分は分筆で定められた分を現金で支払うこととします。この後、別室で相続権をお持ちの方を個々にお呼びし契約書を交わしますのでよろしくお願いいたします。なにか異論のある方もその場でお聞きします。では、ご歓談ください」

屏風の前でそれだけを宣言し、お爺様と門田さんは退出してしまう。代わりにお爺様の秘書が大広間に入り、是近家の氏を受け継ぐ人に耳打ちをしている。

「ねぇ、音羽、いまお爺様がおっしゃったことって、つまりどういうこと?」

彩羽が耳打ちをしてくる。

「是近鉄鋼が一族経営から外れて是近本家もなくなるということだ」

手短に説明すると、僕は彩羽の手を取って立ち上がった。これが最後だとしても、是近の氏を名乗っている以上やるべきことは決まっている。お父さんとお母さんのいた席はいつの間にか空になっている。質問攻めに遭うだろうことに居たたまれなくなったのだろう。

台所に行くと、城崎さんが慌ただしく熱燗や、ウーロン茶、ビールに冷酒の準備に追われている。

「音羽さんも、彩羽さんも無理をせずに、部屋に戻っていただいてもいいのよ」

と、声を掛けてもらうが、

「いや、僕たちも手伝います」

と、僕がいうと、彩羽も何かを覚悟したように頷いた。



「明けましておめでとうございます。登喜羽おばあ様」

登喜羽おばあ様は、お爺様の姉にあたる。

「あら、音羽さんに、彩羽ちゃん。あけましておめでとう。大きくなったわね。今年で中学一年生だったわよね」

是近家で育っただけあって、登喜羽おばあ様は肝が据わっている。これほどの騒ぎがあったとしてもその動揺はおくびにも出さない。上品な紫の晴れ着の懐から、ポチ袋を出すと、僕に二つ渡す。彩羽は丁寧にお茶を入れ差し出した。

「ありがとうございます」

「勉強頑張るのよ」

「はい」

隣では、そんなに時も経っていないのに既に赤ら顔になっている幸翔お爺様が膝を立てて空の徳利を振っている。幸翔お爺様は、お爺様の弟だ。彩羽が素早く熱燗をおちょこに注いだ。

「どうなっている?なんで是近の直系の俺たちに先に話がない?」

先に秘書に呼ばれたのは現三江製糸社長だったので余計に腹立たしいのだろう。是近家の総面積は、本家の周りの裏山を合わせると、100㎡ほどある。是近家が所有しているのは、建物があるほんの一部で、ほとんどが是近鉄鋼や系列会社の所有になっている。幸翔お爺様は、受け継がれた板金工場を僕たちが生まれる何十年も前に廃業しているので、降って湧いたように出た売却金の話にすぐにでも飛びつきたい気持ちなのだろう。

「そんなこと、この子たちに難癖をつけても仕方がないわよ。さぁ二人とも他にもご挨拶してきたほうがいいんじゃない?」

と登喜羽おばあ様の助け舟に、ビールや冷酒の載ったお盆ごと置いてその場を去った。



「あけましておめでとうございます。三酉お爺様」

八重ちゃんのお爺さんは現役の杜氏だ。酒は嗜むものではなく、確かめるためにしか飲まないので、いつも薄く冷めた緑茶を好んでいる。

「音羽くん。いつも八重に色々してもらっているみたいですまないね」

家紋の付いた藍色の袴の肌は、いつもピカピカと光って健康そうだ。懐から年季の入った長財布を取り出すとキャラクターのついたポチ袋を僕と彩羽に一つづつ渡す。

「いえ、八重ちゃんに助けられているのは、いつも僕の方ですよ」

といいながら、お礼を言う。

「去年は三千山に二人で登ったんだろう?八重は夕食の時に音羽君のことばかり話していたよ」

「そんな特別なことはしていませんよ」

「これからも…おっと」

その時、秘書が声を丁度かけたので話が途切れ

「どうか八重のことをよろしく頼む」

と立ち上がりながら、頭を下げたその顔はすっかり孫好きのおじいちゃんの顔だった。



酔いが回った幸翔お爺様を、どうにか迎えのタクシーに乗せ、来客を全員見送るとすっかり日も暮れていた。まだ、お爺様は部屋から出てこない。お母さんと、秘書、それに弁護士も詰めた部屋に籠ったままだ。僕らは一旦部屋に戻って晴れ着を部屋着に着替える。昼食を抜いてしまったので、きつい帯紐を緩めると彩羽の腹が盛大に鳴った。

「お腹空いた…」

新年会がいきなりあんな席になってしまって張り詰めた緊張が、彩羽の腹の虫でプツリと切れて僕は吹き出した。

「そんなに、笑わなくってもいいじゃない。それにしても音羽もほとんど食べてなかったのに何で空腹に耐えられるの?」

彩羽は自分の腹を擦り擦り宥めながら聞く。

「僕の体は、食べないことに慣れているからね」

と、二人でそろってリビングに行く。こちらも、戦のあとの戦意喪失状態の城崎さんが、珍しくリビングのソファーで崩れるように座っていた。僕たちが来たのに気付いて慌てて立ち上がると

「お二人ともお腹空きましたでしょ?」

と、振り返りながらいつもの笑顔を作った。

「城崎さんも疲れたでしょ?とりあえず、みんなで甘いものでも食べて元気を出そう」

と、テーブルの上に重なった新年のご挨拶の化粧箱を見に行く。

「いいね。私、お茶淹れる!折角だから、余った玉露を淹れよう!城崎さんはもう少し休んでて」

二人でお茶菓子と、お茶を用意してリビングテーブルに並べる。初めは無言で食べ始めたが、糖が体の中を巡り、思考力が復活したのか、彩羽が口火を切る。

「音羽は、今日のこと先に知っていたんだね」

リビングには、僕らの知らない世代の歌謡曲を、僕らの同年代のアイドルが歌っている。今日の突然の出来事、最近の僕の違和感、今日の僕の落ち着き方。様々な矛盾が彩羽の中で一つの答えを出したのだろう。隣で聞いていた城崎さんも、誰も聞いていない音を切った。僕の正解を待っていた。

「知ってたよ。そして、多分これから起こることもわかっている」

彩羽に誤魔化していても時間の問題だ。

「そっか。わかった」

彩羽は僕に正解の続きを聞かなかった。

「こっこれから…」

城崎さんも知っていた。そしてわかっている。震えた声で城崎さんが話し始める。

「これから、どう変わろうとも私はお二人が是近家から出ていくその日までずっと支えますから」

僕たちは顔を合わせ、そして城崎さんに顔を向けた。

「よろしくおねがいします」

と笑って言う。家族としての存在、雇われた身での縁。言えないこともある。でも思い合っているっていう心の中は一緒だ。

新年会に出したお刺身の余りと、煮物の余りの有り合わせで作ったちらし寿司を夕食に食べ片付けをし終えると、お爺様が一人リビングに入ってくる。晴れ着のままだが、朝のピンと張った背筋から、ずいぶんとげっそりとしていた。

「大旦那様、皆様は?」

「あぁ、儂が見送ったから大丈夫だ。お父さんと、お母さんはしばらく家に帰って来ないかもしれん」

どうしてと詰問することはできなかった。しても意味のないことも知っていた。

「明日は会社を休んで家にいる、話はその時にしよう」

「はい、お爺様。おやすみなさい」

「大旦那様、あとでお部屋に何か飲み物をお持ちしますね」

「おやすみなさい。お爺様」




久しぶりに襖をあけて布団を並べた。鏡台の前で、彩羽が長い髪に油を塗り櫛を入れるわずかな音だけが小さく聞こえる。布団の中で読みかけの本を開いてみるが、文字が流れて少しも内容が入って来ない。彩羽もきっと僕に何か話したいと思ってはいるのだろうが言葉にできないようだった。仕方なく本を伏せ、目を閉じた。目まぐるしい一日だった。様々な出来事と思惑と予感が駆け巡った。考えなければならないこともあるはずなのに、閉じた瞳の後ろで艶めかしく映るのは朝一瞬みた八重ちゃんの振袖の毬と、彩羽の牡丹が交互に浮かび、そのうち疲れから眠りについた。



起床5時半。それが早くなろうとも遅くなる日はない。スイッチを入り切りするように僕の体はピッタリその時間になると起動し始める。隣で規則正しい小さな寝息を繰り返す彩羽を起こさないように、少し布団をズラして襖を閉じると洗面所に行き、顔を洗い歯を磨く。部屋に戻って冷めた布団を畳んで押し入れにしまうと、着替えて身支度をし、倉庫にまとめて買ってあるミネラルウォーターを手に取って玄関から回って庭に出る。念入りにストレッチをすると、竹刀を目の前に少し瞑想をする。頭ばかりで体を動かすと、返って判断が遅くなる時もある。考えない。感覚に任せることも訓練が必要だ。

耳が門を開く音と、車のエンジン音を捉えた。竹刀をしまうと、玄関に先回りする。

「おはようございます」

「おはようございます。音羽さん。今日は稽古をしなくてもいいのですか?」

「城崎さんも、いつもより一時間は早いですよ」

玄関に置いてある置時計を見ると、まだ朝の6時だった。

「広間に、まだ昨日のお膳が置きっぱなしですし、昨夜は朝ごはんの準備ができなかったのでちょっと早めにと思って」

「なら、お手伝いしますよ。片付けるくらいは出来ますから」

広間に行くと、御膳を一つづつ和紙に包み直し、さらしで傷がつかないように巻き、桐箱に詰めていく。座布団も一つづつ汚れがないか確認して収納袋に詰めると、乾燥材を所々に忍ばせてまとめていく。

「倉庫に戻せばいいですよね」

リビングには、出汁の濃い匂いと、煮物の甘辛い匂いがした。

「はい、お願いできますか」

食器や座布団を片付け、広間を掃き乾拭きをし、リビングに戻ると、朝食の準備が終えたことを嗅ぎ付けた彩羽が食卓に座っている。寝巻のままでお茶を啜り、剝いてもらったリンゴを齧っている。

「おはよう。音羽」

「おはよう」

帰りに取ってきた門についている郵便受けに入っていた新聞を、リビングテーブルに並べ、ふと地方紙の記事が目に飛び込んできた。

食卓にいつまでも座らずに、リビングに様子を見に来た彩羽に読み終えた記事を見せる。彩羽も記事のタイトルに気付き、食い入るように中身を改めた。

―三千山駅周辺、雨よけ商店街再開発!周辺地域に打診、ディベロッパーは三和地所!

大型スーパーの進出により、シャッター通りとなっていた雨よけ商店街が、この度大手ディベロッパー三和地所により、再開発の方向であることが明らかになりました。関係者によると、三千山駅は今後改修工事を行いその後に本数を増便し、駅直結のメガマンションなどの大型住宅施設を用意すると同時に周辺には大型ショッピングセンターなどの建設も予定されています。商店街や周辺地域への土地買収は既に始まっており三和地所は順調に土地買収を進めているとのことです。

彩羽の手が地方紙の端を強く握ってしまったので新聞がよれてしまう。彩羽の指をほぐすように新聞から離すと、手で圧を掛けて皺を伸ばしリビングテーブルの上に他の経済紙や産業紙と一緒に並べ直す。

「とりあえず、顔洗って着替えておいでよ」

と背中を押すと、彩羽は考え込んだまま動き出した。彩羽の使っていた食器を流しに戻す。

「ありがとう。音羽さん」

城崎さんは平静だ。

「お爺様も朝食に呼びますか?」

「そうですね。大旦那様ももう起きていらっしゃると思うから、お声がけしてきてくれますか?」

「はい」

是近家の一番奥にあるお爺様の部屋は、僕らが幼い頃洋室に改修された。寝室に、執務室兼書斎、客間と、壁とドアで仕切られた様の部屋は、襖一枚の僕らの部屋と違って中の様子がよくわからない。それでもお爺様が書斎にいることが分かったのは、まだ薄暗い冬の朝だから。一つだけ内側の明かりが漏れた摺りガラスのはめ込まれたドアをノックすると

「はい」

と応えがあった。僕はそのドアを開けずに少し声量を上げて言う。

「みんなで朝食を取ろうと思うのですが、お爺様も一緒にいかがですか?」

「あぁ。わかった。15分ほどで行くよ」

という答えを聞いてその場を去った。



「いただきます」

とそれぞれに箸を取ると、誰も言葉を発することもなく朝食は淡々と進み、変わったところといえば、いつもはお代わりをする彩羽がそれを要求しなかったことだ。地方記事は、きっとリークされたものではなく、用意されたものだったのだろう。

そして、お爺様があのタイミングで是近家を手放すことを提案したのも前もって決められたもの。もう、後戻りのできない状況を揃えてから下されたただの宣言だ。

「ごちそうさまでした」

箸を置くと、城崎さんと彩羽が立ち上がり、食卓を片付け始める。お爺様はリビングのソファーに深々と座ると、テーブルの上に並べられた新聞をちらりと目にした。きっと、隅にあった地方紙が少しよれていることも承知だ。その新聞を一つも開かずにまとめて隅に寄せると、振り返らずにいう。

「城崎さん、すまないが落ち着いたら、お茶をこちらに人数分頼めるか。それから音羽に彩羽、少し話をしよう」

湯気の立ったお茶がしばらく放置され、温くなって湯気が見えなくなったころ、お爺様はゆっくりと湯呑に手を伸ばし一口すすった。僕たちはお爺様の目の前の左右に座ると、じっとその表情を見ていた。

「もう、お前たちは…知っていると思うが、三千山駅周辺の土地再開発が決まっている。昨日、是近家を手放すと言ったのもこの事業に関わる土地だったからだ。そして、もう一つお前たちには伝えなければいけない。本来なら本人たちの口から言うべきことだが、お前たちの両親は離婚することが決まった。理由は…」

ここまで、すらすらと話していたお爺様の口が濁る。聞くべきか、言わせるべきか。迷っているのはお爺様だけではなかった。意外なことに言葉を紡いだのは

「お父さんが、後継者じゃなくなったからですね」

彩羽だった。

「あぁ。会社の揉め事にお前たちを巻き込んで…」

「結果は同じだったと思います」

僕もお爺様の言葉を繋げた。お爺様は湯呑に映った自分の顔を見るように深く首を下げ、それから顔を上げた。

「どちらについていくにせよ。こうなった原因の一つに儂の判断があった以上、お前たちの学費や生活などは儂が責任を持つ。だが…」

そこで詰まらせた言葉を、繋いだのは

「音羽さん、彩羽さん、大旦那様のそばにお付きください」

後ろに控えていた城崎さんだった。僕たちは顔を合わせた。そして頷き

「はい」

と応えた。

♧~♧~♧

新学期になると、学校の話題の多くに駅再開発の話が上った。そして、杏や理恵、浜ちゃんは春休みに引っ越しをするという。

「開発は5年くらいかかるらしい。そうすると、俺たちはもう高校三年生とかか…。結局進路がバラバラになるんだし、こうやって一緒にいるのも今学期までかな」

「浜ちゃんの家は、駅で新しくできるコンビニに内定してるんだよね。理恵ちゃん家は、ショッピングモールで開店予定でしょ?うちは…」

「杏の家はお店を畳むんだっけ?」

「うん。もともと、ご近所さん頼みで、商売って感じでもなかったし。受け継がれた秘伝のなんちゃらもないしね」

杏はまだ行先はわからないが遠くになりそうだといい少し寂しそうだ。理恵はしばらくは住宅街の方でテナントを借りて商売をするらしい。浜ちゃんはその間、他の駅で直営店を任されるのでその近くに引っ越し予定だ。

「みんな…バラバラか…」

年越しにみんなで撮った五芒星のピースサインを眺めながら理恵がポツリといった。

「マサはどうするの?」

「俺は父ちゃんの運送会社のある高速の入り口の方に引っ越す。そうすれば深夜でも家に帰れるし便利だからって…彩羽はどうするの?」

是近の本家がショッピングモールの土地になることは予定地から明らかだ。

「私も…引っ越すよ」

春から予定されている駅周辺の開発と比べて、来年以降となっているショッピングモールの開発は急ぎではない。是近家の建物だけではなく、長年所有していた物の整理などを含めると引っ越しにはどれほどの時間と労力が必要なのかわからない…というのは言い訳でしかない。長年住んだ家を離れたくないという郷愁じみた思いもない。変わらないことなんてないという現実を私はまだ受け入れられずにいる。



「お母さん、明日出ていくって言ってた」

何でもない事実のようにいう音羽には、母親はもう自分とは遠い関係の人になってしまったのだろうか。

あの日以来、お父さんは帰って来ない。もともと家にいる時間が少なかった人だ。是近の家に残したものなど別に持って行かなくとも構わないようなものばかりなのだろう。

「お母さん、今日、帰ってきてたの?」

「うん、彩羽に何か話があるんだって。また明日来るって言ってた」

「じゃあ、LINEしてくれたら帰ったのに」

今日は塾の日だった。以前は熱心に通っていた道場も、最近は足が遠のきがちだ。そういった私を一瞬、音羽が憐れと怒りの混じった複雑な表情で見た。なぜ、是近家の跡継ぎでなくなったことが、お父さんとお母さんの離婚理由になったのか、本当は私もわかっている。お父さんが是近の家に婿入りしたのが、是近の後継者となるためだったからだ。お母さんには元々、是近鉄鋼の後継者に成れるほどの素養がなく、是近鉄鉄鋼の中で当時エースの営業マンだったお父さんと結婚した。

「お母さん、もう新しい人と暮らし始めているみたいだよ」

容赦のない現実を音羽は吐きだした。そういう事情もあることは何となく察していた。

「トレイルランに行ったあの日やその前の日に有った団らんを音羽は偽物だと思っていたの?」

「正直に言ってしまえば、こんなにバラバラになった家族の気持ちを、また元に戻すような錬金術がこの世界にあるとは思えない。人の気持ちってそれほど簡単じゃないし、強固でもないんだ。だから大切な人の気持ちを手放したくないと思っているなら、その気持ちを踏みにじるようなことを十分に注意して回避すべきだよ」

音羽は告げるべき助言を全て与えたというような、冷たい顔で、ヘッドフォンをつけて机に向かった。


翌日、帰宅するとお母さんがいた。音羽は家にはいないようだ。

「彩羽、待っていたのよ。こっちに一緒に来て」

連れられた夫婦の寝室には、もう何年と足を運んでいない。無意識にお父さんと、お母さんの関係性を直視することが怖かったのかもしれない。ツインのベッドが並んだ寝室は、まるでホテルのように無機質でシーツに皺ひとつない。寝室に付いているウォークインクローゼットには隙間が多く、残された服やバッグにはビニールが掛けられている。

「若い頃に着けていたものだけど、ブランド物だから流行りとかもないし、彩羽が気に入ったものがあればって思って…」

中学のジャージの上から、腰のしまったミニ丈のコートをあてがう。

「良かった…今の彩羽でジャストサイズだわ」

大きなブランドロゴが入った、ツイードのセットアップ。生地にキラキラと光る糸が織り込まれている。

「このジュエリーとかも可愛いわよ」

ほとんど、空になった引き出しから、シルバーアクセサリーを出して見せた。

お母さん…お母さん…

私は何を伝えたいんだろう。言葉にならない靄が喉の奥に引っかかって苦しい。

その時ウォークインクローゼットに取り付けられた鏡に映った顔が目に入った。

―大切な人の気持ちを手放したくないと思っているなら、

私は失いたくないのかな。この人を。鏡越しに言葉を尽くす音羽がいた。

お母さん。私が欲しかったのは…お母さん…私が…




「どこ行ってたんだ。この不良…」

すっかり日も沈み、星が光るころ自転車を押してガレージに向かう音羽の姿があった。音羽はふにゃりと笑った。きっと、私も同じ顔で笑っている。自転車のハンドルから手を離した音羽に抱き着いた。言葉が涙に変わって溢れる。

音羽、私、お母さんに一緒に居ようよっていってほしかった。

形なんかじゃなく、私を必要として欲しかったの。

音羽のコートに涙と鼻水を流しながら、私は声を上げて泣いた。言葉は作られなくても音羽には伝わっている。音羽がジャージの背中を強く抱きしめて、私たちは慰め合う。



「今週の土曜日なんだけど…」

ジャージのポケットから取り出した水族館のチケットは、一日中…若しくは何日か持ち歩いていただろうと思われるほど、あちこちがクシャクシャに丸まっていた。

「うん。いいよ。何時?」

三月も近いのに、今年の冬はやけに居座る。何だか、最近マサと二人で下校するパターンも多かった気がする。

「いいのか…」

あっさりと受け取ったチケットに、驚いたマサの顔が何かに似ている。



「あっそうか、マンボウだ」

「マンボウなんているか?」

目の前にあるのは、かきいかだにカタクチイワシの群れだ。さそわれた水族館は小等部の遠足でも来たことがある。

「マンボウいたっけ?って思って」

さりげなく、マサの腕を取ると次の水槽に進む。

「マサも小学校の時に遠足で来た?」

「あぁ。来たことあるよ」

目の前には太刀魚がその名の通り直立して水面を目指して泳いでいる。ヒラヒラとした背びれが光ってまるで天の川のようだ。

「キレイなもんだな…同じものを見てるはずなのに、こんなこときっと思ってなかった」

太刀魚の水槽の前で立ち止まる幼い子はいない。すぐ隣にあるスナメリの水槽の方に走って行ってしまう。

「うん。きれいだね」

「すげぇ、不思議なんだけど…水族館って言われたら、きっとこの先も彩羽と来た今日のこと思い出すような気がする」

うん。私もそんな気がする。とは言葉にできなくて、暗い水槽に映る二人の影を見た。マサと私の背は大体同じくらいだ。ポニーテールにした頭と、ブーツのヒールの分だけ今日は私の背が高い。マサはここのところ声変わりの途中なのか、声が時々かすれて音にならない。マサは昼間の海みたいにそのまんまだ。でも、私は違う。この水槽みたいにキラキラしているのはほんのわずかな部分だけで、本体はまっくろな闇の中だ。闇に引き込まれそうになった私をマサの手が引っ張った。

「行こうぜ。ペンギンの餌やりの時間だ」

現地集合だったのは、激戦になるペンギンの餌やりのチケットを手に入れたかっただったらしい。まわりも同じように激戦を突破した子煩悩なお父さんや、ラブラブなカップルばかりだ。

目の前のカップルが、餌やりを終えてペンギンを挟んだ記念撮影をしている。大分後ろの方になったのでフンボルトペンギンは腹が満たされたのかうんざりとした表情だが、カップルの女の子は特別な笑顔を作っている。

私たちの番になると、フンボルトペンギンの機嫌は限界を超えたらしく、餌の魚を見ても反応しない。それどころか飼育員が抑えていないとすぐにでも離脱しそうだ。

「よかったら…記念撮影だけでもしていきますか?」

というので、初めてのデートでの撮影は、飼育員のおじさんとのスリーショットになった。それでも、私はここ一番の笑顔を作り写真に収まる。

アシカのショーで盛り上がり、コツメカワウソに癒されて、スナメリの水槽の前で沈黙する。

閉園時間が迫っている。水槽の前で私は膝を折り、マサは胡坐をかく。一日中愛想を振りまいて疲れたスナメリは姿を現さない。水槽の上の方でぷかぷかと休んでいる。何もいない水槽の前で黙り込む二人の後ろを、ほかの客が帰路を急ぐ。話し始めたのは、ホタルノヒカリが小さく流れ始めたときだった。

「なぁ。彩羽」

「ん?」

マサの声は出しづらそうだ。声変わりのせいだけじゃない。

「俺、明日引っ越すんだ」

「そっか」

知っていたわけではなかったけれど、ここのところのマサや周りの様子がおかしかったことは気付いていた。

「なぁ。彩羽」

「ん…」

スナメリは降りてこない。

「俺さ…俺さ…」

「ん…」

「彩羽が好きだ」

「私も好きだよ」

空の水槽を見つめながら、私たちはお互いの胸の内を明らかにした。

「じゃあ。俺たち…」

その言葉が最後まで発せられる前に

「でも、私たちは付き合えないね」

背中の水槽は太刀魚だ。輝く背びれ。天の川。

「そ…だな」

マサの表情はわからない。私からは確かめられない。

―もし…もしも、私たちがそういう関係になるべきなら、またいつかきっとどこかで出会うはずでしょ?

噓つきの私には、彦星はいない。心の声は、真っ暗な闇に静かに閉じ込められた。


♧~♧~♧

中学二年生になった。春から同じ校舎に通うようになった八重ちゃんと、毎朝同じ電車に乗っている。駅再開発は本格的に開始され、春休みの間に商店街のアーケードは取り潰され、朝から騒がしい工事の音がシャットダウンできるヘッドフォンに助けられている。ふいに背中を叩かれてヘッドフォンを外した。

「音羽先輩、おはようございます」

「おはよう。八重ちゃん」

中等部の学生服は小等部と同じジャンパースカートスタイルなのだが、女子はリボンを結ぶ。小等部のときの制服が小さくなったのか、八重ちゃんのスカートは真新しくアイロンのテカりもない。一方僕の学ランは小等部のときからずっと使っているのでくたくたになっている。ヘッドフォンをカバンにしまうと同時に、単語帳を取り出した。

「音羽先輩は、春休みの間にお引越しするのかと思っていました」

「あぁ。彩羽の学校もあるし、そのうち引っ越そうとはしているんだけどね」

実際に、引っ越し先はもう決まっていた。街中のタワーマンションだ。もともと、和室だったので、これを機に一掃した家具も部屋にあり、身の回りのものの移動さえすれば引っ越せる状態になっている。

「私はこうして一緒に登校できるんで、こっちにいてもらってうれしいんですけどね」

と、八重ちゃんもカバンの中から単語帳を取り出した。



二年生のクラス替えで、下柳と一緒のクラスになった。校舎の靴箱で八重ちゃんと別れるとこちらを見ていたらしい下柳が、ちょっかいをかけてくる。

「是近って、是近八重と親戚じゃないのか」

面倒だと思いながらも、

「いや、苗字が同じだけでもう血筋は辿れないくらい遠い昔に分かれているよ」

「じゃあ、付き合っているのか?」

「……」

登校が同じだけだという理由で、どうしてそんな結論が出るのか付き合い切れないと思うが、あまりむきになっては思うツボだろうと上履きを履き替えると

「いや、違う」

ときっぱりと否定して足早にその場を離れた。

そのまま、人気の少ない渡り廊下に行くと、カバンを背もたれにして予鈴までそこで単語帳を開いた。教室に行けば、下柳の席は真後ろでまた言いがかりをつけられるのがうっとおしい。



彩羽もテスト週間なのか、最近は部屋にいることが多い気がする。時々小さくせき込む音が聞こえる。春の風邪なのか、ここのところずっと声が出しづらそうだ。

「音羽、ご飯できたって」

かすれ声でいうので家ではヘッドフォンをしなくなった。カフェインばかりを摂っていると良くないと思いながらも、机に向かうとどうしても手放せないのは、集中できないから。胸の辺りを中心にゾワゾワと何かが走るようなむず痒さ、下腹の奥で何かがうごめいている気味の悪さ。彩羽のことを言えないくらい何だかわからない体調不良に見舞われているのはクラス替えのストレスだろうか。時計の針が、1時を回ったところでこれ以上足掻いても効果は薄そうだと立ち上がると、小さな唸り声が聞こえる。

「彩羽?彩羽…」

寝着が湿るほど、汗をかいている。厚手の布団を剥がすと海老のようにくの字に折れ曲がっている体勢で固まっている。うなされながらも眠りが深いのか、しばらく揺り動かしてようやく彩羽は気が付いた。

「音羽?」

「大丈夫?随分うなされていたみたい…」

と起こすといててと小さく呟きながら彩羽は背中を伸ばした。

「勉強の邪魔をしちゃったかな?」

二人でキッチンに行き水を飲むと、洗面所に行き僕は歯を磨き、彩羽は顔を洗った。

「今日、八重ちゃんにも言われたんだけど、引っ越しいつにする?」

「うん…。いつでもいいかな?」

洗面台の鏡に映った顔は、まだ瓜二つだ。でも、春休みの前ごろから、彩羽が何を考えているのかよくわからなくなった気がする。あんなに中学に通うのが楽しそうだった彩羽が、ここのところ口数も少なく、引き籠ることも多くなった。



テスト週間も終わり、ゴールデンウィークで一息つく。

「彩羽、今年は講習行かないの?」

「うん。しばらく塾は最低限にしとく…」

リビングで、向き合って課題を進めていると後ろで城崎さんが嬉しそうに

「こうして食卓で勉強していると、お二人がまだ小等部の低学年の頃みたいで懐かしいです」

と、グリーンピースの皮をむいている。彩羽の開いている塾の課題は、附属の中学とレベルが変わらないようだ。

「二人で宿題か」

「お爺様。お帰りなさい」

社長職を退いても、会長職となった今の方がむしろ現場に近い立場になったのだろう。

「常翔さま、今日はお夕飯ご一緒なさいますか?」

「あぁ。最近は便利なものでパソコンで会議ができるからな…家でも仕事ができる。支度が出来たら呼んでくれるか?」

と、一瞬顔を出して自室に戻っていく。

スマホに通知があり確かめると八重ちゃんからのLINEだった。

―音羽先輩、今年もご一緒してくれますか?

―いいよ、日付が決まったら連絡して

―よろしくお願いします

天気予報を確認すると、今年のゴールデンウィークは雨マークばかりだ。石清水のあるルートは遊歩道ではないので、良く晴れた日の前後でなければ危ない。

そんなことを考えていると遠くから地響きのような雷と激しい雨が打ち付ける音が聞こえた。

「LINE、八重ちゃんからだった。今年も奉納のお供をって。」

「そう。ゴールデンウィークは厳しそうだね」

パタパタと城崎さんがスリッパを鳴らしてリビングから出て行った。間もなく出ていくこの家を最後まで管理したいらしい。雨戸を閉めるのを手伝おうとして、下腹に走った痛みに蹲った。

「音羽!?」

慌てて、駆け寄る彩羽に大丈夫だというジェスチャーの手のひらを見せながら痛む脇を擦った。しばらく深呼吸をするとじわじわと痛みが引いていく。

「何だか、最近たまにこうなるんだ。しばらくじっとしていれば治るから…悪いけど城崎さんを手伝いにいってあげて」

と答えると

「本当に大丈夫?」

と顔をのぞき込む彩羽に

「大丈夫だよ」

と、ソファーにすこし傾けながら座った。




夕方降り出した雨は止まない。風も吹き出し、嵐のように雨戸を打ち付けている。同じくらいに痛み出した下腹も収まらず、僕は早めに布団に潜りこんだ。

眼を閉じていると何度か目覚めながら浅い夢を見る。

過去と現実と曖昧な何かがない交ぜになった夢。

あれはいつかの背中。競技場。遠く真っすぐな背中。滑らかな空手の演舞。

美しい牡丹の花。幾重にも重なった花びらと、凛とした立ち姿。

涙する彩羽。自分の運命を受け入れられない僕ら…。

「…は?音羽!」

ぬちゃりとした赤い花びらが、自分の中にひろがって汚れていく。

目の前の彩羽が、荒い呼吸をしながら僕の顔を覗き込んだ。布団の周りに買い物袋と中身が散乱している。朦朧とする視点がやがて定まり

「彩羽…泣いているの?」

どうして泣いているの?よく見てみれば、彩羽の髪も、服も、びちゃびちゃだ。あぁ、雨に打たれていたんだ。

「ごめん。ごめん」

震える手で、濡れた体で、彩羽はもうこれ以上慰める方法を知らないというほど僕の肩を抱き泣いて許しを請う。なぜなくの?なぜ謝るの?力なく起き上がった上半身を彩羽に抱きかかえられながら、焦点は自分の下半身を捉えた。そこには鮮血の牡丹があった。

蠢いている。自分の正体からは逃げられないと。体が咲き誇り、僕をぐるぐるに巻き付けた。


♧~♧~♧

閉ざされた闇の中で、ぼんやりと小さな照明だけ点けて鏡の前に座る。

「本当にいいの?」

「うん…」

掛け間違えたボタンを、押し間違えたボタンを、そのままにだまし続けた報いを受けなくてはいけない。

私たちは間違えた…。

周りを欺いて、本当の自分を偽った。

小さな照明に、刃がきらめく。

「下の支えを上に崇め…地を這い武を持ち…下に下に称えよ」

ジャキリと何本、何百、何千、何万の糸が切れる。

私は失う。でも、これが本当のあるべき姿なのだ。なりたい自分があったなら、人を欺かず自ら切り開き証明しなくていけない。私が私であると…。


♧~♧~♧



「朝から姿がみえないと思ったら、本当にまだわからないものですね」

雨は降っては止み、止んでは降る。まるで洗い流すみたいに。街中の美容院に二人で向かうと、「全くそっくりに切り揃えてください」と頼んだ。

「どっちがどっちかわかる?」

ちなみに、服装は正月にお爺様から貰った色違いのスポーツウエアだ。

「待ってください。でも、わかりますとも。私はお二人のことを生まれた時から見ているんですからね」

城崎さんは、顎を擦りながら二人を並べて比べた。

「わかりました。こちらが音羽さんで、こちらが彩羽さん」

僕たちは顔を合わせて笑った。

「ぶっぶー」

「正解は、僕が音羽で」

「私が彩羽でした」

そんなやりとりをしていると、リビングにお爺様が現れた。

「こりゃ。たまげた」

と驚いた後、同じやり取りを繰り返し

「お爺様、折角ですから、このゴールデンウィークに引っ越しをしましょう」

と彩羽が言う。

「だが、学校はいいのか。彩羽の気持ちが落ち着くまで待ってもいいんだよ」

と心配するのを

「いつかは変わるものですから」

と断る。

「彩羽の学校の制服とか買い直すんなら、僕の学生服も新調してもいい?何だか、最近成長期みたいで少し窮屈なんだ」

と言うと

「確かに、こうやって並ぶと、音羽さんの方が少し大きくなった気がします」

と城崎さんが見比べた。

「あぁ。新しくすればいい。引っ越しもしよう。まぁ、業者は捕まらないだろうし、身の回りの物しか持ち出せんが、何もかも揃ったスタートよりも面白いかもしれんな」

とお爺様が同意した。



ゴールデンウィークの長雨がそのまま梅雨に変わって、伸び伸びになった奉納がやっと出来たのは早めの梅雨明けが宣言された7月の初めの週末だった。

「音羽先輩、今年はだいぶ暑くなっちゃいましたね」

真新しいマウンテンバイクを追い掛けるのは、八重ちゃんが去年まで使っていたシティサイクルだ。性能差は、体力でカバーできるだろう。

「そーだね。三酉神社の奉納に間に合って良かったね」

と答えると、返事の代わりに八重ちゃんはペダルを漕ぐ力をぐんぐん込めた。三千山の麓に自転車を停め、リュックから日焼け止めを出して塗り直す。

「音羽先輩もそういうことするんですね」

物珍しそうに、八重ちゃんは見学する。日焼け止めを八重ちゃんに渡して

「八重ちゃんも塗り直した方がいいよ。夏の山は日差しが案外強いものだ」

と柔軟をしておく。長雨で大分、山肌も荒れているだろう。

「そういえば、音羽先輩また、空手を始めたって兄弟子がいってましたけど」

「あぁ。駅ビルの本道場知ってる?あそこが家から近くて」

「知ってます。昔、彩羽と少しだけ通ったことがあるんです」

「そんなこと彩羽も言っていた気がするな…」

と、長めの前髪を留めているキャップを被り直した。駅ビル道場に入会したときは、突然辞めた奴がまた第一線でやれるとでも…というお決まりの締めから入って、スポーツ刈りにして来いとも絡まれた。

「彩羽は辞めちゃったんですか?」

「うん。彩羽が今度は剣道やってるよ。中学で」

通い始めた街中の中学に、剣道部があったので入部してきたと転校初日に発表していたのは驚いた。こちらは上手く馴染んでいるようだ。

「なんでそんな入れ違いなんですか」

これは、質問じゃなく笑っている。

「双子だからじゃないかな?僕らは競い合うのが好きじゃないんだ」

馴れ合うこともしない、鏡向こうの自分。ぽつぽつと、木陰の合間にタイルの模様のような日差しが一気に開けて、頂上に着いたことを知らせる。

「去年は、音羽先輩が用意してくれたんで」

と、リュックからお弁当を出す。開いてみると手毬寿司にミートボール、ポテトサラダと小さなカップが行儀よく並んでいる。

「随分、かわいいね」

「実は私が作ったんです。お口に合えばいいけど」

恥ずかしそうに箸を渡す。八重ちゃんの作ってくれたお弁当をおいしくいただき、石清水への獣道に入る。道はだいぶ荒れていた。長雨で土が流されて、でこぼこの岩肌と、木の根が剥き出た道とは言い難い状態になっている。何よりもこの状況で動物たちがこの道を使わなくなったのか、背丈ほど伸びた雑草に囲まれているので先も見えない。

「どうしよっか?また今度にする?」

「……」

八重ちゃんは何か考え込んでいるようだった。日を改めてもいいが、そうすると三酉神社の祭り奉納の日までに間に合わない可能性もある。長く続いた伝統を自分の判断だけで曲げて良いのか、かといって危険を晒してまで進む必要があるのか。

「じゃあ、僕が先に行って道を作るよ。あとから着いてこればいい。もしも、危なければそこで断念しよう」

落ちていた木の枝で、雑草をかき分け踏みしめて道を開ける。どうにか人一人分の空間を確保しながら一歩づつ慎重に進んでいくと、石清水の大岩が見えた。

「しかし…これじゃあ」

前方の草をかき分けたところで、歩みが止まる。石清水の直前まで崖崩れが発生していて道がないのだ。

「あきらめましょう。安全が一番ですから」

八重ちゃんが反転し帰ろうとする。行けるとすれば

「八重ちゃん、リュック貸して。ここから祝詞を詠んでいて」

半ば強引に八重ちゃんのリュックを背負うと、崖の際ギリギリに立っている木を揺らした。少しも軋まず直立不動なことを確認してひょいと飛び乗った。

「っ音羽先輩!」

木と崖の隙間を縫うように回り込むと、祠はなくなっていたが石清水だけは無事に湧いていた。足を掛けた状態で手を伸ばしバランスを取りながらペットボトルに水を汲む。何とかすべてのペットボトルに詰め終えると、再び狭いステップを踏みながら、木を回り戻る。八重ちゃんは、脱力したように跪き、肩を震わせながら目を瞑り祝詞を詠んでいた。

「もう、大丈夫だよ」

眼を開けてどうなったのか確認するのも恐ろしかったのだろう。そっと肩を叩くと、開いた八重ちゃんの眼には涙が浮かんでいた。

「ばっどっ」

言葉にならない短い叫び声をあげて、肩に置いた手を両手で握り締める。

「ごめんごめん。驚かせちゃったね」

軽く謝ると、八重ちゃんの涙は堰を切ったように溢れ出した。八重ちゃんの呼吸が収まるのを待ってからもと来た道を戻る。帰りの遊歩道。社に奉納するまで八重ちゃんは固く口を結んでいた。祝詞を終えると、くるりと振り返りまっすぐこちらを睨む。

「去年、ここに来た時、音羽先輩は慎重に間違えないように行動するっていっていたの覚えてますか?わたしはそれに賛同したんです。なのに、今日の音羽先輩はあんな無茶をしてまるで別人みたいでした。」

「怖がらせて悪かったよ」

もう一度謝ると、八重ちゃんは首を振った。

「違う。謝ってほしかったんじゃない。今日の、ハチャメチャな音羽先輩を見て、私、やっぱりって思ったんです。」

どきりとした。八重ちゃんは昔から勘が鋭い。

「………」

「やっぱり、私は音羽先輩が好きです」

怒っているみたいに告白されて、言葉を失い

「そっか…」

と気の抜けた返事しかできなかった。



三酉酒造の見えるところまで来ると、

「今日はありがとうございました」

と、水の入っていたリュックを交換する。家まで送るよと言おうとするが、帰り道一言も発していない八重ちゃんの気持ちを思うと憚られた。自転車を塀に預けるように置くと、降りて

「それじゃあ。また」

と振り返らず駅に向かった。是近家の跡地を通ると、頑丈な門扉も、裏庭も全て更地に変わっていった。変わらないものはない。この気持ちに何を応えればいいのだろうか。

♧~♧~♧

面を切る太刀の軌道を、左後方に避けて横薙ぎの胴を撃つ。

「一本、それまで」

模擬試合の決勝は、部長との一本勝負で終わった。選手でもない私が一番になったことに部員たちも反応に困惑していた。模擬試合とはいえ、手を抜くことは相手にも失礼になると思ったのだ。

「本当に選手で出ないの?」

部員の少ない剣道部では、後片付けは交代制だ。狭い道場の床磨きは急げば10分程で終わる。頭上から降りかかる質問に、顔を上げずに答えた。

「はい。名を上げたいわけではありませんし、学業優先でやらせてもらっている私が毎日稽古をしているレギュラーに代わって出るのも本意ではないんで」

雑巾をバケツに引っかけ、そのまま立ち去ろうとする私を、部長の桝田さんが追いかけてくる。三年生なのに、毎日部活に出ている熱心な人だ。後ろから着いてくる気配を感じながらも、振り返らずに道場入り口に置いているカバンと剣を拾い、サッカー部と野球部が入り乱れる狭い運動場をすり抜けて、正門にたどり着くと浜ちゃんが待っていた。

「ちょうど、終わるころだと思って待ってたんだ。あとこの本返そうと」

浜ちゃんが、さりげなく私の後方に一瞥をすると、桝田部長は「じゃあ、また」と誰ともなく独り言のように呟いて足早にその場を去っていく。部長の言葉が空に還るころに一旦深呼吸をして歩き出す。

「行こっか」

「あぁ」

「本屋さんに立ち寄りたいんだ」

「付き合うよ」

と、浜ちゃんは私の横を歩き出した。




ゴールデンウィーク明けに、転校した街中にある中学校で偶然浜ちゃんと同じクラスになった。街中の学校では、転勤族の家庭の生徒も多く転校生は珍しくはないらしい。担任の教師は慣れた様子で黒板に私の名前を書くと、生徒の関心も薄く今朝から梅雨入りしましたのニュースぐらいの調子で

「では、みんな仲良くするように」

という呼びかけにも、四方から小さな返事があるだけだった。指定された席に着くと、隣にいた男子が声を掛ける。

「彩羽!」

腰まであった黒髪が、すっかり短くなって指定のセーラー服を着る私を是近彩羽だと認識出来たのは、雨よけ商店街のコンビニの息子、浜ちゃんだった。

二人が知り合いならば、校舎案内をしてくれという担任からの指示で、面倒くさがると思ったが存外そんなこともなく、浜ちゃんは中学構内を先導して歩き出した。街中にある中学校の敷地は狭く、擁壁の土地のすぐ脇を薄汚れた川が流れている。その先は、マンションや駅ビルがパズルのピースのように詰まった繁華街だ。

「この学校に来るんなら、教えてくれればよかったのに」

三年生の教室と、主に音楽室があるという校舎で一番高い4階の廊下の窓から景色を眺めていると、浜ちゃんがポツリと呟いた。

「引っ越す直前まで、どの中学にするか決めてなかった…」

と応えて振り返ると音楽室を吹奏楽部に占拠されて、部室がない軽音楽部の生徒がギターのコードを練習している。生徒が頻繁に入れ替わるからか、あまりこの学校では生徒指導を熱心に行わないらしい。教えている女子生徒のスカート丈は短く、日に透けて見える髪は栗色に染められている。体育館にいくと、反面づつバレー部とバスケット部が使用していて、バレーボールが、バスケのゴールにシュートされたり、かなりカオスな状態だ。

「浜ちゃんは、なにか部活に入っているの?」

「いや、帰宅部だ。今は店の手伝いもしてないし、何か始めようとは思っているんだけど…」

「あの、小さなプレハブ小屋は何?」

こちらも、サッカー部と野球部が入り乱れた運動場の周辺で陸上部が走っているという情報量の多い運動場の隅にポツリとある小さな小屋に目が留まった。

「確か、何かの部活の道場だった気がする。合気道?剣道だったっけ?」

小さな換気窓から中をのぞくと、シュンシュンという空気を断つ音と、掛け声、剣道部だった。

「私、剣道部に入ることにするよ」

早速、顧問に部活の入部届を出す。塾を優先したいので、毎回、部活に出られないが良いかと聞くと、部活は自由参加だから好きな時にくればいいと返事をもらう。

「彩羽は結構、思い付きで行動したりもするんだな」

後半はほとんど、横に付いてくるだけだった浜ちゃんが、あきれたように言った。

「今の家マンションだから、体を動かす場所がなかったんだ。この辺だと走り込むのも難しいし…」

「そういえば、グループLINEから抜けちゃっただろ?杏や理恵が寂しがっていた」

「あー。何となく、居づらくて…浜ちゃんとは同じ学校だから、もう一回交換する?」

「あぁ」

そんなつもりでもなかったんだけれど…という焦りを見せながら、浜ちゃんは学生服のポケットからスマホを出した。ちらりと見えた待ち受け画面は、ピースサインの五芒星。私もリュックのサイドポケットからスマホを出した。待ち受けにしているのは美容院でお揃いにした時に記念に撮った音羽とのツーショットだ。



音楽はダウンロードコンテンツでもいいけれど、文字だけは紙で読みたい。街中に引っ越してきて一番有難いのが、新刊の発売日に欲しい本が手に入ることだ。ビニールで個包装されたお目当ての本を脇に抱えながら、季節のおすすめの本のコーナーをペラペラと漁ってみる。何か引っかかるものがあればと思い手あたり次第開いているとLINEの着信音が鳴った。同じ塾の七海からだった。

―明後日のテスト範囲が変わったみたいだよ

「七海が、テスト範囲の変更があったって」

そう浜ちゃんに声を掛けると

「自習室にいるってことか。俺たちも覗きに行くか」

駅ビルの中にある大手の進学塾には、難関高校に合格すると塾費用の半分がキャッシュバックされたり、何か月か上位クラスにいることで月謝や講習費用が安くなる奨学制度がある。浜ちゃんに同じ塾を勧めたのはこの奨学制度があるという理由だ。

「やっほー」

自習室は、受講日以外の曜日の生徒のために開かれたスペースで、大学生などの指導員が事業の隙間時間などに質疑応答をしてくれるので通う塾生も多い。金星女子に通う七海と、理央は放課後をここで過ごすことが多く、メインの講師のアシスタントをしている大学生とも仲が良い。

「テスト範囲変わったんだって?」

「うん。さっき、明後日のテストを作成している数学の先生のアシスタント大学生がこの部分も復習しといたほうがいいっていってたから」

「こんなに先まで範囲になるのか。今やってるところで結構アップアップなのに」

と浜ちゃんが指された箇所を見て嘆いていた。

「じゃあ、明日学校でわからないところがあったら教えるよ。私はそこまで苦手な範囲じゃないから」

「いいなぁ。彩羽ちゃん、ここのとこクラス一位から降りたことないもんね」

「理央たちが、いつもここでリサーチしてくれてるお陰だよ。私は、今日は帰るよ。道具もないし…」

「じゃあ、俺も帰るわ。家でどのくらいできるか問題解いてみる」




翌日放課後、中学校の図書室で向い合せになって塾の問題集を解いている。浜ちゃんも、いくつもポストイットの立った問題集と格闘している。図書室は、一階の外に面した場所で、明るいが、外の雑音が多く勉強を教え合う程度の私語は咎められないのでよく利用している。何より利用者がいないところがポイントが高い。浜ちゃんが問題を解くシャーペンの音を聞きながら、私は単語帳を開いて確認する。

「なぁ」

「ん?わからないところでもあった?」

図書室は、図書委員が受付でスマホゲームをしている以外は誰もいない。問題集を持ちながら私の席に回り込むように浜ちゃんが移動すると、耳元で小さな声で浜ちゃんが呟く。

「気付いてるか?窓の下…」

図書室の窓は開けっぱなしだ。そして、その下に蹲るように剣道部の舛田部長が座っている。

「うん」

舛田部長がこうして付きまといのような行為をするようになったのは、入部してまもなくからだった。初めは気のせいだと思っていた。目の前に現れるわけではない。気が付くと部活の帰りだったり、三年生の教室のある音楽室に行くときだったりにさりげなく視界にいるのだ。三年生で受験もある。しかも同じ部活の部長を務めている人にそんな疑いを持つのも気が引けた。今も別に何か支障があるわけではなく、偶然といえば偶然である。あちら側から何もしないのにこちらから仕掛けることもないだろう。私は気付いていないふりを続けている。それに気づいたのが浜ちゃんだった。

「ここの問題だけど…」

「あぁ。これね」

どうせ、あと半年もしたら卒業だ。今もまたそっと耳を澄ましている気配を感じながらも何事も起きないことを祈るだけだ。


♧~♧~♧

学期末テストを終え、終業式と、夏休みの注意事項を聞いて周りが解放感に包まれたとき、後ろの席の下柳が声を掛けてくる。

「今日の放課後、ちょっと話があるんだけど」

憂鬱なお誘いだ。

「わかった」

中学二年生の夏休みは貴重だ。三年生になったらまた附属以外の入学希望者との選抜試験がある。今度は入学希望者の規模も桁違いだ。この中で残れる人数も貴重な存在になる。

その時、八重ちゃんから久しぶりのLINEが届いた。

―音羽先輩、今日一緒に帰りませんか?

―うん。いいけど、先約があるから遅くなるかも

―こっちの都合ですから待ってます



附属中等部の体育館の地下には、板張りの道場がある。

「終業式にこんなところに呼び出して、大した用なのだろうな」

下柳は、濃紺の道着と道具を着けているので、察しはつくが…。向かいには道着と道具が揃えられている。

「夏休み明けには生徒会選挙があるだろう。僕たちのどちらかが候補になるとしたら早めに決めておいた方がいいかと思ってね」

生徒会への候補は一クラスに付き男女一名づつだ。選挙は中等部の一年から三年の投票で決まるので、各学年に向けた選挙対策も必要になる。

「そんなことなら悪いけど、どのみち僕は生徒会選挙に出る気はないんだ。もしクラス代表に入れてくれというのなら喜んで君の名前を書くよ」

「是近!逃げるのか」

「逃げる?そもそもここには、君から話があるという体で来たのに?君の話は生徒会選挙に出るのか決めたいということだろう?そして僕は断った。僕はそもそも生徒会なんて器じゃないんだ」

同じクラスに下柳がいてくれて良かったと思うのは、学級委員や生徒会やらという面倒な役目を担ってくれるからだ。クラス替えの学級委員を決める際も、候補者として下柳がいたお陰で僕は推薦枠から辞退することができた。もういいだろうと、背中を向けると

「わかった。生徒会の件は承知した。もう一つ大事な用件があるんだ。今日ここで例の決着をつけたい」

「決着?」

「文化発表会のさ。あの時は緊張もあって実力を出し切れなかったんだ。だから是近と本当の真剣勝負をしたい」

「もし、緊張で君に勝ってしまったとしたら、まさしく実力は君に勝負があるんじゃないか?僕はもう負けでいいよ」

と今度こそ入り口の方に向く。入口にはドアはなく、地下と地上を結ぶ階段が見える。そして影が目に入った。

瞬間、反転しその勢いで左足を蹴り出した。小手の側面に蹴りがヒットする。カツンという竹棒の落ちる音が短く聞こえる。着いた左足を軸に、右膝を振り脛で下柳の膝裏を掬う。下柳の体が達磨落としのように横に薙いで地面に叩きつけられた音がする。こぶしを握り脇を閉めると面の前に打ち…

「いやぁあっ」

と甲高い下柳の悲鳴に寸止めで引いた。

「これは、反則だけど…剣も武具も持たない相手に手を出した下柳も反則だね。ってことで試合は両者引き分けということでいいかな」

「ですね」

入り口に現れた八重ちゃんが、にっこりと笑って答えた。体育館シューズを履き替えるのが面倒で、裸足でいたことが幸運だった。そして、勝負を見届ける人物がいたことも。

「道場で待ち合わせって、あんなことがあるんなら先に知らせといて下さいよ」

いや…僕もあんな展開は予想し…てはいた。だが、八重ちゃんに見られたことで下柳のこれ以上の追及はないだろう。

「ごめん。でも助かったよ」

「音羽先輩のごめんは、何だか心がこもっていない気がします」

三千山で曲芸じみた行動をして以来、八重ちゃんの僕への見方が変わったような気がする。

「じゃあ、お詫びにちょっと遊びに行こう。何か奢るよ」

「でも、私も音羽先輩も制服姿ですし…」

「一旦、うちに寄ればいいよ。彩羽の服を借りて着替えれば問題ないだろう。うちは街中だから、駅ビルも近いし…八重ちゃんの巫女の稽古は夕方からだろう?」




タワーマンションの自宅は、駅へのアクセスも栄えている繁華街にも徒歩で出かけられる距離だ。中心部から離れた閑静な場所にある造り酒屋の一軒家に住んでいる八重ちゃんにしたら、市内の煩雑な景色が見られるこの場所が物珍しいらしい。スケルトンのエレベーターから見える景色を熱心に眺めている。毎日何度も見ているので新鮮味が失われたこちらには、その姿が面白い。

「ついたよ」

部屋に着いて、インターフォンで帰宅を知らせると、中から城崎さんが自動開錠してくれる。玄関には、彩羽のスニーカーと見慣れないスニーカーが揃っている。廊下の奥のリビングから城崎さんの笑い声も響いてくる。自分のと、客用のスリッパを出すと、自分のローファーは靴箱にしまう。

「勝手にお邪魔していいんでしょうか?」

どうやら、怖気づいたらしい。

「彩羽の友達はよく来ているから、気にすることないよ」

リビングのドアを開けると、アイランドキッチンには、城崎さんと彩羽、浜ちゃんがいた。

浜ちゃんとは何度か面識がある。初めて会ったころは彩羽と髪型がリンクしていたので、どちらがどちらかわからなくなったようで動揺していた。今は彩羽の髪がボブくらいに伸びて見分けがつく。

「あらぁ。三酉さんのとこの八重お嬢さん!」

お年頃ですね…という言葉を飲み込んだらしい城崎さんの顔がにまにましている。

「お帰り音羽。八重も久しぶり」

「彩羽。髪の毛切っちゃったんだね」

「うん。何んとなく…」

急いでお昼を用意しますのに…という城崎さんの誘いを、外で遊びに行くついでに何か食べてくるというと、それじゃあお邪魔しちゃ悪いわねと意味深な顔で見てくる城崎さんをスルーして、八重ちゃんは彩羽に服を借り、自分もTシャツに着替え街に出た。

「いつもは、お母さんと買い物に来ることはあっても、こんな風に繁華街に出るのは初めてです」

繁華街は4本の大きな道で出来ていて、スクランブル交差点を中心に形成されている。今日は多くの高校や、この周辺の中学などが終業式だったらしく、駅ビルはどこも混雑し夏休みに少し浮かれた学生たちで溢れていた。スクランブルを人にあたらないように、八重ちゃんの手首を持ってすり抜けると、学生の多いファッションビルや、ポップなデザートがあるカフェを通り抜け、路地裏の落ち着いたスポットに向かう。古くからある喫茶店や、世界中の絵本を集めた個性的な本屋などが集まるお気に入りの場所だ。雑居ビルの地下一階にあるイタリアン。カランカランと、鈴を鳴らして古い木戸を押すと、昼過ぎの店内は空いていた。

「音羽くん、今日は連れが彩羽ちゃんじゃないんだね」

親子で営んでいるこの店の娘さんが、意味ありげな表情を浮かべた。

「はい、同じ学校の子なんです。いつもの頼めますか?」

「はいよ」

店内の奥まった場所に席を取ると、自分でカウンターに行き水とおしぼり、カトラリーのセットを運ぶ。

「常連さんなんですね」

「お爺様がね」

街中には、是近鉄鋼の営業所もあるので、接待や打ち合わせなどでよく使う店をここに越して以来僕らは案内してもらった。特にここの…

「お待たせ!いつものね。ごゆっくり」

テーブル一杯になるほど大きなピッツァマルゲリータは、大きな試験の後などのストレス解消によく訪れる。生地にトマトソース、蕩けるチーズ、香りのバジル。見ているだけで食欲が湧き上がる匂いと湯気。

「すごい…大きいですね…」

これは二人で食べきれるのだろうかという不安が籠った語尾に、ピザカッターを八重ちゃんに渡し

「とりあえず食べれそうな分だけを取るといいよ」

と取り皿を持ち構えた。ここのは生地は薄いが、チーズは分厚い。小さく切り取られた一片に

「わわわっ」

大量のチーズが雪崩出すのを、皿で受け止めた。自分のは、取り皿にぎりぎり乗るほど大きく取って、端を丸めながら口に入れた。

「いただきます」

大きな口で、手掴みでピザを食べ始めた僕を見て覚悟したのか、八重ちゃんは両手に持ったナイフとフォークを置いて同じように端を丸めてチーズ雪崩を制しながらピザを口にした。

「めちゃくちゃおいしい」

結局、湯気の出ているうちにピザは二人の腹に収まり、食後のサービスのジェラートまで食べつくした八重ちゃんは、彩羽から借りたショートパンツのお腹を擦りながら

「今夜の稽古でメチャクチャ頑張ります」

と懺悔のような一言を添えた。路地裏を戻っていると、八重ちゃんの目が一軒のアンティークショップに留まる。まだ時刻は三時だ。

「入ろうか」

と、手首をとって店内に入る。琉球のステンドガラスで出来た照明が、色々な色に店内を染めている。藍染のキャミソールワンピースや、紅型染のトートバッグ。小さなガラスのリング。見世物客ばかりなのか、店員は挨拶もしないので店内は琴のヒーリングミュージックに包まれていた。店内の色々な場所に動いていた八重ちゃんの視点が止まる。小さな琉球ガラスの毬のような細工が付いた一本簪だ。店内を一周して

「そろそろ行きましょうか」

という八重ちゃんを先に出ててと促すと、簪を一つ購入する。外の日陰で待っていた八重ちゃんの髪は、学校帰りの三つ編みのままだ。

「ちょっといい?」

と声を掛けて、三つ編みを解す。跡の付いた髪を手櫛ですいて頭のてっぺんでくるりと巻くと簪を挿した。

「わぁ…ありがとうございます」

鏡で髪型を確認した八重ちゃんはさっきのチーズみたいに零れそうな笑顔を浮かべた。




三千酉神社の奉納は今年も去年の観客数を越えるほどの人気だ。とはいえ、去年と変わった点もある。

「こりゃあ、すごいな」

船頭が呆けたようにその様子に一人ごちた。

三酉酒造の関係者は、夕方からの混雑を避けるために昼過ぎから神社本殿に待機しているのだが、もうこの時間から境内の人は増えてきている。特に神楽殿の前は席取り合戦状態になっている。去年まで地方紙の片隅に小さく載るくらいだったのに、今年はケーブルテレビや、地方テレビまで取材にやってきている。そして大きな望遠レンズをつけたカメラを持った素人カメラマンや、ビデオを持った若者が最前列の出来るだけ良い席を確保しようとけん制し合っている。きっかけはSNSへの投稿だった。火の神と、酒の巫女がお神酒を作る激しい舞をとった一本の投稿。

―三酉神社で行われる伝統舞踊に、伝説級の美少女?一見の価値あり

誰かが乗せたこの動画は一気に拡散され、三酉酒造までテレビが巫女の姿を取材に来た。

「神社の正式な巫女ではなく、一般の子どもですので個人情報は明かせない」

といい、メディアへの露出はしなかったが、誰かの口に蓋はできない。一旦出回った情報は、なかったことにはできないのだ。正体を隠せば隠すほど、周囲の期待は高まり関心を集める。

この騒ぎに八重ちゃんのお爺様を初め、お母さんや従業員は何か変なことに巻き込まれるのではないかと不安に駆られていた。夏休みに入って以来、八重ちゃんはほとんど自宅から出ることもなく敷地内で匿われるように過ごしていた。

「伝説のとか…、美少女とか…好きですよね。ネットの住民は」

りんご飴で舌を真っ赤にした八重ちゃんは、どこか他人事のようにスマホの画面をスライドし、つまらなそうに電源を落とした。桔梗の古典柄の浴衣を着た八重ちゃんと、僕のお爺様から譲ってもらった藍染の着流しは、事前に打ち合わせをしたわけでもないのにペアルックのようだ。巫女の化粧もしていない八重ちゃんと僕は、祭りを楽しみに来たカップルのように見える。冷めたタコ焼きを、温くなった麦茶で流し込む。

「折角だったら、下の露店を見て来たかったな…」

毎年、巫女の奉納の舞を楽しみにしてくれている地元のお年寄り衆を押しのけて、神楽殿の前を陣取る若者にも冷めた視線を送り、うなじで括っている簪に白い手を伸ばすと八重ちゃんは少し笑った。



陽が落ちて月が浮かび遠くで花火の上がる音がする。松明の火が焚かれ酒造りの唄が始まる。

神楽殿が開かれ、暗闇の中で杜氏の伸びの良い掛け声が響く。

「ハア~ヨ~イヨ~イ 酒造り~の唄~ハア~ヨ~イヨ~イ 夜知らず」

追い掛けて、職人たちもその音頭に乗り

「ハイ~ヨ~イヨ~イ 酒造りの~の唄~ハイ~ヨーイヨーイ 都知らず」

杜氏が樽を掻き回し、樽洗いの唄が始まる。

暗闇から酒の神が舞い出でて、続いて神を慕い巫女が登場する。尚ちゃんは今年の仕事が始まったと騒ぐ神に合わせて、滑稽な舞を披露する。

かわいらしい巫女の登場に、観客からも自然に拍手と笑みが零れる。無機質なカメラのシャッター音は似合わない。

「ア~イヨ~イヨ~イ 日は昇り ア~イヨ~イヨ~イ 文を踏み踏み」

「ア~イヨ~イヨ~イ 踏みは踏み踏み 米を踏む ヨイヨイ」

酒造りは洗米から仕込みの作業に移る。酒造りの男たちの唄は艶めき、舞は夜を纏う。

麹の神に続いて、現れたのは夜の巫女だ。白い衣装は光が纏ったようで、巫女の踊りは艶めかしく袖口からのぞく白い指が一本一本が繊細に時に大胆に惑わす。酒造りは寒く女人禁制の禁欲の中で行われる。男たちは、郷愁や色欲の思いを歌で紛らわすのだ。

「とろりとろり~イ~ヨ 白い女房の足ヨ~イ ややこの紅い頬ヨ~イ 親の背中の曲がる三千山並み」

松明の揺らめきに、巫女の影も怪しく揺らめき観客たちのつばを飲む音が聞こえるような気がする。そして酒造りは最終工程に移り、舞はキレを増す。松明の火が強烈な力で最後の激しい灯を上げる。神と巫女の存在が入り混じりただ一つの目的に向かって魂が震え合う。

「イケヨ~イケヨ~い 磨かれ澄んだ月」

「シンシンシンと降る雪に 澄ます滴の音」

輝く巫女の汗の一滴をフィルター越しに覗く者はいない。呆けたように観客たちは手に手に持ったカメラをだらんと下に落として、ただこの一瞬しかない巫女の舞を肉眼に刻み付ける。



巫女の奉納の後、振舞われる神酒では、例年、神楽殿の淵まで出て手を振る巫女たちだが、今回は危険が多いと神楽殿の奥に酒造りの男たちの背中にわずかに見える位置に下げられた。


♧~♧~♧

県立松陰高校は、付属校と並んで県内でトップクラスの有名大学輩出校でありながら、こちらは一貫校の付属と違って生徒の自主性や個性を重んじるスタイルで人気だ。

「うそでしょ」

「あったし」

「あったな…」

「……」

今時、掲示板に張り出す合格者のスタイルもどうかと思ったが、実際目にしてみると中々に感極まるものがあった。合格発表日に、絶対合格(桜の花)という鉢巻を渡されたのだが、鉢巻をしているのは、塾のアシスタント講師として三年間付いてくれた大学院生だけだったが、私と、七海、理央、浜ちゃんの難関受験コース組は見事揃っての合格となった。

七海と、理央と院生のアシスタントが抱き合って泣いている横で、私は浜ちゃんにスマホを渡し、自分の受験番号に指さした写真を撮ってもらう。

「記念か?」

「いや…」

家族のLINEに写真を上げると、音羽に城崎さん、お爺様と次々におめでとうのメッセージが届く。

「じゃあ、俺も撮ってくれる?」

と、感涙が少し収まった院生のアシスタントにスマホを渡すと、なぜか二人で浜ちゃんの番号を指す写真を一枚撮った。

「送るわ」

というので、浜ちゃんとのツーショットを受け取った後、そうかそういうものかと思い至って七海と理央にもそれぞれ声を掛けてみんなで記念撮影をした。



明けて4月、ジェンダーギャップにも対応できるように近年改正された県立松陰高校の制服は男女併用だ。紺色のブレザーにチェックのスカート、スラックスがどちらでも選べる。

ネクタイと、リボンも選択可能で、しなくてもかまわない。中学の頃はボブに切りそろえていた髪をまたショートヘアに変えた。そもそもの背丈が違うのでもう音羽と見間違われることもないだろう。軽くなった襟足は、長めのショートカットにしている音羽よりも短いくらいだ。制服はスラックスにネクタイを合わせ、剣道の竹刀を下げている。

入学式に顔を出してくれたお爺様は、すまないがと途中退席してしまったので、駅までの道は親子同伴の生徒が多い中、一人だった。

松陰通りともいわれる高校から最寄り駅までの一本道は、片側が桜、片側に銀杏が植えられている。もちろん入学式の帰り道なので、桜の木の下を通る…親子連れが多かったが、あえての銀杏側をのんびりと歩く。

「まるで武士だな」

県立松陰高校はマンモス高校だ。一学年で500人以上いるので一斉下校のある今日のような日は同じ学年でも見つけられない。現に七海や理央の姿を一度も見かけていない。

「浜ちゃん、よく見つけたな」

「あぁ」

振り返らずに並んで歩くと、浜ちゃんもスラックスにネクタイというスタイルだった。

「今日も部活があるのだと思ってて、竹刀を持ってきたのだけど入部出来るのは随分先だった」

松陰高校のもう一つの特色として、県内有数の部活動がある。剣道部の部員も多く、過去、何度も全国大会に出場している強豪だ。

「剣道って高校から始めても強くなれるのだろうか?」

アルバイトも自由なので、浜ちゃんは、高校生になったら実家の手伝いをまたするのかと思っていたが…

「あぁ。無論。強くなりたいという願いさえあれば」

銀杏通りには人影は少なかった。だが、瞬間に感じた殺気に背中に刺さった竹刀を抜くと、隣を歩く浜ちゃんの背中に回り

「てぃー」

と掛け声一つ、小手を放った。アスファルトにカンと乾いた音を響かせて大きな刃が付いたサバイバルナイフが転がった。長年使っていた竹刀袋が縦に裂けて中の竹が覗いているのをちらりと見て、竹刀を手から離し中段蹴りで逃げようとする人影を仕留めると、そのまま背中に足を押し付け手首をひねり上げるように拘束する。後ろ手に掴んでいるとはいえ、相手は男性だ。体格差があるし、締め技を知らないので逃げられる可能性もある。

「浜ちゃん、急いで警察」

呆然としている浜ちゃんに声を掛けると

「おっおう」

とスマホを取り出す。近くで始終を見ていた親子が学校側にも通報したらしく、数分で学校の警備員が来て、拘束を代わってくれた。証拠のサバイバルナイフをハンカチでくるんで待っていると、両脇を警備員に抱えられた犯人は警察に引き取られた。

舛田先輩は、刀が薙ぎ払われて戦意を失ったのか拘束をされている間も暴れず何も発しなかった。狙ったのが、私じゃなくて浜ちゃんだった理由も聞けないまま、警察をあとにする。

事情聴取の間、犯人に覚えがありますかという質問に、浜ちゃんは知らないの一点張りだった。私は私で、いくら武術の心得があったとしてもあまりに無謀だと窘められた。

「やっぱり俺も剣道始める」

と小さな声で浜ちゃんは呟いた。


♧~♧~♧

「新入生代表、是近音羽」

司会の呼びかけに

「はい」

と立ち上がり、壇上に立つと体育館の窓を開閉するための細い通路に八重ちゃんの姿があった。現中等部生徒会長が、高等部の入学式にあんな場所から潜入しているのがバレたらまずいのではないのかな?などと、ちらりと考えてマイクの前に立った。

「満開の桜が咲き乱れる今日この日……」



デジカメに、ビデオカメラ、スマホとありとあらゆる動画、静止画で僕の姿を収める城崎さんにどこかデジャヴを感じながら、言われるがままのポーズを取る。

「そうです!学生帽を胸に当てる感じで!」

「いいですよ。少し桜を振り仰ぐイメージでもう一枚!」

帰宅する同じ新入生の冷たい視線を少々感じながらも、残り三年となった学生服姿を収める機会もそうないのかもしれないと、城崎さんの気持ちに応える。

「音羽先輩!おめでとうございます」

赤いネクタイ姿の八重ちゃんが声を掛けてきた。

「あらぁ。三酉のお嬢さん!」

「城崎さんもおめでとうございます」

「えっ!私なんかがお祝いされていいのかしら?」

「もちろんですよ。先輩をここまで立派に育ててくださったのは城崎さんあってのことなんですから」

「あらぁ。本当に八重お嬢さんはうれしいことをいってくれるわ」

と城崎さんは少し涙を浮かべながらいう。

「良かったら、八重お嬢さんも記念撮影いかがですか?」

「えっ!いいんですか?」

嫌な予感しかしない。桜の木の前で、八重ちゃんとハートを作ってポーズを決める。

「音羽さん!緊張しているんですか?もっといい笑顔で!はいそれで」

保護者からの完全公認カップルのような生温かい視線に耐えながら、どうにかやり過ごす。

「ところで、その高校のネクタイはどうしたの?」

と、高等部の生徒のみが着けられるえんじ色のネクタイを指す。

「借りたんですよ。変装はばっちりでしょ?」

と耳元で八重ちゃんは自慢気に囁くが、中等部の生徒会長を知らない関係者はいない気がするが…。そして三千酉の巫女として学校内にファンクラブがあるとかないとかいう噂の彼女を知らない人も少ないだろう。

記念撮影が終わると、若い二人のお邪魔はしませんよと、城崎さんはさっさと帰ってしまった。

「中等部のリボンは?」

「持ってますよ。一応」

と、バッグから出したリボンをひらりと受け取ると、首元に絞められたネクタイを外し、リボンに結び直す。

「わぁっ。折角借りてきたのに!」

と言いながらも、どこか八重ちゃんは満足げだ。僕が結んだリボンの端をスルスルと指でなぞりながらにこにこしている。

「今日って、中等部は休んだの?」

「ん?知らないんですか。付属は小中高と入学式も卒業式も日取りをズラして休校にしているんですよ。兄弟姉妹で通う生徒も多いですし」

そうなんだ。10年通って初めて知る事実だ。

「ちなみに、中学生の時の新入生代表も聞きに行ったんですよ。音羽先輩の晴れ舞台を見逃すわけにはいきませんから」

そうなんだ。気付いたのは今年が初めてだ。

「ところで、今日、このあとお祝いに出かけませんか?」

「あー今日は…」

黒帯の進級試験なのだ。というと、

「私も見に行きます」

と目を輝かせる八重ちゃんに、関係者以外は立ち入り禁止なんだ。と断ると

「私は音羽先輩の関係者です!」

と食い下がるのを

「じゃあ、来週の日曜日にデートしよう」

といい

「デートですかぁ!」

と納得してもらった。



駅ビルの本道場では進級試験が年に何回か行われていて、小学生以上の空手を続けるほとんどの練習生が、中学の前に黒帯を得ている。小学校の間に取った黒帯は、三年以上のブレイクで一旦撤回となってしまうのだ。修行の期間を重んじている流派なので仕方がない。

大会で選手として選ばれる最低条件は、黒帯の所有者であること。今は試合に出て猛者と闘うにはスタートも切れない状態だった。

「是近、今日は胸を貸してやるぜ」

と、早速絡んできたのが、顕彰だった。顕彰も高校一年生だが高校には空手部がないらしく、道場での全国を目指している。何年もやって来なかった奴がひょいひょい大会に出れると思うな。そんな長ったらしい髪で強くなれるのか。そんな風に絡んできたこともあったが、顕彰の実力は本物だ。最近では、筋肉つけろよ。ジム行こうぜに変わってきている。彼も待っている。

「よろしくお願いします」

というと、手を取った。

黒帯には型だけではなく組手の審査もある。黒帯の資格試験に受ける小学生を相手にしていると、ノンコンタクトでなければいけない審査なのに、相手の反応が遅かったり、ちょっとしたタイミングのズレで技が決まってしまうこともある。通常は入段希望者同士でやり合うことの多い組手だが、今回は特別に体格差や実力差のない顕彰を組手の相手にしてもらうことができた。

指定型に、自由型、得意型の演舞を終えていよいよ30秒の組手が始まる。

組手は相手がどのような技を繰り出すのか、いつ始まり、どのくらいのスピードで打ち込まれるのかの読み合いだ。試合ではなく技を魅せる場。開始の合図とともに早速突きが入る。

かかって来い。逃げるな。顕彰の気合が聞こえる。

反転し得意の中段蹴りを繰り出す。

浅いぞ。もっと来い。登って来い。

スカスカになった守りを抉るような足払いが襲う。

すかさず軸足で大きく跳ね足払いを逃がすと、体勢を整え逆逆突きで芯を捉える。

ぐらりと地球の引力を捻じ曲げるかのような後ろ反りで避ける。

柔軟性の高い顕彰でなければできない避け方だ。だが、この反りは見切っていた。

顕彰に背中を見せるとそのままの勢いで後ろ回し蹴りを繰り出し寸止めで試合終了のブザーが鳴る。

審査結果を静かに待つ。小学校の低学年の子から次々に名前を呼ばれ、黒帯を渡されていく。

自信がないわけではない。演舞も組手も完璧だった。だが、どうしても必要なのだ。

道場の隅で結果発表を待っているのは、あと三人だった。アニメに影響されて中学から手習いを始めたという子。僕。そして。

「是近音羽。合格!」

左手に貰ったばかりのピンピンした黒帯を掴み、右手を顕彰と固く結ぶ。この手が始まりのサインだ。



日曜日。快晴。デート日和。約束の10分前に待ち合わせ場所に着くと、どのくらい前から待っていたのだろうか…ナンパ男に絡まれて不機嫌そうな顔の八重ちゃんがいた。面倒だが、ここから立ち退くわけにもいかない。こいつら何なの?という訝しい顔をするも、ナンパ男たちには効かないらしい。ツカツカと近づくと声が聞こえてきた。

「さっきから30分ぐらい待ってるよね。俺たちずっと見てたんだ。誰だか知らないけど、こんなにかわいい子を放置するとかありえねぇ相手はほっといて一緒に遊ぼうよ」

「そーそー。全部奢るし、好きなとこ、食べたいものなんでも連れてちゃうから」

というと、二人組の一人がとうとう我慢しきれなくなったのか八重ちゃんの手に近づいた。

その腕を取り上げると、捻って腰に回す。

「いてっいててて。何すんだ。このっ」

と、私の顔を見ると、ぎょっとした表情になる。もう一人のナンパ男は、私が手を掴み上げた時点でどこかに逃げ出した。

「この子、私の連れなんだけど、なにか御用でしたか?」

というと、

「すっすみません。人違いでした。勘弁してください」

と平謝りだ。掴んだ手を離すと、金魚すくいの金魚のような赤い頭の男も雑踏の中に消えていく。

「音羽先輩…?」

「そうだよ」

私の格好は、腰まで伸びたヘアウィッグに、ブランド物のセットアップ。チェーンのついたミニバッグを下げて、ビジューの付いたハイヒールを履いている。もともとの身長にハイヒールを履いているので、身長は優に180cmは越えている。

「かぁっこいい。海外のモデルさんみたい」

と、トトロの名シーンのように私の腕に八重ちゃんは絡みついた。



韓国コスメのショップに入ると、八重ちゃんが

「おぉっ」

と声を上げた。元々整った顔の八重ちゃんはお化粧をしたことがないらしい。日焼け止めぐらいはするんですけどね。メイク道具とか欲しいっていうと、まだ早いとか家では言われるし、友達もしなくていいんじゃないとかいうし。

とか呟きながら、あれこれテスターを開けては閉じている。

「これなんてどうかな?八重ちゃんに合いそう」

と淡いピンクのラメの入ったグロスを選ぶ。

「かわいぃ」

八重ちゃんは流行りのクリームが動物の形に整えられたメロンソーダジュースと一緒に何枚も写真を撮り、

「はわわわっ」

シロクマが白いモンスターになって慌てて飲みだした。私はラテアートがされているコーヒーを啜りながら

「かわいいね」

と、八重ちゃんの自撮りの写真を褒めた。

「あっ。先輩だめじゃないですか!」

ラテアートは一口飲むだけで無残な形になった。

「なにが?」

「音羽先輩も自撮りしないとですよ。せっかく音羽先輩かわいくしたのに、かわいいものと一緒に撮らなきゃ勿体ないですよ」

意外な言葉に、つけまつげの付いた重たい目が瞬きを忘れた。

「かわいい?私が…」

「そうですよ。かわいいです」

「気持ち悪くないの?」

「何がですか?先輩気分でも悪くしたんですか?」

「こんな風に女装する私を嫌いにならないの?」

「………?」

しばらく考え込んだ後、メロンソーダを一気に吸い上げて飲み込んで真っすぐな眼差しを向けた。

「私、前に言ったはずですけど。音羽先輩が好きだって」

「そっか…」

前にもいったなこの返事を。いつか、答えは出るんだろうか。

窓に映る女装して化粧した自分を見た。


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