7・衝撃
ブランデーの仕込みや発送をしているうち、あっという間に一ヶ月が過ぎた。
今日はまたフランクフルト・アム・マインへ行き、用事を二つ済ませる予定。
一つ目、精霊文化支援センターで成人を迎える魔女向けの面談を受ける。
二つ目、ゲーテ大学の無料講座へ遅刻して行き、クランプス全体へのファンレターを届けてもらえるかどうか、例の助手さん、エックハルト氏に回答を聞く。
精霊文化支援センターの入っている建物は、フランクフルト随一の観光スポット、レーマー広場の近くにある。十一月後半になると大きなクリスマスマーケットが開催される場所で、周囲には昔ながらの木組みの建物が立ち並んでいる。精霊の少ない大都会が苦手な私でも、この辺りの雰囲気はかわいいので結構好きだ。
近くのカフェでお昼ご飯を済ませてから、階段状の切妻屋根で有名な旧市庁舎の角を曲がって、最初の目的地へ向かった。
センター内はさらに細かい部署に分かれていて、私が行くべき場所は「魔女支援課」のプレートが下げられた扉の奥。
眼鏡をかけたショートカットの女性が待ち構えていて、私を奥の応接室へと案内してくれた。
「‶ブランデーの魔女〟エルナさん。来月の五日で十八歳になり、成人されますね。おめでとうございます。これから変化することについてご案内しますね」
魔女は十六歳までほとんど森を出ずに暮らすから、一般的な同じ年頃の人間よりも随分と世間知らずだ。そのためにこんな説明をされる機会がある。
選挙権が与えられること。ブランデーなどの強いお酒が飲めるようになること。結婚できるようになること。車の運転免許が取得できるようになること。
リーフレットを見せながら一つ一つを丁寧に説明してくれた職員の女性は、最後に神妙な顔でこんなことを付け加えた。
「それと、これは魔女さん特有の心配事なのですが、俗に幼少期ショックと言われるものがありまして……」
「幼少期ショック?」
「ええ。魔女の弟子になる前の記憶を、成人までお師匠様に封じられたでしょう? それを取り戻すかどうかは、それぞれの魔女さんの判断に委ねられます。
ただ、魔女さんの多くは幼少期に辛い経験をされていますので、取り戻すことで強いショックを受けてしまう方も、稀にいらっしゃるんです。過去には、それが原因で鬱状態になってしまった人も」
なるほど、あり得る話だなと思って私は頷いた。
最初に記憶を封じるのは、一度過去を切り離して新しい生活を与えた方が、人格形成に問題を起こす可能性が少ないからだ、と聞いている。
記憶を取り戻せるのが成人後なのは、自分の過去にしっかり向き合える年齢になったと見做されるからだけれど、実際にどうなのかは本人次第だ。
記憶を取り戻す手段は、それぞれの工房の伝統に則って、本人の意思で決められる方法が選ばれる。私の場合だったら、ブランデーを飲むかどうか。
別にブランデーを飲んだことがなくたって、‶ブランデーの魔女〟の仕事はできるものね。
「それで、もし記憶を取り戻す選択をされる場合は、誰かに付き添ってもらうことを推奨しているんです。どなたか頼りになるお知り合いはいらっしゃいますか?
もし誰もいなければ、センターの職員が出張することも可能です。これは魔女文化保護プログラムの一環で、補助金が出ますから、魔女さん側に金銭的な負担は一切不要です。職員じゃなくても、たとえば魔女の誰かに付き添ってもらいたいなどの希望があれば、協力してくれる人を捜すお手伝いができます」
「知らない魔女を頼ってもいいってことですか?」
「はい。前にもいらっしゃったみたいですよ。取り乱してしまった場合、その姿を知り合いに見られるのは恥ずかしいから、今まで接点のなかった先輩魔女がいいという方。もちろん、ご自分で誰かに頼まれる場合が多いですけどね」
私はお師様や、何人か歳の近い魔女仲間の顔を思い浮かべてみた。
どの人でもいい気がするけれど、「頼りになるお知り合い」と言われた瞬間から頭の中をちらつき始めた‶彼〟の姿を、どうしても消すことができなかった。
「あの……クランプスに頼むことはできますか?」
尋ねると、職員の女性は目を丸くして「はい?」と訊き返す。
「クランプスです。最初に私を保護して、
「それはちょっと、難しいんじゃないかしら」
女性は腕組みをしてソファの背もたれに身を任せた。
「クランプスは正体を隠して活動していますから。人間の姿である彼らにコンタクトを取ることは……」
「あの、私の誕生日、
「ああ、なるほどね。ちょっと調べてみますね」
職員の女性はラップトップを開いてキーボードを打ち、すぐに動きを止めた。
「あなたを保護したクランプス、もう活動から引退なさっていますね」
「えっ?」
全身から血の気の引く音がした。
脳裏に、邪霊から私を守ってくれた時の、家の壁についた血の跡が浮かぶ。
「どうして……け、怪我したとか、病気とかですか? まさか活動中に、何か」
「そうじゃなく……まあ、これくらいは言ってもいいかな。奥様がご病気になってしまって、なるべく付き添いたいとの理由で、引退されたんですよ」
時が止まる感覚を、初めて知った。
おくさま?
口が勝手に動き、職員さんが頷く。
それから何を話したのか、正直言って、ほとんど覚えていない。私は付添人を自分で探すと伝えて、リーフレットや書類やささやかな成人祝いの品が入った紙袋を携え、覚束ない足取りでセンターを出た。
そのまま森に帰りかけていたのだけれど、もう一つの目的を思い出して、のろのろと方向転換する。
石畳の道を見つめながら歩くうちに、涙がボロボロと零れ始めた。
胸の中が空っぽで、何をどうしたらこの空間を埋められるか、全然わからない。
結婚してたんだ。
そりゃそうだ。あんなに素敵な人だもん。仮面越しだからこそ、よくわかる。
小さな私のわがままや悪戯にも付き合ってくれて、ちっとも怒ったりしなかった。それは、子供がいたからかもしれない。六歳の私を保護してくれたくらいだから、結構年上だろうとは思っていたけれど。
勝手に好きになったのは私。
彼は悪くない。
君が俺を見つけたら……って、あれは、「どうしたらまた会えるか」という私の質問に、ただ答えただけだったんだ。勝手に希望を見出したのは私。
それなのに、どうして? って思ってしまう。
大学には遅刻どころか、大幅に時間をオーバーしての到着になった。
講座の教室はすっかり無人になっている。
帰ろう。
そう思って踵を返すと、廊下の角から、背の高い人影が現われた。
助手のエックハルト氏だ。
「もう来ないかと……」
私を見てそう言いかけ、彼は目を瞠った。
「どうした?」
誰だってそう訊くだろう。私はひどい状態になっていた。
いくら拭っても涙が止まらない。鼻もかみ続けて、きっと真っ赤になっている。まともに話せるかどうか怪しい。
「あの……この間……」
変装用の眼鏡の下にハンカチを当てっぱなしで、私はなんとか声を絞り出した。
「変な質問をしてすみませんでした。もういいです」
「え?」
「それどころじゃ、なくなって」
ろくに説明もせず、随分失礼な態度だと思ったけれど、これくらいが限界だ。
ごめんなさい、さようなら。うわ言のように呟いて、早足で彼の脇を通り抜けると、後ろから肩を掴まれた。
「ちょっと待って」
振り返ると、助手さんが小脇に抱えていた本やラップトップを全て下に置いて、スーツの内ポケットから何か取り出した。手帳だ。
開いたページを壁に押し付け、前に貸してくれた紺色のペンで何か書き付けると、そのページを破り取って私に差し出す。
「必要だったらかけて」
涙で歪んではっきり読めないけれど、電話番号と名前が走り書きされている。
断る元気もなくそれを受け取り、コートのポケットに押し込むと、私はもう一言も喋らずにその廊下を後にした。
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