第11話 アデルと密室

 三日後の昼、エレイナは予定よりだいぶ早く屋敷を出発した。

 父の話によると、コリアード伯爵は弦楽器の名手で、その奥方は名家の令嬢に鍵盤楽器を教えている先生らしい。

 初対面だから、演奏が始まる前に一度挨拶をしておきたい。かつてはこの世の春とばかりに咲き誇り、今は枯れ枝にひっそりと花をつける程度でも、クロナージュ家は伯爵家なのだ。王の宰相だった父のひとり娘として、礼儀は大切にしようと思う。

 半刻ほどで離宮に到着した。

 早く来たにもかかわらず、玄関ホールでは既にデローニが待ち構えていて、こちらの姿を認めるなりアデルを呼びにいく。

 その隙にと、エレイナはバッグの中から手鏡を取り出した。彼女を待つあいだ、こっそりと自分の姿を最終確認するためである。

 今日のエレイナは、先月新調したばかりの淡いピンク色のドレスを着ていた。襟回りが少々寂しく感じたため、自分でレースも付けた。もちろんスタンフィルのためではなく、アデルに褒められたいがために。

 大きく開いた胸元には、重ねづけしたペンダントが輝いている。

 中心には、母の形見のエメラルド。それを静かに守るように、金のチェーンにダイヤを散りばめたネックレスが、取り囲んでいる。

 このネックレスは、昨日の晩、出先から戻った父がくれたものだ。決して豪華とは言えないシンプルなものだったが、伯爵家の経済事情ではこれが精いっぱいなのを、エレイナは知っている。その親心と深い愛を知り、つけた瞬間に涙が溢れた。

 今、ふたつの首飾りは互いを引き立て合って、とても豪華に胸元で輝いている。

 かつての両親はきっと、こんな風に支え合っていたのだろう。ぼんやりとしか母の記憶を持たないエレイナにとって、父は何よりも嬉しいプレゼントをくれた。

 しばらくして、豪華に着飾ったアデルが階段を降りてきた。いつものように襟の詰まった、鮮やかなブルーのドレスに身を包み、白い鳥の羽でできた扇を持っている。

 思わずエレイナは、感動のため息を吐いた。

 ――なんて美しいの……。

「こんにちは。アデル様」

 エレイナはドレスを摘み、フロアに下り立ったアデルにお辞儀をした。

「ごきげんよう、エレイナ。そのドレスとても素敵よ。特に襟元のレースが華やかだわ」

「ありがとうございます。アデル様こそ、鮮やかなブルーがとてもお似合いです」

 苦労してつけたレースを褒められて、エレイナは天にも昇る気持ちだ。人手の足りないクロナージュ家のこと、わざわざメイドの手を煩わせるくらいなら、と自分で頑張った甲斐があった。

 アデルに手を取られて、玄関ホールから外へ出る。

 ポーチの階段を降りる際、普通はドレスを着た女性をお付きの男性がエスコートするが、アデルはそうしなかった。

 繋いでいない方の手でドレスのスカートを摘み、そのままエレイナをエスコートして階段を下りる。そのしぐさは、見た目に反して男性そのものだ。もちろんいつもの彼女と同じで、王族としての品位は保っているのだが、なんというか、顔つきが違う気がする。見上げてくる青の眼差しが、熱く、どぎまぎしてしまうほど色っぽくて――。

 大勢の使用人に見守られるなか、ふたりは王室所有の馬車に乗り込んだ。

「出発してちょうだい」

 アデルの掛け声で、御者が馬に鞭をくれる。ほどなくキャビンが大きく揺れて、馬車が前進を始めた。

 彼女が用意してくれた二頭立ての箱馬車は、四人が向かいあってゆったりと座れる広さがある。木材でできた外装には贅沢に金箔をあしらい、内装はえんじ色のビロード張り、角灯もついた大変贅沢なものだ。サスペンションも利いていて、乗り心地もいい。これでも王家が所有する馬車としては、ごくごく平均的なグレードだというのだから驚きである。

 広いキャビンとはいえ、密室には変わりなかった。エレイナは玄関ポーチでのどぎまぎした気持ちを引きずったままでいたので、ふたりきりのこの空間が非常に落ち着かない。

 おまけに同乗するとばかり思っていたデローニは、御者の隣に座ってしまった。そしてどういうわけか、アデルとの距離がやたらと近いのだ。

 ――私の匂いを嗅いでる? ……まさか。

「あ、あの、今日はとてもいい天気ですわね」

 アデルから顔を背けて、エレイナは窓の外を見た。正直、どうでもいい話だ。

 しかしアデルは、うっとりしたような声で「そうね」とだけ返して、ますますエレイナの首筋に鼻を近づけてくる。身体を密着させて、腕をイバラのように絡ませて、指を一本一本、エレイナの指に絡めて。

「あっ、あのっ、ア、ア、アデル様?」

「なあに?」

 吐息まじりに応えたアデルが、エレイナの首筋を鼻先で擦る。

 その瞬間、ぞくぞくっ! と背中を震えが駆け上り、エレイナは身をこわばらせた。

「い、いえっ、なんでも……んっ! ありません」

「そう? ……ねえ、今日のあなたは特に素敵ね。特に、このペンダントとか」

 アデルの鼻先――唇かもしれない――は、エレイナの頸動脈に沿って下りていき、ペンダントのかかる鎖骨をなぞる。肌に吐息が当たる。体勢は既に、エレイナがアデルに抱きすくめられるようになっていて、胸の早鐘がそれはもうひどいことになっている。

「こっ、このペンダントは、エメラルドが母の形見で、もうひとつのは、ちっ、父が、あっ、誂えてくれたのです……はんっ――」

 エレイナは息も絶え絶えだ。鎖骨を行き来するものが唇だろうと、鼻だろうと、指だろうと、こんなこと、当たり前だが誰にもされたことがない。

 アデルに触れられるのが嫌なことでは、もちろんなかった。しかしせめて、彼女の体つきがもう少し自分のように、小柄で女性らしい柔らかさを持っていれば、こんなにも意識することはなかっただろう。まるでこのまま閨事にでももつれ込みそうな雰囲気に、エレイナは怖気づく。

 ――どっ、どうしよう。誰か……! デローニさぁん!?

 キャビン前方の小窓からは御者台が見えるが、デローニも御者も、こちらを覗く気配は一切ない。

 口から飛び出そうな心臓と必死に格闘していると、エレイナの胸に顔を埋めるようにしていたアデルが上目遣いに見上げてくる。

「なんだ、そうだったのね」

「は……い?」

「私はてっきり、スタンフィルの奴から送られたのかと」

 や、奴……?

「いいえ。だってあの方とは、一度きりしかお会いしてないんですもの」

 エレイナがそう伝えると、アデルの唇から心底安心したような深いため息が洩れた。

「よかった。そのことを聞かなかったら、あとでスタンフィルのお尻を蹴飛ばすところだったわ」

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