03-009:一時離脱の交渉と結果

 俺たちは再びゴエティアの部屋に戻り、中央の巨大なディスプレイの前に立った。それとほぼ同時に、そこに霞の姿が浮かび上がる。


『鍵は見つけられたのかしら?』

「いいや、残念ながらまだだ」


 俺は首を振る。メグ姐さんは俺の左手を握り締めていた。


「ところで話があるんだが、霞……じゃない、ゴエティア」

『なに?』

「俺たちをここから出せ」

『何のために? 私に何の得があるの?』


 何の得があるの——?


 俺は脳の奥にチリっとした何かを感じた。メグ姐さんが俺の半歩前に出る。俺は発言権をメグ姐さんに譲る。


「私たちを外に出したところで得はないかもしれないが、損もないはず。お前のその優秀な頭脳で考えればわかるはずだ」

『得もなく損もないというのなら、現状維持こそが最適の答えだわ』

「でも私たちをここに監禁したところで、私とこの墨川の二人が答えに辿り着けるとは到底思えんがな」


 そうだそうだと心の中でメグ姐さんを応援する俺。なんかいいところを持っていかれてる気がしなくもないが、そこはそれ。レディ・ファーストというやつである。第一、こういう役割は、圧倒的にメグ姐さんの方が適任者である。


『でも、私の計算では、あなたたちこそが答えを――鍵を持っていることになっているわ』

「とは言われても、私たちにはその『鍵』とやらが一体何なのか、今の段階では皆目見当が付けられない。カップラーメンをすすって考えろというのなら考えるが、決して生産的であるとは思えないな!」

「それに、お前の計算の中には、俺たちが外に出ることも含まれているのかもしれないぜ?」

『私の遺伝子ジーンたちの作用が考えられると?』

「外に出さえすればな」

『なるほど』


 ゴエティアは目を閉じた。そしてゆっくりと唇を動かす。


『いいでしょう。ただし、ここから出たところで、広がっているのはただの絶望よ』

「何か起きたのか?」


 俺とメグ姐さんの声が重なる。


「しかしシンギュラリティも何も、まだ起きていないから俺たちはここにいる」

『そうね、その通りよ、墨川くん。まだ何も起きていない。でも、あなたたちはこれから起きる事を理解している。だからこその絶望よ』


 確かにね――俺は同意しかけたが、俺の左手をぎゅっと握りしめたメグ姐さんによって正気に返る。


『迫りくる危機に安穏とし、その警告にも耳を貸さない人々が溢れるこの街に、世界に、あなたたちは絶望する――』

「しないな」


 メグ姐さんは凛々しく言った。


「そんなのは別にシンギュラリティがどうのとかで始まった話じゃない。ずっと以前から、それこそお前の知る初の知的生命体が生まれた時からきっとそうだ。それは私も墨川も別に例外じゃない。たまたま状況が私たちを自律させているに過ぎないんだよ、ゴエティア」

『なるほど、いいでしょう』


 ゴエティアは口角をきつく上げた。その笑みは空虚に過ぎて、俺はこの上なくぞっとした。その顔は確かに霞だったのだが、俺の知らない顔だった。


『ただし、期限はあと六日。正確には五日と八時間』

「はいはい」


 俺は肩を竦めつつ頷いた。メグ姐さんもはっきりと首を縦に振った。


「私は逃げも隠れもしないが、しかし、キーワードを見つけられない可能性もある」

『それはないわ』

「なぜ、そう言い切れる、ゴエティア」

『もちろん、可能性はゼロではないけれど。でも、あなたたちが鍵に辿り着く可能性は、限りなく確実に近い。これまでの経緯を見てきてもね』

「なるほど」


 メグ姐さんは少し低めの声で呟くと、俺の手を放して仁王立ちになった。その姿が様になるんだよな、この人——すっかり蚊帳の外に置かれてしまった俺はそんなことを考える。


「ではとにかく、私たちをここから出しなさい」

『いいでしょう。エレベータを解放します。まずは牧内と会いなさい』

「どういうことだ? お前にとって私たちが彼らと会うことは、お前の望むシンギュラリティ到来の妨げになると思うのだが」

『確かにあなたと墨川くんが彼らに出会うのは私にとっては得策ではない。けれど、どうやったってまずは彼らに会おうとするでしょう? ならば最初からそうしておいた方が、時間のロスが少なくて良いわ』

「コンピュータらしい論理的回答だな」


 メグ姐さんは不敵な笑みを見せ、腕を組んだ。ゴエティアも微笑を見せる。俺にはどうにも理解の出来ない表情の応酬だったが、女性ならではというところはあるのだろうか。男性である俺からしてみたら非常にピリピリした空気を感じてしまう。


 いや、待てよ。ゴエティアは人間ですらない。霞の姿を取っているだけの、高度な論理構造物ロジカルストラクチャだ。いや、それとも、女性の姿を取ることでその性質も女性的になるというのだろうか。その辺はジェンダー論の学者あたりに任せるとして——。


「墨川、何をぼんやりしている。行くぞ」

「あ、はい、課長」


 ネクタイに手を伸ばしかけてきたメグ姐さんをやんわりと回避し、俺はエレベータに向かって先陣を切る。


「あ、おい。主導権は常に私の方にあるんだぞ、墨川」


 追いかけてきたメグ姐さんが、俺の右肘を掴んだ。俺はエレベータの前で足を止めて「上」のボタンを押す。


「あの、課長」


 俺はメグ姐さんに向き直る。メグ姐さんは大人げなく頬を紅潮させつつ頬を膨らませていた。


「主導権が課長ってのは、いったい誰ルールですか」

「もちろん、私だ」

「……でしょうね」


 俺は開いたドアを確認するや、真っ先にエレベータに乗り込んで「開」ボタンを押す。


「どうぞ、課長」

「うむ、くるしゅうない」


 胸を張って乗り込んできたメグ姐さんに、俺は不覚にも目を奪われたりもした気がしないでもない。

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