第7話 食う、浸かる、寝る

 アメリアが地図を見せずに内緒にしていたこと、微かに潮の香りが漂っていたことからそうだと思っていたが、それでも俺は目の前の景色に感動した。


「これは……海だな?」

「ええ、そうです」


 疑問形になってしまったのは、俺が知っている海の光景とはまた違うものだったからだ。陽光に照らされて輝く青い海は、色こそは元にいた世界と同じだが、形が大きく異なっている。海岸沿いは凪いでいるが、沖の方にいくにしたがって何本もの柱のようなものが立っているのが見える。天を衝く水の柱は雲を突き抜け、上部がどこまで続いているのか全く分からない。


「あれはなんだ?」

「海柱ですね。根本にいる魔物が作り出していると言われています」


 太くそそり立つ海柱の中から、ふわふわとタコのような魔物の群れが出てきた。何匹も何匹も出てきて、それらが全て空を漂うように飛行する。


「あれは?」

「フライオクトパスですね。生でもなかなか美味しいですよ。遠くからだと分かりませんが、クロウベアの三倍ぐらいの大きさです」

「うはは、でっけえっ!」


 そのでかいフライオクトパスの群れに、空を飛ぶ恐竜のような魔物が飛び込んだ。フライオクトパスの触手が翼に絡みつくのも意に介さず、鋭い牙を使ってフライオクトパスを食いちぎっていく。


「あれは?」

「クビナガウミリュウですね。普段は海の中に生息していますが、ああやって時々空の魔物も食べます」

「おいおい、あれはなんだ?」

「うふふ、五歳児みたいに質問が止まりませんね。というかわたくしが同衾を誘った時よりも嬉しそうですね。えっ、うそっ、そんなことあります……?」


 質問攻めにしているうちに何故か落ち込みはじめたアメリアに構わず、俺は今度は海岸沿いに目を向けた。そもそもの目的は温泉なのだから、当然そこにあるはずだと思ったのだ。俺の予想通り、海岸の岩場の中に、湯気の立った一角を見つける。


「あそこか? あそこが温泉だな?」

「ええ、そうです。入るのはまだ我慢してくださいね。この時間はまだ熱いはずですから」

「了解!」


 俺は元気よく返事すると、温泉まで走り、服を脱いで飛び込んだ。死ぬほど熱くて跳び上がる。


「熱っ!? なんだこれっ!?」

「うふふ。えっ、うそっ、わたくしの話聞いてました?」


 とても人が入れそうな温度ではない。異世界で初めて遭遇した温泉に入れないことにショックを受けて、俺は裸のまま膝から崩れ落ちた。哀れな生き物を慰めるようにアメリアが声をかけてくる。


「この温泉は熱すぎるので、満潮時に海水と混ぜて入るものなのです。先ほど狩ったクロウベアを解体でもしながら待ちましょう」

「なんだ、そういうことは早く言ってくれよー」

「まだ我慢しなさいって言いましたよね? あと服を着てください」


 アメリアの言葉で立ち直った俺は、そわそわしながら満潮を待った。クロウベアの調理を手伝っているうちに夕暮れ時になり、満潮が訪れて、温泉に海水が混じり始める。俺はそっと指先を入れて適切な温度になったのを確かめると、肩まで湯に浸かった。


「ふぅぅぅぅ。最高」


 じんわりと熱が身体に染み込んでいく。温泉と潮の香りが混じり合った独特の匂いを楽しんでいると、メッセージが表示された。



【天啓魔法を獲得しました】


【レベル4に上がりました】


【レベル5に上がりました】



「おお、どんどんレベルが上がるな」

「温泉魔法というぐらいですからね。女神スパクアの恩恵は、ただの泉よりも温泉でこそ効果を発揮するのでしょう」


 そう言いながら、アメリアが湯に入って俺の隣に座る。当たり前のように服は着ていないが、俺も気にしないようにして視線だけなるべく外すようにする。アメリアが皿に盛ったクロウベアの肉を差し出してきた。焼いた肉に辛めの香辛料で味付けされたものだ。


「あなたが初めて狩った魔物の肉です。しっかり食べてあなたの中に取り込んであげてください」

「うはは、いいね」


 俺は肉切れを素手で摘んだ。湯の底に触れた指先が黒ずんでいたが、気にせずクロウベアの肉を食べる。


 熱い湯に浸かりながら、自分が狩った魔物の肉を噛み締めていると、久しぶりに生きていることの幸福感を覚えた。どうして俺は前世で死にたがっていたのだろうと考えて、ポツリと呟く。


「これだけで良かったのかもな」

「これだけ、とは?」

「たらふく食って、のんびり湯に浸かって、夜になったらぐうすか寝る。それだけで良かったのに、欲張って余分な荷物を持ちすぎて、いつの間にか生きるのも億劫になってたのかもしれねえ」

「……余分な荷物ですか。そう、そうかもしれませんね」


 俺の言葉に憂いた表情を見せるアメリアのことが気になって、俺は初めてこの魔法使いの事情に踏み込んだ。異世界に来てから数日を一緒に過ごして、自分が思うよりもアメリアのことを好ましく思っていたのかもしれない。だから、つい口を滑らせてしまう。


「聞かれたくなかったら答えなくて良いんだが……アメリアはなぜこの温泉に?」


 構いませんよ、とアメリアは微笑んで俺の不躾な質問に答える。


「気分転換、ですね。所属している組織でごたごたがありまして。考えをまとめるために、休暇を取ってここに来ました」

「異世界でもそういうのがあるのか。どこも大変だな」

「大変なのですよ」


 密かに尊敬している魔法使いの意気消沈した姿が気に入らなくて、俺らしくもなく慰めの言葉をかけてしまう。


「逃げちまってもいいんじゃないか?」

「え?」

「組織のごたごたなんか放って逃げてさ。こうやって旅しながら、食って湯に浸かって寝るだけの生活をしてもいいんじゃないか?」


 我ながら適当なことを言っているなと思いながら、天を見上げる。空は徐々に暗くなってきていて、薄く星々が見えた。俺のいい加減な言葉に、アメリアは嬉しそうに声を弾ませた。


「あら? ではわたくしが逃げた時は、ユツドーさんも一緒に旅してくれますか?」

「別に構わねえよ」

「……意外ですね。ユツドーさんは一人旅を好む男性だと思っていました」

「勘違いするなよ? 俺は一人が好きなんでね。大抵の人間とは一緒に旅する気にはならない。あんたなら別に良いって話をしてるんだ」


 初めてアメリアと会った時のことを思い出す。俺がアメリアの立場だったら、俺は異世界転移者のことを見捨てていたかもしれない。そういう冷たいところが自分にあるのを俺は知っていた。だからこそ、俺のことを助けてくれたアメリアのことを深く尊敬している。


 ということを言いたかったのだが、普段は超然としているアメリアが頬を赤く染めたのを見て、言葉の選択を間違えたかもしれないと不安になった。アメリアが距離を詰めて、肌と肌が触れ合う。


「さきほどは食欲、温泉欲、睡眠欲だけで充分だとおっしゃっていましたが、もう一つ、人間には大事な欲があると思いませんか?」

「……心当たりがねえな」


 アメリアの白くすべすべな肌から伝わってくる体温が、妙に熱く感じる。俺は極力アメリアのほうを見ないように我慢して目を瞑った。そんな俺をからかうようにアメリアはさらに密着してくる。腕に柔らかな感触が当たり、首筋にアメリアの吐息が吹きかけられ、そして――首に強烈な痛みが走った。


「痛ぇっ!」

「うふふ。すみません、あまりにも無防備だったので噛んでしまいました」

「何してくれてんの!?」


 首を右手で押さえてると、少しだけヌメった感触があった。出血しているようだ。とんでもない女だと俺が愕然としていると、アメリアが収納魔法でカバンから何やら液体の入った瓶と木製ジョッキを取り出す。


「さて、もう一つの欲のお話でしたね。レイック村で頂いた蒸留酒です。食べる、浸かる、寝るとくれば、飲むも必要でしょう」

「……悪くねえ提案だな」


 互いに相手の酒を注いでから「乾杯」とジョッキを打ち付け合う。保管する温度を間違えたウイスキーのような口当たりであまり美味くはないが、良い景色を眺めてクロウベアの肉を噛じりながらアメリアと喋っていると、酒がどんどん進む。


 俺たちは時間を惜しむように様々なことを話した。これまでに行った土地、これから行ってみたい場所。好みの異性の話。好きな食べ物、嫌いな食べ物。俺もアメリアも、別れの時が近いことは分かっていた。この世界で暮らしてきたアメリアには帰る場所があって、俺はそれについていくような男では無かったから。


「またいつか、一緒に温泉に入りましょうね」


 アメリアが寂しそうに呟いた言葉に、酔っていた俺がなんと返したのかは覚えていない。

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