第21話 辛い気持ち

「ここなら、逃げられないっしょ。さあ、聞かせて? 何があったの?」


 外は大雨。

 にも関わらず、ルナさんは玄関に仁王立ちしている。

 髪はビショビショ、身にまとっている制服もずぶ濡れで、足元には水溜りが出来ている。

 何でここまでするのか僕は分からなかったけれど、玄関に居た母さんが僕の肩を叩いた。


「何があったかは聞かんが、女をビショ濡れのままここに置いとく、そんな男に私は育てた覚えはねぇからな、タク。茜~、リビング行くぞ~」

「え~。おねえちゃんと遊びたい!!」

「こら。お前はこっちだ。母さんがいくらでも遊んでやるからな~」


 そういいながら、母さんは茜を抱っこしてリビングへと去っていく。

 僕は何を言ったらいいのか全然分からなかった。

 たった一日、ルナさんと話していないだけで。否、そうじゃない。

 僕は負い目を感じているんだ。今日一日、ルナさんをずっと無視していた事を。

 なのに、ルナさんが会いに来てくれた事に心のどこかで安堵、している?

 

「ふぅ……やっぱり思い立ったが吉日ってやつだね。夜も遅くなったけど、ここまで来て正解だった。ウダウダ悩むのは趣味じゃないからね。それで? オタク。いつまでそこに立ってるの?」

「……その……えっと……」


 頭の中がグチャグチャだ。

 何を言ったらいいのか全然分からない。

 と、とりあえず、タオルを用意して。僕はルナさんに背中を向け、口を開く。


「す、少しだけま、待ってて下さい」

 

 僕は逃げるように階段を上がって行き、自分の部屋にあるタオルをタンスから取り出す。

 それだけじゃなくて、寒くないように、それに下着も透けてしまっているから、上着を一つ。

 僕はそれらを手にもって、ルナさんの所に戻る。


「こ、これを……使って、下さい……」

「ありがと」


 ルナさんは僕の手からタオルと上着を受け取り、身体や頭を拭く。

 とりあえず、玄関に居たらゆっくり話をする事も出来ないし、入れるしかない。

 多分、ここで帰らせたら、僕は母さんに怒られると思うし……。

 ルナさんだって多分、帰ろうとはしないと思う。

 だから、もうここは入れるしかない。


「拭いたら、入って。その……へ、部屋で……」

「分かった」


 ルナさんはそれ以上言わず、身体を拭いてから、僕の後ろを付いてくる。

 ギシ、ギシと床を踏み鳴らし、僕とルナさんは部屋の中へと足を進める。

 変だ。

 確かに前まではルナさんを部屋に入れる事には多少なりとも抵抗があったけれど、嫌だとは思う気持ちは無かった。

 でも、今は……物凄くルナさんから逃げたくなっている。

 心が怖気づいていて、真実を話す事を怖がってる。

 もしも、本当の事を話したら、きっと彼女は失望する。

 僕の弱さに。僕が適当な所に座ると、ルナさんも座り込む。


 それからしばしの沈黙が流れる。


 何を話したらいいのか、本当に分からない。

 僕から言える事は理由を話すくらいだけれど、話してしまえばラクになるかもしれないけれど、その後の報復を考えてしまうと、物怖じしてしまう。

 ルナさんは何も言わずにただただ、部屋の中にある僕の二次元グッズたちを眺めている。


「…………」

「…………」


 妙な沈黙が流れる。

 ただただ、聞こえてくるのは外からの雨音。

 気まずい雰囲気が流れる中、それを切り裂いたのはルナさんだった。


「ねぇ、オタク。オタクはさ、昨日言った事、あれは嘘なの?」

「…………」

「好きって話、あれは、嘘?」


 嘘なんかじゃない。

 嘘な訳が無い。あの時、ルナさんに向かって言った言葉の全部は本心だ。

 僕はルナさんと一緒に居たい、ずっとずっと一緒に居て、隣で笑っていて欲しい。

 それは紛れも無い僕の本心だ。


 でも、それは……。僕には過ぎた願いで。

 僕にはあまりにも傲慢な願望で。僕の脳裏に過ぎるのは東郷君の怒りに満ちた顔。


『そうかそうか。じゃあ、話してる所みたら、またぶん殴るからな』


 ズキっと腹部が痛む。

 あの時、蹴られ続けたお腹の痛みが蘇る。

 こんな思いをするくらいなら、僕はこの気持ちを表に出さないで、独りで居たほうが良い。

 僕は小さく頷く。すると、ルナさんはそれを見て、首を横に振った。


「嘘」

「う、嘘じゃ……ない……僕はルナさんを好きじゃないし、こ、恋人にだってなりたくない……」

「嘘」

「嘘じゃない。嘘なんかじゃない……」

「オタクは何か隠してる。絶対に隠してる。だって、そうじゃなくちゃ……そんなに辛い顔しないでしょ」

「…………」


 僕は膝を下り、ぎゅっと自分自身を抱きしめる。

 体育座りでぎゅっと強く。

 何で、ルナさんには分かるんだ。

 辛くない訳ないじゃないか……僕だってまだまだルナさんとやりたい事、したい事があるのに。

 聞きたい事だってあるのに。

 僕が押し黙っていると、ルナさんはふと天井を見上げながら言う。


「あたしね、今日一日、すっごく辛かった。オタクがずっとあたしを無視してさ。最初は本に集中しているのかな、とか。あ、ライトノベルが良い所なのかな、とか色々自分の中で納得する理由を付けてさ、そう思ってたけど……何か全然そんな雰囲気じゃなかったよね」

「…………」

「あたしが手を掴んでも、今までだったら絶対にあたしに対してあんな無理やり振りほどくような事はしなかったし、あたしと目も合わせない事なんて無かった。オタクは絶対にあたしと話す時は、あたしの目を見てくれてるから」

「…………」

「誰よりも誠実で、真っ直ぐで、真剣で。素直な人。それがオタクだからさ。だから、あたしを振り払ったり、無視するって事は、絶対に何かあるってあたしはそう思ってるけどさ……」


 ルナさんの声がか細くなっていく。

 ルナさんは僕と同じように膝を抱え、小さくなりながら、涙声で言う。


「でもさ……大好きな人に……ずっとずっとむしされたら……あたしだってつらいよ……昨日、やっとほんものの恋人になれたのに……なんでって……」

「…………」


 ルナさんが泣いていた。

 僕はそれを見て、心がぎゅっと掴まれるような感覚を覚えた。

 痛くて、痛くて、たまらなくて……凄く見ていて、辛かったと同時に――。


 自分がいかに愚かだったのかを知った。


 僕はどこまでも自分本位で、ルナさんの事を何一つ考えて無かった。

 もしも、もしも。あの夢で見た記憶が僕が勝手に作り上げた偶像でなかったとしたのなら。

 ルナさんはずっとずっと僕の事を思い続けてくれていたのかな? 

 そう考えると、僕がしてきた事は大きな間違いで、ルナさんの気持ちを踏みにじる最低な行為。

 

 僕は君に泣いてほしくなかった。

 君が泣いていたら、僕まで辛くなってしまう。君に酷い事をしてしまったんだって……。

 

 何をしているんだ、僕は。


 僕は最低な人間だ。最低値を更新し続けている最低でしょうもない人間だ。

 こんなところまで行かなくちゃ、それが僕には分からないなんて。

 僕はぎゅっと拳を強く握り締める。


 逃げるな、逃げるな、逃げるな。


 自分自身から、ルナさんから、東郷くんから。


 逃げたって誰も幸せになんてなってないじゃないか。

 僕がルナさんを突き放して、ルナさんが泣いていたら、それは本末転倒じゃないか。

 それに、僕はルナさんが東郷くんのモノになるのを許せるのか?


 許せる訳が無い……じゃないか。


 僕だってルナさんの傍にいたい。

 こんな最低でクズな僕でも、ルナさんの傍に……居させて欲しい。


「……ごめん。ルナさん」

「……オタク?」

「僕が間違ってた。全部、全部、僕が間違ってた」


 僕はぎゅっと強く拳を握り締めたまま言葉を続ける。


「嘘なんかじゃない。今更だけど……昨日言った事は嘘なんかじゃない……僕だってルナさんと一緒に居たい……でも……それが出来ないんだ……」

「……やっぱり。やっぱり、何かあった。ずっとオタクを信じてたよ。絶対に何かがあるって。だって、オタクは言ってたから、あたしを嫌いにならないって」


 うん、そうだよ。

 僕がルナさんを嫌いになるなんてありえない。

 そんな事、万に一つも無い。


「……ルナさん、ごめんなさい。あんな酷い事して……本当にごめんなさい」


 僕はルナさんに向けて深く頭を下げる。

 ただただ、申し訳なくて。僕の自分勝手な感情でルナさんを傷つけて。

 ルナさんは一つ鼻をすすり、ゆっくりと僕に近づいてくる。

 それからぎゅっと、僕を優しく抱きしめてくれた。


「……あたしもごめんね。オタクの辛い気持ちに寄り添ってあげられなくて……何も分かってあげられなくて、ごめんね」

「……何で、ルナさんが、あやまるんですか……」


 抑えきれない感情が涙となって溢れてくる。

 僕はルナさんにあれだけ酷い事をしたのに。

 ルナさんはそれを受け止めて、許してくれる。優しすぎるよ……。


 こんな最低な僕を受け入れてくれるなんて……。


「…………」

「よしよし。会わないと、こうしてよしよし、してあげられないからね」

「ごめんなさい……ごめん……なさい……」

「うん、大丈夫。大丈夫だよ~……いっぱい泣いていいからね。全部、あたしが受け止めるからね。それから、何があったのか、ちゃんと教えてくれたらいいからね、だから、今は泣いて良いよ、オタク」


 優しくて、暖かくて、受け入れてくれる事が嬉しくて。

 僕は気持ちが一気にあふれ出し、涙となって流れ落ちる。


 本当にルナさんは僕には勿体無い。


 勿体無いけれど、僕はずっとずっとルナさんの傍に居たい。

 こんな最低な僕でもずっと。

 僕はただただぎゅっとルナさんにしがみついて、泣き続けた。

 まるで赤ちゃんのように。それでもルナさんはずっと僕を優しく包み込んでくれた。


 それはとても暖かくて、優しくて。僕はルナさんに救われた、そんな気がした――。

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