【応募用】
村雨廣一
ルビー色の恋心(仮)
きれいな赤色と目が合った。
水流と草で分かりづらいが何かの器にコロンと入っているようで、川の真ん中できらきらと光を反射している。その輝きにしばらく魅入ってしまっていたが、犬を散歩させている人が後ろを通ったことで我に返った。
そうだった、タバコを吸おうとアパート前の堤防に出てきたのだった。
口に咥えたままだったタバコに、手に握ったままだったライターで火をつけて軽く吸い込む。吸って吐いてを繰り返しながらも、目線はずっとあの輝きに囚われている。
こんな住宅街を流れる川に落ちているモノだ。きっと子供が落としたオモチャかガラクタに違いない。なんなら割れたガラス瓶もありうる。光と水の反射で輝いているだけで、実際はただのゴミ――。そう思いながらも、どうしても手に取ってみたくなってしまった。
きれいに刈り揃えられている斜面をずりずりと滑り、苔むしたブロックに足をかけてサンダルのまま川に飛び降りる。途端に水草に足をとられそうになった。
こんなことをするのは一体いつぶりだろう。
さっきまでくたびれた大人らしく期待しない言い訳を考えまくっていたというのに、心のなんと正直なことか。遠い記憶に口元を緩めながらざぶざぶと進み、器ごと拾い上げ――、そしてすぐに後悔した。
それは眼球だった。
親指と人差し指でわっかを作ったくらいの大きさの、片割れの赤い眼球だった。
一気に血の気を失っていく体とは裏腹に、視線だけは“眼球”に囚われていた。それは器の中で太陽光を反射して、宝石の……そう、ルビーのように複雑に輝いている。光物の類に興味をそそられたことはなかったのに、これは世界で一番美しいものだという謎の自信があった。
その美しさにどうすればいいか分からず川のど真ん中で立ちすくんでいると、大丈夫ですかと、川べりから声をかけられた。その声でようやく目を逸らすことができ、大丈夫ですと慌てて川から上がる。顔が熱いのは短くなったタバコのせいか、それとも羞恥心か。
こうして逃げるように帰ってきた結果、狭いアパートの、これまた狭い台所の流しには、器に入った眼球が存在することになってしまった。よくよく見てみれば器も頭の骨の一部のようにも見えてきた。もはや通報モノである。
一体どうすればいいのかと考えながらも、不思議と捨ててしまおうとは思えなかった。それどころか、どうすればこれをずっと側に置いておけるのかとぐるぐる考え続けている。
とりあえず川の水だけは替えてもいいなと蛇口に手を伸ばしたところで、眼球がごろりと動いた。
情けない声とともに体が跳ねてしまったが不可抗力だろう。
吐き出しそうになった心臓を唾と一緒に飲み込んで、一歩離れて観察してみる。どう見てもただの――いや、ただのと表現するにはあまりにも美しい眼球なのだが……、眼球だけで動くなんてことがあるのだろうか。
少し角度を変えて器を覗くと、水の中に透明な何かがあるのが見えた。ぬるりと、その何かが器の中でせまそうに身じろぎするたびに、その体に存在するらしい眼球もころりと動く。
これは魚だと、唐突に理解した。
もしかして、水道水を嫌がったのだろうか。
その時ふと、小中高と一緒だった友人Aの顔が頭をよぎった。
クラスの生物係に自ら毎回立候補して、唯一メダカの見分けがつくほど魚好きだった友人A。年末に誘われたクラス同窓会で久しぶりに再会し、テンションの上がった主催による三軒目テキーラショット一気飲み度胸試しでお互い真っ白になったまま乗り込んだタクシーで、実は近くのアパートに住んでいたと発覚した友人A。
確かアパートの一室を水槽で埋め尽くすほど熱帯魚に入れ込んでいると言っていた、気がする。終始べろべろになりすぎてあまり記憶がないが。
あいつなら何か水生生物に対して適切な――これを水生生物とカテゴライズしていいかどうかは分からないが――アドバイスをくれるかもしれないとスマホを取り出した。
***
「おーう!水槽持ってきてやったぞ!」
軽く相談するだけのつもりだったのだが、ちょうど休日だったという友人Aは話を聞くや否やお古の水槽もろもろを抱えてやってきた。そのもろもろの値段をネットで調べて二度見してしまい、いくらか払うよと言ったのだが、
「いやいーって!今度彼女と同棲することになっててさ、ちょっとだけ水槽の数を減らそうかなって、譲ったりなんやらしてるんだよ」
と断られてしまった。
なんならお前の部屋に半分置いとくのもアリだな、とこの殺風景な部屋を見てにやりとする始末である。
熱帯魚と同じくらい熱を上げられる人ができたということだろうか。めでたく結婚なんてことになったらご祝儀を弾もうと心に決めて、ありがたく貰い受けることにした。
「ところでなに飼うんだ?」
種類によって適正水温とかいろいろ違うからさ、と目を輝かせながら聞いてくる友人A。うまい言い訳を考える隙も与えないほどの勢いでやってきたくらいだ。初心者が一体どんな熱帯魚を飼おうとしているのか。それはもう気になるのだろう。
適当なことを言おうにも熱帯魚の種類なんてよく知らないし、嘘をついて後々ガッカリされるのも嫌だ。かと言って風呂場に避難させた“魚”――のような何かを見せてしまう勇気もない。なにしろパッと見は眼球だ。それこそ誤解されてしまうかもしれないし、というより、ただ単に人に見せたくないなと思ってしまっている自分がいる。
どう説明したもんかなと頭を掻いていると、「まあ住処だけでも準備しとくか!」と友人Aは風呂場のドアを真っ先に開けた。
なんてこった。
水なら台所から取るかな、なんて軽く考えていた数分前の自分の浅はかさが恨めしい。趣味の沼に人を引きずり込もうとうする人間の行動力のなんたる強さよ。むしろ怖いまであるぞ。
「えっ」
慌てて制止しようとした声と、友人Aが“魚”と目が合ったのは同時だった。
「え……、お前、これ……?」
ああ神様仏様、どうか通報だなんて面倒くさそうなことにはなりませんように。
食い入るように“魚”を見つめる友人と、水をまだかまだかと待っているお古の水槽との間で、ただただ祈るしかなかった。
数時間後。
この部屋唯一の机の上には、小さなアクアリウムが誕生していた。
「なんて奇麗なんだ」
友人Aはその後叫び声も糾弾の声も上げず、憑りつかれたように行動し始めた。水槽を置くに値する場所に机を移動し、当然玉突きのようにベッドとテレビも移動させ、この部屋と自宅とホームセンターとを行き来して――。まるでここだけ水族館の一部かと思わせるほどのアクアリウムを創り出した。
そしてそこに漂う“魚”をうっとりと眺め、息をするように「奇麗だ」を連発していた。
「こんな奇麗な魚、見たことがない。どこで買ったんだ?譲ってもらったとか?」
川で拾った、と正直に答えても、まったくもって信じてくれなかった。
どうやら友人Aには、本物の魚に見えているらしい。ちなみに種類は分かるかと尋ねてみたが、「知ってたらもう飼ってるよ」と返ってきた。確かにそうか。
“魚”は――、いや、どう見ても赤く輝く“眼球”は、青々と生い茂った水草と流木のステージをゆらゆらと満足げに泳ぎ回っている。心なしか嬉しそうにも見える。“魚”の気持ちなんて分からないが。
これが他人には魚に見えているのであれば急に部屋に来客があっても大丈夫か、と少し安心したところで、腹の虫がきゅるきゅると鳴いた。そういえば慌ただしくしていて、朝飯も昼飯も食いっぱぐれていた。せっかくだからどこか食べに行くかと誘うが、
「あー、そうだな、腹減ったな」
と、どこか生返事だ。
まあ趣味とはいえ飲まず食わずで何時間もかけてこんな大層なものを創り上げたのだ。疲れもするだろう。ポストにピザ屋のチラシがあったことを思い出して、奢るからここで食べようと提案すると友人Aはにやりと頷いた。
近所のコンビニで、「あの店員さんお前に気があるんじゃねーの」なんて友人Aに突っつかれながら急いで買ってきたキンキンに冷えたハイボールとジンソーダ。熱々のLサイズピザ二枚に、フライドポテトにコールスローサラダ。机がないので床で食う羽目になったが、たまにはこういうのも悪くない。
最初は“魚”を肴に酒を飲んでいた友人Aも、酒が回るにつれて俺の熱帯魚を見ろと絡み始めた。熱帯魚フォルダの中に彼女さんを発見して茶々を入れたら惚気られてしまったりもしたが、学生のときに戻ったかのような、満ち足りた休日であった。
***
さて、先日からアクアリウムが存在するようになったのだが、生活の質が上がった気がしてならない。
どうせ仕事から帰ってきて寝るだけの部屋だしなと必要最低限の家具家電しか置いていなかったというのもあるが、部屋に緑があるというのはとても良い。台所で気まぐれに二回目の豆苗を豆腐パックで育ててるのとは次元が違う。
目覚めの水道水を飲みながら眺めていると、“魚”とばっちり目が合ってしまった。草木の緑と眼球の赤がとても美しいコントラストなのだが、夜中トイレに起きたときに月明かりにらんらんと照らされる深紅の眼球を見てちびりそうになってしまったのは内緒である。
そういえば、もう一つ増えたものがあったか。
「よーっす」
友人Aの訪問である。
どうせこまめに面倒見れないだろ、と次の日には餌を片手にやって来た。どうやら夏休みに入る前にアサガオを枯らすタイプの小学生だったことをしっかり覚えていたらしい。もう大人だぞと言い返そうとしたが、そういえば二回目の豆苗を収穫できた試しがなかったので押し黙った。
結果的に、数日おきにあれこれ世話を焼いては魚を眺めて帰る、なんなら泊まっていくというルーティンが出来上がっていた。
仕事終わりに寄るコンビニで、友人Aがマンガ雑誌を読みながら待っているなんてこともあった。これじゃあ友人Aと半同棲しているのは自分である。こんな立派なアクアリウムの管理はできないので助かると言えば助かるのだが、同棲すると言っていた彼女さん的には大丈夫なのだろうか……。
なんて思っていたら、数週間後には彼女さんが乗り込んできて修羅場になった。
主に友人Aと彼女さんが、だが。
どうやらここを間女が住む部屋だと思い込んで乗り込んできたらしい。これから同棲しようかってときに帰ってくるのが遅い、連絡がつかない、話をしても上の空、さらには朝帰り……。そりゃまあ疑われても仕方がないな。
家主を無視した口論が一時間ほど続き、色々と折れてしまった彼女さんが「勘違いして押しかけてしまってすみません」と謝りながら帰ってしまった。来た時の般若のような顔から、泣くのをぐっと我慢したような表情に変わっていた。おいおいちょっと待てこれは大丈夫なやつなのか、ちゃんと話し合ったほうがいいんじゃないかと友人Aに一緒に帰るよう説得したのだが、
「俺は熱帯魚に費やす時間を減らすことはできない。それはあいつも分かってくれてるはずだ」
なんて言い始める始末である。
熱帯魚と彼女さん、一体どっちが大事なんだと問い詰めれば、ちらりと“魚”を見て、
「熱帯魚かな、人生のほとんどを一緒に過ごしてきたし」
と言い切りやがった。
馬鹿だ。本物の馬鹿だ。
これが彼女のために熱帯魚と水槽を減らそうとしていた男の言動だろうか。
いやもしかしたら、この“魚”に出会ってしまったからか。
こいつが友人Aの人生を狂わせてしまったのだろうか。
熱帯魚はお前のことを想って行動してくれないが彼女さんは違うだろ、と一応の責任感から言ってみたが取りつく島もなかった。友人Aは無言でいつもの世話をし終えた後、これまた無言でしばらく“魚”を見つめ、
「こいつが側にいてくれたらそれでいいのにな」
と零した。
その瞬間、自分自身も同じことを考えていたと思い出した。
そうだ、そうだった。
拾った時はあんなにも心惹かれていたじゃないか。
わざわざ川に入ってまで“魚”を拾って、自分のものにしたではないか。
じゃあどうして今はこんなに客観的に“魚”を見ているのだろうか。
どうして友人Aはこんなにも“魚”に魅了されているのだろうか。
「ああ、なんて奇麗な魚なんだ……」
とんでもないスピードではまっていくパズルのピースが、一つの突拍子もない答えに行きついた。
友人Aはいまだにとろんとした眼で、“魚”が躍るように揺らめく姿を追っている。いやいやまさかそんなと思う頭の片隅で、彼女さんの泣きそうな顔がフラッシュバックする。お前は友人が不幸になっていく様を見ているだけなのかと、行動するなら今だろうと心が騒ぐ。
意を決し、その両肩を力強く掴み、おいよく聞けと言葉を続けた。
***
「なんか色々ごめんな、これ、おまえの好きなお菓子」
このたび無事に同棲を始める友人Aの手伝いをしに来たら、早々に彼女さんに渡せと言いつけられていたというお菓子をもらってしまった。「好きって言っても小学校の頃の記憶だけどな」と渡された大きめの紙袋に入っていたのは、地元で知らないやつはモグリと言われかねないほど有名な店の焼き菓子詰め合わせだった。しかも一番大きい箱である。
もちろん今でも好きだがこんなに悪いよと言ったが、「ちゃんと渡さないと俺が怒られる」ということなのでありがたく貰っておいた。
「あの時の俺、マジでおかしかったよな……。そりゃあ、きれいだったぜ?でもなんであんなになってたのか、何度考えても全然分かんないんだよ……。変だよな、自分のことなのに」
半分以下になった熱帯魚専用の部屋を改装するべく、一緒にスチールラックを移動させながら友人Aは首をかしげた。それはそうだろう。自分だって何がどうなっているのか、結果論でしか分からないのだから。
それにしても親切な人が“魚”を引き取ってくれて良かったよ、と話題をそっと切り替えた。
あのとき友人Aに言ったのは、お前より熱帯魚の飼育が上手い知り合いを紹介しろ、ということだった。
どういうわけか“眼球”として川に流されていたところを自分に拾われて、そこからどういうわけか“魚”として友人Aに取り入ったあの得体のしれない何か。
普通に考えてありえないことだらけなのだが、“魚”が人間を魅了してより良い生活環境を手に入れようとしていると考えれば辻褄が合う。友人Aは熱帯魚を愛する男だ。想像できる限り最高の魚に擬態すれば、最高の住処を与えてくれる――。“魚”はそう考えたのではないだろうか。
そうなるとどうして友人Aが「譲ってくれ」と言い出さなかったのかが謎だが、そこは置いておこう。
まあつまり、“魚”から逃れたければ、次なる人柱を用意すればいいだけなのだ。
いやでもそんなとごねる友人Aに、紹介しないなら“魚”は元いた川に放り投げてくるぞと告げるとしぶしぶSNSのフォロー欄を探し始めた。手放したくないのは同じだが、友人Aの幸せと天秤にかけるならその方がずっといい。こんな美しいものは、その美しさに見合う人間が持っているべきだ。
“魚”がアクアリウムの中でころころと動き回っていたが、決心が揺らぎそうで視界に入れなかった。
厳選に厳選を重ね、はれて選ばれたのは、県内で熱帯魚ショップを営んでいるという生粋の熱帯魚マニアさんだった。ちょうど友人Aが熱帯魚の数を減らしているという状況を利用して、もしよかったら見に来るだけでも、と写真付きで連絡を取ってもらった。
効果は抜群だった。
写真越しでも“魚”は“眼球”に見えていてどきどきしたが、どうやら大丈夫だったらしい。翌々日には車を飛ばしてやってきて、いつぞやの友人Aのように「奇麗だ」を連発する人形のようになってしまった。
うっとりしている店長さんに、実はこの“魚”は友人Aのものではないが、自分では持て余すのでよかったら引き取って欲しいという旨を伝えた。すると店長さんは激しく頭を上下に動かしながら食い気味に「もちろんだ」と、「なんなら買い取ってもいい」とまで言ってくれた。そして“魚”がどれほど美しいのか、入手経路はどこなのか、一体何の品種なのかとまくし立ててくる。友人Aもうんうん相づちを打っているが、自分には赤く輝く“眼球”にしか見えていないし近所の川で拾っただけだ。気持ちが揺らぐ前になるはやで引き取ってもらおうと、熱帯魚好き二人で膨らみだす話題をちょくちょく元に戻さなければならなかった。
そして“魚”は、思っていたよりあっけなく、あふれんばかりの笑顔の店長さんにドナドナされていったのであった。
残された友人Aは数日間ぼんやりと主のいなくなったアクアリウムの手入れをしていたが、何かがおかしいぞと気付けたのだろう、今までのことが噓のようにさっぱり来なくなった。
そして水槽がだんだん苔で汚れてきてどうしようか困り始めたころに、「なんとか彼女に許してもらえた」と連絡が来たのだった。
よしよし上手くいったぞ、という気持ちと同時に、また擦り付けただけだよなという罪悪感が、今でもちくりと胸の奥に刺さったままだ。
「よし、こんなもんか。コレはめといてくれ」
移動させたスチールラックとの間に渡された連結用デスクをはめて、後付けのハンガーポールもいくつか取り付ける。友人Aがパソコンの配線をし直している間、ふむふむと改造の進んだ部屋を眺める。
L字型に配置された黒のスチールラックにダークブラウンの木目調の机、すぐ取り出せる服、部屋を仕切るように置かれた熱帯魚の水槽。
こういう男の秘密基地も良いな、と感心していると、友人Aが「こいつも頼むわ」と組み立て式家具が入っていそうなでかい段ボールをばんばんと叩く。なんだか上手く使われているような気がするが、焼き菓子セットの分くらいは働いておくことにしよう。
「そういえばあの店長さんとさ、連絡付かないんだよな」
粗大ごみを処分場に持っていくドライブに付き合った後、帰り道で友人Aがぽつりと呟いた。引き取ってくれた日に一度だけ“魚”を褒めたたえるようなSNSの更新をしたが、すぐに削除され、その後更新はなし。気になってメッセージを送ってみたものの返事もないらしい。
友人Aは今でも心のどこかでは“魚”のことが気になっているのかもしれない。それじゃあまるで未練がましい男ではないか。まったく、お前の恋人はちゃんといるだろうが。
話題を逸らそうと、きっと“魚”に夢中でSNSできないんじゃないかな、と言ってみると、「そうかもな」と納得してくれた。
「誰にも見せたくないのかもな。俺もそう思ったし。……けど、どういう訳かお前に譲ってくれって頼む気にはならなかったんだよなー。あの部屋に置いておきたいっていうか、なんだろう、最高の状態でお前に見せたいっていうか」
よく分からないことを言い出したので、なんだそれ、と笑ってやった。
「なー、訳分かんないよな」と友人Aも釣られるように笑った。
仕事終わりで合流した彼女さんに「一緒にご飯でも」と誘われたが丁寧に辞退した。“魚”のせいで二人の時間をだいぶ奪ってしまった感もあるし、なにより目の前で惚気られると独り身には辛いものがある。また力仕事があったら呼べよと友人Aに伝えて、のんびりとコンビニまで歩く。
夕空が焼けるようなオレンジ色をしていたが、あの“魚”の美しい赤色には到底及ばないな、なんて考えてしまう。アクアリウムは管理ができないからと友人Aに引き取ってもらっていて、部屋は以前と同じ殺風景なものになってしまっている。寂しさを感じている自分に気が付いて、いやいやそれじゃあまるで自分も未練がましい男ではないかと頭を振った。
どうして“眼球”なんかに恋をしてしまっているのだ。
考えないようにしていたが、そもそも“魚”が自分に拾ってもらうために擬態したのが眼球って、一体どういうことなんだ。そんなもの好きでもなんでもないぞ。もっとこう……、何かあっただろう。友人Aが熱帯魚を好きだったように、何かこう――……。
そこまで考えて、自分に何も熱中できるものがないことに思い至って気が滅入った。
自分でも分からないのだ、“魚”もひどく悩んだに違いない。
部屋に帰っても一人だという事実も相まって、なんだか悲しくなってきた。
こういうときは飯を食うに限る。さっさと弁当でも買おうとコンビニに入ろうとしたところで、
「あっ」
ちょうど出ようとしていた店員さんとかちあってしまった。
「すみません、前見てなくて。いらっしゃいませ」
友人Aに「お前に気があるんじゃないの」と言われてからなんとなく意識をしてしまっている店員さん。目がちょっと隠れるくらいのさらりとした黒髪ショートボブで、笑顔は少ないものの対応は丁寧。年は大学生くらいだろうか、つやつやの肌が眩しい。胸はだいぶ……いやこれはセクハラだな。やめておこう。
しばらく見なかった気がするが、きっとテスト週間かなにかだったのだろう。学生の身分も大変である。
こちらこそすいませんとへらりと笑うと、店員さんも――目線は合わせてくれないものの、にこりと笑ってくれたような気がした。友人Aよ、店員さんは本当に自分に気があるのだろうか。そうであってくれたら嬉しいが。
店内にはこの時間帯にしては客一人いなかった。珍しいなと思いつつそういえば読めていなかったマンガ雑誌に目を通し、ペットボトルのお茶を一本選び、弁当コーナーで少し悩んだ後いつものチキン南蛮弁当を手に取る。たまには違うものを、と思いつつも結局同じものを買ってしまう。こうやってなにも冒険せず、毎日仕事して帰って寝てまた仕事してを繰り返しているから、出会いのでの字もないのだろうかと考えてしまう。……ダメだな。今日は気分が落ち込んでしまっている。
「それ、お好きなんですか」
財布を軽くしようと小銭をじゃらじゃらと自動釣銭機に入れていると、店員さんに話しかけられた。とっさになんのことか分からず、え、と聞き返してしまうと、慌てたようにすみませんと言われてしまった。
「いつもチキン南蛮弁当だから、好きなのかなって」
いつもチキン南蛮を買う客だと覚えられてしまっていた。なんてこった。これはあれか、客層メモにチキン南蛮野郎って記録されてるやつではなかろうか。
いつも考えなしにチキン南蛮ばかり買っていたことに急に恥ずかしさを覚えながら、いや、そういうわけじゃないんですけど、でもいつも買っちゃうから、好きなんですかね、なんてしどろもどろで答えてしまう。その挙動不審さが面白かったのか、くすくすと口元を押さえながら店員さんは笑う。そして、
「お弁当、温めますか?」
今度こそ目線を、合わせてくれた。
その瞬間、笑った顔が可愛いななんて思っていた頭がぐらりと揺れる。
いや、大丈夫ですと答えて目線を外し、釣銭機から出てきた五円玉を財布にしまう。手が少し震えて、ファスナーが上手く閉まらない。
「お家、近いですもんね」
いつも温めはしていないが、果たしてそんなことを店員さんと話したことがあっただろうか。
「たまにはお弁当と一緒に野菜ジュースも買ってくださいね。栄養バランス良くなるらしいですから」
緊張で冷たくなり始めた手が、袋を受け取る瞬間に少しだけ店員さんの手と触れる。
さらりと流れる髪を耳にかけ直しながら、店員さんはもう一度自分に目線を合わせる。
揺らめくような、淡い赤色の瞳だった。
その瞳に囚われた途端、ああ、と思った。
帰ってきてしまった、と。
“魚”が帰ってきてしまった、と直感した。
恐怖と高揚が一度に来て、頭がとてもぐらぐらする。
どうしてこんな時にこのコンビニには誰も来ないんだ。ああ違う、誰もいなくてよかった。二人っきりになれた。嬉しい。違う。怖い。誰かいて欲しい。早く、誰でもいいから。この子は誰だ。可愛い。ずっと“そう”だったのか。こんな子が恋人だったらいいのに。それとも途中から“そう”だったのか。どうやって。ああ、ようやく誰かの特別になれた。どうして自分なんだ。もっと一緒にいたい。だいじょうぶ。これでずっとそばにいれる。ふれあえる。ひとのかたちをてにいれたから。もうだいじょうぶ。
「大丈夫ですか?」
どさりという音で、我に返った。
彼女の手が、いつの間にか落としてしまっていた弁当とお茶の入った袋を自分の手に持たせようと重なる。温かい手が、ぎゅっとレジ袋を握らせてくれる。
「……、もう、手放しちゃだめですよ?」
ばくばくと五月蠅い心臓をなだめるように息をしながら、はい、としか答えられなかった。
/end
【応募用】 村雨廣一 @radi0_0x
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