第5話
王城御前広場から隠れ家まで、片道で三時間。
息を切らせて急いで隠れ家付近までもどったアシェルは、森のなかを慎重に進んだ。
離れた場所から隠れ家の様子をうかがう。人の気配はない。すでに陽は山稜に沈みかけており、あたりは暗くなっていた。なるべく音を立てず地下より、出入り口から中へ入る。
誰もいなかった。
中は荒れていた。テーブルがひっくり返り、棚が倒れて乱雑な状態になっていた。コップが床に転がり、溜め置きした木桶が横倒れになって、水がこぼれていた。
胸がざわつくのを感じながら、もう一度出入り口に戻る。
「来たようだな、アシェル・アッシュ」
「お前は……」
魔法使いが立っていた。
濃緑色のローブに身を包み、杖を片手に魔術士帽を被った老齢の男。
陰湿な眼差しがアシェルを舐めるように見つめている。首元には蛇を象った
見覚えがあった。
勇者ゼクスのパーティにいた魔法使いだ。名前はモルトリン。
転生する前、勇者一行を歓待した際に魔王として会ったことがある。彼と勇者ゼクスだけは、最後まで腹の底の見えない不気味さを感じていた。勇者には劣るが、相当な腕前を持つ魔法使いだ。
「カラスを寄越したのはお前か。カリーナとラシャドはどうした!」
「いやはや……まったくお前はとことん運がないようだな、魔王」
「……!!」
アシェルは瞠目した。
自分が元魔王の転生体であることは、リーネリアを除いて誰にも言ったことがない。
こいつが自分の正体を知るはずがない。
「ここに出向いたのは私の意思ではない。お前をとことん目の敵にするデルヴィーニュの領主だ。私はただの雇われだ。雇われなのだが――命じられたからにはやるしかない。ああ、まったくもって仕方のないことだ」
「お前は……何を言っている?」
「貴様がこれから死ぬ、ということだよ。魔王」
口元だけの笑み。
人間としてのなにかが決定的に欠けた、不気味な笑顔。
「ここで私に会わなければ、死ぬことがなかったのに。いやまったくゼクスもみんなもあまりに慎重すぎるのだ。魔王ごときわざわざ転生させずとも殺してしまえばいい。どうせ次までは時間がかかる。そのころにはすべて終わる」
「お前は……さっきから何を言って……」
「うっかり会った魔王の正体に気づかず、うっかり殺してしまいました。ごめんなさい。これからは一生懸命がんばります。こんなところか。なにごともシンプルが一番だからな。―――さて、死ね」
アシェルの眼前で爆炎が弾けた。
モルトリンの杖先から放たれた摂氏2000度を越える高温度の火炎が、アシェルに襲いかかった。束状の炎がアシェルのいた場所に、孤を描いて殺到する。一瞬のうちに一帯を燃やし尽くして、炎が霧散した。
魔法の炎の残した焦げ跡。そこにあるはずの人影は消えていた。
「……逃げたか」
モルトリンは鼻を鳴らした。
彼がそばの断崖に歩み寄って見下ろすと、人影が見えた。モルトリンは崖を回り込むように歩き始めながら、どのように殺すかの算段をつけはじめた。
◇
飛び降りた先から、崖上を見上げるとモルトリンがこちらを見下ろす姿が見えた。その影はすぐに消えたが、まず諦めたわけではないだろう。
「ご無事ですか、アシェルさま」
「あ、ああ……ありがとうリーネリア。助かったよ」
モルトリンの攻撃から守ってくれたのはリーネリアだった。
突然現れた彼女が、自分を抱きかかえて崖から飛び降りた。しかもそのまま何事もなかったかのように着地した。崖はかなりの高さがある。
「君にこんなことができるとは思わなかった。驚いたよ……」
「《額縁》の聖女にはこういう力も求められるのです。それよりもアシェルさま。あの男は」
「あいつは魔法使いモルトリン。かつての勇者一行の一人だ。ラシャドとカリーナを人質に取られてここに呼び出された。僕の命を狙っている。またすぐに襲ってくるはずだ」
「勇者の仲間、ですか――」
どこか困惑した様子でリーネリアは眉根を寄せた。
「どうしてこんなことが……? あのふたりは無事でしょうか」
「わからない。中にはもういなかった……」
心配ではあったが、かといってアシェルたちも余裕があるわけではない。
とにかく今はこの状況をどうにかしなければならない。
「あいつは何か知っているようだった。僕が魔王だとわかっていた。もしかしたら勇者が自殺した理由も知っているかもしれない。リーネリア、あの魔法使いと戦うのは――」
「いえ……残念ですが勝てないでしょう。私は魔法に対しては無力ですから」
「そうか……」
モルトリンはすぐに崖を回り込んで、殺しに来るだろう。
アシェルに戦闘能力は皆無だ。魔法も使えない。体術も学んでない。リーネリアが無理なら逃げるしかないが、かといって見逃してくれるほど甘くもないはずだ。
夜闇のなか月明かりが照らす森林地帯を行き、二人は解決策を探す。
「万事休すだな……」
「……一つだけ、方法があるかもしれません」
「どんな方法だ?」
「私と《
聞き慣れない言葉だった。
「どういうものなんだ、それは?」
「聖竜教会に所属する聖女――とりわけ《額縁》と呼ばれる私たちはみな、ある能力を見出されて選ばれます。それが《余兆》の契りを結ぶ力……それはときには聖竜神様からの
「どんな力が得られる?」
「……わかりません」
リーネリアはきっぱりと、しかし苦しげに告げる。
「《余兆》があたえる力に規則性はないのです。さる者は無限の財を生み出す術を得、そしてさる者はあらゆる距離をまたたく間に移動する力を得たと聞きます。……その一方で、ある者は水にかすかな塩を加える力、草木をわずかに早く育てる力を得たのみだったとも聞きます」
「ハッ――カコの葉を早く育てられるなら、僕は嬉しいけどね」
皮肉っぽくアシェルは笑って、思案する。
ようするに契約したとしても能力には「当たり外れ」があるということだ。仮にそれが魔法を超える神秘だったとしても、くだらない能力ならば意味はない。モルトリンに殺されるだけだ。
「それだけではありません」
「まだあるのか……」
「はい。――この契約には、呪いがつきまとうのです」
呪い。
それはすでに勇者の転生魔法と同時に付与された。魔王族専用の魔法はすべて、この呪いで封じられたのだ。そのうえさらに縛めが増えるというのか。
「呪い――というよりは、代償というべきものなのかもしれませんが。ある聖女の契約者は、視力を失ったと聞きました。視力は生涯戻らなかったそうです」
「…………」
どんな能力を得られるかわからない。
しかも当たり外れがあり、代償まで支払う必要がある。
成る程、リーネリアがためらうはずだ。
「契約するかどうか、それはあなたの意思に委ねようと思っていました。もしも復讐を強く望むのなら、そのときはお力になろうと。望まないのでしたら、そのまま死ぬまで口外しないつもりでした」
「そう思っていたら、勇者が死んでしまったわけだ」
「……はい」
「そこにいたかッ!」
モルトリンの声が恫喝するように響くと、すぐさま火球が襲ってきた。
急ぎ飛びのいたアシェルの足元を炎が焼いた。ふたりは木陰に隠れたが、その周囲を鬼火のように火球が漂っている。その一つが、アシェルに反応した。
「くっ……!!」
「アシェルさま!」
庇うように身を挺したリーネリアの背で炎が弾けた。彼女の悲鳴に重ねるように、モルトリンがさらに魔法を唱える。杖先に魔力が充満する。
「〈クロフォードの第二拘束〉。――女、お前はそこで黙っていろ」
「んむ、ぅぅ……っ!」
地面から生えた何本もの黒色の蔦状のなにかが、リーネリアの身体を束縛した。全身をがんじがらめにした黒蔦は、彼女の太腿から胴体、首元から口までぎちりと絡みつき、ほとんどまったく身動きを許さない。
「さあ魔王、もう逃げ場はないぞ」
「モルトリン……貴様あッ!」
「邪魔だ!」
殴りかかろうとしたアシェルにモルトリンは杖を一薙ぎ。振り払った杖先がしたたかに腹部を打擲すると、アシェルは呻いて地を転がった。
「おお魔王よ、かほどに弱いとはなにごとだ! いまの貴様には魔法を使う価値さえもない。非力な魔法使いである私にすらただの殴り合いで勝てないとは……クククッ、フハハハッ!」
「ぐ、ぁ……」
うずくまったアシェルの背を、モルトリンの杖がなじるように殴打する。
弱い。弱すぎる――なんで僕は、こんなにも……。
「さて、どのようにお前らを苦しめてやるか……ああ無論、すぐには殺さぬとも。貴様らの奏でる苦悶の旋律は、きたる我らの未来を祝うファンファーレだ。まずは……この女の指を一本一本折ってでもみるか?」
痛みに苦しむアシェルが、愕然と顔をあげる。
視界に映るリーネリアの姿と亡き妹の姿が重なった。
モルトリンが口元と手の拘束魔法のみを解除すると、リーネリアの顎を指先でつうっとなぞった。
「美しい女だ。お前の鳴き声はさぞ艷やかに我らの歓喜を彩ることだろう」
「やめろ……」
「さあ聞かせるがいい。私の魔法の前に
「やめろおおオオオォォーーーッ!!」
「アシェル!」
リーネリアの右小指があらぬ方向へとひしゃげ始める前に、彼女が懸命に手を伸ばした。咆哮しながら突進するアシェルもまた彼女に必死に手を伸ばし――両手が触れあった、そのとき異変が起こった。
月明かりのみが照らす暗い林中が、消え去った。
視界は突然に、何もかもが切り替わっていた。何もかもが変化していた。
それは穏やかな空間だった。
四方にそびえる大理石の柱。足元に敷き詰められた純白の庭石。空を覆うペイルブルーの天蓋と、色鮮やかに花が咲き乱れる花壇。傷ひとつない清濁併せのむ東屋――それは魔王オルドが何度となく見た光景だった。
天冥宮だ。
モルトリンは消え去っていた。リーネリアの姿もなかった。
わけもわからずに呆然と突っ立っていたアシェルが、ふいにその場から後ろに振り向くと、誰かが立っていた。
『―――
最愛の妹、ミア・エルトレン・ハインツフェルトの姿がそこにあった。
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