1-8:エンリケ
『金のリンゴ』――トマトの大商いから、一日が過ぎた。
島から出る日となり、エンリケは船室から窓の外を眺めている。
トマトも好評だったが、島の魚も美味だった。
ほどよい塩っ気に漬けられたニシンは、爽やかな香りをそのまま残す。産卵前のニシンは、特に味がいい。
島では他の魚介も豊からしかった。貝類のほか、
「……うまかったなぁ」
総合して、エンリケは船室でほうっと息をつく。独り言が気がねなくできるのも、個室を持てる上級商人の特権だった。
帽子にささった青羽がそよ風に揺れる。この羽もまた、商人の間では一定の身分を示すもの。
4隻編成の船団で、他に個室を持っているのは、各船長らと、団長のギュンターだけである。
部屋の扉が叩かれて、そのギュンターが入ってきた。
「おう。ここにいたか」
手には帳面。島でした取引の精算をやるつもりらしい。
エンリケは商人として、すぐに頭を切り換える。テーブルから邪魔な書類をどけた。
船団長ギュンターは、どっかと椅子に腰かけると、羽ペンを持った手で頭をかく。
「……まったく。船員達が食い過ぎた。ダンヴァースから追加の料金をとられちまったよ」
「ぷ、はは」
エンリケは噴き出してしまうが、はたと気付く。
「……今まで、こんなことあったかな」
2人は商人連合会という組織に属しており、共に交易船を使って商いをしている。組んでから3年ほどが経っており、関係はライバルというより船団の共同経営者だ。
帳面を読み返しながら、ギュンターは語る。
「お前さんは、ニシンの旬に島を通りかかるのは初めてだろう? まぁ、確かに魚は美味いな」
「トマトで客を引いたのも大きいかもしれませんね。あれは魚の宣伝にもなった」
料理として、魚は一段低く見られている。
肉料理は、宮廷で専門の切り分け係が置かれるほどだが、魚は違う。料理の主役はあくまで肉で、魚はおまけ――というより、有り体に言って貧乏人が食べるものだった。
船員もその認識で、港町に停泊しても、魚を積極的に食べるものはいない。
むしろ、肉を食べたがった。船員は危険な分、食事にカネが回されており、乗員は一週間のうちに3度も肉を食べられる。港町に降りたからといって、好き好んで魚を食べにはいかない。
しかし昨日は、ベーコンを割り当てられた乗組員も、島の騒ぎを聞きつけて魚を食べに行った。こんな経験は初めてだった。
エンリケは、ふと算盤を弾く指を止める。
「――そうか。魚の味は、産地によって変わるのか」
「当たり前だろう」
「いや……そう、ですけどね」
船乗りや行商人になるのでなければ、多くの人は故郷で一生を終える。
他の街で魚がどんな味かなど、知る由もない。
うまい産地の魚は、特に新人船員を感動させたのだろう。
ギュンターも検算の手を止め、腕を組んだ。
「……
「いえ――」
「学者がいてな。
話の行き先が見えない。エンリケは眉をひそめた。
「お酒に酢、ですか?」
「分量にコツがあるそうだ。実はこいつはウマくなる。招待客のほとんどが好意的だったそうだ」
しかし、とギュンターは言葉を継ぐ。
「製法を告げてから配ったら、とたんにマズイという評価が増えた。わかるか? 酢が入った酒なんてみんなマズイと思うから、それが味の感じ方を変えた。令嬢はトマトで似たようなことをやったわけだ」
トマトの珍しさ、そして病気予防効果で客を引き、島の『名物』にした。
実際に美味だったにせよ、『平凡な料理』と思われたままでは、船員もこれほど盛り上がらなかっただろう。
エンリケは息を漏らす。
「見事な商売人ですね、ホント」
改めて気を引き締める。
「でも実際のところ、彼女はやるかもしれませんよ? これだけ魚が捕れて、土もいい。体が頑丈で商才がある人間なら、事業の一つでも起こせそうだ」
「……それは別だ。ここは流刑島だぜ?」
「流刑者って、そもそも追放されるぐらいの悪事をやる能力があったってことだと思うんですよね~」
口にしながら、エンリケはギュンターを盗み見る。船団長もまた、この島に今後も寄るつもりのようだった。黒帽子に触れるのは、考えている時の癖である。
エンリケは切なげに息を落とした。
「ああ、商聖女を思い出しますよ」
「またそれか」
呆れるギュンターに、エンリケは苦笑を返した。
「いいじゃないですか。本当に、すごい人だったんですよ」
南方に、大国がある。この楽園島を領土に含む、陸の大国家だ。
そこの第二王子の妃候補に、低爵位の男爵令嬢があてられたというのは、商人同士でも少しだけ噂になった。
彼女が都を騒がせたのは2年ほど。
その間、第二王子とよく働いたらしい。もともとの身分が低いせいか、大小の商人と分け隔てなく接し、彼らの意見をよく第二王子へつなげた。
王子もそう悪い人物ではなく、よい提案へは彼に許された範囲で予算をつけた。
税制の整理や
『壊血病』の原因も、思えばそうした予算のおかげである。誰かが号令をかけない限り、野菜、特に酸味のあるものが予防にいいなどわかりようがない。
「あくまで噂だろう?」
「確かに、ここ数年の功績は第二王子がなしたもの、とされています。でもこの期間は、男爵令嬢がいた時期と同じ。噂通り、商才はむしろ、婚約者にあったのかも」
公的には施策の功績はすべて王子のものだが、彼に発想を授けた女性がいた――かもしれない。
噂は静かに広がり、ついたあだ名が『商聖女』。
エンリケは肩をすくめる。
「結局、王家がらみのゴタゴタで、追放されたらしいんですけどね」
商聖女はいたのか、いなかったのか。
もう永久にわからないだろう。
「お会いしたら、ぜひ話をしたかったけど――生きてないかもしれないですね」
「しっかりしろよ」
ギュンターは帳面を閉じながら、ぼやいた。
「伏せちゃいるが、お前さんだって国に帰れば殿下と呼ばれる身分だろ?」
「ええ、まぁ……都市共和国というか――領土が都市一つだけの国なので、ここの王国とは比べものになりませんがね」
エンリケはタレ目を閉じる。再び開いた時には、冷たい光が宿っていた。
「でも、一応は第四王子ですし。歓待の恩返しくらいはしないとね」
聞けば、クリスティナ達は海賊に襲われて大変な目にあったらしい。
丁度、清算がひと段落したところだ。
エンリケは算盤や帳簿をどけ、羊皮紙の地図を机に広げる。楽園島は地図の右上、指さすのは左下だ。
そこにエンリケの出身国がある。同じような都市国家が、近い位置に集まっていた。
「海賊の出所は、きっと西方。つまり僕の故郷だ。二度と海賊が遠くに迷い出たりしないよう、父王に手紙を書いて、懲らしめてもらいますよ」
出航の鐘が鳴る。
目を伏せたエンリケの脳裏に、振る舞われた料理と、一夜にして島を活気づけた令嬢の姿が過ぎった。
それは、あるパーティーで遠目に見えた、第二王子の婚約者――商聖女と、少しだけ重なる。
「――ごちそうさまでした、クリスティナ」
あなたに少し興味が出た。
誠実な商人の顔ではなく、王子としての蠱惑的な笑みが浮かぶ。
「どうした?」
「いえ。この島、ちょっと面白そうと思っただけです」
「それは、間違いない」
エンリケらは本来の目的地、北へ向けて出航した。
―――――――――――――――
キーワード解説
〔都市共和国〕
都市国家とも。
独立と権勢を維持するためには財力の裏付けが必要なため、商業が盛んである場合が多い。
イタリア地域の諸都市のほか、北ドイツ等にも同様の都市があった。
〔ビネガービール〕
酢入りのビール。お酢の作用で味が爽やかになり、泡がちょっと硬くなる。
おいしい。
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