第2話 カクテルバーのお仕事

 鈴音は烏丸御池のハローワークで求人情報を検索するうちに、自分が勤めていた会社がいかに条件が良かったかを知ることになった。

 当たり前かも知れないが、中途採用で同じような処遇の企業を探しても全く見つからなかったのだ。

 かといって、もとの会社に戻っていいと言われたとしても、もう自分には無理だった。

 大阪の地下鉄谷町線を降りて、会社があった本町方面に歩くことを考えただけで胃のあたりにしこりが出来るような気がするのだ。

「また明日探してみよう」

 鈴音はログアウトすると端末から離れた。

 仕事を辞めてから既に一週間が過ぎ、ハローワークに入り浸る日が続く。

 求人情報の検索くらいならスマホでも出来るのだが、家にいるのが居心地が悪くて、仕事を探してくると言って家を出るのが日課になっていた。

 元の会社の人事担当者から会社を辞めないように慰留してくれる電話もあったが、結局、鈴音は断った。

 同じメンバーがいる会社に戻っても再び同じ事が繰り返される気がしたのだ。

 鈴音はハローワークを出た後は「スモーク」に行くつもりだった。

 カクテルバーで働きたいと相談すると、昭和の時代を生きてきた両親は「水商売に就くなんて」と古い言葉を持ち出して反対した。

 しかし、鈴音がハローワークでちゃんとした仕事が見つかるまでのアルバイトだと話すと渋々許してくれた。

 鈴音には負債があるのだ。

 大学進学の時に借りた奨学金の返済がはじまっていたが、勤務年数が一年に満たないと失業手当も出ない。

 何かアルバイトをしないことにはたちどころに返済が滞るのだ。

 妹が大学に通っているので両親に負担をかけるわけにはいかない。

 御池通りに出た鈴音は地下鉄の東西線に乗り、京都市役所前駅で降りた。

 三条京阪まで行ったほうが「スモーク」には近いが、わざわざ一つ手前の駅で降りたのはスマホで連絡を入れるためだった。

 鈴音は人混みの中でスマホを使って通話するのが嫌いだ。

 市役所前駅辺りは、人気が少ないので気兼ねなく通話できると思ったのだ。

 鈴音は御池通の歩道で「スモーク」に連絡した。

 三回ほどコールしたところで、マスターが応答した。

「先週、アルバイトの相談をさせていただいた者ですが」

 鈴音は一週間前のことなので、自分のことは忘れているかもしれないと思い、おそるおそる聞く。

「ああ、天川さんですね。アルバイトしてくれる気になったのですか」

 マスターが自分を憶えていてくれたことが鈴音を安堵させた。

「すいません。遅くなりましたが今から伺ってよろしいですか」

「よろしいですよ。入り口の鍵は開けていますからいつでも来てください」

 通話を終えた後で、マスターののんびりとした口調を思い出すと、鈴音の張りつめていた神経がゆるんでいくのがわかった。

「よろしいですよなんて普通言わないでしょ」

 鈴音はくすっと笑うと「スモーク」を目指して河原町通を歩き始めた。

 「スモーク」は地下1階にあり、入り口まで行くには通りから急な階段を下り無ければならない。

 今日は看板は階段の下にしまい込まれていた。

 開け放されたドアから中を覗いてみると、マスターが掃除をしているのが見えた。

 マスターはモップがけのためにテーブルの上に上げていたらしい椅子を降ろしながら鈴音に声をかけてきた。

「もう来てくれないのかと思っていましたよ。まあ掛けてください」

 ああ、このちょっと緩くて暖かい雰囲気がいい。

 そんなことを考えながら鈴音は勧められるままに椅子に座った。

 マスターは鈴音が持参した履歴書に目を通していたが、おもむろに口を開いた。

「折角来て貰ったのだから今夜から手伝って貰っていいですか」

「こ、今夜からですか」

「何か予定でもあるのですか?」

 鈴音は思わず聞き返したが、別に断る理由はない。

「いいえ。それではこのまま仕事をさせて下さい」

 マスターは笑顔でうなずいた。

「今日は、ヒールのある靴で来られていますが、明日からはスニーカーを履いてきた方が楽ですよ」

「そうなんですか。私はおしゃれしないといけないのかと思っていました」

「基本的に立ち仕事ですからね。少しでも足にかかる負担は減らした方がいいと思います」

 鈴音はちょっと感動した。

 先週まで勤めていた広告代理店だったら、根性でやりきれとか精神論の世界になるところだ。

「それから、鈴音さんにお願いしたいのは出入金の記帳と、食品の在庫品管理なんです。僕はそういうの苦手なもので」

「アルバイトの私にそんな大事なことを任せてくれるんですか」

「あなたの履歴を見るかぎり十分に出来るはずです。それに、僕はアルバイトではなくて臨時職員として働いて貰うつもりです」

 鈴音は思わず立ちあがった。

「わかりました。一生懸命やらせてもらいます」

 鈴音は、殆ど初対面の自分を信頼して大事な仕事を任せて貰えることが嬉しかった。

「レジとか記帳用のパソコンは何処にあるんですか」

 早速、簿記ソフトや税務申告用の証拠書類の所在を確認しようとした鈴音の質問にマスターは困った顔をした。

「それが、レジとパソコンはまだ無いんですよね」

「はい?」

 鈴音の顔は笑顔のままで凍り付いていた。

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