京都木屋町姉小路通西入、カクテルバー「スモーク」の物語

楠木 斉雄

ソルティードッグ

第1話 仕事を辞めました

 鈴音が上司の谷口係長の机にバッグから出した封筒を置くと、谷口係長は鈴音が差し出した封筒の表書きをみて目を瞠った。

 封筒の表には辞表という二文字が書いてあったのだ。

「何だこれは。どういうつもりだ」

 谷口係長は、鈴音がこの三日間ろくに寝ないで仕上げた資料のあら探しをしていたところだった。

 努力してもあら探しばかりしてだめ出しをする上司。

 それが耐えられなくなった鈴音は、いつの頃からかバッグに辞表を入れて入れて持ち歩いていた。

 今日はその辞表を谷口係長にたたきつけてしまったのだ。

 居丈高に喚き始めた谷口係長を鈴音は冷たい目で見詰める。

 『想定外の事態が起きるとパニックを起こす小心な男』と鈴音は心の中でつぶやいた。

 先ほどから彼が発している言葉は同じフレーズの繰り返しが多い。

 鈴音は係長の机をバンと平手で叩いた。谷口係長はビクッとして沈黙する。

「もうたくさんです。あなたの指導ではどんな人でもまともに仕事が出来るようになるとは思えませんから」

 天川鈴音は二十三才、この春に大学を卒業したばかりだ。

 希望していた広告関係の会社に就職できて喜んでいられたのは、新入社員の集合研修が終わるまでだった。

 谷口係長の下に配属されてからは、賽の河原で石積みをするような徒労感しか感じられない日々が始まったからだ。

 連日の深夜までの残業、作成を指示された資料を懸命に作っても、何だこれは、こんなものでは使い物にならないと却下にされることの繰り返しが続いた。

 社会に出たら、仕事は厳しいものだと肯定的に受け取った鈴音は懸命に頑張っていたが、ある日、給湯室でお茶を入れているときに、鈴音が不在だと思ってしゃべっている谷口係長とその取り巻きの一人、川村の会話を聞いて愕然としたのだった。

「谷口係長。最近天川をしごいてますけど、去年の新野みたいにメンタルヘルスの不調で長期の病気休暇を取られたりしたら、人事部から睨まれてしまうのではありませんか」

 川村は上司の谷口におもねりながらも、まともなことを言っていたのだが、谷口は聞く耳を持たなかった。

「何を言っているんだ川村君。今の新入社員はゆとり教育で骨なしになっているんだよ。最初に根性をたたき直さないと、まともに仕事をさせるわけにはいかないんだ。クライアントから苦情でも来た日には全て僕の責任になるだろ」

 ゆとり教育を受けた人たちは鈴音よりも遙かに年上だ、それにゆとり世代だから仕事が出来ないという話もあまり聞かない。

 谷口係長は自分の先入観だけで考えているにちがいない。

 しかし、鈴音がショックを受けたのは、谷口係長が新人に根性をつけるというよくわからない精神論で無駄な作業をさせていたことが明らかになったからだ。

 自分が懸命に努力をしていたことが、だめ出しのために無駄手間をかけさせられていたと知った鈴音は目の前が暗くなる思いだった。それ以来、徐々に谷口係長への不満が募って今日ついに爆発してしまったのだ。

 鈴音は目の前で硬直している谷口係長に気がついて意識を現実に引き戻した。鈴音の剣幕にすくみ上がっていた谷口係長は気を取り直したらしく、鈴音の辞表をわしづかみにした。

「こんなものは受け取るわけにはいかん。きみはもっと真面目に仕事に取り組めばいいのだ」

 先ほどまで、三回ほど繰り返していた誠心誠意がんばればいつかはまともに仕事が出来るようになるという彼の持論のマイナーチェンジバージョンだ。

 そのうえ、谷口係長は何を思ったのか鈴音の辞表を左手に握りしめて、右手で鈴音の片手をつかんだ。谷口係長のじっとりと汗ばんだ生暖かい手が自分の手首をつかんだので鈴音は総毛立った。

「何するの。放して」

 谷口係長の手を振りほどこうとした鈴音は、意図したわけではないが片手に持ったバッグを振り回す結果になった。

 京都の実家から大阪にある会社まで通勤している鈴音は通勤の電車内で読むためにバッグの中にペーパーバックの小説を三冊ほど入れていた。

 そこそこの重量を底の辺りに入れられたバッグは振り回された遠心力によって、かなりの威力を伴って谷口係長の鼻を直撃していた。

 無言で鼻を押さえてしゃがみ込む谷口係長。鼻を押さえた手からは鼻血が垂れている。

 事務所の中はしんと静まりかえった。

 その後、どうやって事務所を出たのか鈴音は憶えていない。

 本町にある会社から地下鉄に乗って淀屋橋まで行き、京阪電車の乗り場に着いて、やっと鈴音は我に返ったのだった。

 淀屋橋駅発京都方面行きの京阪電車の特急に乗ると、鈴音は電車の窓ガラスに額を押しつけた。

ガラスは冷たいがのぼせた頭を冷やすにはまだ足りない。

 先ほどの悪夢のような出来事は退社時刻の五時を回ってからのことだ。

 十一月の日暮れは早く、窓の外の淀川は真っ暗で見えなかった。

 鈴音は窓を開けて淀川に飛び込んでしまいたいと思ったが、特急電車の窓が開く訳もない。

 今日は人生で最悪の日だと鈴音はぼんやりと考えていた。

 電車が伏見稲荷駅を過ぎた辺りで、鈴音はこのまま家に帰るのがいやになっていた。

 鈴音の家は下鴨神社の東側の住宅地にある。

 よくしゃべる母と、物静かで優しい父、そして東京の大学に通っている2才年下の妹が鈴音の家族だ。

 両親は大好きだが、今の事情を話せば一波乱有るのは目に見えている。

 二人に怒られるならまだしも、悲しい顔をされそうな気がして、どうしてもそのまま家に帰りたくなかった。

 鈴音は家の最寄りの出町柳駅まで行かずに三条京阪駅で電車を降りると鴨川に架かる橋をあてもなく歩き始めた。

 観光都市の京都だけに旅行者らしき人もいるが、京阪三条界隈は地元民も多い。四条通りの祇園あたりが観光地化しているのとちょっと違うところだ。

  人の流れは木屋町通りの交差点で、木屋町通りに沿って南の四条通りに向かう流れと直進して河原町通りに向かう流れに二分されたが、鈴音は木屋町通りを北向きに曲がった。

 さしてあてがあるわけでもなく、人の流れから離れたかったのだ。

 少し歩くと道の反対側の柳の下に小さな橋の欄干が見えたので、鈴音は信号待ちの車の間を通って木屋町通りを横切った。

 木屋町通りの横には道路に並行して小さな河が流れている。森鴎外の小説の舞台にもなった高瀬川だ。

 鈴音は橋の欄干に手をかけてさらさらと流れる川面を見詰めた。

 川に飛び込もうかと思ったが、この河の深さは膝くらいしかないのを思い出して思いとどまった。

 そして鈴音はつぶやいた。

「なんで私が川に飛び込まなければいけないのよ」

 悪いのは、まともな仕事をさせてくれなかった会社の方だ。

 鈴音は橋から西に続く路地に踏み込んだ。

 道路の北側には教会らしき古めかしい建物や、ホテルが並んでいるが、南側は雑居ビルや平屋の店舗が雑然と並んでいた。

 鈴音は道路にはみ出して置いてあった看板にぶつかりそうになって足を止めた。

 看板にはローマ字で『BAR SMOKE』と書いてある。

 鈴音はその看板が示す店が、階段を下りた地下にあることに気がついた。

 急な階段の下でライティングされたドアに呼び寄せられるようにして、鈴音はその店に入った。

 薄暗い照明に照らされて、きれいに磨かれた木目調のカウンターと沢山のウイスキーのボトルが目に入る。

 スツールが八席並んだカウンターと、テーブル席が三つある小さなお店だ。

 客は一人だけ。

 カウンターをはさんで唯一の客の相手をしているのがマスターのようだ。

 店内には低音量でスタンダードジャズが流れている。

「いらっしゃいませ」

 常連らしい先客に会釈をして、オーダーを取りに来たマスターを見て鈴音の心は少し和んだ。

 マスターは百八十センチに少し足りない程度のほどほどの身長に白いシャツと黒のパンツとベスト、そしてカフェエプロンを着けていた。

 涼しげな目元の顔に柔らかな笑顔を浮かべている。

 おそらく接客用の笑顔だが、鈴音はささくれて乾いていた自分の心に潤いが戻ってくるような気がした。

 マスターはおしぼりと水に加えて、輪切りにしたバゲットの上にチーズを載せて焼いたオープントーストを鈴音の前に並べた。

「これはお通しです。うちの自慢は、フレッシュフルーツを使ったカクテルとシングルモルトウイスキーです。こちらがメニューですよ」

 マスターは冊子になったメニューを鈴音に渡す。鈴音がぱらぱらとメニューをめくると、ウイスキーの名前が並んだページに続いて、写真入りのカクテルが並んだページが目に入った。

「ソルティードッグを下さい」

「はい。少しお持ち下さい」

 マスターはカウンターの先ほど居た辺りに戻るとグレープフルーツを取り出して、鈴音が注文したカクテルを作り始めた。

 本当にフレッシュな果実を使って作っているんだと思い、本格的なBARに来たことがなかった鈴音はそれだけで感動していた。

 マスターはグレープフルーツを搾った果汁とウオッカをタンブラーに注いで、かき混ぜている。

 それだけの話だが彼の動作は茶道に通じた人がお茶を点てるような優雅さがあった

「ソルティードッグです」

 鈴音はマスターがコースターに乗せて出したたタンブラーを手に取った。

 グラスの縁にはきれいに塩が付いており、一口飲むとグレープフルーツのさわやかな香りと酸味が口の中に広がった。

「おいしい」

 鈴音が感想をもらすと、マスターは再び微笑んだ。

「ごゆっくりどうぞ」

 マスターは、カウンターの後で何か片付け始めた。

 常連客らしい男性は先ほどまでの話の続きを始めた。

「それでな、仲田君。ブルーノートのマスターが君の作るカクテルをすごく意識しているみたいで、ぼくにどんな作り方しているか教えてくれって言うんやで」

「大竹さん教えたのですか」

 マスターはいたずらっ子のような表情で尋ねた

「教えたよ。フレッシュフルーツを使って作ってはるよって言ったら、うちでは手間がかることはできないと諦めた様子やった」

 大竹さんと呼ばれた客は楽しそうに笑う。

「僕のカクテルはオーソドックスに作っているだけですよ。それにブルーノーツは大きな店ですからこことは営業スタイルも違ってきますからね」

 鈴音は二人の会話を聞くともなく聞いていた。

 お通しとして出されたオープンサンドはボリュームがあっておいしかった。

 鈴音は自分が空腹なのを今更のように気がついた。

「君かて、誰か雇ったらええやん。立て込んでいる時間帯は飲み物作るのが間に合わないことも多いやろ」

「一応、ハローワークに求人は出していますよ。でもなかなかいい人が見つからなくて。大竹さん知り合いでここの仕事が出来そうな人はいませんか」

 マスターの目線を追った鈴音は壁にアルバイト募集のチラシが貼ってあるのを見つけた。

 勤務時間帯は午後五時から午前一時まで、時給は千二百円と書いてある。コンビニのアルバイトに比べたらいい方だ。

「うーん。家庭がある人はこの店の営業時間はしっくり来ないし、ちょっと考えさせてや」

「やっぱりそうですよね」

 マスターは残念そうにつぶやいた。その時大竹さんは腕時計を見てつぶやいた。

「あかんもうこんな時間や。僕は朝が早いからそろそろお暇するわ」

「お勤めご苦労様です」

 マスターは小さな紙切れに鉛筆で数字を書いて渡した。お会計の金額をそうやって伝えているのだ。

 代金を払った大竹さんは、また来るよと片手を上げて店を出た。

 鈴音はそろそろ自分も帰らなければと思った。

 酔っぱらう程飲んだらますます家に帰りにくくなってしまう。

 鈴音は店の中を見渡して、先ほどのアルバイト募集の張り紙を見た。

 明日から会社に行くつもりはなかったので、このお店で雇ってもらえたらいいのにと鈴音が考えていると背後からマスターの声が聞こえた。

「うちでアルバイトしてくれるんですか」

 驚いた鈴音は振り返った。

「どうして私が考えていることがわかるんですか」

「簡単な推理です。あなたはその張り紙をさっき十秒以上じっくりと見ていました。 

普通は求人のチラシとわかればすぐに目をそらします。おおむね二秒くらいですね。

そのうえ、帰り際にもう一度見返していたので間違いなく求人に応募しようとしていると思ったのです」

 鈴音は自分の行動はそんなにわかりやすいのだろうかと思い少し恥ずかしくなった。

 しかし、話が通じているなら聞いてみない手はない。

「ここで働くには何か資格がいりますか。私はお酒のこととか詳しくないですが、一生懸命憶えます」

 日本の社会では新卒で入った会社を辞めて、再就職しようとすると著しく不利だ。

 就職活動で苦労した鈴音はそのことは身にしみていた。それでも嫌なものは仕方がない。

 両親には文句を言われるに違いないが、鈴音はこのお店で働いてみようと決心したのだった。

 鈴音は自分の判断にマスターが優しそうでイケメンだったことがが影響しているかも知れないと密かに思う。

「本当にここで働いてくれはるんですね。僕としては経験は不問やし、資格もいらないけど、一つ試験をさせてもらっていいですか」

「試験があるんですか」

 鈴音は落胆した。やはり世の中甘くないようだ。

「試験という程でもないですけど、さっき出したお通しに使ったっていた食材を全て言ってください。全部当てたら採用した上で時給を三百円上げますよ」

 三百円アップしたらそこそこ良い時給である。鈴音は必死でさっき食べたお通しのオープンサンドの味を思い出そうとした。

「ええと、使ってあった食材はまずフランスパン。それから具材がベーコン、マッシュルームの他にオニオンとピーマンが入っていてその上にチーズを載せて焼いてありました。食材としてはマーガリンとトマトソースも入るのかしら。」

 マスターは意外そうな顔をした。鈴音は記憶に残る食感を辿り続けた。

「それ以外にもう一品ピクルスみたいなのが入っていました。それが普通のピクルスではなくて・・・」

 マスターは真面目な顔になって鈴音を見詰めていた。

「あれは、柴漬けの味ですね」

「すごい。今までのベストアンサーはさっきいた大竹さんのお答えやったんですけど、彼は柴漬けだと判らなくて、てキュウリのQ太郎やて答えたんですよ」

 そういえば柴漬けとキュウリのQ太郎は食感が似ている。

「僕は、京都らしさを演出しようと思って、高島屋の近くの漬物屋さんの柴漬けを使ってたんですが、誰も判ってくれなくて悲しい思いをしていたのです」

 マスターはカウンターからなにやら書類を持ってくると鈴音に渡した。

「臨時職員として雇用するための契約書です。一度お家に帰って目を通してください。その上で働いてくれる気があったら。事前に連絡した上で夕方四時くらいに履歴書を持って来てください」

 この人は、私が訳ありでお店に来たことに気がついていると鈴音は思った。

 それ故、頭を冷やして考えてから返事をしてくれと言っているのだ。

 鈴音はマスターの気遣いが判ったので、大人しく家に帰ることにした。

「ありがとうございます。また連絡します」

 マスターはうなずいて、紙切に書いたお代を見せた。

 紙片には千円と書いてあり、鈴音はお金を払いながらマスターに尋ねた。

「本当に時給千五百円にしてくれるんですか」

 マスターはそれを聞いて凝固した。しばらくして彼は口を開いた。

「武士に二言はありません」

「スモーク」を出て、京都の町を歩いた鈴音は何だか町の空気が軽くなったように感じた。

「ソルティードッグおいしかったな」

 鈴音は独り言をつぶやいて家への道を歩き始めた。

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