第6章
第39話 崩壊
世界から、全ての音が消えたような朝だった。
悠久に近い時をこの塔の中で過ごしてきたからこそ、わかる。
今日の空気は、これまでと明らかに違う。
まるで冷たく肌を刺すような、全身を粟立てるような――音もなく終焉を告げるような。
そんな、朝だった。
アイファも同じ空気を感じながら、ただ、オディオに寄り添っていた。
終わりの時だ。
自分はもう、死ぬ。今更それに抗おうとは思わない。
オディオは、人間としては本来ありえないほどに長く生きた。
その大半は何の自由もない空虚な日々だったとはいえ――ずっと、自分を愛してくれる相手がいた。
「オディオ……」
アイファは、最後までその名前を呼べることを喜ぶように。
幸福の呪文のようにオディオの名を口にし、花が綻ぶように微笑む。
そう、ずっと、アイファがいてくれた。
人生に絶望し、人間を憎んでいたあの雪の日に、彼女と出会えた。
孤独の渇きは泉のように潤され、癒された。
どれだけの喜びを、幸福を、彼女からもらっただろう。
アイファがいてくれて、よかった。
だけど、アイファはどうだろう。
――こんな人生に巻き込んでしまって、本当に、よかったのだろうか。
「オディオ、大丈夫……?」
アイファが、オディオの頬に触れる。
そこでオディオは、初めて気付いた。
自分が、泣いていることに。
オディオがアイファの前で涙を流したのは、初めてだった。
過去に、泣きそうになってしまったことはあったものの、涙が流れる前にこらえていたから。
悲しくても、苦しくても、アイファの前でだけは、涙は見せてはいけないと思っていた。
……見せてはいけないと、思っていたのに。
「……ごめんな、アイファ」
「どうして、謝るの」
「俺は結局、おまえに何もしてやれなかった」
――与命の塔に入ったことは、本当に正しかったのだろうか。
塔になんか入らず、寿命を迎えてこの世を去っていたなら。
アイファは、一時は悲しかったとしても、やがて忘れ、乗り越えて生きてゆけたんじゃないか。
そうしたら、世界は終わりへ進んでいたはずだが。
それだって、別の誰かが塔の頂上に入っていたかもしれない。
別に、俺である必要は、なかったのかもしれない。
……アイファが、幸せでなかったとは言わない。
傍にいた間、彼女は、いつも笑ってくれていた。
だけどアイファには、もっと別の道だってあったんじゃないか。
もっと普通に、寿命の近い種族と恋をして、自由に、幸せになれたんじゃないのか。
こんな、年に一度しか会えなかったような男に、心を囚われなくたって。
こんな、外の世界から遮断された場所に、閉じ込められなくたって。
けれどアイファは、オディオのそんな気持ちを拭い去るように笑う。
「オディオ。わたし、幸せだったよ。たくさん、たくさんの幸せ、オディオにもらったよ」
アイファは両手でオディオの頬を包むようにし、言葉を紡ぐ。
「この一年、オディオとずっと一緒にいられた。
太陽の光も、花の香りも、広い空も綺麗な海も、外の世界も――全部いらない。
オディオと一緒にいられるなら、わたしは、他に何もいらなかったの。
オディオと一緒にいられて、わたしは、幸せだった。
本当に、幸せだった」
「…………俺も」
ずっと見せるのことのなかった涙が、ぼろぼろと零れて止まらない。
「幸せだった。……幸せだ。アイファの、おかげで――」
出会ってからの日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
初めて彼女の手を握ったときのことを、今でも覚えている。
今にも雪の中に消えてしまいそうで、儚くて。
自分が守ってやらなければ、と思った。
暗い洞窟の中、体温を分け合うように寄り添って眠った日々。
空を飛ぶ練習をしていた、一生懸命な姿。
大空を自由に舞う、緋色の翼。
傷だらけになりながらも、治療薬の葉をとってきてくれた優しさ。
499年間、一度も欠かすことなくこんな場所まで来てくれた、一途な想い。
この塔の中に、共に閉じ込められることを、選んでくれた笑顔――
蓋を開けるように思い出が溢れると同時に、感情の奔流が押し寄せる。
駄目だ……駄目だ、駄目だ。
今更あがいたって無駄だと痛いほどわかっているのに、冷静になれない。
なぜ、この子が、こんなところで死ななければならないのか。
天を仰ぐように、天井に向けて声を絞り出した。
「――なあ、頼む。
この塔を造った守護者の怨念か、亡霊か。
俺達のことを、どこか見てるんじゃないのか。
いや、誰か、誰でもいい。
悪魔でも鬼でも構わない。
アイファを助けてくれ。
俺はこのまま、塔と共に滅びるから。
俺は、どんな残酷な死に方をしたっていい。
だけど、アイファだけは……!」
「何言ってるの、オディオ!」
「アイファ、逃げてくれ。俺はこの塔に最初に入った人間だが、おまえは違う。おまえだけなら、もしかしたら、助かるかもしれないじゃないか」
それは「そうであってほしい」という願望でしかない。そもそも、逃げ道なんてない。
支離滅裂だなんて、自分でもわかっている。
それでも、アイファにだけは生きてほしいと、願わずにいられない。
けれどアイファは、オディオを抱きしめ、決して離れようとしなかった。
「そんなの嫌! たとえわたしだけ助かる道があったとしても、わたしは、オディオを置いていったりしない」
「アイファ……」
彼女の温もりに包まれ、動転していた頭が、少しずつ冷静さを取り戻す。
「お願い、オディオ。最後まで、一緒にいて」
アイファの目も涙が溜まり、水面のように揺れる。
緋色の睫毛が濡れ、朝露のように煌めく。
「……おいていかないで……」
彼女の瞳が、繋ぎとめるような声が、掌の温度が。
オディオの心臓を、容易く締めつける。
「……その言葉は、卑怯だろ」
「うん……知ってる」
アイファはもう、子どもではない。
前までのように、何もわかっていないわけではない。
全てをわかった上で、最期を共にしようとしてくれている。
「……わかった。最期まで一緒だ、アイファ」
観念して、彼女を抱きしめる。
もう子どもではないのに、アイファは幼い頃のように耳と尻尾をぱたぱたと揺らし、嬉しそうに頷いた。
「オディオ、オディオ、あのね」
「なんだ?」
「……だいすき」
短いその言葉だけで、五百年の時が、無駄ではなかったのだと思える。
世界を救えたとか、そんなこと、どうだっていい。
ただ、アイファが笑ってくれている。
それでいい。それだけで、いい。
「……俺もだよ、アイファ」
その時、塔が崩れ始めた。
地割れのような轟音が、ゴゴゴゴ、と二人の脳を揺らす。
無駄だとわかった上で、最期の瞬間までアイファを守るように、華奢な身体を強く包み込む。
轟音にかき消されて微かにしか聞こえないけれど、彼女が何かを歌っていることに気付いた。
歌によって恐怖や悲しみ、負の感情を払いのけようとしているようでもあり。
二人で静かに眠りにつくための、子守歌のようでもあった。
塔が壊れる音なんかよりも、アイファの声を聴いていたくて。
彼女の歌に、耳を傾ける。
それは、塔の伝承歌。
滅びの時には、この歌が相応しい。始まりであり、終わりの歌。
『遥か昔、世界は魔力の不安定さにより、終わりを迎えようとしていた。
十年後に、世界は滅びる――
そんな中、天は世界に、とある者を遣わしてくれた。
世界を崩壊から守るその者は、守護者と呼ばれた。
守護者の死骸が大地に融けることで、世界は滅びを免れる。
しかし守護者は、死を恐れた。
天は彼に、死んだとしても、五百年後に転生させてやると伝えた。
守護者はいずれ死ぬ運命だから、誰も彼に深入りしなかった。
彼は独りぼっちだった。
けれどある日、彼はある少女と出会う。
守護者は、少女と恋に落ちた。
そのことで、守護者は新たな不安を抱く。
自分が死んだら、別の誰かが彼女の恋人になるのだろうと。
守護者は天より授かりし力を使い、塔を造った。
その塔に、恋人を閉じ込めた。
塔の中では時間が止まり、老いることも死ぬこともない。
そうして守護者は、恋人に告げた。
五百年後に僕が生まれ変わるまで、この塔で待っていてほしい。
僕は、君を迎えにいく。
必ず、いくから――
守護者は恋人を、誰にも触れさせたくなかった。
けれどずっと独りでは、さすがにかわいそうだと。
年に一度だけ、彼女が一番好きな相手なら、塔に入れるようにした。
しかし、本当に彼女のことを想っている者でなければ会えないよう、
塔にたくさんの試練を用意した。
そうして五百年の時が経ち、守護者は転生した。
幼い頃、彼は前世の記憶を持ってはいなかった。
しかし成長するにつれ、胸の片隅に欠落があることに気付く。
遠い昔、自分にはとても、とても大切な少女がいた。
前世のことを詳しく思い出せなくても、それだけはわかる。
守護者の生まれ変わりは、愛しい少女に想いを馳せ、塔を登った。
けれど、そこに少女はいなかった。
この塔は、完璧だったはずなのに。
彼女は絶対に出られないし、絶対死なないはずだったのに。
わからない、何もわからない。
ただわかるのは、守護者はもう二度と、彼女に会えないということだけ。
生まれ変わった守護者は、全てを憎んだ。
誰かを同じ目に遭わせてやろうと思った。
そうして命と引き換えに、守護者は世界を呪った。
また五百年間、誰かが塔の中に入らなければ。
世界はいずれ、全てが結晶と化し、終わりを迎える。
五百年間、誰かが塔に入ったならば。
世界は救われ、けれど塔は壊れて、中の者は死ぬだろう』
アイファが歌う中で、とうとう、二人がいた頂上の壁が崩れ始める。
与命の塔は、太古の守護者の力を用いた、特別な魔力で構成されている。よって普通の建築物ような壊れ方はしない。
どれだけ物を叩きつけてもびくともしなかった壁が、まるで硝子のようにヒビ割れ、ゆっくりと砕け落ちてゆく。
そうして天井や壁や崩れていった穴から。
オディオは、五百年ぶりに外の世界を見た。
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