第37話 君が選んだしあわせ

 しばらくして、オディオは目を覚ました。


「……ん」

「オディオ、起きた」


 アイファがオディオの顔を覗き込み、嬉しそうに尻尾を振っている。


「アイファ……まだ、いたのか? 早く塔から出ないと、扉が……」


 オディオは上半身を起こし、この真っ白な部屋に、年に一度だけ現れる扉のほうに目をやって――


 信じられない気持ちで、目を見開いた。

 この部屋から出るための扉が、消えてしまっている。


「……えへ」

「ど、どういうことだ?」

「あのね。キスしたときに、オディオに、眠くなるお薬を飲ませたの」


 あのキスのときに、口移しで、オディオに睡眠薬を飲ませて。

 オディオを眠らせ、アイファは、ここに残ることを選んだ。

 この、あとは崩壊を待つだけの塔に。


 予想もしていなかった言葉に、オディオはぽかんと、時間が止まったように呆然とし――

 事態の深刻さに気付き、声を荒らげる。


「アイファ!」

「みゃっ」

「何してるんだ、おまえ。自分が何をやったか、わかってるのか!?」


 なんてことだ。もう、取り返しがつかない。

 オディオだけでなく、アイファももう、ここから出られなくなってしまった。


「だって、嫌だったの。オディオに会えなくなるのも、オディオだけ死んじゃうのも。絶対、嫌」

「だけど、塔に二人で閉じ込められるなんて前例がないぞ」


 オディオが知っている伝承は、与命の塔は最後の百年間、完全に外界から遮断されるということだけだ。二人目が閉じ込められてしまった場合、どうなるのか未知数だった。


 本来頂上にいる一人以外が塔の中に閉じ込められたら、その者は結晶化するか死ぬんじゃないかと思っていた。だからこれまで毎年、必ず、扉が消える前にアイファを帰らせていたのに。


「アイファ、身体に異変とか、ないのか? どこか痛いとか、苦しいとか……」


 そこでオディオは、はっと目を見開く。

 眠りから覚めたばかりなのと、予想していなかったことに気が動転していて、気付くのが遅れた。


「アイファ、翼が……」


 どんな鳥や魔獣の翼よりも綺麗で、触ると極上の絹のように滑らかな、アイファの翼が。

 まるで飴細工にでもなってしまったかのように、結晶化している。


「よかった……翼だけで、すんだ。成功、なの」

「成功、だって?」


「うん。あのね、オディオ。わたし、オディオと一緒にいる方法を、ずっと考えてたの。

 今の魔法科学は、とても進んでいるから。わたしね、たくさんたくさん、勉強したんだよ。この塔のことを解析して、研究して……。

 本当は、限られた時間を過ぎても塔に留まっていた場合、その生物は結晶化してしまうはずだったの。でもわたし、そうならないためのお薬を開発して、飲んだの。

 やっぱり塔の力は強力で、全身無事ってわけにはいかなかったけど……。翼だけですんだなら、成功だよ! 別に痛いとか苦しいとか、ないし……。

 何よりこれで、オディオと一緒にいられる!」


「馬鹿……! 何が成功だ! せっかくの翼が、そんな……!」


 二度と空を飛べない。それどころか、もう二度と自由に外に出られないのに。どうしてそんなに嬉しそうに笑っていられるのか、理解できない。

 けれどアイファは、けろりと言う。


「だってわたしには、もういらないものだから」

「いらない?」

「わたし、空なんて飛べなくたっていいの。オディオの傍にいられるなら」


 澄んだその瞳には、諦めも悲しみもない。


「昔、わたしが空を飛びたかったのは、オディオがいたから。今、空を飛べなくてもいいと思ったのも、オディオがいたから、なんだよ」


 もう翼をひろげることができなくたって、アイファは大きく両手をひろげる。

 不思議なことに、それは翼をひろげるよりもずっと自由に見えた。

 きっとアイファが、本当に嬉しそう笑っているからだ。

 少しの曇りもない笑顔を見ていると、オディオの中の焦りも次第に溶け消えてゆく。

 そもそも、どうしてこんなことをしたのか問い詰めても、もう手遅れなのだ。

 外に出る扉は消えてしまっている。もう、どうにもならないのだから。


「本当に……身体は大丈夫なんだな?」

「うん。心配してくれて、ありがとう」

「にしても……結晶化を防ぐ薬を作っちゃうなんて。アイファは本当に、すごいな」

「だって、499年あったんだもの。何もしてないわけ、ないでしょう? わたし、もう子どもじゃないんだから!」


 アイファは、オディオに飛びついてぎゅっと背中に手を回す。


「わたしの自由も、わたしの幸せも、わたしが選ぶの」


 オディオの耳を撫でるアイファの声は、恋する女性のもので。

 それは幼い子どもの我儘では、ない。

 確かな意志を持った、ひとつの決断だった。


「オディオ。わたしは今、嬉しい。

 本当に、嬉しいの。

 後悔なんてひとつもない。

 これがわたしの幸せなんだよ、オディオ」


「…………馬鹿」


 目の奥が、熱くなるのを感じながら。

 オディオはもう小さくない、一人の女性としての身体を、抱きしめ返した。


「ねえ。もう空は飛べないけど、この翼も、綺麗だと思わない?」

「……ああ。綺麗だ」


 アイファの背に、まるで翼の形をした宝石があるみたいだ。

 結晶化した翼は角度によって色を変え、無限の色彩として煌めく。

 世界中の色を、全て背負っているみたいに。


「すごく、綺麗だよ。アイファ」


 アイファは嬉しそうに、いつまでも、尻尾を揺らしていた。

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