第25話 かつての約束

 そして、アイファが治療薬となる葉を採りに行った日のこと。

 彼女の部屋のベッドには「すぐかえってきます」という置手紙があったものの、オディオはとても心配した。

 一体、どこへ行ってしまったのだろう。

 周囲を探し回ってみたものの、どこにもいない。どこかで魔獣に襲われているんじゃないかと、気が気ではない。

 アイファは自由に空を飛べるし魔法だって使えるとわかっていても、どうしても心配なのだ。娘を想う、父のように。

 オディオは不安でたまらず、しかし「すぐかえってきます」という言葉を信じて、家の前でアイファを待ち続けた。

 指で光る緋色の輝きだけが、アイファは無事だと教えてくれて。

 祈りのように、オディオはその光を見つめていた。

 やがてとっぷりと日が暮れた頃、アイファはようやく夜空の向こう側から戻ってきた。


「オディオ!」

「アイファ!」


 バサリと地面に降り立った彼女に目線を合わせ、問う。


「どこに行ってたんだ! 心配したんだぞ」

「ごめんなさい」

「謝ってほしいわけじゃないんだ。一人で大丈夫だったのか?」

「だいじょぶ!」

「でも、怪我してるじゃないか。一体何が……」


 アイファの身体は傷だらけで、白い肌にいくつもの赤い線が引かれ、血が滲んでいる。


 傷だらけなのに、アイファは大事に守るようにして、何かを持っていた。


「オディオ、オディオ! あのね、これ」


 アイファが差し出したのは、虹のような七色に輝く、不思議な葉だ。


「これは?」

「これね、万能治療薬の材料なんだって」

「治療薬……?」

「うん! これでお薬を作れば、オディオの火傷、治るよ」

「…………」


 今傷ついているのはアイファのほうなのに、彼女は笑顔でオディオのことを考えてくれている。

 その想いはオディオの胸と、目の奥を熱くする。

 だけど、いくらこの世界には魔法や、多種多様な薬草があるといったって。現存するどんな薬でも、寿命を延ばすことなんてできやしない。

 今更この火傷や身体の傷が治ったところで、オディオはもう、そう長くは生きられない。


「あのね、アイファはオディオに傷があっても、オディオはかっこいいと思う。でもオディオはいつも、火傷、隠してるでしょ」


 アイファはそんなこと何もわからず、どこまでも無垢ににこにこと笑っている。


「もうオディオは、ずっとそれ着てなくていいんだよ。これからはいろんな服着れるよ。泉で一緒に水浴びもできるよ。アイファはね、海って場所にも行ってみたいな。オディオと一緒に泳ぎたい。それからね、今日行った場所も、お花がいっぱいでとっても綺麗だったの。いつか、オディオと一緒に行きたいな」


 アイファの目は、夜の星よりもきらきらと輝いていた。

 未来への、希望に満ちた目だ。

 もう、オディオに残された未来なんて、僅かしかないのに。


「そのために……そんな、傷だらけになって……?」

「ん。でもねでもね、オディオ。アイファ、頑張れたの。オディオのこと考えたから、頑張れた。アイファね、この葉っぱの、精霊さんと会ったの」

「え……精霊に?」

「うん! 精霊さん、アイファに攻撃してきた。アイファ、最初は怖かったの。でも、オディオのこと考えたら……逃げたくないって、精霊さんと向き合いたいって思ったの。

 身体中のね、魔力を集めて、塊にしたんだよ。でも、それを精霊さんにぶつけなかった。それで、戦いたくなんてないんだよって、精霊さんにわかってもらえたの!」


 アイファは、自分の冒険を褒めてほしいというように、誇らしげに語る。

 微笑ましさと同時に、オディオは、自分がいなくてもそこまでできたのだと――微かな寂しさと、それを超える安心を感じる。

 アイファは、確かに幼い。

 けれど、魔者だ。オディオが心配するほど弱くもない。


「そうか……アイファは、一人で頑張れたんだな」

「一人じゃないよ、オディオのこと考えたから頑張れたんだよ!」

「……それでも、精霊とわかり合えたのは、アイファの力だよ。……アイファは……本当は、弱くなんて、ないもんな……」


 アイファは今までただ、自分に自信がなかっただけだ。

 本当は空を飛べるのに、怖くて不安で飛べなくなってしまった時期があったように。無意識に、自分は駄目だと思い込んで、自分の力に枷をかけてしまっていた。

 だけど、もうアイファは、大丈夫なんだ。

 俺がいなくても、大丈夫。

 そうであってくれ。

 ――俺はもう、この先は、一緒にいられないのだから。


「ぜんぶぜんぶ、オディオのおかげだよ。アイファはどうしても、オディオにこれを渡したかったの!」


 お互いの手の間で、虹色の葉と、緋色の指輪が光る。

 なんて美しいのだろう。

 だがそう遠くない未来、アイファの指輪からは、光が消える。

 そんなことを、何も理解せずに。

 アイファは、にこにこと、微笑んでいる。


「これからはオディオ、顔を出して歩ける。……でもオディオはかっこいいから、他のみんながオディオのこと大好きになっちゃわないか、ちょっと心配。あのねあのね、みんながオディオのこと好きでもね、それでもね」


 まるで同い年の男の子に恋心を打ち明けるように、アイファはオディオの耳もとで囁く。


「アイファが一番、オディオのこと、大好き」


 ――五十年前の自分であったなら。

 何も迷わず、ただ純粋に同じ気持ちを返してあげられただろう。


「これからも、ずっとずっと、ずーっと一緒にいてね!」


 ……そんなもの。

 俺だって、そうしたかった。

 叶うなら、アイファが大人になるまで、傍にいてやりたかった。

 いっそアイファより長生きして、彼女が命を終える最後の瞬間まで、全ての苦しみや悲しみから、彼女を守ってやりたかった。

 だけど、それは叶わない。

 どんなに想い合おうとも、時間は無慈悲に流れてゆく。

 ここから先は、彼女の手を引いて歩いてやることは、もうできない。

 もう、言わなくてはならない。「アイファがもう少し大人になって、ちゃんと受け止められるようになったら」と考え続けた結果、先延ばしにしすぎてしまった。 


「……アイファ……」


 愛しい名前を呼ぶ声は、かすかに震えた。

 アイファの小さな身体を、そっと抱きしめる。


「みゃ?」


 アイファの耳が、無邪気にぴょこりと動く。


「オディオ、どうしたの? 泣いてるの?」


 こんなふうに抱きしめても、かつての恋心のように、胸が淡くときめくことはない。

 もう、そんなふうに思えない。今やアイファは、娘のような存在だ。

 それでも、ただ、ただ、何より、大切だ。

 彼女を、遺してゆきたくない。

 この腕を、離したくない。

 本当はずっとずっと、傍に――

 そんな想いを全て無理矢理抑えつけ、口を開く。


「アイファ。あのな……大事な話を、しないといけないんだ」

「……大事な話?」

「俺……この先、アイファと一緒に、いられない」


 アイファは、信じられないように目を丸くした。

 そのあと、瞳に涙の膜を張って、泣きそうになった。

 その顔を見るだけで、胸は杭を打たれたように痛む。


「オディオは前、ずっと一緒にいてくれるってゆった!」

「……うん、そうだな。約束、したのに」


 かつて交わした会話が、脳裏を過る。



 ――「オディオ……アイファを、おいてかないで」

 

 ――「アイファ。大丈夫だ。俺はアイファを置いていなくなったりしないよ」


 ――「ぜったい?」


 ――「ああ、絶対だ」

 

 ――「約束する。ずっと、アイファと一緒にいるよ」



 その気持ちに、嘘は少しもなかった。

 やがて何年も経って、自分が叶わない約束をしてしまったのだと理解し、己が人間であることを呪った。


 俺は確実に、アイファを残して逝ってしまう。

 アイファは、俺がいなくても生きていかなければ、いけない。


「そんなのやだ、アイファは、オディオがいないと生きていけないの!」

「ごめんな、アイファ」


 幼いアイファにもわかるよう、なるべく真摯に、人間の寿命について話すつもりだった。

 けれどアイファは、オディオがまったく想定していなかった言葉を零した。


「……やっぱり、人間のほうがよくなったんだ」


 何を言っているのかわからなくて、否定の言葉が遅れた。

 その遅れが、致命的だった。


「わあああん!」

「アイファ……」

「オディオの嘘つき!」


 アイファは、バサリと緋色の翼を羽ばたかせ、空の彼方へ飛び去ってしまった。

 傷だらけの小さな身体は、夜闇に呑まれるように、すぐに見えなくなってしまう。


「アイファ! 待ってくれ!」


 空を飛ぶ彼女は、オディオがどんなに手を伸ばしても、届かない。


(俺は空まで、アイファを追いかけることは、できないんだ)


 オディオはまた、自分が人間であることを、思い知らされていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る