第23話 好きだった。愛してる。

「……オディオ、あなた大丈夫なの?」


 また、あるとき。

 オディオが森の中――変わらない景色の中で物思いに耽っていると、かつての日と同じように、ルクスが声をかけた。


「…………俺は、さ」


 オディオは、遠い青空を見上げる。

 今、そこにアイファはいない。

 ただ、手の届かない太陽が、眩しすぎるほどに燦々と輝いている。


「アイファのことが、好きだったんだ」


 ――好き、「だった」。

 出会った頃のアイファは、ほんの少しだけ年下の女の子で。

 自分も幼かったとはいえ、一人の異性として、純粋に可愛いと思っていて。アイファから「大好き」と言われたとき、少年ながら、淡い恋心を感じた。

 ずっと一緒だと約束した心に、嘘はなかった。

 同じように歳をとって、同じように歩んでゆけるのだと信じていた。

 人間と魔者。その違いがこんなにも重いものだなんて、思っていなかった。


「アイファを大切に思う気持ちは、今も変わってない。だけど……」


 オディオの妹はかつて、研究者に凌辱されて死んでいる。

 その忌まわしい記憶から、幼い子に手を出すことは、オディオにとって心的外傷であり、絶対的な禁忌だった。

 だからもう、アイファを一人の女の子としては、見ることができない。

 けれど家族として大事だという想いは本物で、むしろ年月を重ねるほどに、絆は深くなっていって。

 今更あの小さな手を離すことなんて、できない。


「……なんだろうな。今はもうあの子に対する気持ちは、恋心ではないんだ。ただ、アイファのことを好きだったって気持ちを、どこに、どんなふうに置いてきていいのか、わからないんだ」


 幼い頃、少年として初めて恋をした気持ちは、オディオにとって大切な記憶で。

 もしも離れて暮らしていれば、次第に彼女の存在は淡い思い出となって、いずれ忘れられたのかもしれない。

 けれどずっと傍にいるから、それもできない。

 アイファはずっと、オディオが幼い頃の、あの日あのときのままだ。


「……オディオ」


 ルクスの両掌が、オディオの頬を包む。

 まるで、心ごと包み込むような仕草だった。

 澄んだ紺碧の瞳が、オディオだけを映す。

 今ではもう、ルクスのほうが、オディオよりも背は低いけれど。

 自分よりずっと小さなアイファと比べたら、目線が近い。

 あくまで庇護の対象であるアイファとは、違う。対等に接することのできる相手だ。


「その恋心を……私に、引き受けさせてくれない?」


 また、風が抜けていった。

 サワサワと、心まで揺らすような葉擦れの音を立てながら。


「……どういう意味だ?」

「そのままよ。アイファへの気持ちを、どうしていいのかわからないっていうなら。私にぶつければいい。……私と恋をすればいいわ。アイファが、大人になるまで」


 ルクスの瞳は、真剣だった。


「……オディオ。私、あなたのことが、好きなの」


 ごく普通の恋する乙女のように告げたルクスは、まるで年下の少女のように見える。

 ルクスにとってオディオは命の恩人だ。出会った頃、オディオはまだ年端もいかない少年だったけれど。オディオとアイファの様子が気になって、ルクスは二人を傍で見守るようになって。

 外見は変わらなくたって、ルクスの気持ちは、いつしか変わっていった。

 オディオとルクスが出会ってから、十年以上経っている。エルフにとっては長い年月ではないが、恋心を抱くには十分な期間だ。

 だけど、今は年齢が釣り合っているように見えても、オディオとルクスだって異種族だ。


「俺は、ルクスより、ずっと早く死ぬよ」

「ええ。わかっているわ」


 相手がルクスであっても、それ自体は変わらない。――けれど。


「でも、好きになっちゃったのよ。仕方ないでしょう?」


 その言葉に悲壮感はなく、ルクスはふわりと微笑む。

 アイファとルクスで決定的に違うのは、ルクスはオディオよりもずっと長く生きていて、オディオが自分より早く死ぬと、ちゃんと理解していることだ。

 そして、オディオにとって、恋心ではなかったとしても、一番大切なのはアイファだということも。全てを理解した上で、ルクスはオディオに愛を告げたのだ。


「……なんで、俺を?」

「あなたは、優しいわ」

「そう……か? 初めて会ったとき、ルクスのこと、助けたから?」

「それもあるけど。血の繋がっていない魔者を、ずっと大切に育てるなんて、優しいわよ」

「……きっかけは、人間への恨みだよ。そんな立派なもんじゃない」

「でも、オディオはアイファのことを、とても大切に思ってる」

「それは……うん」

「私はオディオが、いつもアイファのこと、優しく見守っているのが大好きなの」


 愛しそうに語るルクスの声は、優しくオディオの心を撫でる。

 それは乾いた土に染みる、癒しの雨のようだった。


「どんなに恐ろしい魔獣にも、アイファを守るためなら立ち向かって。アイファが悲しそうにしていたら、笑顔になるまで頭を撫でてあげて。いつだってアイファのことを一番に考えて、アイファの喜ぶことをしてあげようと思ってる」

「…………」


 否定はしなかった。本当のことだと思ったからだ。

 アイファにはいつでも笑顔でいてほしいし、アイファが嬉しそうだと、嬉しい。アイファが泣いていたら、涙を拭って抱きしめてやりたい。

 アイファには、ずっと、ずっと、幸せでいてほしい。


「あなたは、優しいのよ。オディオ」

「……ルクスも、優しいよ」


 ――そんなふうに、俺のことを見ていてくれて、俺のいいところを見つけてくれて。


 ――君よりずっと早く死んでしまうと、わかっていながら、好きになってくれて。

エルフのルクスにとって、オディオの一生なんて短い時間でしかないだろう。


 しかも、オディオの人生の全部はあげられない。時間も、心も、オディオにとって一番に優先する相手はアイファだ。

 恋ではなくても、血が繋がっていなくても。アイファは、誰より守りたい、大切な家族なのだ。

 なのにルクスは、そんなところも含めて、全部、好きになってくれた。


「オディオにとって一番大切なのは、アイファでいいわ。……それがいい。私も、アイファのことも大好きだもの。

 それにね、アイファを大切にしないオディオなんて、見たくないの。

 ただ私は……ほんの一時でも、あなたの寂しさや苦しみを癒せるなら、それでいい」


 しゅるり、と。

 ルクスの手で、オディオの口元を覆っていた布が解かれる。


「アイファは、いつ大人になるかわからないわ。もしかしたら、明日から急に成長し始めるかもしれない。寝て起きたら、大人になっているなんてこともあるかも。なにせ、魔者だし。……そうしたら、あなたは何も後ろめたく思うことなく、アイファと恋をすればいいわ」


 布を解いた下の、ひどい火傷の跡を見ても、ルクスは少しも怯えない。

 それどころか、愛しいものに触れるように、またそっと頬を包んでくれた。


「だから、あの子が大人になるまで。あなたの時間を、少しだけ私にちょうだい」


 ゆっくりと、顔が引き寄せられる。まるで夢にいざなうように。

 眠るように瞳を閉じると、唇が重なった。

 柔らかくて、温かくて、優しくて、慈しんでくれるようで。

 それはアイファと一緒にいるときの感情と似ているけれど、触れ合う唇は次第に熱く感じられ、ルクスが秘めていた恋情が伝わってくるみたいだった。

 ルクスは一人の女として、オディオを求めてくれている。

 過去にひどい火傷を負い、今もその跡を残しているオディオは、熱いのは、あまり好きじゃない。

 だけどこの熱は、心地いい。

 唇の温もりを分かち合ったあと、まだ吐息が触れ合う距離で、告げられた。


「好きよ。……あなたを愛しているわ、オディオ」


 ――そうして、オディオはルクスと結ばれた。

 アイファには言っていない。隠している。

 ルクスは別に抜け駆けをしたかったわけではないし、オディオも、アイファの心を裏切りたかったわけではない。

 だけどアイファは、全てを打ち明けるには、幼すぎる。彼女はまだ事実を理解することも、受け入れることもできない。

 オディオが自分より先に死んでしまうことや、ルクスと結ばれたことを知れば、わけもわからず絶望して、泣きじゃくるだけだろう。オディオもルクスも、そんなことを望まなかった。

 それにもし、いつかアイファが大人になったら。ルクスは宣言通り、オディオの手を離す決意をしていた。

 オディオを愛している。けれど、オディオとアイファが結ばれるときがきたら、ちゃんと祝福しようと。ずっと、そう考えていた。


 ――だけどそんな日は、とうとう訪れなかった。

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