第40話 ルーン岬のバカンス⑥

 ボートに手をかけて海面から顔を出したのはオスカーだった。


「オスカー。なんで……?」


 濡れた髪をかき上げ、オスカーがあがってきた。

 ボートがグラリと揺れる。


「ドリィ、こんな方法で俺が泳げるか試すのはやめてくれないか」

 息を整えたオスカーが青灰の目をギラリと光らせた。


 口調が主従関係のそれではなくなっている。

 これはかなり怒ってるわ!


「ちがうのよ、オスカー。これは……」


 オスカーの長い指がわたしの頬に触れる。

「いないことに気付いて俺がどれだけ驚いたと思っているんだ」

 

 仕方ないのよ、オスカー。これは強制シナリオなんだもの。

 ここになぜか違うボートがあったのも、わたしが一緒にいないことに誰も気付かなかったのも不可抗力に違いない。

 取り残されたのがなぜわたしなのかという疑問ならあるけれど。


 どう説明しようかと思っているうちに、足元が濡れていることに気付いた。

 嘘……ボートが浸水している。

 これでボートでの脱出は不可能になった。


「どこかに穴があいているみたいね」

 オスカーと共にボートから降りたけれど、水かさがさらに増して立っていられる場所がもうほとんどない。


「オスカー。あなただけ先に逃げて」

 オスカーなら潮の流れに逆らって泳げるはずだ。

「ダメだ。ドリィを置いていけるはずがないだろう?」

「わたしなら大丈夫よ。ここが全部水没するわけじゃないと思うから、あなたひとりで行って助けを呼んできてちょうだい」

 

 そもそも飛び込んで引き返してくるんじゃなく、ガイドにボートごと引き返せと言ってくれたらよかったと思うのだけれど。

 まあこれも、シナリオ強制力と思うほかない。


「いや、今日は大潮で水没すると聞いた。だから置いてなんて行けない」

 オスカーがわたしを抱き寄せる。


 えぇぇぇぇっ!

 そんなシナリオなんてあった!?

 

 もしや、わたしの知らない隠しシナリオだろうか。

 さいはめルートのように、ここで悪役令嬢ドリスが死ぬパターン?


 冗談じゃないわ。どうにかしなくっちゃ!


「オスカー、落ち着いてちょうだい」

 なんでオスカーは、ヒロインでもないわたしを抱きしめているんだろうか。

 シナリオ的に悪役令嬢がここで命を落として退場するのは、まあわかる。

 しかしこのままでは、攻略対象であるはずのオスカーまで死んでしまうんじゃないの?


「とにかくオスカーだけでも逃げて」

「いやだ」

 ますます強くぎゅうっと抱きしめられる。

 吊り橋効果恐るべし!

 

 あなたは極寒の屋外にドリスをたたき出して見殺しにできる冷酷な男でしょう?

 ここでもそうしろって言ってるのに、なんでごねるのよ!

 

 何かシナリオにほころびでも……ここまで考えてハッとする。


「もしかしてバグ!?」

 バグとはプログラムの不具合のことだ。

 バグが発生すると、操作ができなくなったり予期せぬ動きを繰り返したり様々なエラーが現れる。


 ハルアカにもバグがいくつかあった。

 ずっとダッシュし続けているとなぜか腰まで地面に埋まって動けなくなるとか、ある特定の操作を行うとショップで買い物をしても所持金が減らないとか。

 ほかのゲームでは、海面を走ったり海底を歩けるようなバグ報告もあったはず。

 

 一般的にバグを利用してゲームを有利に進める行為は規約違反となっている。

 しかしこの場面では、そうも言っていられない。

 リセットしてやり直しなんてできないんだから!


 プログラムにないことをして混乱させてバグを発生させよう。

 ハルアカのシナリオでは絶対にありえなかった行動――考えるのよ、ドリス。


 そうだ!

 オスカーがドリスを自らの意思で抱きしめているこの行為こそが、すでにバグ発生の前兆なのだとしたら?

 これをさらに増長させるしかない。


「オスカー、目を閉じてもらえないかしら」

「え?」

「いいから! お願い」


 オスカーは戸惑いの色を浮かべながらも、長い睫毛に縁どられたまぶたを閉じた。


 海面はすぐそこまできている。

 ここで、はわわっ! となってためらっている場合ではない。

 わたしは意を決して――。


 オスカーの唇に自分の唇を重ねる。


 オスカーが体をこわばらせた。

 一瞬ちゅっとやっただけで離れようと思っていたのに、オスカーがわたしの後頭部に手を回して強く唇を押し当ててくる。

 

 しばしそうしてゆっくり離れると、吐息が混ざる距離で「ドリィ」と囁かれた。


 ここで、波の音がぴたりとやんだ。

 足元を見ると、どうやら海面が固まっているようだ。


 試しに足を乗せてみる。

 硬い! いけるわ!


 オスカーに悪役令嬢ドリスのキスを受け入れさせることが海面硬化バグの発生条件かしら。

 だとすれば、相当な難易度だ。


「オスカー! チャンスよ、早く!」


 キスの余韻にひたっている場合ではない。

 何事かと驚いているオスカーの手を引いて、わたしは海面を駆け出した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る