犬神のおん返し

一文字 心

夏休みの一仕事Ⅰ

 駅のホームと新幹線の隙間が約十センチ。小学校に上がったばかりの子供でもよほどのことが無ければ、その隙間に落ちるどころか転ぶこともほとんどないだろう。

 しかし、青年はその隙間を前にしてため息をついていた。

 八月十日、火曜日。

 蝉時雨が暑さをより際立たせ、外界に出るのを躊躇させる。先程までいた新幹線の冷房からは、おさらばして一歩を踏み出す。

 だが、青年がため息をついていたのは暑さが原因ではない。むせ返るようなホームの空気を真正面から浴びても、それは二十年という歳月が経験という名の慣れを生んでくれたおかげで耐えることができた。

 そんな青年の足はハードルか何かを跨ぐように大きく空へと投げ出され、勢い良く後ろの足を引き込む。後ろにいた乗客たちは怪訝な顔をしつつも、我関せずといった様子で何事もなく青年の後ろを通り過ぎていく。

 青年の顔はやや赤みを帯びていた。残念ながら羞恥心というものは二十年程度では慣れるどころか、むしろ成長を遂げているようだ。

 着替えやお土産を詰め込んだ大きめのバッグを肩に背負い直し、考える間でもなく足はホームの出口へと向かっていく。

 そんな歩みも二、三歩で、すぐに止まってしまった。

 その場で振り返ると、先程降りてきた新幹線の出口が閉まり、ゆっくりと加速を始めていくところだった。

 しかし、青年の視線はその出口の所に釘付けになっている。リュックサックの横につけていたペットボトルを片手で抜き取ると、その場所へと引き返す。

 新幹線と共に通り過ぎていく風が、汗を吹き出し始めていた肌を撫でた。心地良さを感じながら、蓋を開けて一口飲む。買ってから一時間以上が経過しているので冷たいとは言えないが、それでもないよりはマシだった。

 そのまま、右手に持ったペットボトルを傾ける。左右を見渡して駅員がいないことを確認すると、軽くその場に水をぶちまけた。蓋を締めながら、即座に踵を返す。監視カメラにはばっちりと映っているだろうが、わざわざ捕まえに来るほどのことではないだろう。

 そう考えながら青年は改札口までスピードを落とさずに歩き続けた。腕時計を見れば新幹線がホームを離れてから既に二分が経過している。

 財布から切符を二枚取り出し、重ねて通すとその先には人がごった返していた。

 温水ぬくみ市は観光を主軸とする第三次産業が盛んで、その人気は遥か昔から続いており、衰えることを知らない。一年を通して温泉を目的に休暇を楽しみに来る他、夏ともなれば海や花火を目的に来る家族連れやカップルが多い。


「やばいな。これじゃ、どこにいるかわからない」


 ポケットから携帯を取り出して、予め登録していた番号へと電話を掛ける。左耳で呼び出し音が鳴る中、反対の方から同じタイミングで着信音が響いた。そちらに目を向けるとゴーグルの日焼け跡が目立つポニーテールの少女が携帯を取り出していた。


『――――はい、乾です』

「あぁ、犬塚だけど、ちょうど改札口を出たところにいるんだ。案内をお願いしたいんだけど、朱理あかりちゃんは髪型がポニーテールだったりする?」

『えっ!?』


 驚愕の声と共に少女と視線が交わる。すると向日葵のような笑顔を割かせ、ポニーテールを揺らしながら駆け寄ってきた。


「もう、久陽くようさん。時間になっても来ないから心配したんですよ?あと五分しても来なかったら、こっちから電話しようかと思ってたんですから」

「ごめんごめん。ちょっと立て込んでたというか、何というか」


 久陽と呼ばれた青年は平謝りしながら苦笑いする。その様子を見て朱理は腰に手を当てて、頬を膨らませた。


「前に来た時もそうやって遅刻したんですよね」

「そうだったね。確か、最後に来たのも去年の夏だったっけ?」

「そうです。本当は冬休みとか春休みとかにも来てくれるかと思ったのに、来ないどころか連絡一つないし、道は覚えてないし、どういうことですか。旅館に着いたら色々と説明してもらいますからね」

「いやいや、道案内したいと言い始めたのは、そもそも朱理ちゃんでは――――」

「なにかー、言いましたかー?」


 朱理が目を細めると同時に嫌な視線が彼女の後方やや下から飛んでくる。

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