今はまだ、後悔の中



『おにいちゃんっ まってて、いま、たすけてあげるっ!』



 上がる水しぶき。遠くで聞こえる悲鳴。そして背中にかかる重み。



『たすけてあげ・・・ぐばばっ、ごぼっごぼぼっ』












「・・・はっ」



 寝台から飛び起きる様にして目を覚ましたオスカーは、額にかかる前髪をかきあげながら「夢か」と呟いた。



 随分と昔の夢だった。



 まだオスカーが20歳そこそこの、今よりもっと多くの女性に囲まれ、追い回されて辟易していた頃の。



「あの夢は・・・そうだ。家族で避暑に向かった先の・・・」



 夢とは言っても、記憶もしくは思い出という言葉の方が正しいかもしれない。


 約11年前に起きた事を、夢は正確になぞっていたから。



「あんな昔の事をなんだって今頃・・・」





 ―――今は、それどころではないのに。



 2日前、ケイヒル伯爵家から使いが来た。


 その日より2日後、つまり今日、マンスフィールド邸を訪問したいと。



 訪問を知らせる手紙の中に、その目的については記されてなかったが、何の話をするかなど分かり切っていた。



 ひと月と少し前に屋敷を出て行った妻のことだ。



「シャルロッテ・・・」



 シャルロッテがいなくなった屋敷は、灯が消えたように静かだった。


 4か月前の、シャルロッテが嫁ぐ前に戻っただけ、そう言ってしまえばそれで終わりだが、屋敷内の誰も彼もが寂しそうにしていた。



 病気療養の為に実家に戻ったと言えば、使用人たちは心配するも、同時に安堵が顔に浮かんで。



 それなら元気になったら戻られるんですね、と言われ、病はアラマキフィリスだと告げたら、皆が皆、顔に絶望の色を浮かべた。



 それから少しして、製薬研究所が新たな薬の開発に取り組んでいるという報告を、レナートが持って来た。


 前にイグナートが言っていた事が実行に移されたらしい。例の異国の薬師も関わりながら、薬草の選定から始めているとか。



 だが、オスカーは知っている。


 世間の考えるシャルロッテの罹患時期と、実際のそれとは大きく異なると。



 シャルロッテがアラマキフィリスになったのは、もう2年近くも前なのだ。




 ―――きっと、今からでは間に合わない。



 そう心の中では理解しつつも、なんとか間に合ってはくれないかと奇跡を願った。



 病気だから、欲を持つべき未来がないから、だからこそシャルロッテの気持ちは美しいのだと、そう思っていた過去の自分を殴ってやりたい。



 どんなシャルロッテでもいい。


 欲を孕んで、醜い感情を見せるシャルロッテでもいい。


 どんな変わり果てた姿になろうとも、生きていてくれさえすれば、それでよかったのだ。





 ―――言えばよかった。


 ひと言だけでも、あなたが好きだと。


 好ましく思っていると。



 病気のあなたも好きだが、病気でないあなたと一生を添い遂げたかったと。




 あの時、あの夜、シャルロッテが青く染まった9本の指の爪を見せてくれた後になって、臆病なオスカーは己の気持ちに漸く気づいたのだ。





 レナートに命じて、薬学研究所の情報は定期的に取り入れている。


 異国の薬師は特効薬のレシピを持っているらしい。

 だが、必要な薬草の幾つかがこの国では手に入らず、今はその手配に追われている。つまり、まだこの国でアラマキフィリスの薬は完成していない。




 その中で、ケイヒル伯爵家がオスカーを訪問する目的は―――




 当然の流れとして導き出された結論に、オスカーは項垂れた。





 ―――まだこの時のオスカーは、手袋を外したシャルロッテを見た時の違和感の正体に気づいていない。



 今はまだ―――







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