第22話
「あ、あの。俺……一〇二号室に住んでる間宮悟です。引っ越しの時に一度挨拶したのと、あと多分一回大学で会ってると思うんですけど」
知ってますよね…?とおずおずと俺は確認の言葉を口にする。
六月の雨の中、学食の窓の外からこちらを見ていたのは記憶違いでなければ彼だったはずだ。
だが、俺の言葉など全く興味がないとでもいうように、如月は「ああ」とだけ言うと俺が持ってきた白い紙箱へと無遠慮に手を伸ばした。
「間宮悟、十八歳。八月十三日生まれ……明日で十九か。立池大学一年経済学部」
俺の顔など一切見ることなく、如月は紙箱を開けると中に入っていたケーキの中でひと際目を引くメロンケーキへと手を伸ばした。
「間宮は母親の旧姓だな。旧姓は高城。十三年前にこのアパートで起きた幼女殺人事件の犯人、高城浅人の一人息子。母親の高城明音は半年前に病死。今は天涯孤独の身……まあ、なかなか波乱万丈の人生だな。これだけ知ってれば十分か?」
「……は、」
ケーキを皿に出すこともなく、如月は透明なフィルムをそのまま外すとわずか二口で如月は宝石のように盛り付けられたケーキを胃袋の中へと納めてしまう。一個数百円する高級ケーキが瞬く間に消えていくのを見ながら、俺は声を発することはおろか上手く呼吸をすることすらできなかった。
俺のことを知っているか、と聞いたのは確かに自分だが、誰がそこまで把握していると思うだろうか。今まで誰にもばれていないと思っていた事すべてが、碌に会話をしたこともない隣人に全て知られてしまっていたのだから俺が固まるのも当然のことだ。
「な、んで」
無様な掠れ切った声で、俺はなんとかその問いを絞り出した。
誰にも話していないような個人情報までなぜただの隣人である如月玲が知っているのか。警戒を滲ませる俺の姿を如月は一瞥すると、さも興味がないとでもいうようにフィルムについた生クリームを貧乏たらしく舐めながら言い放った。
「こんな時代だぞ、同じ屋根の下に住むやつがやばい奴だったらどうすんだよ。調べるのは当たり前だ」
それをお前が言うのか、という言葉を喉の奥に飲み込んだ俺をどうか誰か褒めてほしい。本当にそれだけの理由なのか、という俺の視線に気づいたのだろう。如月は心底面倒くさそうな顔で口を開いた。
「なんだよ。調べただけで、誰にも言ってないぞ」
「……個人情報をそこまで勝手に調べた人のこと、信じろっていうんですか」
「別に大したことじゃないだろ、こんなこと。お前がなにかしたわけでもないのに」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。俺が誰にも知られないよう必死に隠してきたことを、目の前の男は「こんなこと」と切って捨てたのだ。今まで俺が殺人者の子供だと知った人間が向けてくる視線は、好機や侮蔑に嫌悪、そんな最低なものばかりだったというのに。
「それに俺、生きてる人間には興味ないし」
お前についてはたまたま同じアパートに暮らすことになったから調べただけだ、と如月は続ける。興味がない、という言葉に嘘はないらしく、彼の興味はすでに俺ではなく箱の中に納まる残り二個のケーキのどちらを先に食べるかということに移行していた。
「は、はは……」
その姿に、気を張っていた自分が馬鹿らしくなり俺は乾いた笑いを零してしまう。
このあまりにおかしな隣人の前では、殺人者の息子である自分など何の変哲もない人間に思えてしまったのだ。突然笑い始めた俺のことを流石に怪訝に思ったのか、如月は訝しげに眉を寄せつつ、マンゴーのタルトへと手を伸ばした。
如月の手が、蛍光灯の下でつやつやと光るマンゴータルトを手にした瞬間、俺の腹が無様に「ぐう」という情けない音を立てた。静まり返った部屋で、言い訳のできない腹の音にさすがの如月の手も止まる。
当の俺は、緊張の糸が切れたことで思い出してしまった空腹と、本能に忠実に鳴ってしまった腹の音にただ赤面して俯くことしかできなかった。腹が鳴るのは生理現象なので仕方がない。まだ育ち盛りの十八……明日誕生日を迎えれば十九になるのだが、金欠を理由に今日はまだ夕食を取っていないのだ。理由は至極単純、如月が今まさに口に入れようとしているケーキが原因だ。
なにせあのケーキの一ピースの値段は600円。季節の果物をふんだんに使っているとはいえ、街のケーキ屋では高い部類に入る。それが三ピースも入っているのだ。
普段一袋数十円のもやしとインスタントラーメンを主食にしている俺にとって、ケーキ3個で数日分の食費になる。相談料として突然発生した出費のために、夕食を我慢した結果が今の状況というわけだ。
「あー……」
無意識にケーキに向けてしまっていた視線に如月も気が付いたのだろう。こんなボロアパートに住んでいる、ということは如月の食事上も俺と大して変わらないに違いない。先ほどまで俺に向けていた「興味などみじんもない」という視線にわずかな憐憫の色が混じる。
「……仕方ないな。ちょっと待ってろ」
がりがりと頭を掻きながら、如月は手に持っていたケーキを一度はこの中へと戻す。その辺のもの適当に見てて良いぞ、とだけ言い残すと如月は不健康な細い体を起こしのろのろと台所の方へと向かっていった。
「見てて良いって言ったって……」
同じ間取りとは言え、殆ど家具や物が置かれていない俺の家と対照的に、如月の家は汚れているわけではないが部屋の中な大量の怪しげなもので埋め尽くされていた。
一体いつ出版されたのかわからない、怪しげなカルト宗教や民俗学についての本や、みるからい怪しい曰くありげな人形や写真など、できれば触れる事すらしたくない。
(……何かまともなもの、一つくらいないのかよ)
何も触れたくないのは事実だが、誰もいないにもかかわらず部屋中から向けられているような視線を感じ俺は慌てて畳の上へと視線をずらした。
「あれ、これ……」
逃げるように向けた視線の先に、明らかに一つだけ違和感のある本が目についた。
薄気味悪い部屋の中で、明らかに異色を放っていた「それ」はこの場に全くそぐわない、所謂少女漫画というものだった。薄暗い部屋の中でパステルカラーで着色された表紙に描かれる男女の姿が何とも言えない空気を醸し出している。
普段であれば決して手を伸ばさない類のジャンルの漫画ではあるが、いわくありげなオカルトの本を読むよりは幾分かましかと俺は手に取った漫画のページをゆっくりと開く。
(……うわ、べたな展開だな)
内容はいたってシンプル。
田舎から都会の学校へ転校してきた主人公が、席を並べた男子学生と恋に落ちるという何十回も使われてきたような定番ストーリーだ。
もしかすると、高校時代に彼女の一人でもいれば多少共感もできたのかもしれないが、残念ながらそんな青春を歩んでこなかった俺はページをめくる度に表情を変える主人公の姿を見ても残念ながら何も感じることはできなかった。
(こんなの、何が面白いんだか)
とはいえ、表紙にかかっている帯に視線を落とせば大きな文字で「大人気シリーズ、ついに待望のドラマ化決定!」という文字が躍っている。どうやら全く共感できないのは自分だけで、おそらくこの世界の大多数の人間がこの男女の恋愛に心を動かされたということなのだろう。
正直信じられない、という気持ちで漫画のタイトルを確認しようとした瞬間、部屋の中に響いた声に俺は思わず本を落としそうになった。
「おい。何読んでんだよ」
「何って、見て良いっていったのは如月さんですよ」
「それは駄目だ、俺のじゃないからな」
「俺のじゃないって、え、もしかして彼女とかですか」
流石にこの少女趣味な漫画が如月の私物とは到底思えない。
思わず口から洩れた俺の言葉に、如月は露骨に顔をゆがめると俺の手から少女漫画を奪い取った。まさかこの反応は本当に彼女の物だったのだろうか。人の恋愛事情や交友関係に興味などないが、流石にこの社会不適合を煮詰めたような男に彼女がいるとなれば話は別だ。
「違う、ただ知り合いの世話焼きが置いて行っただけだ」
そう言いながら忌々しげに一度舌打ちをすると、如月は俺の手から奪い取った漫画を段ボールの山の中へと放り投げた。代わりにこれでも持っていろ、とでもいうように暖かい正方形の器を渡される。鼻先に漂うジャンク感のあるソースの香りに俺は覚えがあった。自分の家にもストックのある、いわゆるインスタントのカップ焼きそばだ。
だが、家にある有名な某大手メーカーの定番やきそばとは明らかに違う、おかしな香りが混ざっていた。
「……なんすか、これ」
香ばしい香りの中に漂う甘い香り。決して目の前に置かれた紙箱の中のケーキから漂う匂いではない。もっと人工的で暴力的な甘い香りだ。違和感しかないその匂いにパッケージを見れば、何とも言えない文字の色で「期間限定!カップ焼きそば ショートケーキ味」という絶対に混ぜてはいけない二つの文字が躍っていた。
「食っていいぞ、それ。割とうまい」
どうやら相談料として食費を削った哀れな男子学生の前で、ひとりだけ高級ケーキを頬張るほど無神経な男ではなかったらしい。とはいえ、出されたのが明らかに売れ残りを安く買ってきたのが丸わかりな企業の遊び心満載のやきそば、というのもどうかと思うが。
とりあえず食事を提供するという一仕事を終えたことで、如月の良心の呵責はなくなったのだろう。残りのケーキを遠慮なく頬張る横で、俺は何とも言えない匂いを放つやきそばをそっと口へ運ぶ。
(……まっず)
線香の香が漂う部屋の中で食べる、甘じょっぱいショートケーキの香りがするやきそばの味を俺は忘れることが出来ないだろう。
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