虐げられ聖女は、聖女を辞めることにした 〜全て投げ出したら、幸せになれました〜
柴野
前編
「お前は本当にろくでもない女だな、ポーシャ。聖女だなんていうならもう少し身だしなみに気をつけろ。そんな姿で俺の前に立つとは、どこまでも可愛げのない」
「……申し訳ございません」
わずかに震える声で、しかし笑顔を見せながら私は謝る。
「無礼者、謝ったくらいで済むと思っているのか。……何を笑っているんだ、気持ち悪い」
王太子殿下が不満げに整った顔を歪めた。
そして直後、びしゃっと熱い紅茶を正面から浴びせられる。顔に飛び散り火傷ができた。いくら痛みに慣れているとはいえ火傷はかなり痛く、思わず涙目になってしまいそうになるが、引き攣る頬を必死で笑みの形にして耐える。
何をされても何も言わない。言えないのだ。
そのままさっと火傷の部分に手をかざして治療した。
「見苦しい姿をこれ以上晒すな。帰れ」
「わかりました」
席を立ち、
ああ、今日も王太子殿下を怒らせてしまった。
未来の妃とならなければならないのに、どうして私はこう、嫌われてばかりなのだろう。
わからない。私には、わからない――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私は聖女と呼ばれる存在である。
名はポーシャ・メリトルア。メリトルア伯爵家の長女、そして国で唯一の光魔法持ちで、苦しむ民を癒すことができる。
王太子であるジャスティン殿下の婚約者であり将来は王妃になることも約束され、何も知らない者であれば間違いなく羨ましがるだろう地位を持った私。
しかしその実情は、決して幸せなものとは言えなかった。
きっとその逆で私は不幸なのだろう。
だって常に浮かべている笑顔の裏で、もはや抗う気がしなくなってしまったくらい、心が死んでいたのだから。
馬車でメルトリア伯爵家へ帰ると、メイドは誰一人として迎えに来ない。
しかしこれはいつものことだ。父に見つからないように、静かに部屋へ戻ろうとするが叶わず、途中で出会してしまう。
そしてドレスについた紅茶のシミを見られてしまった。
「またジャスティン殿下を怒らせたのかッ! お前は殿下に媚を売るくらいしか価値のないくだらん娘なのだ、殿下の機嫌を損ねてどうするつもりなのだ!」
激怒し、怒鳴り声を上げる父に髪を引っ掴まれ、全力で引き倒される。
ああ、痛い。でも千切れた髪は修復できるのだからと自分に言い聞かせ、呻き声を上げないよう、歯を食いしばり微笑を作った。
もしも私がこれ以上何か言ったら、余計に暴力が課されるだろう。それくらいなら黙っていた方がよほどいい。
父はしばらく私に文句を言い続けたが、やがて飽きたのか執務室へと消えていく。
それを見計らい、立ち上がった私は、静かに自室に向かった。
私がどれだけボロボロになろうと、誰も助けてはくれない。
それどころか追い討ちをかけられるのが常だった。
「あらお義姉様、見窄らしいお姿ですこと」
「……シャーリー。どうしたのですか」
「あたくしがお義姉様の代わりにジャスティン様のお茶会に出席すれば、お喜びになるでしょうに。お義姉様と顔を合わせなければいけないジャスティン様がお可哀想でなりませんわ」
真正面から悪口を叩きつけられ、でもやはり言い返せなかった。
私だって、こんな姿で王太子殿下の前に出たいわけではない。
時代遅れのもっさりしたドレス。化粧っ気のない青白い肌。ボサボサの黒髪に、平民がつけるような安っぽい装飾品。
でもそれもこれも全て義妹のシャーリーが奪って行ったせい。
私が七歳の頃、私の母が死んでまもなく迎え入れられた、父の後妻の娘――と言っても父の不倫でできた、私と同い年の子だけれど――であるシャーリーは、この屋敷で長子であり聖女の私より圧倒的に高待遇を受けている。
メイドがつき、金髪は綺麗に巻かれ化粧も施されているのはもちろんのこと、「これ、もらいますわね」と言って勝手に私の物を盗って行った。
最初のうちはやんわりと抗議してみていたが、継母の現伯爵夫人にその度嫌がらせを受けるものだから、もう嫌になってしまった。そして現状、流行のドレスは一着も持っておらず、専属メイドも全て奪われていた。
わざわざ部屋へ乗り込んできて、私のことを嘲り笑う義妹を冷めた目で見ながら、私はため息を堪える。
追い出すと面倒なことになるから無視しよう。そんなことより明日は朝早くから教会に行かなければならない。どうせ晩御飯が用意されることはないだろうし、今のうちから寝ておこうと思い、眠りについた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私は聖女として教会に勤めている。
神に祈り、助けを求めてやって来た民に声を届け、あるいはその身に手を触れて癒すのが私の役目。
だけれど仕事はそれだけではなく、教会の掃除や魔物退治など、本来は他の修道女や聖騎士が行うべき仕事を一人で負わされている。
こんな不条理が始まったのは、一体いつだったか思い出せない。私はただ肉体労働を強いられ、毎日のように動けなくなるまで働かされ続けるだけだ。
「掃除くらいしゃんとしなさい」
「こっち、まだ汚れてるわよ。とっとと掃除しろって言ってるでしょ、雑巾聖女!」
修道女の半数が、素行が悪かったため修道院に送られた貴族令嬢だったりするから、私への見下しは激しい。
伯爵家の娘ごときが聖女という肩書きを持っているのが気に入らないのだろう。
……私だって、なりたくて聖女になんてなったわけではないのに。
その一方で聖騎士は私を脅す。
すぐに私を押し倒し、犯そうとしては、「どうしても嫌だったら魔物退治を」と言うのだ。
私は仕方なくこちらも引き受け、ボロボロになりながら戦っている。
特にひどいのは司教様だ。
司教様はこの最低最悪な環境を知っていながら、一切口を挟もうとしない。
「それが神に与えられしそなたの試練なのだ」などと言うのだ。
これが私にとって試練なのだとすれば、一体いつまで続くのだろう。
母が死んでからの十年間、ずっとこんな調子だ。新しく入ってきた修道女たちも、伯爵家での私の扱いの低さを知ると、すぐに私のことを見下して、仕事を押し付けてくる。
「皆さん、こんなのおかしいでしょう。この国の救い手である聖女ポーシャ様を敬わないなど。ポーシャ様もどうしてもっと言い返さないのですか」
そんな中、一人だけ私を下に見ず、修道女や聖騎士たちに言い返してくれる人がいる。
それは、一年ほど前にこの教会へやって来た若手神官のアディル。
齢十七歳、私と同い年の少年だ。
彼は元々とある男爵家の令息だが、自ら志望して教会入りしたらしい。
すごく真面目で、仕事熱心。欠点といえば真面目過ぎるところくらいだ。だからこそ私なんかを心配してくれるのだろう。
しかし私は、それに笑顔で答える。
「……いいんです、これで。聖女である私は少しでも皆さんの役に立つのが仕事ですから」
言い返せたらどれほどいいだろう。
だが、それはできなかった。だって私はこの国の聖女。聖女たる者、決して笑顔を欠かしてはならないのだから。
故に私は、どんなに苦しくても、どんなに痛くても泣きたくても笑顔を保ち続けなければならない。
「ポーシャ様は優し過ぎます」
私は、優しいのだろうか。
世の中の全てに失望し、心を殺して、上っ面の笑顔を振りまいている。それが優しいのだろうか。
その答えはわからぬままに、私は日々押し付けられる仕事を淡々とこなし続けていた。
気遣ってくれるアディルを無視し、ただただ毎日をやり過ごし、未来の王妃として、そして聖女として正しくあらなければと心に決めて――。
しかしその覚悟で保たれていた毎日は、ある日突然プチッと千切れた。
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