第10話:メビウスでは夫婦か恋人だったのかも――彼女はそう呟いた。

 その夜、私はふかふかのベッドにありついた。ジルの自宅のベッドである。もちろん、所有者はジルである。そして私の隣で薄着のジルが寝息を立てている。夜とはいえ真夏。じわりと汗をかいてしまうほどで、私もやむなく下着だけになっていた。


 身体を洗ってから一戦してしまったし、その後ご飯も食べたしで、色々な臭いが気になった。今まで気にしたこともなかったんだけど。


 身体は眠りを求めているのに、頭がイヤにはっきりしてしまっていて、真夜中を過ぎた刻限になってもなお、睡魔は訪れなかった。その原因の一つは、肌もあらわなジルにもあるんだろうけど。


 誰かと添い寝なんて当然未経験だから、どうしたらいいのかもわからない。ジルは早々に眠ってしまうのだからズルいとも思った。


「はぁ……」


 思わずため息をつく。ゼタ狩りしている方が気分的にはよっぽど楽かもしれない。戦いの中では戦いのこと以外には何も考えてないし。


 ジル……か。メビウスの中でも私とジルはこういう関係だったんだろうか。


 そう思った瞬間、私の意識の中にちょっとした映像が流れた。見知らぬ顔立ちの女性が、私に何か告げている。少し悲しげな表情かおをしたその女性は……メビウスのジル?


 私は頭を振る。仮にそうであったとしても証明手段は何もない。


 メビウス……メビウスか。


 この街に来る寸前に見た白昼夢で、そんな単語を聞いた気がする。内容までは覚えていないけど。


「眠れないの?」

「うわ、びっくりした」


 ジルがゆっくりと身を起こす。薄い布地越しにその身体のシルエットが透けている。ジルは微笑む。眩しいほどに美しい容貌かおだった。


「色々あったからねぇ。頭がぐるぐるするのも仕方ないよねぇ」

「うん」 


 私は頷き、枕に後頭部を押し付け、薄い掛け布団を引き上げた。


「アタシさぁ、スカーレットを見た時、初対面って感じがしなかったんだよね」

「そうなの?」

「うん。なんか久しぶりに会えた大事な人、みたいな。胸がきゅーんってするみたいな」

「ラメルがかわいそうだよ」

「いいのいいの。人は運命の力には抗えないのさ」


 後半の口調が少しメルタナーザさんに似ていた。


「ラメルに恨まれるようなことは勘弁してよ?」

「ラメルは心が広いから大丈夫。それにキミ、女の子だし」

「女同士っていうのはどうなんですかね?」

「グラウ神殿の連中じゃあるまいし、何おカタいこと言ってるのさぁ」


 う、そう言われるとなんとなく反論しにくい。言葉に詰まる私を見て、ジルは声をおさえて笑った。


「実際にまだ会って一日経ってないんだよ、アタシたち」

「そ、そうだね」

「なのに、アタシってば、もうキミをベッドに連れ込んでる」

「……何もしてないけど」

「していいの?」

「あ、いや、そうじゃなくて」


 私は慌てて首を振り、ごろりと横を向いた。ジルが背中にくっついてくる。


「ねぇ、ジル」

「うん?」


 私の髪の匂いを嗅いでいたジルが甘い声で返事する。


「あの武具を揃えられる頃まで私のことを好きでいられる?」

「もちろん」


 ジルは私に腕を回してきた。私はその手の甲に触れる。ひんやりとした、そしてすべすべの綺麗な手だった。


「本当に? 三ヶ月かかるんだよ?」

「一年だっていいよ」

「どうして?」

「理由なんてないし?」


 ジルは何でもないことのように語尾を上げつつ即答してくる。


「さっきも言ったでしょ。会った瞬間、胸がきゅーんとしたって。あの瞬間はラメルの怪我もあったし、初対面だったしでなんだかよく分からなかったけど、さっきの師匠の話を聞いて納得した。アタシたち、メビウスって世界ではきっと夫婦か恋人だったんだよ」

「夫婦か恋人……」


 口に出してみると、思いのほか恥ずかしかった。


「とにかく、無条件に、そうだな、本能的に、アタシはキミを求めてる」

「メビウスの話が仮にそうだったとして」


 私はジルに背中を向けたままつぶやく。


「やっぱり三ヶ月は待ってほしいな。もしかしてさ、もしかしたら、私のほうがジルから離れたくなるかもしれないでしょ」

「その可能性はあるね」


 ジルの声のトーンが一段落ちる。


「でも、そんなこと気にして自分の思いに嘘はつけないし。と言っても、アタシがやっぱ勘違いでしたゴメンってなる可能性もあるよね」

「うん。だから三ヶ月くらいは今のままの関係でいようよ」

「おけ。添い寝までね」

「うん、添い寝まで」


 私はようやくジルの方に向き直る。


「ジル」

「なぁに?」

「……なんでもない」

「はは、変なの」


 ジルはそう言うと、私の胸に顔をうずめて寝息を立て始めた。こんなに瞬間的に眠れるものかと私は驚いてしまう。


「ふぁあ……」


 欠伸あくびが出た。ようやく睡魔がやってきてくれたようだ。


 ……。


「!?」


 胸騒ぎがすると思ったら、私はどこかの街だった場所に立っていた。恐ろしく高い建物が立ち並んでいるが、どれもこれもが崩壊していた。完全に倒れているものもある。私は広い通りのど真ん中に立ち尽くしているようだ。黄土色の土煙が私の横面をざらざらと撫でていく。


「ここは……?」


 発した声は私の聞き慣れている声ではなく、夢の中で見聞きする私の声の方だった。


 もちろん見たことのない街だ。となるとやはり、いつもの夢か。見下ろせば私の足は長く、手も大きい。女性であることは疑いようもなかったが、かなり大柄な部類に入ることだろう。


 強烈な風が吹き付けて、私は思わず目を閉じる。口の中がジャリジャリする。髪の毛に手をやればボロボロと砂粒が落ちる。


「酷い場所だ」


 呟き目を開けると、目の前に黒服の男が立っていた。銀色の髪にスミレ色の瞳――それがまっさきに意識に上る。だが、それ以上は曖昧でよく認識できない。男であることくらいしか分からなかった。


「スカーレット」

「私を知っている……?」

「そりゃね」


 男は肩をすくめてみせた。私には意味がわからない。


「サイレンには出会ったんだね」

「サイ……レン?」

「そう。だよ」


 メルタナーザさん?


 私があの魔女のことを想起すると、男は頷いた。


「幾億回――」

「幾億?」

「そうさ。僕たちは幾億回あるいはそれ以上の回数、世界の破壊と創世を繰り返してきた」

「繰り返してきた? 私が見ている夢も、その断片だということか」

「君が見ているのは僕らがと呼んでいる世界の出来事だけ。繰り返しはもっと上のレイヤーで起きている」


 男の言葉には何の感情もうかがえない。ただ事実だけを伝えるマシンであるかのようだ。


「いま私がいる世界もまた、その繰り返しの中の一つに過ぎない?」

「そう。だけど今度は……今度こそは特別になり得る世界」


 男は目を伏せる。長い銀色のまつげが揺れる。私は自分の右手を見つめる。赤い服とグローブを身に着けていた。


「この世界で終わりにしよう、スカーレット」


 男はそう言うと私に背を向けた。砂塵の風が吹き抜ける。


「待ってくれ」


 私はその背中に呼びかける。男はゆっくりと振り返る。


「ジルは……ジルと私は」

「それこそがこの世界が特別足り得る所以ゆえんだよ。サイレンがうまくやってくれた」

「私とジルは――」


 どういう関係だったんだ――そう尋ねようとしたが、言葉が出てこない。


 男は目を細めてから、また背を向けた。


「君たちが幸せになれない世界になんて、用はいさ」

「それって……」

「幾億回もの邂逅かいこうを果たした君たちは、しかし……その全てで破局した。あの男の干渉でね」

「あの男……?」

「いずれわかるだろう。サイレンでもあの男の影響力は排除しきれない」


 メルタナーザさんでも?


 再び黄土色の風が、強く吹いた。思わず目を伏せる。


「おい……!」


 目を開けた時には、もうあの銀髪の男は姿を消していた。

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