「トン。」

普遍物人

「トン。」

 目覚ましの音で起床する。その不快な音を停止させるべく、私は手で目覚まし時計の場所を探り、その馴染んだ感触のボタンを一回押す。

 そして電子音楽で私の耳を覆い隠す。

「…あぁ〜、〇×△よぉ〜。」

 好きなアーティストの曲をイヤホンで聞きながら何も考えず、焦点の合わない視界の中、起床直後特有の自分の体に吸い付く一切の感覚を耳に集中させる。

 一曲が終わった。3分ぐらい経ったのだろう。イヤホンを外さずに次に自動で流れてくるであろう曲を止めて、好きな動画投稿者が昨日投稿した尺が長い動画を押して、それを聞きながら今日の準備をする。

 気がつくと自分はもう支度が終わっていて、また次の動画が再生されようとする。

 家から出る時間になって、私はその流れっぱなしの動画を止めずに、イヤホンを差したまま家を出る。

「どうも、皆さんこんにちは…。」

 配信者の笑い声、軽快なBGM。耳の横を流れていく内容をわざわざ拾うわけでもなく、ただ撫でるように行ってしまう。車に轢かれないように目を配りながら、耳だけイヤホンへと向ける。そしてそのまま歩く。


 気がつけば自分は学校の前にいた。イヤホンを外さずにそのまま教室へと向かって教室に入って自分の机の上に荷物を置き、生理的な汗を拭く。イヤホンが落ちそうなのを少し気にしつつスマートフォンを取り出し、先程まで流れていた動画を止めて、動画投稿サイトで動画を探す。そして気になったものをタップし、再び耳に音を流し込む。

「どうも、皆さん…。」


 肩を叩かれた。そちらへと目をやると、友達が笑顔で何かを話している。動画を中断される不快感を押し殺し、私はイヤホンの片方を外す。すると、ごめんね、と友達が言う。全然いいよ、と言ってもう片方のイヤホンを外し、特に他愛のない会話をする。


 何を話していたかは覚えていないが、もう朝礼の時間になってしまった。名残惜しさを感じながら私はスマートフォンをカバンにしまい、イヤホンを外した。


 帰る時間になった。今日も今日とてなんの変哲もない会話と普通の授業がただただ過ぎていっただけだった。帰る支度をして、耳にイヤホンをつけて、今朝中断されてしまった動画を再生する。面白い企画。奇抜な発想。非日常。彼らは輝いて見えた。

「どうも! 〇〇と、」

「××と、」

「△△△!」

「せーの。ーーーーーです!今日の企画は…。」


 気がつけば家の玄関を開けていた。背負っていた荷物を放り出し、そのまま台所へと向かって何か腹の膨れるものはないかと探す。

「今日はー…。という感じにしようと思ってます! それではやってみましょう!。」

 今日、親は帰ってくるのが遅いらしく、ラップに包まれたご飯がテーブルに置いてある。時間帯的には少し早いが私はお箸を用意し、目の前にスマートフォンを立てて、とめどなく流れる動画を見ながらご飯を食べる。

「じゃーん!本日はなんと…。」


 気がつけばご飯が終わっていた。お皿を簡単に片付けて、スマートフォンを片手に自室へと戻る。動画を一旦止め、作業用BGMと検索して、その中から自分の気分に合いそうな一時間ほどの曲を選択する。そしてそれを流した後、スマートフォンを伏せて勉強に取り掛かる。

「♪〜(ジャズ調の曲)」


「もう遅いと思っていますか?大丈夫!この動画のリンクに飛べば…。」

 CMが流れたのを合図に一時間後に再びスマートフォンをひっくり返し、気分を変えるという名目で動画を漁る。動画サイトから勧められた動画が目に入り、作業用BGMを探すのを放り出してそれをタップする。

「〇〇の人は〇〇! これが実は…。」


 勧められた動画をあらかた見終わって、時間を見るともう寝る時間に近かった。色々準備をして、後は寝るだけの状態にする。スマートフォンを充電して、そしてそのまま寝る。









 そうやって今日も、いつものように学校に行き、いつものように国語の授業を受けていた。

 …このように俳句には様々な情景などが書き込まれています。…ではーーさん。

 突然名前を呼ばれて固まる。クラスメイトたちが一斉にこちらを振り向く。急に当ててくるものだから、こちらとしてもどう反応していいか分からない。

 ちゃんと聞いていてくださいね。この蝉の声、はなぜ音じゃなくて声だと思いますか。

 私はその意味がわからず、きっと書いてあるだろうと思って必死に教科書の中を探す。

 教科書は書いてありませんよ。自分の意見で大丈夫です。

 縋るように周りに目をやっても、気まずそうに机へと目をやる。答えにくいか、分からないのだろう。だが、みんなが分からないように私も分からない。なぜ助けてくれないのかと恨みつつ、なんとかしなければと必死に頭を回転させる。しかし回転させることに夢中になった頭からは何も出てこず、どうしようかと焦って季節違いの冷や汗が出て、頭がくらくらしてくる。

 蝉の声が蝉の音でない理由。声と音の違い。声は音でなくてなんなのか。いや、そもそも蝉とはどう言う風に鳴いていたであろうか。今年、蝉は鳴いているのか。ミンミンゼミはどういう風に鳴いていたか。どう頑張っても文字でしか出てこない。ミンミン、ジージー、ツクツク…。

 では今聞いてみましょうか。他の皆さんも聞いてみてください。

 突然そう言って先生は口を閉じた。静寂が訪れる。同時に私の心に再び緊張が訪れた。その静寂が私を苛立たせる。私のせいでこんなことになっている、授業が長引くのはお前のせいだ、そう言われている気がする。静寂が皆の視線をより鮮明にし、それが先生に当てられた自分自身に注がれていることが痛いほど分かった。

 1分が長く感じる。あまりにも静か過ぎて、他の生徒が近くの人とこそこそと話し始める。それら全ても自分への批判に聞こえて、また笑われているような気がして落ち着かない。私は我慢の限界だった。


 その時、


「ジ。」


 刹那、一匹の蝉が一声鳴いた。それを聞いて途端にクラスは静かになる。


「ジー。ジー…」


 それに応じるように、他のセミも鳴き始める。


「おぉ…。」


 そしてそれにクラスのみんなが加勢する。


 自分はやっとそこで解放された。蝉たちの声が生徒の視線を釘付けにし、自分から離れたのを感じる。蝉の合唱と生徒の伴奏が教室に響き渡る。生徒は各々耳を塞いだり、その真似をするお調子者がいたり、クラスが和やかな雰囲気になった気がした。

「はいはい。皆さん。静かにしてください。」

 先生が手を叩くとクラスは静まり、そして蝉も鳴き止んだ。そして先生がこちらを見て、ちょうど自分を再び当てようとした時だった。

「キーンコーンカーンコーン。」

 チャイムが鳴り、みんなが一斉に片付けを始めた。先生は締めの言葉を言っている。とりあえず、次の授業までに考えておいてくれ、とのことだった。


 終礼後、私はイヤホンを外して学校を出た。理由はわからない。何故かそうしたくなった。


 「コツコツ。」「パタパタ。」「ドタドタ。」雑踏。

 「ギャーン。」「ギューン。」「カンカン。」「ゴゴゴゴ。」工事。

 「サラサラ。」「シュルシュル。」「バサバサ。」草木。

 「チュンチュン。」「クルクル。」鳥の囀り。

 カバンの振動。笑い声。怒号。掛け声。風の音…


 「ジー。」

 蝉の声。


 全ての音ががどんな音よりも私を迎え入れてくれた。雑音が形になり、私を持ち上げ、そのまま行き先へと導く。それに従っていれば、自ずと私を蝕む毒のような疎外感や苛立ちがするりと抜けていった。


 押されるままに進み、気がつけばそこは家の前だった。音が飽和する帰り道に満足しながら、私は家に入る。


 「ギー、バタン。」扉の閉まる音。

 「とっとっとっと。」自分の足音。

 「どさっ。」カバンを落とした音。

 「しゅっしゅ。」制服が擦れる音。

 「バタバタ。」制服を叩く音。

 耳元で鳴っている髪の音。時計の針の音。椅子に勢いよく腰掛ける音。



 「あ。」

 予想外の出来事。




 「トン。」




 ポケットからイヤホンが落ちた。

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「トン。」 普遍物人 @huhenmonohito

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