第35話 準決勝当日



 KACHIDOKIの準決勝当日は、まだ春の到来が遠いことを感じさせる肌寒い日だった。会場となる杉並区東南会館に、三度碧たちは向かう。


 今日のALOの出番は、予選とは打って変わってトップバッターだ。だから東南会館に碧たちが到着しても、人の気配は少なかった。


 自分たちしかいない控え室も、碧は初めて経験する。余裕がある部屋はリラックスしていけと言っているようで、かえって碧の緊張を高めていた。


 廊下で最後のネタ合わせをした碧たちが控え室に戻ると、間もなくしてスタッフに「スタンバイお願いします」と呼ばれる。


 舞台袖に着くと、客席のざわざわした話し声がダイレクトに碧に伝わってきた。見てくれる人がいることをリアルに感じて、かすかに身体が震える。


 開演時間である一二時ちょうどになると、同じく舞台袖で待機していたかしもと所属の芸人コンビが、舞台に出ていった。二人が小気味いいトークで客席をほぐそうとしている間も、碧の心はほぐれなかった。


 藍佐祭でトップバッターという立場は経験しているけれど、KACHIDOKIのような大会でいの一番に登場するのは訳が違う。


 心臓は今まででも一番と言っていいほど、けたたましく鳴っている。


 碧は縋るような思いで筧を見た。口がまっすぐ結ばれていて、凛々しさに碧には再び気合いが入った。


「では、藍佐大学お笑いサークルALOの皆さんです! どうぞー!」


 芸人が言い終わるのを合図にして、碧と筧はセンターマイクに向かって歩き出した。


「どーも!」と言いながら碧は客席の状況を確認する。観客は予選よりも少し多く、最前列でバインダーを持った男性の目が鋭く光る。


 KACHIDOKIの決勝に進出するのは、観客投票の上位三チームに加えて、審査員が選んだ一チーム。準決勝は今日と明日の二日間行われるから、合計八チームが決勝に駒を進めることになる。


 でも、そんなことは考えなくてもいい。今は、自分たちが面白いと思う漫才をやりきることだ。


 碧と筧は、センターマイクの前に並び立つと「どーも! スケアクロウです! よろしくお願いします!」と頭を下げた。拍手がないことにも、二回目だから少しは慣れていた。


「いきなりなんですけど、皆さんは幽霊って信じますか?」


「ずいぶんスピリチュアルな導入ですね。そんなの、いい大人の皆さんが信じるわけないでしょう」


「いや、私この前実際に見たんですよ、幽霊を」


「本当ですか?」


「はい、なので今日は、その幽霊のお話をしてもよろしいですか?」


「大丈夫ですか? 怖い話だったりしません?」


「ええ、大丈夫です。後ろについてくる気配を感じて振り向いたら、誰もいなかったぐらいの怖さなので」


「いや、十分怖いじゃないですか! 本当に大丈夫なんですか?」


「これは、私が実家に帰ったときの話なんですけど」


「勝手に話し始めましたよ」


 漫才を展開する二人に、食い入るような視線が一斉に注がれる。最初だから自分たちの漫才を新鮮に聞いてくれる。


 それは碧にはありがたかったが、その反面まだ何の色にも染まっていないまっさらな空気は、笑う準備が整っていないように思えて、少しやりにくくもあった。


「私が寝ようと和室に入ると、そこにはいたわけですよ」


「もしかしてそれが幽霊……?」


「はい、赤い水玉模様を全面にあしらった幽霊が、そこには立っていたんです」


「いや、派手ですね! 赤い水玉模様って、草間彌生さんですか! あの人、まだ生きてますから!」


 ボケを繰り出してみても、客席には小さな笑いが漏れるのみ。ないよりはマシだが、まだエンジンがかかっていないのが分かって、碧は心の中で苦笑した。


 こういった大会ではトップバッターは不利と言われるが、それは客席がまだ温まっていない中でネタを披露しなければならない状況を指してのことだろう。さらに、碧たちが笑いを取ったとしても、その印象は後に出てくる学生芸人たちに、次々と上書きされてしまう。


 でも、碧たちには悲観に暮れている暇はない。誰かは必ずトップバッターを務めなければならないのだ。与えられた順番の中でベストを尽くすことが、今の自分たちには先決だ。


「でも、一緒にいると徐々に怖さも薄れてきて、思い切ってその幽霊に『何してるの?』って、話しかけてみたんですよ」


「怖さ薄れてきちゃったんですか。なかなか聞かないですけど。で、幽霊は何か答えたんですか?」


「はい、『お前をずっと見てるぞ。一億万年前から』って」


「前半と後半の怖さの違い! 一億万年前って子供しか使わない数字ですよ! 絶対嘘でしょ!」


 筧のツッコミと同時に起きる笑い。徐々に大きくはなってはいるものの、予選のときには及ばない。


 自分たちの後には瀬川や戸田、西巻が控えているからまだ挽回は利くだろう。


 でも、碧はかすかに焦りを覚えてしまう。大きな声を出したり、突拍子もないことをしたりして笑いを取りたくなる。でも、そんなことを今の会場の雰囲気ではスベるだけだし、自分たちがやってきたことに泥を塗ってしまう。


 結局、碧たちにできることと言ったら、漫才を最後まで遂行することしかないのだ。たとえ決勝進出のための爆笑がもう取れないと、分かってしまっていても。


「さっきから聞いてれば、全然怖くないじゃないですか。そもそも幽霊かどうかも疑わしいですよ」


「そうですね。もしかしたら、寝てる状態の父親が動いたり喋ったりしていたのかもしれません」


「いや、そんなわけないでしょ。もういいよ」


『どうもありがとうございました』。頭を下げる二人。微妙な温かさに、碧は予選ほどの手ごたえを感じられなかった。


 舞台に立っているのがバツが悪くなって、足早に舞台袖に戻っていく。


 笑いは取れていたものの、いい流れを作ることはできなかった。そう自覚する碧たちにも、瀬川たちは「よくやった」と言うような表情を向けていた。


 心遣いに碧は、嬉しいような申し訳ないような、複雑な感覚を抱く。


 でも、舞台を後にした自分たちにできることは、もう何もない。あとは瀬川や戸田、西巻を信じて任せるのみだ。


 小さく頷いて、碧たちは舞台袖の一番奥に移る。そして、センターマイクが片づけられた舞台に出ていく瀬川と戸田を見送った。


 どうか爆笑を取らせてあげてください。そう笑いの神様に祈るような気持ちで。





 結論から言うと、瀬川や戸田、西巻もまったくウケなかったわけではなかった。三人ともそこそこウケていて、スベること自体は回避できていた。


 でも、それが決勝進出につながるほどの笑いだったかと言われると、碧にはそうは思えない。


 火で言ったら弱火と中火のちょうど間といったところ。つまりALOは会場を温めることはできていたものの、沸騰させるほどの笑いは取れていなかった。


 自分たちが主役を盛り上げるための脇役みたいで、碧は忸怩たる思いを感じた。改めて最後から二番目という予選が、どれだけ順番に恵まれていたか思い知っていた。


 だから、行きつけの居酒屋で打ち上げをしていても、テーブルはあまり盛り上がらなかった。仕事終わりの解放感が充満している店内で、碧たちのテーブルだけが微妙な空気を漂わせている。


 酒もあまり進まず、会話もなかなか弾まない。結果が出ていないのに、通夜みたいなムードだ。


 いつになく沈んだ空気が嫌で、碧は口を開いて、気丈なふりをした。


「皆さん、何しょげてるんですか。まだ結果が出たわけじゃないでしょう。もしかしたら、私たちの後に出たチームが全員スベったのかもしれませんし」


 他チームの不出来を期待している時点で、自分たちはうまくいかなかったと言っているようなものだ。


 それは碧にも分かっていた。分かっていたからこそ、準決勝でALOの挑戦を終わりにしたくはなかった。


 四人にそれぞれ視線を送る。すると、筧が同調してくれた。


「そうですよ。確かに満足のいくウケっぷりでなかったとは思います。でも、準決勝には審査員による一票があるんですよ。たとえ観客投票で漏れてしまったとしても、トップバッターであることを考慮して、審査員が選んでくれる可能性だってあるじゃないですか」


 筧も自分たちの状況が厳しいことは重々承知しているのだろう。審査員投票に縋るなんて、お世辞にも可能性が高いとは言えない。自分たちよりもウケたチームに投じられるのが、よほどありえるケースだ。


 でも、分かっていながらも誰もそのことを指摘しなかった。米粒ほどの可能性でも、潰してしまうには惜しかった。


「そうだな。俺たちはやれるだけのことはやったからな。あとはいい結果が出てくれるよう待つだけだ」


 瀬川が努めて平気なように振る舞う。


 一番心中が穏やかではない瀬川が、わずかな望みを捨てずに持ち続けているのだ。碧たちも諦めるわけにはいかない。


 テーブルにはぽつぽつと会話が生まれ始め、料理を食べる手も進んでいく。


 和やかになりかけた空気にも碧はどこか作り物めいたものを感じてしまう。そうしていないと不安に押しつぶされそうだから、必死に明るい自分たちを演じているみたいだ。


 碧は早く結果を教えてほしいと、切に願う。目に見えない気まずさを、いつまでも心のうちに抱えていたくはなかった。


「結果、出ました」



(続く)

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